●11月27日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇144篇)

この詩篇は、冒頭に「ダビデによる」となっていて、全体的に、主の助けを求める内容です。
3節に「人とは何者なのでしょう。」とあります。この表現は、詩篇8:4でも使われていて、第二サムエル7:18でも、ダビデが「私はいったい何者なのでしょう。」と同じような表現をしています。このときダビデは、預言者ナタンに主の宮を建てることを伝えますが、そのあとで、主は、ナタンを通して、主の宮を建てるのはダビデではなく、ダビデの身から出る者が宮を建て、その王国はとこしえに確立されると語られます。それを聞いたダビデが、そのことばを言ったのです。
元々、ダビデは羊飼いの息子に過ぎない者であったのに、神の民であるイスラエルの王として君臨し、神の宮を建てようとするまでになりました。そして、そればかりでなく、ダビデの王国をとこしえに確立されると言われて、恐れ多いことだと思ったのでしょう。
全知全能の神のひとり子イエス・キリストは、系図上はダビデの子孫として、この地上を歩まれました。そして、十字架による救いを完成させ、正に、とこしえの王国を確立されました。今日、イエス様の救いに与った者は、そのとこしえの王国、すなわち、永遠の天の御国の民に加えられるのです。ダビデが「人とは何者なのでしょう。」と言ったことばは、そのまま、今日のキリスト者にも当てはまるのではないでしょうか。
さて、12~14節でダビデは、息子、娘たち、つまり後継者について言及しています。息子らは「よく育った若木のように」、娘らは「宮殿の建物の柱のように」と願っています。今日の教会に、救われる人々が加えられ、さらに次世代の人々が成長して、教会を建て上げるために熱心に主に仕える、としたら、それは理想的な教会の姿と言えるでしょう。地上的なダビデの王国の場合は、ソロモン王のあと、南北に分裂し、やがて、両王国とも他国に滅ぼされてしまいます。その背景を探るとき、後継者育成の難しさということもあるでしょうが、やはり、後継者の模範となるべき世代が、主に忠実に仕えるということ以外にはないでしょう。

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