●2024年5月12日(日)礼拝メッセージ要旨  

黙示録2:1~11からです。1章では、著者のヨハネに対して、この黙示録が示される源であるイエス・キリストの恐ろしいほど力強い本来のお姿が記されています。そして、2~3章では、当時の七つの教会について言及されています。本日は、そのうちの二つの教会、エペソ教会とスミルナ教会について、良い点、問題点、また励ましのことばなどを通して、地域と時代を超えて、現代の教会、そして私たちの教会も比較、対照しながら、教えられ、整えられてまいりましょう。 

1.エペソ教会について…エペソ教会は、イエス・キリストの御名のために忍耐し、ニコライ派という誤った教えに対して妥協しなかったということが評価されています。しかし、4節で、「初めの愛から離れてしまったという点についてお叱りを受けています。クリスチャンは基本的に救い主イエス・キリストを信じ、そのことを公に明らかにするためにバプテスマを受けます。そして、その信仰を維持し、守り通して行くのですが、当然のごとく試練があり誘惑もあります。それから守られるために、当教会では昨年まで「WWPP」という標語を掲げていました。礼拝、聖書のみことば、祈り、福音宣教(証しの生活)に勤しむことによって守られようということです。もちろん、人生色々、人間は強くありません。だから、5節で言われているように「それで、あなたはどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。」と語られています。つまり「悔改める」ことが大切です。そして、7節では「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」とあります。私たちは、聖書のことをしっかりと聞き、天のパラダイスで、いのちの木の実をいただくという素晴らしい祝福に与る者とならせていただきましょう。

2.スミルナの教会について…スミルナの教会は「苦しみと貧しさの中にあったけれども実際には富んでいる」と言われています。現在、円安が進み、金の価格が高騰しているようです。黙示録21:21には「都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった」と記されています。私たち人間は、ほんの一時期、仮の宿のような、この地上の生活の中にいます。少しばかり貧しくても大した問題ではありません。また逆に富んでいるとしても、永遠の視点からすれば、ほんの一瞬のことです。さて、9~10節で、スミルナの教会は、「ユダヤ人と称しているが実はサタンの会衆である人々からののしられ、苦しみを受けるけれども、恐れてはいけない。死に至るまで忠実でありなさい。」と言われています。もう44~5年も前、母教会でのことですが、筆者はそれまで人前で説教を語ったことがなく、ある集会(訓練のためという意味合いもあったと思う)で初めて伝道メッセージを語ることになりました。そのときのプレッシャーは大きく、聖書から励ましのことばを探していました。そのときです。この10節の「死に至るまで忠実でありなさい」というみことばに励まされ、メッセージに立ったのです。もちろん、みことばの原意とそのときの筆者の立場とは程遠いものかと思います。そして、11節です。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」とあります。第一の死とは肉体の死、第二の死とは霊魂の死、すなわち永遠の滅びの刑罰があるということです。私たちは聖書のみことばに聞き従い、まことの勝利を得、第二の死から免れ、永遠のいのちを受ける者とならせていただきましょう。

●2024年5月5日(日)礼拝メッセージ要旨  

黙示録1:9~20から「人の子のような方が」という題でポイント3つ上げていきます。 

1.神のことばとイエスのあかしのゆえに…ヨハネは福音宣教のゆえに、迫害を受けてパトモス島に島流しをされていました。Ⅱテモテ3:12には「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあります。5月3日は憲法記念日でした。一昔前は、その平和憲法の恩恵を皆が感じていたような空気があったと思うのですが、この頃では「憲法改正」を叫ぶ風潮が前に出てきているのではないでしょうか。その槍玉に挙げられているのが憲法九条です。しかし、護憲派としては、九条を皮切りに、変える必要のない他の部分に手を付けてほしくないという思いがあります。特に、憲法20条です。信教の自由が阻害されるような暗黒の国になってはなりません。もちろん、たといどのような時代になろうとも、私たちはキリスト・イエスにあって敬虔に生きる道を進んでまいりましょう。

2.人の子のような方が…ヨハネは、主の日に御霊に感じ、自分の背後からラッパの音のような大きな声を聞きました。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会に送りなさい」と言われます。そして、その声の主を見ると、それは、13~16節に言われているように、圧倒的に力強く、完全で、恐ろしいほどの方を目にすることになったのです。実際、ヨハネは衝撃を受けて、その方の足元に倒れて死者のようになりました。イエス・キリストは私たちの罪をその身に負うために弱さを持つ人間と同じようになられましたが、今現在のキリストは、永遠から永遠に力強く、完全で、恐ろしいほどの方です。それに比べ、我々人間は、弱く、欠けだらけで、罪人です。でも、それでよいのです。むしろ、私たちは、自分の弱さ、欠点、罪人であるということを認めて、救い主であるイエス・キリストに拠りすがりながら歩むところに真の勝利があるのです。

3.七つの星と七つの燭台…第2のポイントの「人の子のような方」は、七つの金の燭台の真ん中に立ち、右手に七つの星を持っていました。そして、20節では、「七つの燭台は七つの教会」、「七つの星は七つの教会の御使いたち」と言っています。エペソ1:22~23には「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」とあります。キリストをかしらとする教会にキリストが満ち満ちているのですから、私たちは教会に集まることを大事にしましょう。そして、「七つの教会のみ使い」です。少々説明が難しいのですが、み使いは主に仕えているはずです。2011年3月11日の午後2時46分に東日本大震災、大地震が起こりました。その時、筆者の妻は宮城野区田子にある商店で買い物を済ませたばかりでした。咄嗟に思ったことは、海のそばの教会兼自宅にいる夫である筆者のところに戻らなければならないということでした。彼女は、(田子と仙台港付近を南北に結ぶ四車線道路を)多くの車が渋滞しながら海側から内陸側に避難しているところ、一人だけ車を海に向けてひたすら走り、筆者のところに来たのです。そして、筆者はその妻と共に、今度は七北田川沿いの道路(他の車は全く無し)を内陸に向かい、岡田に抜ける橋を渡ったところで、七北田川をさかのぼる第一波の津波(その時点では小津波も、その後、大津波となった)を見たのです。結局、私たちは無事だったのですが、後から考えると、想像ですが、主に遣わされたみ使いが、私たちを助けたかもしれません。そうです。これからも、私たちは、キリストのからだなる教会に連なり、主と聖霊と、み使いに助けられながら歩んでまいりましょう。

●2024年4月28日(日)礼拝メッセージ要旨  

きょうから黙示録に入りました。本日は黙示録1:1~8からポイント4つ上げていきます。 

1.この預言のことばを心に留める人々は幸いです…1節で「これは、すぐに起こるはずのことをそのしもべたちに示すため」とあります。この黙示録が書かれてから、2千年近くが経過しています。2千年を「すぐに」とは言わないでしょうから、この黙示録で示されている6章からの預言(七つの封印)が、ヨハネの時代直後から始まって今日に至っていると思われます。4月3日、台湾の花蓮で大きな地震がありました。それに関連して沖縄では3メートルの津波が予想されていましたが、幸い、予想は外れて軽度の津波で終わりました。天気予報もですが、度々外れることがあります。それは仕方ありません。さて、聖書の預言はどうでしょう。例えば、イザヤ7:14ではキリストの処女降誕が預言され、その約700年後にその預言が成就しています。イザヤ53:1~9では、イエス・キリストの十字架の場面が預言され、やはりその約700年後に成就しています。また、イスラエルが再建される預言がエゼキエル11:17で預言され、1948年にイスラエルが独立宣言を果しました。つまり、聖書の預言は、その通りに成就していくということです。であるならば、私たちは、聖書、黙示録の預言のことばを心に留めるべきなのです。

2.七つの教会へ…この七つの教会はアジアにあるエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤです。アジアとは小アジア、今のトルコにある教会ということになります。しかし、完全数7を用いた「七つの教会」という表現から、地域と時代を超えて、全ての主にある教会に向けたものであると受け止めて間違いないでしょう。教会とは建物のことではなく、イエス・キリストの名によって集まる人々のことです。5節で「キリストは私たちを王国とし祭司とした」とあります。このことはⅠペテロ2:9の「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」と一致します。今日、キリスト者は、この世における身分は高くないかもしれませんが、霊的には高い地位にある王である祭司なのですから、人々を執り成し、福音を証しするために召されているということを自覚すべきです。

3.見よ、彼が雲に乗って来られる…先日、イランがイスラエルを攻撃し、イスラエルはその後、イランの軍事施設を攻撃し、いよいよ世界も終末の様相を色濃くしたという印象です。今後、イスラエルはどうなっていくのでしょう。エゼキエル39章の北からの大集団によるイスラエル侵攻の記事、あるいはダニエル9:27の荒らす憎むべき者の七年の契約の記事がまだ成就していませんから、少なくとも一旦は平静を取り戻し、その後、時が来て「キリストが雲に乗って来られる」はずです。そのキリスト再臨の時、地上は大変な状況になるでしょう。そのことがマタイ24:30節と31節に記されています。ある人々は悲しみながらキリストが雲に乗ってくるのを見ます。一方、別の人々は、再臨のとき選びの民として天に引き上げられます。そうです。私たちは、前者ではなく、後者の人々、すなわち、キリストの再臨を待ち望む人々でありたいと切に願います。

4.アルファでありオメガである…8節には「神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」とあります。イエス・キリストは永遠から永遠の方です。この方の前に私たちは限定的にこの地上に生かされています。しかし、キリストの十字架による救いを受け入れたならば、罪の赦しと永遠のいのちが与えられ、この地上では、創造主と救い主キリストの目的のために生きるようになるのです。ですから、何をするにしても神の栄光を求め(Ⅰコリント10:31)、関わる人々の徳と益を計り、また人々がイエス・キリストの救いに与ることができるように心を注ぐ者とならせていただきましょう。

●2024年4月21日(日)礼拝メッセージ要旨  

ユダの手紙1~25から、「自分自身を築き上げる」という題で、ポイント3つ上げていきます。聖書にはユダという名の人物は何人か出てきます。この手紙のユダは、ヤコブの兄弟であると言っています。キリストの12弟子のヤコブの兄弟はヨハネですから、おそらく主の兄弟ヤコブの弟であるユダということでしょう。  

1.神の恵みを放縦に変えるな…桜の最盛期は終わりましたが、木々の若葉が出始めの良い季節になりました。正に神の恵みを感じます。創造主である真の神は、あらゆる恵みを私たちに与えてくださっています。多くの恵みの中で最も大きな恵みは神のひとり子イエス・キリストの十字架の救いです。ローマ3:23~24には「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」とあり、キリストによって罪の赦しという大きな恵みを無代価で受けることができるのです。ヨハネ8:1~11では、一人の女が姦淫の現場で捕らえられ、パリサイ人、律法学者がキリストに詰め寄り、「律法によるならば、この女を石打にすべきだ」と言います。するとキリストは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われると、その場に誰もいなくなりました。そこで、主は「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」と言われると、彼女は「だれもいません。」と言い、そこで、イエス様は「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。「罪に定めない」としつつも、キリストは「今からは決して罪を犯してはなりません。」と戒めることを怠りませんでした。神の大きな恵みを放縦に変えてはなりません。

2.思い出させたいこと…ユダは、手紙の読者に「あなたがたに思い出させたいことがある」として、出エジプト後、不従順のゆえに約束の地カナンに入れなかった人々、堕落した天のみ使い、ソドムとゴモラで滅ぼされた好色と不自然な肉欲に支配された人々、そのほかカイン、バラム、コラなどが挙げられています。これらの者たちは神のさばきを受けたのです。聖書が語っていることは、おとぎ話でも神話でもありません。たんたんと真実が語られているのです。それならば、私たちは、神の裁きから逃れなければなりません。そのために救い主イエス様を信じることです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます(使徒16:31)」

3.自分自身を築き上げる…円安が進み1ドル154円になりました。円安になった原因は、ある見立てによると、日本の国力が弱くなったからだということです。確かに少子高齢化と言われています。小泉・竹中時代の郵政民営化など構造改革の悪影響、また消費税導入によるものであるとする見方もあります。ここで、聖書を信じる筆者の見立てです。国が栄えるか否か?それは、全知全能の神の祝福があるかないかにかかっています。つまり、正しい政治が行われているかどうかです。最近で言うなら、自民党の裏金問題、税金さえ課されないとは何ということでしょう。その一方で、ある70代の一般女性が知人からもらった稲荷寿司パックを持っていたら、警察に万引きを疑われて三日間拘留されたということです。箴言17:15には「悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、【主】は忌みきらう。」とあります。善を善、悪を悪としてこそ、国としての体を保つことが出来るのではないでしょうか。そして何より、悪い政治が横行するような国を、全能の神が祝福することは出来ません。個人についても同じです。私たちは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせるイエス・キリストのあわれみを待ち望んでいきましょう。

●2024年4月14日(日)礼拝メッセージ要旨  

ヨハネの手紙第三から「たましいの幸い」という題で、ポイント3つ上げていきます。  

1.三つの幸い…世界最大の教会を建て上げ、導いてこられた韓国のチョー・ヨンギ牧師(1936~2021)は、このⅢヨハネ2節から、「三拍子の祝福」ということを提唱しました。「たましい、経済、健康」の祝福です。伝統的な多くの教会では、それまで「たましいの幸い」のみを強調してきたので、チョー牧師の提唱を批判的に受けとめることがあったようです。しかし、伝統よりも聖書がどういっているかが問われるべきでしょう。創世記に出て来るアブラハムは全ての面で祝福されていました。つまり、神を信じ、長寿で、しかも富んでいました。そして、その子イサクも祝福されていました。Ⅰ歴代誌4:10でヤベツは「私を大いに祝福し、私の地境を広げ、災いから遠ざけてください。」と神に祈って、それが叶えられました。旧約聖書だけではありません。このⅢヨハネ2節の他にも、主の祈りの中で、マタイ6:11では「日ごとの糧をお与えください」と、13節では「試みに会わせないで、悪からお救いください」と、決して「たましいの幸い」だけを求めてはいません。但し、マタイ6:33では「神の国とその義とを第一に求めれば、その他の必要は与えられる」ということが語られていますから、やはり、優先すべきは神の国とその義、すなわち「たましいの幸い」ということです。

2.真実な行ない…この手紙の内容からすると、ガイオは土地と家を所有していて、そこが当時の教会の建物として用いられていたのかもしれません。たぶん、当時の巡回伝道者のような人々を、教会として使っている自分の家に招き入れ、そして何らかの奉仕をしてもらい、彼らをもてなし、また、次の旅に送り出したのでしょう。そのことに対して、ヨハネは「真実な行ない」と評価しています。昔も今も、教会で、ガイオのような役割を担っている人は多少いたかと思います。そういった教会の奉仕に限らず、今日、私たちはそれぞれ様々な役割を受け持っていることでしょう。何をしていても、やはり、神の前にその役割を真実に担っていきたいものです。マタイ12:36~37には「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」とあります。主は私たちの一挙手一投足をいつも見ておられます。もちろん、誰であれ、完全な人はいません。だからこそ、イエス・キリストの十字架の救いを受け入れ、神の赦しをいただきながら、真実な生き方を求めていくのです。

3.デオテレペスとデメテリオ…似たような名前の人が二人出てきますが、デオテレペスは行状が芳しくなく、教会の中で問題を起こしていたようです。一方、デメテリオは正しい真実な人だったようです。11節では「愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者です。」と勧めていて、ヨハネは、ガイオがデオテレペスから悪影響を受けないように、むしろデメテリオを見習うようにと言っているのですが、この辺りの内容が、この手紙の本論とも言えるでしょう。詩篇34:14~15には「悪を離れ、善を行え。平和を求め、それを追い求めよ。【主】の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。」とあります。全知全能の神は生きておられ、私たち全ての行動、言葉、その心の内側も知っておられ、それぞれに正しい評価を下されるのではないでしょうか。私たちは、この真の神を恐れ、柔和な生き方、人の徳を立て、平和を求める生き方をしましょう。イエス・キリストは「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった(Ⅰペテロ2:23)」方です。このキリストに倣って祝福される道を歩んでまいりましょう。

●2024年4月7日(日)礼拝メッセージ要旨

ヨハネの手紙第二から「愛のうちを歩む」という題で、ポイント3つ上げていきます。  

1.真理のうちを歩む…長老ヨハネは、選ばれた夫人とその子どもたち=手紙の宛先の教会の人々が「真理のうちを歩んでいるのを知って非常に喜んでいる」と言っています。また、ヨハネの福音書14:6でイエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。「道」とは、私たちが歩むべき道です。また救いの道です。「真理」とは、唯一不変の真理、また真実です。「いのち」とは、永遠のいのちであり、この世における私たちの命を握っておられるということです。ヨハネ8:32には「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とあります。それは、真理を知ることによって自由、つまり霊的な開放が与えられるのです。それは、①罪の赦しを受け、罪から解放される。…偶像礼拝、不品行、敵意、遊興、酩酊などからの解放。②虚無感からの解放…自分が何のために生きているのか分からないのではなく、何をするにも神の栄光を現わすために生きているということを知る。③孤独からの解放…「見よ。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます(マタイ28:20)」と言われた主が共にいてくださる。④死の恐怖からの解放…たとい死の陰の谷を歩くことがあっても主が共におられる(詩篇23:4)。

2.愛のうちを歩む…6節では「愛とは天の父の命令に従って歩むことであり、命令とは愛のうちに歩むことである」と言っています。そして5節で「互いに愛し合う」とありますが、Ⅰヨハネ3:11~12で「互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。カインのようであってはいけません。~」とあります。カインは主へのささげもののことで、ひどく怒り、弟アベルを殺してしまいます。創世記4章のカインのように、私たちは、誰かと自分が比較されて、自分よりもその誰かが褒められたりすると、良い気分はしません。落胆したり、嫉妬したり、怒りを感じることさえあるでしょう。オリンピックなどで、金メダルを獲得した選手に対して、銀メダルや銅メダルだった選手が祝福のハグをする場面を見ることがあります。金メダルを目標にして何年も練習を積んできたのに、わずかの差で敗れてしまって悔しい思いをいているに違いありません。それでも、自分を破った選手を祝福するとはなんと美しい光景でしょう。第一ペテロ3:9には「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とあります。イエス・キリストにある私たちは、祝福を受け継ぐために召されたのですから、人を赦し、祝福する者でありたいと思います。

3.キリストの教えのうちにとどまる…ポイント2で取り上げた「互いに愛し合う」ということの中に「人に惑わされないで、キリストの教えにとどまりなさい」ということが、ここで言われています。7節に「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行った」とありますが、今日のキリスト教会で大切にしている三位一体に関わることについて触れられています。ところで、当教会の毎週の週報の左上あたりに教会の教義が小さな文字で記されています。「《当教会教義》 旧新約聖書66巻は天地万物の創造主である神の霊感による全き神のことばであると信じる。救い主イエス・キリストによって啓示されている神は、唯一でありながら、父、子、聖霊の三位一体なる方である。私たちは、聖書に基づき、聖霊の導きを仰ぎながら、福音宣教に励み、健全なキリストのからだなる教会を建て上げる。」となっています。大まかには、3つのことが語られています。 ①旧新約聖書66巻は神の霊感による全き神のことばであると信じる。…この66巻は正典とされています。偽典とされている巻も加えられた聖書もあるので注意しましょう。②三位一体について。…全ての人は罪人であるので、仲介者であるイエス・キリストの御名で祈ります。すると瞬時にその祈りは天の父なる神に届きます。そしてその祈りが答えられる。それらの働きは聖霊様が行なってくださいます。③教会の存在目的=キリストのからだなる教会を建て上げる。…もちろん、建物のことではありません。一人一人が霊的に成長すること、信仰的に成長した大人のキリスト者になるということです。

●2024年3月31日(日)イースター礼拝メッセージ要旨 

イースター(復活祭)に因み、第一コリント15:45~58から「死は勝利に飲まれた」という題で、ポイント4つ上げていきます。  

1.イースター…「イースター」という名称は、ゲルマン民族の一般の祭りの名が由来かもしれないというインターネット記事がありますが定かではないようです。今日、実際的に「イースター」は「復活祭」であると定着していますから、このままでも良いかもしれません。南米チリの沖合にイースター島があります。モアイ像がある島です。キリスト教とは関係ないように思えますが、一説によりますと、1722年、オランダ海軍がこの島を発見したのがイースターの日だったので、イースター島になったとのことです。いずれにしても大事なことは、イースター(復活祭)は、イエス・キリストが多くの人の罪を負い、墓に葬られ、三日目に死を打ち破って復活(よみがえった)したことを記念して祝う記念日であるということです。

2.最初のアダムと最後のアダム…最初のアダムとは、人類で最初に創造主なる神によって造られ、エデンの園に置かれたアダムです。最後のアダムとはイエス・キリストです。最初のアダムは、その妻エバと共に神が食べてはならないと言われた善悪を知る木の実を食べ、エデンの園を追放されることになりました。そのアダムの罪により、全人類に罪が入ってしまい、全ての人は生まれながらにして聖なる神の前に罪人であり、死と滅びが待っています。しかし、多くの人々は、そのことに対して深刻に受け止めてはいないでしょう。なぜなら、大抵の人は「自分は正しく真面目に生きている」と思っていて、まさか自分が罪人であり、やがては死んで滅びて行くなどとは思っていないでしょう。でも、どんなに正しく真面目に生きていて、しかも数々の善行を積んだとしても、その善行がその人に永遠のいのちを持たらす保証とはなりません。朽ちるものは朽ちないものを着なければならず、死ぬものは必ず不死を着なければなりません。ガラテヤ3:27には「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」とあります。朽ちないもの、不死であるイエス・キリストを信じ、バプテスマを受けて不死を着せられなければなりません。

3.死は勝利に飲まれた…2020年6月、今から4年ほど前のことです。教会メンバーYさんの夫Sさんの体が弱くなり、死期が近づいてきました。Sさんは、教会の礼拝に参加したことはありませんが、これまで、Yさんの勧めにより、イエス・キリストに対して心を開きつつあるとのことでした。Yさんは夫のSさんがいわゆる病床洗礼でも良いから信仰を明確にしてほしいと願っておられました。教会の牧師である筆者の立場としては、本人の意志を無視して何か強引なこともできないと考えていました。6月20日でした。筆者が祈っていると、Sさんの所に行くべきだという思いが強くなりました。そこで、筆者は妻を伴い、ベッドで横になっているSさん宅に行きました。そして奧さんであるYさんに取り次いでもらうと、Sさんは病床洗礼を受けるとのことでした。そこで、水を用意し、Sさんに対して、全知全能の神の存在、聖なる神の前に自分が罪人であるということ、救い主イエス・キリストを信じ受け入れるということを確認し、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けました。授礼直後、Sさんは仰向けになった状態で、肘から上の右腕を上げて筆者との握手を求めたので、筆者も握手に応じました。正に、死は勝利に飲まれたのです。それからちょうど一週間後の6月27日にSさんは召天されました。

4.主のわざに励みなさい…神は私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私たちは堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励んでまいりましょう。マタイ22章で、一人の律法学者がキリストに「先生。律法の中で大切な戒めはどれですか」と質問するとキリストは「心を尽くして神を愛すること。これが第一の戒めで、あなたの隣人を自分自身のように愛せよという第二の戒めも大切である」と言われました。端的に言いますと、神を愛するとは日曜日を聖別して礼拝を守ることです。隣人を愛するとは福音宣教に結び付く生活をするということです。それが主のわざに励むということです。

●2024年3月24日(日)礼拝メッセージ要旨  

ヨハネ第一の手紙5:13~21から「神のみこころにかなう願いをするなら」という題でポイント4つ上げていきます。  

1.永遠のいのちを持っている…インターネット上のある情報によりますと、現在の世界総人口は73億人、そのうちキリスト教の信者は23億人、32%を占めているとのことでした。もちろん、一口に「キリスト教」と言っても様々な宗派もありますから、この23億人の人たちが、個人的に、創造主なる真の神を信じ、その聖なる神の前に自らを罪人として認め、その罪からの救い主イエス・キリストを信じ受け入れている人かどうかということになると、また違った数字になってくるかもしれません。13節にありますように、「神の御子の名を信じている者は永遠のいのちを持っている」ということが非常に重要で、ヨハネはそのことを明確にするためにこの手紙を書いたのです。

2.何事でも神のみこころにかなう願いをするなら…筆者個人の認識として、この14節はかねてから有名なみことばであると思っています。私たちは、神を信じる者としてよくお祈りをします。素直な心で、何でも神に対して願うものを求めて祈ればよいと思います。但し、そこに私たち自身の思いと全能の神のみこころが乖離(かいり)していたら、その願いは聞かれないほうが幸いであると言えるでしょう。創世記18章で、アブラハムはソドムが滅ぼされないように主に願いました。彼は「もしや、その町の中に50人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。」と言うと、主は「「もしソドムで、わたしが50人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」と言われました。アブラハムは「正しい人が50人いないかもしれない」と考えたのでしょう。続いて同じように45人、次に40人、30人、20人、10人というふうに、最終的に10人の正しい人がいたらソドムは滅ぼされないという確約を得ました。しかし、結局、ソドムに正しい人10人いなかったのです。ロトと二人の娘たちの三人だけは救出されたものの、ソドムとゴモラの町は滅ぼされたのです。このアブラハムの願い(祈り)に見られるように、「祈り」とは神のみこころに近づくことであるとも言えます。箴言16:1には「人は心に計画を持つ。【主】はその舌に答えを下さる。」とあります。私たちはそれぞれ、神の目的のために生かされているのではないでしょうか。その、神の目的を遂行するために、神に近づき、祈り、神のみこころを悟らせていただきましょう。

3.兄弟が死に至らない罪を犯したら…16節では「死に至らない罪」と「死に至る罪」ということが表現されています。何が死に至り、何が死に至らないかということは明確にされてはいませんが、全ての人は聖なる神の前に罪人であり、この世に義人は一人もいません。ですから、私たちは、神の前にへりくだり、キリストの救いを受けて、日々、罪の悔い改めが求められます。しかし、「死に至る罪」と言われているように、深刻な状態の場合もあるでしょう。その場合は、厳しい対応が必要とされるでしょう。第一コリント5:11には「私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。」とあります。私たちは、誰に対しても優しく寛容であるべきですが、一方で、神の愛のゆえに厳しい対応をしなければならないということもあるでしょう。

4.神によって生まれた者は罪を犯さない…18節で「神によって生まれた者は罪を犯さない」と言っています。それは、その人に聖霊が宿り、その人を助けてくださるからでしょう。Ⅰヨハネ3:9には「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」とあります。神の種、つまり、聖霊がその人のうちにおられて、その人を守ってくださるのです。そうかと言って、この世は依然として、悪い者の支配下にありますから、21節に「子どもたちよ。偶像に警戒しなさい。」とあるように、油断大敵です。真実な方、イエス・キリストのうちにとどまり続けましょう。

●2024年3月10日(日)礼拝メッセージ要旨 

ヨハネ第一の手紙5:1~12から「世に勝つ者とは誰でしょう」という題でポイント3つ上げていきます。  

1.世に勝つ者とは誰でしょう…5節で「世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」と言っています。もし、私たちがイエス・キリストを信じているとすれば、それは、神の恵みです。エペソ2:8には「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」とあり、ヨハネ15:16前半には「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」と。そして、エペソ1:4には「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」とあって、私たちは、神の側からの選びにより、恵みによって信仰によって救われたのです。そうかと言って、私たちは、イエス・キリストを信じる決断をして「世に勝つ者」となるのです。やがて、生涯を終えたとき、死の先に何の希望も無いとしたら、死は恐怖でしかありません。しかし、イエス・キリストの十字架の救いにより罪赦され、神によって生まれた者であるならば、その人は正に、世に打ち勝った勝利を得ています。

2.御霊と水と血…6節前半には「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。」とあります。この手紙の著者ヨハネは、ヨハネの福音書でも好んで「水」を用いて表現しています。水は人間が生きるためには非常に大切なものです。命の源と言っても過言ではありません。ヨハネの福音書7:37~38では「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とあります。水はいのちの供給源であり、また、あのノアの大洪水に見られるような地球規模の圧倒的な力を表し、創造主なる神の側に属するものであると言えます。一方「血」は、レビ記17:14aで「すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。」とあります。つまり、イエス・キリストは神のもとから来られた神ご自身であり、また人としてのご性質を併せ持って、この世に来られたということです。そして7~8節では「あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」とあります。マタイ28:19の「父、子、聖霊の御名」という三位一体論の根拠と言える表現を彷彿とさせます。この世においては、見えるものは見えないものによって支配されているものです。あまり意識していないかもしれませんが、私たちの信仰生活においては、聖霊の働きは私たちが思う以上に現れているのではないでしょうか。水と血によって来られたイエス・キリストは、御霊によってあかしされ(6節)、私たちはそれを御霊によって悟ることができるのです。

3.御子を持つ者はいのちを持っている…現在、プロ野球もですが、メジャーリーグではオープン戦たけなわです。先日3月6日にエンゼルスとドジャースが対戦しました。大谷選手はエンゼルスに所属していましたが、ワールドシリーズでの優勝が見込めないということで、毎年、好成績を上げているドジャースに移籍しました。すると、大谷選手が抜けたエンゼルスよりも大谷選手が加わったドジャースが格段に強いはずなのですが、なんと、その日の結果は4対0でエンゼルスが勝ったのです。人間の行なうことは、なかなか計算通りには行かないものです。もちろん、オープン戦ですし、シーズンに入れば違うことでしょうが。しかし、神のなさることは完全です。また、語られたみことばは真実です。御子を持つ者、すなわちイエス・キリストを信じる者は真のいのちを持っているということです。これは動かしがたい事実ですから、私たちは、ここにしっかりと立ち続けましょう。第二コリント5:17には「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。罪の中で霊的に死んでいた古い自分は過ぎ去りました。今はイエス様によって新しく造られたものであり、まことのいのちを持つ者とされているということを確信しましょう。

●2024年3月3日(日)礼拝メッセージ要旨

ヨハネ第一の手紙4:11~21から「愛には恐れがありません」という題でポイント4つ上げていきます。  

1.神の愛が全うされる…11~12節では「天の父なる神が、御子イエス・キリストを遣わすほどに、これほどまでに神は私たちを愛してくださっているのですから、私たちもまた互いに愛し合うべきです。そして、互いに愛し合うならば神は私たちのうちにおられて、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」と、そういったことが記されています。ヨハネ15:13には「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあります。正直なところ、私たちはイエス様のような大きな愛を表わすことはできないでしょう。その愛の精神だけはしっかりと持ちたいと思います。先週は、筆者は所沢の教会で説教をさせていただきました。その教会の週報(礼拝プログラム)の表紙には大きな赤い字で「わたしはあなたを愛している」と、イザヤ書43:4のみことばを掲げていました。その通りに、神の愛を地道に実践している教会だと思いました。

2.神の愛のうちにおり…ローマ10:9には「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」とある通り、私たちはイエス様を主と告白し、救いに与りました。それは、私たちの心に聖霊様が注がれているからです。論理的な説明は難しいのですが、「告白の力」のようなものがあります。例えば、いつも前向き肯定的な言動をしている人は、その言ったとおりの人生になっているものです。逆に、いつも後ろ向きで否定的なことばかり言っている人は、その通りの人生になっているのではないでしょうか。まして、神の御子イエス・キリストを信じる告白をする人には、神がその人に臨まれ、その人は神のうちにおり、神もその人のうちにおられるのではないでしょうか。

3.愛には恐れがありません…イエス様を信じると、聖霊様が心に宿ります。つまり、その人は救いを受けて、神が共におられ、神の愛が心にあるのですから、やがて神の審判の日にも恐れるものはありません。今、確定申告の真っ只中にあります。時期を同じくして、国会では、議員さんたちの裏金問題が色々と議論されています。税務担当のお役人の方が、何度も答弁に立ち、「個別の事案について述べることは差し控えます」と繰り返し言っています。正に、「権力を持った国会議員さんには課税しませんよ」と言っているように聞こえてきます。なぜ、「権力者だろうが誰だろうが公平にきっちり徴税します。」と言えないのでしょうか。そんなことを言ったら、自分のポストが危うくなる恐れがあるからです。箴言29:25には「人を恐れるとわなにかかる。しかし【主】に信頼する者は守られる。」とあります。私たちは、人の顔色をうかがうのではなく、全知全能の神を恐れて生きるべきです。その神こそ、私たちのたましいをゲヘナに投げ込むことのできる方です。

4.兄弟を愛する…ルカ10:30~36で、良きサマリヤ人のたとえ話があります。強盗に襲われて道端に倒れている人がいるのに、祭司とレビ人は道の反対側を通り過ぎました。しかし、ユダヤ人と仲良くないサマリヤ人が彼を助け宿賃を払い、足りなかったら帰りに支払います、と言いました。キリストが、「この中で誰が強盗に襲われた人の隣人になったのか」と律法の専門家に質問すると、専門家は「その人に憐みをかけた人です」と答えました。知らない赤の他人でも、助けの手を差し伸べれば隣人です。教会では、同じ神様を信じれば、兄弟姉妹です。20節で「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。」とあります。私たちは、色々な機会に色々な人に出会います。どこでどうなるのか、先のことは分かりません。人を偏り見ることなく、その都度その都度、最善を尽くして、誠実に、地の塩、世の光として歩んでまいりましょう。