●2024年3月31日(日)イースター礼拝メッセージ要旨 

イースター(復活祭)に因み、第一コリント15:45~58から「死は勝利に飲まれた」という題で、ポイント4つ上げていきます。  

1.イースター…「イースター」という名称は、ゲルマン民族の一般の祭りの名が由来かもしれないというインターネット記事がありますが定かではないようです。今日、実際的に「イースター」は「復活祭」であると定着していますから、このままでも良いかもしれません。南米チリの沖合にイースター島があります。モアイ像がある島です。キリスト教とは関係ないように思えますが、一説によりますと、1722年、オランダ海軍がこの島を発見したのがイースターの日だったので、イースター島になったとのことです。いずれにしても大事なことは、イースター(復活祭)は、イエス・キリストが多くの人の罪を負い、墓に葬られ、三日目に死を打ち破って復活(よみがえった)したことを記念して祝う記念日であるということです。

2.最初のアダムと最後のアダム…最初のアダムとは、人類で最初に創造主なる神によって造られ、エデンの園に置かれたアダムです。最後のアダムとはイエス・キリストです。最初のアダムは、その妻エバと共に神が食べてはならないと言われた善悪を知る木の実を食べ、エデンの園を追放されることになりました。そのアダムの罪により、全人類に罪が入ってしまい、全ての人は生まれながらにして聖なる神の前に罪人であり、死と滅びが待っています。しかし、多くの人々は、そのことに対して深刻に受け止めてはいないでしょう。なぜなら、大抵の人は「自分は正しく真面目に生きている」と思っていて、まさか自分が罪人であり、やがては死んで滅びて行くなどとは思っていないでしょう。でも、どんなに正しく真面目に生きていて、しかも数々の善行を積んだとしても、その善行がその人に永遠のいのちを持たらす保証とはなりません。朽ちるものは朽ちないものを着なければならず、死ぬものは必ず不死を着なければなりません。ガラテヤ3:27には「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」とあります。朽ちないもの、不死であるイエス・キリストを信じ、バプテスマを受けて不死を着せられなければなりません。

3.死は勝利に飲まれた…2020年6月、今から4年ほど前のことです。教会メンバーYさんの夫Sさんの体が弱くなり、死期が近づいてきました。Sさんは、教会の礼拝に参加したことはありませんが、これまで、Yさんの勧めにより、イエス・キリストに対して心を開きつつあるとのことでした。Yさんは夫のSさんがいわゆる病床洗礼でも良いから信仰を明確にしてほしいと願っておられました。教会の牧師である筆者の立場としては、本人の意志を無視して何か強引なこともできないと考えていました。6月20日でした。筆者が祈っていると、Sさんの所に行くべきだという思いが強くなりました。そこで、筆者は妻を伴い、ベッドで横になっているSさん宅に行きました。そして奧さんであるYさんに取り次いでもらうと、Sさんは病床洗礼を受けるとのことでした。そこで、水を用意し、Sさんに対して、全知全能の神の存在、聖なる神の前に自分が罪人であるということ、救い主イエス・キリストを信じ受け入れるということを確認し、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けました。授礼直後、Sさんは仰向けになった状態で、肘から上の右腕を上げて筆者との握手を求めたので、筆者も握手に応じました。正に、死は勝利に飲まれたのです。それからちょうど一週間後の6月27日にSさんは召天されました。

4.主のわざに励みなさい…神は私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私たちは堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励んでまいりましょう。マタイ22章で、一人の律法学者がキリストに「先生。律法の中で大切な戒めはどれですか」と質問するとキリストは「心を尽くして神を愛すること。これが第一の戒めで、あなたの隣人を自分自身のように愛せよという第二の戒めも大切である」と言われました。端的に言いますと、神を愛するとは日曜日を聖別して礼拝を守ることです。隣人を愛するとは福音宣教に結び付く生活をするということです。それが主のわざに励むということです。

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