●1月12日の礼拝メッセージ要旨(マタイ26:57~75)

イエス様が捕らえられ、大祭司の中庭で尋問を受けた時の様子、そして、ペテロが三度イエス様を知らないと否認した箇所からポイントを三つあげて学びましょう。
①二人の証人…当時のユダヤの最高議会サンヘドリンはイエス様を死刑にすることを前提に動いていたようです。ローマ帝国の支配下にあって、自分たちで死刑執行をする権利はありませんでしたが、少なくとも死刑に持っていくための罪状が必要でした。多くの証人が出ましたが、最終的に二人の証人が、「この人は『わたしは神の神殿を壊して、それを三日のうちに立て直せる。』と言いました。」と証言しました。この証言も虚偽で、イエス様が神殿を壊すなどとは一言も言ってはいません。こういった悪意ある証言は、私たちの日常会話の中でも案外に見受けられるものです。エペソ4:29には「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」とあります。偽証などはもってのほかです。人を助け、人を生かすことばを話すことを心がけましょう。
②主、自らの証言…祭司長たちの尋問に対してイエス様が答えなかったのは、世で言う黙秘権とは全く異なり、無益な反論を避けただけです。祭司長が業を煮やして「あなたは生ける神の子キリストなのか。」と言いますと、主は、ようやく口を開かれ、それを肯定するだけではなく、天の神の右の座に着き、やがて、再臨すると言われました。それを聞いた大祭司は衣を引き裂き、主を死刑に定めます。イエス様は、私たちの模範として、この地上を歩まれました。私たちは、この世で、回りの人々と平和を保ち、柔和で穏やかに暮らしながらも、堂々と真実を証してまいりましょう。
③ペテロ、三度の否認…鶏が鳴く前に三度、イエス様を知らないと言うとの預言が全くその通りに的中し、それに気づいたペテロは激しく泣きました。第二コリント7:10には「神のみこころに添った悲しみは悔いのない救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」とあります。ペテロは、みこころに添った悔い改めをし、その後、神に豊かに用いられました。

●1月5日の礼拝メッセージ要旨(マタイ26:47~56)

 ゲッセマネの祈りのあと、イエス様が、祭司長から差し向けられた群衆に捕らえられる場面からポイントを三つ上げて学びましょう。
 ①ユダの口づけの合図…夜中に捕らえに行ったのは、昼間だとイエス様を支持する群衆の反対に遭遇するという恐れを回避するためだったのでしょう。暗がりで、ユダならイエス様がどの人なのか見分けがつくということで、口づけで合図としたのでしょう。イエス様の側から見れば、恩をアダで返されるような情けない気持ちになったことでしょう。また、ユダからすれば、3年間共に過ごした師を裏切るのですから、複雑な苦しい気持ちは避けられなかったでしょう。銀貨30枚のために師を裏切ったユダですが、第一テモテ6:10~11には、金銭を愛することが、あらゆる悪の根であるので、神の人は、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めるべきであるとあります。
 ②剣を取る者はみな剣で滅びます。…国際関係における軍隊や武器保有の問題、教育現場における体罰の問題など、机上での理想論では割り切れない、現場に立つ人たちの現実という難しさもあります。それはさておき、ここでイエス様は、12軍団よりも多い御使いを配下に置くことができるのに、あくまでも十字架の道を進みます。旧約聖書のヨシュア記5章で、ヨシュアの前に立った主の軍の将は、ヨシュアに対し「あなたの足のはきものを脱げ、あなたの立っている場所は聖なる所である。」と言いました。最強の天の軍隊を味方に付けるには、私たちがイエス様に服従することです。
 ③聖書の実現…聖書が実現するためにイエス様は暴徒たちに捕らえられました。聖書に記されたみことばは必ず成ります。しかし、神のみこころは必ず成るからと言って、私たちが何もしないでよいということはありません。やはり、人間の側の努力も必要です。また、実現していく聖書のみことばを暗唱して復唱することも有益です。

●12月29日の礼拝メッセージ要旨(マタイ26:30~46)

 イエス様が弟子たちを伴って、ゲッセマネで祈りをされる箇所からポイントを三つあげて学びましょう。
 ①祈りの応援…この時、イスカリオテ・ユダを除く11人の弟子たちを伴ってゲッセマネに祈りに行かれたイエス様は、さらに、その内から、ペテロとヤコブとヨハネを連れて別の場所に祈りに行かれました。ペテロとヤコブとヨハネは、マタイ17章で、イエス様が高い山に登られたとき、一緒に連れて行った人たちです。イエス様は、罪の無い神のひとり子、神ご自身であられましたが、私たちと同じように、人としての性質を持っておられました。いよいよ、十字架の死を目前にして、彼らの祈りの応援を必要としていたのでしょう。パウロは、エペソ6:19~20で、「福音の奥義を大胆に語ることができるように祈ってください。」とエペソの教会の人たちに祈りの応援を求めています。また、パウロ自身も当時の諸教会の聖徒たちのためによくお祈りをしていました。私たちも、教会の兄弟姉妹のため、礼拝などで奉仕する説教者や奉仕者のため、また、他教会の人々のために祈りの応援をしましょう。  ②みこころを求める祈り…自分の願いと主のみこころが一致しないとき、私たちは、自分を主のみこころに合わせなくてはなりません(ローマ12:2)。ヨナ書で、主はヨナに、ニネベに行くように命じましたが、ヨナはそれを拒み、タルシシュに向かいました。しかし、後に、彼は悔い改め、ニネベに行って、神のことばを伝えました。パウロは、アジア方面で福音を伝えようとしていましたが、マケドニヤを始めとするヨーロッパ方面に行くようにと聖霊に導かれました。主のみこころを求めて祈りましょう。 ③一時間でも目を覚まして祈る。…イエス様は弟子たちを激励しながら、祈りましたが、弟子たちは眠りこけていました。眠っていては祈れません。祈ること、そのことが霊的に目覚めることでもあります。祈りは、理屈ではなく、祈り始めることです。当教会の深夜祈祷会は、この箇所のみことば(マタイ26:40)に基づいて始まりました。教会で行われている祈りのプログラムにも積極的に参加しましょう。

●12月22日の礼拝メッセージ要旨(ルカ1:1~20)

 ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフとマリヤは、当時のローマ皇帝アウグストの勅令によって、住民登録のためにユダヤのベツレヘムに行くことになります。身重のマリヤが、そんな長旅をしなければならないとは、なんということだったのでしょう。しかも、ベツレヘムに着いて、宿もなく、結局、家畜小屋で出産をすることになります。しかし、それは、遠い昔から、イエス様はベツレヘムで生まれなければならないという預言の成就でもありました。また、家畜小屋の飼葉おけで寝かされていることも、羊飼いたちのための印でもありました。私たちの人生においても、それぞれ様々な試練があるものです。しかし、神に愛され、神に選ばれた人々にとって、それは神の栄光が現れるときでもあります。
 ところで、イエス様は何のためにこの世に来てくださったのでしょう。それは救いのためです。何からの救いですか。罪と死と滅びからの救いのためです。先日、NHKテレビで、今年、日米通算4000本安打を達成したイチロー選手が取り上げられていました。イチロー選手は、4000本安打を達成した数日後の試合の終盤で、主力選手を休ませるために代打で登場するという屈辱を味わったということです。「人はみな草のようで、その栄は、みな草の花のようだ。(第一ペテロ1:24)」とありますが、野球選手も一時的に脚光を浴びていても、年齢を重ね、やがて現役を退いていかねばなりません。
 詩篇49:20には「人はその栄華の中にあっても悟りがなければ、滅び失せる獣に等しい。」とあります。仏教の開祖釈迦は、世にある死や苦しみを避けようとするから余計苦しむ。それを諦めることが悟りであると教えました。しかし、聖書が言っている悟りは諦めることではなく、真理を知ることです。真理を知るということについて、二つのポイントがあります。一つは、人間は罪人であるということ。もう一つは、イエス様が、その罪の身代わりに十字架で死んで復活し、救い主となってくださったということです。イエス様の御名を呼び求めるならば、救いを受け、永遠のいのちが与えられます。永遠のいのち、天国などと聞くと、なにか薄ぼんやりしたイメージを抱きがちですが、第一コリント13:12を見ますと、実は、今のこの世が薄ぼんやりしていて、むしろ、天国は顔と顔を合わせてはっきりと見える所であり、今、分からないことが明らかにされる所なのです。イエス様を信じ受け入れることにより、天国の前味を知り、永遠が始まっているのです。

●12月18日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇147篇)

詩篇の各篇は、悔い改めや主への祈りといった内容が多いのですが、この147篇は、主への称賛や賛美に終始しています。
1節では、「われらの神にほめ歌を歌うのは良い。」とあります。礼拝や諸集会で主への賛美を歌うことは、無条件で良いことです。上手に歌えればそれは素晴らしいことですが、それよりも主に賛美をささげる姿勢が最も大事です。
2節は、バビロン捕囚後の帰還のことを言っているのでしょう。当時のイスラエルを再びエルサレムに帰還させたのは全能の主ご自身です。主は打ち砕かれた者をいやし、その傷を包む方であり(3節)、星の数を数え、そのすべてに名を付ける方です(4節)。
10~11節では、主は、馬の力、歩兵を喜ばず、主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを好まる、とあります。つまり、この世の権力や軍事力、そういったものを頼りにするのではなく、全知全能の主を恐れ、主を頼りとして祈る人を主は求めておられます。
13~14節では、主は、神の子らを守り、祝福し、良いもので満たそうとしておられます。また、主は、雪を降らせたかと思えば、一方では、その雪や氷を融かされる方です(15~18節)。
そして19~20節では、「主はヤコブには、みことばを、イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。主は、どんな国々にも、このようには、なさらなかった。さばきについて彼らは知っていない。ハレルヤ。」とあります。聖書の教えを受け入れること、おきてとさばきについて知らされているということは実に幸いです。ヨハネ16:8には「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」とあります。その人が、罪について、義について、さばきについて、聖書の正しい見解を持つためには、聖霊の働きが不可欠です。そのために、私たちは、主を恐れ、主に頼り、御恵みを待ち望みつつ(11節)お祈りしていきましょう。

●12月8日の礼拝メッセージ要旨(マタイ26:14~29)

 「過ぎ越しの食事」という題でポイントを三つあげて学びましょう。
  ①食卓の備え…弟子たちはイエス様に過ぎ越しの食事をどこでしたらよいのかと尋ねます。イエス様は、全能の神の権威において、場所を備えました。マタイ21章で、ロバの子に乗られたときも、イエス様はロバを用意させました。創世記22章でアブラハムがイサクをささげようとしたとき、一頭の雄羊が備えられていました。「主の山の上には備えがある。(創世記22:14)」とあるように、今日も、主のみこころに従っていくとき、必要な備えがあるのです。
  ②ユダの裏切り…なぜユダはイエス様を裏切ったのでしょう。このことを理解するのは困難です。全てのことをお見通しのイエス様がなぜユダを選んだのか。ユダからすれば、完全なリーダーであるイエス様になぜ不満を持つのか。新約では12使徒、旧約ではイスラエル12部族が出てきます。12使徒はイスカリオテ・ユダの代わりにマッテヤ(使徒1:26)が加わります。12部族ではダン族が消え、マナセ族(黙示録7:6)が加わっています。マタイ5:48には「天の父が完全なように完全でありなさい。」とありますが、私たちの人生は、毎日毎日、不完全で欠けだらけではないでしょうか。でも、私たちは、その不完全さを受け入れながらも、完全であるイエス様に祈り願い、助けていただきましょう。
  ③過ぎ越しの食事…過ぎ越しの祭りは、かつて、出エジプトのとき、イスラエル人が家の門柱とかもいに傷の無い一歳の雄羊の血を塗ったことにより、神の怒りがその家を過ぎ越したことから、そのことを覚えるために守られてきた祭りです。それは、今日のイエス様の十字架の予表でもあります。裂かれたパンはイエス様のからだ、杯はイエス様が流された血です。イエス様を信じ受け入れる人には、神の怒りが過ぎ越し、罪赦され、神の子とされ、永遠のいのちが約束されています。マタイ26:29でイエス様は、やがて父の御国でも飲食するということを言われています。ヘブル12:22には「天の大祝会」のことが記されています。今、私たちは、イエス・キリストにあって神の民として、この地上で天国の霊的な豊かさ、聖さ、優しさ、誠実さ、そういったものを人々に証ししていきましょう。

●12月1日の礼拝メッセージ要旨(マタイ26:1~16)


   イエス様一行はエルサレムからベタニヤに行き、ツァラアトに冒された人シモンの家でのことです。一人の女性がイエス様の頭に高価な香油を注ぎました。四つの福音書から総合的に判断すると、この女性はマルタの妹マリヤで、この家の主人シモンとは、マルタとマリヤの父親だったのかもしれません。
さて、このとき、弟子たちは憤慨して「何のために、こんな無駄なことをするのか。」と言っています。イエス様が5千人にパンを分け与えたとき、「余ったパン切れを、一つも無駄に捨てないように集めなさい。(ヨハネ6:12)」と言われていますから、そもそも、倹約すること、浪費しないことは聖書の教えでもあります。しかし、ここでマリヤは弟子たちが無駄に思えることをしたのです。そのときイエス様は、「この女はわたしの埋葬の用意をした。世界中どこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のしたことも語られる。」と言われます。実際に、今日、世界中の教会などで、マリヤのしたことが語られています。
このマリヤは、本当にすごい人だと思いますが、なぜ、彼女にそれができたのでしょう。実は、イエス様はマタイの福音書ではこの章26:2もそうですが、16:21、17:23、20:19、それぞれで、ご自分が十字架で殺されるということを語っています。ルカ10:39では「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足元にすわって、みことばに聞き入っていた。」とあります。ですから、マリヤは、イエス様が語られたことばを素直に受け入れ、その語られたみことばに従って行動したのです。
私たちの毎日の生活は、良識的でなければなりませんし、倹約も必要です。でも、聖書のみことばに従う生活は、永遠に照準を合わせています。それは、時に、無駄と思えたり、非効率に思えることもあるでしょう。しかし、それは、いのちの道であり、永遠の祝福の道です。

●11月27日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇144篇)

この詩篇は、冒頭に「ダビデによる」となっていて、全体的に、主の助けを求める内容です。
3節に「人とは何者なのでしょう。」とあります。この表現は、詩篇8:4でも使われていて、第二サムエル7:18でも、ダビデが「私はいったい何者なのでしょう。」と同じような表現をしています。このときダビデは、預言者ナタンに主の宮を建てることを伝えますが、そのあとで、主は、ナタンを通して、主の宮を建てるのはダビデではなく、ダビデの身から出る者が宮を建て、その王国はとこしえに確立されると語られます。それを聞いたダビデが、そのことばを言ったのです。
元々、ダビデは羊飼いの息子に過ぎない者であったのに、神の民であるイスラエルの王として君臨し、神の宮を建てようとするまでになりました。そして、そればかりでなく、ダビデの王国をとこしえに確立されると言われて、恐れ多いことだと思ったのでしょう。
全知全能の神のひとり子イエス・キリストは、系図上はダビデの子孫として、この地上を歩まれました。そして、十字架による救いを完成させ、正に、とこしえの王国を確立されました。今日、イエス様の救いに与った者は、そのとこしえの王国、すなわち、永遠の天の御国の民に加えられるのです。ダビデが「人とは何者なのでしょう。」と言ったことばは、そのまま、今日のキリスト者にも当てはまるのではないでしょうか。
さて、12~14節でダビデは、息子、娘たち、つまり後継者について言及しています。息子らは「よく育った若木のように」、娘らは「宮殿の建物の柱のように」と願っています。今日の教会に、救われる人々が加えられ、さらに次世代の人々が成長して、教会を建て上げるために熱心に主に仕える、としたら、それは理想的な教会の姿と言えるでしょう。地上的なダビデの王国の場合は、ソロモン王のあと、南北に分裂し、やがて、両王国とも他国に滅ぼされてしまいます。その背景を探るとき、後継者育成の難しさということもあるでしょうが、やはり、後継者の模範となるべき世代が、主に忠実に仕えるということ以外にはないでしょう。

●11月17日の礼拝メッセージ要旨(マタイ25:31~46)

 25章の三つ目のたとえ話、「羊と山羊」という題で、3つポイントをあげて学びましょう。
  ①羊と山羊…羊と山羊は生物学上の分類では共に牛に属するのだそうです。羊と山羊はよく似ています。鳴き声もよく似ていますが、交配はせず、その性質はかなり異なるようです。羊は群れて、素直で、単独行動ができず、迷いやすいのだそうです。一方、山羊は、単独行動をし、人に対して不従順で高い所を好み、羊が外敵に対して逃げるのに比べ、山羊は向かう姿勢を見せるのだそうです。ずいぶん対照的ですが、ちょうど、その、羊と山羊の性質が、私たちの信仰姿勢と重なる部分があるので、イエス様が用いたのでしょう。イザヤ53:6には、「私たち人間はみな、羊のようにさまよっている」とあります。この世の知者であれ、支配者であれ、もし、救い主イエス様に出会わなければ、心の中はさまよっているのです。また、イザヤ53:7には、羊のもう一つの性質である従順を表現しています。イエス様が十字架にかけられるとき、羊のように黙って引かれていったのです。つまり、私たちは、自分が羊のようにさまよっている者であることを認め、同じく羊のように従順にイエス様を信じて従ってまいりましょう。
  ②最も小さい者たちに…東日本大震災では、私たちは被災者としての立場から様々な支援を受けました。また、支援の中継基地のような役割も担い、それは今日も続けられています。しかし、私たちの場合、支援と言っても、限られた小さなことしかできません。それでも、イエス様に五つのパンと二匹の魚をささげた少年のように、自分に出来る精一杯のことをすればよいのです。そういった慈善活動や施しも素晴らしいことですが、一番見落としてならないことは、最も近しい自分の家族や回りの人々に愛(思いやり)を注ぐということです。
  ③永遠の刑罰と永遠のいのち…聖書には、永遠のいのちだけでなく、永遠の刑罰についても明確に言及(マタイ25:46、第二テサロニケ1:8など)しています。聖書を真実な書と位置付ける者にとっては、当然、その永遠の刑罰を免れ、永遠のいのちに与り、さらに、自分だけの救いに満足することなく、多くの者を義とする(ダニエル12:2~3)務めに向かっていかなくてはなりません。

●11月10日の礼拝メッセージ要旨(マタイ25:14~30)

 「預かったタラント」という題で、3つポイントをあげて学びましょう。
  ①各々賜物が与えられている…自然界に生息する動物などを見ますと、その体型、配色など実によく整えられているものです。正に創造主のデザインによって完璧に形づくられていると言えます。まして、私たち人間もそうです。その人の両親のそれぞれの特徴を良い具合に受け継ぎ、最高傑作として仕上げられているのです。そして、ある人には5タラント、ある人には2タラント、また、ある人には1タラントというふうに、それぞれにその人に応じた個性や賜物、また度量が与えられています。ここで、1タラントとはどのくらいの単位なのか調べてみますと、1タラントは60ミナ、1ミナは100デナリで、一日分の賃金に当たる1デナリを仮に1万円として計算すると、1タラントは6000万円となります。大きな金額ですが、それ以上に、私たち一人ひとりには大きな賜物が与えられています。
  ②賜物を用いて生かす…私たちに与えられている賜物が全く生かされない、用いられないとすれば、それは大きな損失です。ある人には預言、またある人には奉仕、そのほか勧め、指導、慈善を行なう力(ローマ12:5~8)、そういった様々な賜物が与えられていて、それらをキリストのからだである教会を建て上げる(イエス様の御名を呼び求める人が一人でも多く起こされる)ために用いられますように。
  ③清算と評価のとき…死後、人はどうなるのでしょう。この世の考えも様々あります。無になる?霊体となって地上をさまよう?輪廻説?などですが、聖書は「ちりは元あった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。(伝道者の書12:7)」とあり、死んだ人の霊魂は創造主のもとに帰ります。しかし、そこから「人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」とあるように、厳粛な神のさばきの前に立たされます。しかし、キリストを受け入れた者は神の怒りが臨むことはありません。そうかと言って、与えられた賜物を全く用いないで眠らせておくなら、受けるべき祝福を取り逃がすことにもなるでしょう。1タラントを地の中に隠しておいたしもべは、主人から「だったら銀行に預けておくべきだった。」と言われました。小さなことでもよいし、出来ることでよいのです。何をするにもただ主の栄光を現わすことを求めましょう。最後の清算と評価のとき、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言われるような歩みが出来ますように。