2012.6.24礼拝メッセージ要旨(マタイ5:1~9)

 マタイ5~7章は山上の垂訓と言われています。9節まで七つのポイントで学びましょう。
 第①は、「心の貧しい者は幸い」です。人間、豊かで恵まれていたほうが幸いであると言えますが、案外、そういう時は、慢心したり傲慢になったりするものです。自分の弱さ、愚かさ、そして罪深さを悟った人が、イエス様の十字架の救いを必要と覚えて救いに与り、それゆえに真に幸いな人となるのです。
 第②は、「悲しむ者は幸い」です。この世に生きている限り、苦しみや悲しみを避けることはできないでしょう。しかし、そういったマイナスは決してマイナスだけで終わるのではなく、却ってプラスになることが多いものです。神を信じる者にとっては、すべてのことが益となります。
 第③は、「柔和な者は幸い」です。創世記のイサクは争わない人でした。自分たちが掘った井戸を何回か奪われても、その都度、他の場所で新たに井戸を掘りました。結局イサクは、最終的に広い土地を得て、所有物も増え、祝福を受けました。
 第④は、「義に飢え渇く者は幸い」です。私たちの心は何によって真の満足を得られるのでしょう。物質的な不足が満たされればそれでよいということはないでしょう。義に飢え渇く、つまり、究極的には、神のみこころに従うとき心満たされるのです。
 第⑤は、「あわれみ深い者は幸い」です。神は恵み深い者には恵み深く、全き者には全くあられ、きよい者にはきよく、曲がった者にはねじ曲げる方です(Ⅱサムエル22:26~27)。私たちの生き方、あり方がそのまま跳ね返ってくるのです。神のあわれみを受けたいと願うなら、あわれみ深い者となりましょう。
 第⑥は、「心のきよい者は幸い」です。ヘブル12:14には「すべての人との平和を追い求め、また聖められることを追い求めなさい。また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることはできません。」とあります。聖い生き方を求めていくとき、神様を体験する。神が生きて働いてくださるのを見るのです。
 第⑦のポイントは、「平和をつくる者は幸い」です。人と人との関係も大事ですが、もっと大事なのは神と人との関係が修復されていなければなりません。イエス様は神の怒りの下にある人の罪を十字架によって、その身に負い、神と人との関係の和解の回復を成し遂げられました。すでにイエス様を信じるクリスチャンは、そのイエス様を人々に証しすることによって、真の平和をつくる者となるのです。

2012.6.17礼拝メッセージ要旨(マタイ4:12~25)

イエス様がいよいよ宣教を開始された記事から学びましょう。きょうも三つのポイントをあげます。第一は、「カペナウム」です。カペナウムは、昔のゼブルンとナフタリとの境にある湖のほとりの町です。2005年10月、当教会は海辺のほとり、蒲生に移転しました。イザヤ9:1~2には「海沿いの地が光栄を受けた」とあり、そのみことばの裏付けをもって移転したわけです。しかし、全くと言ってよいほど実を結ぶことはありませんでした。そして、3.11大震災が起こりました。大きな犠牲と損失がありました。が、3.11以前には考えられなかったような現象が今起こっています。イエス様がカペナウムに住まわれて宣教を開始されたのは、イザヤ9:1~2のみことばが成就するためであったのです。第二は、「悔い改めなさい」です。第二コリント7:10には、真の悔い改めは救いに至らせるものであるとあります。もし、青森に行くのなら、東京行きの電車に乗っていたら、青森行きに乗り換えなければなりません。悔い改めとは方向転換することであり、例えば芳しくない生活習慣があるなら、それを断ち切って、悔い改めの実を結びましょう。第三は、「人間をとる漁師」です。イエス様は、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の病気やわずらいを直されました。このころイエス様に召された弟子たちは、そののちになってのイエス様が昇天後、聖霊充満されて、イエス様と同じように活動し、正に人間をとる漁師となりました。神様の収穫の時が来ると、多くの働き人が必要です。私たちそれぞれも整えられて、すぐれた人間をとる漁師をめざしましょう。

2012.6.10礼拝メッセージ要旨(マタイ4:1~11)

イエス様が荒野で悪魔の試みを受けた箇所から、きょうも三つのポイントをあげて学びましょう。第一は、「人はパンだけで生きるのではない」です。昔、エジプトで奴隷になっていたイスラエル人は、出エジプト後、荒野で水がない、食物が無いということが度々ありました。しかし、天の神様は、その都度、イスラエル人に湧水を与え、天からマナを降らせて、彼らが、神によって支えられ、生かされているということを学ばせたのです。このことは、イスラエル人だけではなく、今日の私たちも同じで、自分で生きているのではない。創造主である神によって生かされているということを知らなければなりません。そして、この神様が与えて下さる聖書のみことばによって、生きるエネルギーをいただけるのです。第二は、「主を試みてはならない」です。悪魔は、神のみことばを用いて、イエス様を誘惑しました。みことばも用い方を誤ると危険です。さて、主を試みるとは、全能の神の存在を疑うことです。私たちは、神を素直に信じ、「主のみこころならば、このことを、または、あのことをしよう。(ヤコブ4:15)」という、へりくだった姿勢が必要です。神のみこころならば、どんなときも神の最善の導きを信じて従う者となりましょう。第三は、「主にだけ仕えよ」です。私たち人間が持つ、生まれながらの性質は、人の上に立ちたい、有名になりたい、多くのものを所有したい、そういった自分自身の栄光を求めるものです。しかし、創造主である神に形づくられ生かされている私たちは、その神の御名が崇められることを求めましょう。「食べるにも飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(第一コリント10:31)」と聖書は言っています。

2012.6.3礼拝メッセージ要旨(マタイ3:1~17)

今日も三つのポイントをあげて学びましょう。第一は、「バプテスマのヨハネ」です。ヨハネは、イザヤ40:3で預言されていた人で、主の通られる道を用意しました。神の御子イエス様を迎えさせるために、人々に心の備えをさせました。それにしても、ヨハネの風貌は世の流れとは無縁で、今日の私たちは、そんな彼の姿勢を手本にすべきではないでしょうか。ヨハネは、彼のもとに形だけのバプテスマを受けにきたパリサイ人やサドカイ人に、歯に衣を着せることなく「まむしのすえたちよ」と言い、悔い改めの実を結ぶように迫ります。第二は、「聖霊と火とのバプテスマ」です。昔も今も、聖霊による力、神様の力が伴わなかったら宣教の働きは不可能です。エペソ5:18には「聖霊に満たされなさい。」とあります。私たちも聖霊を求めましょう。そのためには、そういう環境に自分を置くことです。礼拝出席はもちろん、各種聖会出席、デボーションを通して主に近づき、聖霊充満されて、大胆に主を証しする器とされましょう。第三は、「イエス様のバプテスマ」です。罪のご性質を受けていないイエス様は、本来バプテスマを受ける必要はありませんでしたが、私たちの模範として歩まれるために、あえてバプテスマを受けられました。そのとき、聖霊が鳩のようにイエス様の上に留まられ、天から「これは、私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と父なる神様から御声がかかりました。天の父なる神様と御子イエス様は単なる主従関係とは違い、親子のような愛の関係です。ちょうどイエス様と私たちの関係も同じように、愛による関係であり、私たちは、イエス様の愛によって生かされ、また、その(十字架の)愛を人々に証しするのです。

2012.5.27礼拝メッセージ要旨(マタイ2:13~23)

 きょうも三つのポイントをあげて学びましょう。
 第一は、「ヘロデ」です。ヘロデは、エサウの子孫であり、エドム人で、イエス様を殺そうとして、当時、ベツレヘム近辺の二歳以下の男子を殺しました。そのヘロデと彼の息子たちも、世俗的で残虐であり、傲慢で神を恐れない者でした。私たちは、彼のようではなく、神を恐れ、憐み深く、謙遜かつ敬虔な歩み方をしましょう。
 第二は「ラマ」です。18節に「ラマで声がする…」とありますが、引用されたエレミヤ31:15、及び16~17節を見ますと、イスラエルが他国に侵略され、民族が捕囚となって連れて行かれるのをラケルが嘆いているのですが、ラケルというのは、エフライムの祖母になり、エフライム部族全体の母親を代表して表現しているのでしょう。しかし、16~17節では、「あなたの将来に望みがある。あなたの子らは自分の国に帰ってくる。」とあります。全知全能の神に対する信仰がそこにあるなら、神は、決して、悲劇だけで終わらせることなく、必ず、神は不思議な御計画をそこにあらわされるでしょう。
 第三は、「ナザレ人と呼ばれる」です。イエス様は、最初、聖霊によって、母マリヤのおなかにおられ、ナザレから、人口調査のためベツレヘムへ、そして、エジプトへ逃れ、ヘロデの死後、イスラエルの地へ、そして、最終的にナザレに落ち着かれました。そして、およそ30歳で公生涯に入られ、十字架の道へと向かわれます。つまり、イエス様は、父なる神様の導きに従順に従い、ご自身に与えられた使命を忠実に全うされたのです。私たち一人ひとりにも、神様から託された使命があります。それぞれに与えられた使命を果たしてまいりましょう。

2012.5.20礼拝メッセージ要旨(マタイ2:1~12)

 三つのポイントから学びましょう。
 第一は、「東方の博士たちの礼拝」です。ちょうど明日の朝七時半頃は鹿児島から福島にかけて金環日食が見られます。それは、天文学の分野によって、そういうことが分かるのです。東方の博士たちが見た星は、今日の天文学では説明できない超自然的な方法で全能の神様が博士たちを導いたのでしょう。博士たちは、いったいどういう人たちだったのか、ギリシャ語ではマゴスが博士と訳されていますが、魔術師とも訳すことができ、占星術師のような人たちだったかもしれません。が、いずれにしても、彼らは遠い道のりを、特別な王として生まれた幼子を礼拝するために命がけでやって来たのです。彼らの礼拝をする姿勢は、今日の私たちが模範とすべきものです。
 第二のポイントは、「ベツレヘム」です。ルツ記では、ナオミとルツがモアブから帰ってきた場所です。ダビデ王の故郷でもありますが、ミカ5:2では「ユダの中で最も小さいもの」と記されています。真の神は、小さなもの、見下されているようなところに目を留めておられます。使徒パウロは、第二コリント12:10で「私が弱いときにこそ、私は強い」と言いました。神の力は弱いところに働くのです。
 第三は、「黄金・乳香・没薬」です。博士たちがイエス様にささげた、これらのものは、当時、高価な品物で、イエス様の家族の旅費や生活費になったことでしょう。また、黄金は、王の王としてのイエス様にふさわしく、乳香は永遠の祭司としてのイエス様にふさわしく、そして、没薬は十字架で死なれ葬られるイエス様を表していると言われています。正に、イエス様は、十字架により、信じる者に真のいのちを与え、天においても地においてもいっさいの権威をもって、今も、求める者を助けとりなしてくださいます。

2012.5.13メッセージ要旨(マタイ1:18~25)

キリスト降誕直前の記事です。ルカの福音書は、マリヤに焦点が当てられていますが、このマタイの福音書では、ヨセフの心の動きに焦点が当てられています。三つのポイントから学びましょう。第一は「妻マリヤを迎えなさい」です。主の使いが夢でヨセフに現われ、妻マリヤの妊娠が聖霊によるものであることを告げられ、ヨセフは、その言葉に対して、実に従順に従います。士師記に登場するギデオンは、ヨセフと違い、主の使いのことばに対してしるしを求めました。神のことばを疑わず信じ受け入れる人は幸いです。第二は、「その名をイエスとつけなさい」です。イエス様の名の意味は「主は救い」です。この地上に、自らを低くし、救い主となられたイエス様の御名こそ、ほめたたえられ、賛美されるべきです。第三は、「インマヌエルと呼ばれる」です。もちろん、イエス様はインマヌエルと直接的に呼ばれてはいませんが、今日、聖霊によって、信じる者とともにおられる方です。マタイの福音書の最後の節である28:20を見ますと、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがととともにいます。」ということばで完結しています。しかし、それは、マタイ28:19~20を見ますと、「あらゆる国の人々を弟子とし、バプテスマを授け、イエス様の教えを教えなさい。」というイエス様の命じられたことを遂行するためでもあります。また、イエス様がともにおられるからこそ、その命じられたことを行なうことができるのです。

2012.5.6礼拝メッセージ要旨(マタイ1:1~17)

黙示録の学びを終え、新約聖書の初めから、マタイの福音書です。イエス・キリストの系図です。この系図は、少なくとも、ユダヤ人にとっては意味の深いものですし、キリストが、旧約聖書で預言されていた救い主であり、正統的な王家の家系から生まれられた、正に由緒正しい方であるということを示すためのものと言えるでしょう。このマタイの福音書に記されている系図では、アブラハムからマリヤの夫であるヨセフまで。一方、ルカの福音書に出てくる系図では、ヨセフの妻であるマリヤの父ヘリからさかのぼってアダムまで記されています。両系図は、アダムからダビデまで同じで、ダビデから、同じ母バテ・シェバによるソロモンとナタン(第一歴代誌3:5)で分かれます。このマタイの系図は、マリヤ以外では四人の女性が出てきます。タマルはユダの息子の嫁です。ラハブは、エリコの遊女です。ルツはモアブ人で再婚です。そして、バテ・シェバはウリヤの妻です。「ウリヤの妻」という表現自体が尋常ではありません。つまり、神は、人間の弱さや醜さを包み込み、それらを用いて、キリストの系図が形成されています。それゆえに、私たちも神の大きな恵みの救いに与ることができるのです。その神の懐の深さと言いましょうか、愛の大きさに比べ、私たち人間は、自分の枠や壁を作ってしまって、自分の枠外の人たちを裁いたり、自分と同類の人たちだけで固まってしまう傾向にあります。ですから、私たちは、もしそれが不要な枠や壁ならば、それを取り払うために努力し、神の大きな愛に一歩でも近づきましょう。

2012.5.2祈祷会メッセージ要旨(詩篇77:1~20)

 この詩篇の記者は、1節で、「私は神に向かって声を上げると、神は聞かれる」と、信仰的な告白をしています。しかし、次の2節では「私のたましいは慰めを拒んだ」、3節では「私の霊は衰え果てる」と、信仰的ではなく、すっかり元気を失っています。8節では「主の恵みは永久に絶たれたのだろうか」と言っていて、この記事はバビロン捕囚が背景になっているのかもしれません。さて、この詩篇の最大のポイントは、10節と11節でしょう。記者は10節で、「私が弱いのは主の右の手が変わったからだ。」と、とんでもないことを言っています。全地全能の主は不変であり、変化するような神は、もはや本当の神ではありません。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(ヘブル13:8)」と聖書は言っています。そして、11節では、一転して「私は主のみわざを思い起こそう。」と告白し、そこから、正に信仰のV字回復です。つまり、現実を見て暗く落ち込んでいたのですが、主を見上げ、主がイスラエル人のために行なわれた数々の奇跡を思い起こして、もう一度、信仰に立つことが出来たのです。昔も今も、その人の信仰の通りになります。いつもどんなときも主を見上げ、信仰の言葉、信仰の行動、信仰の人となりましょう。

2012.4.22礼拝メッセージ要旨(黙示録22:1~21)

聖書の最後の章から、四つポイントをあげて学びましょう。①生ける水の川…天の都を流れる生ける水の川の水源は「神と小羊の御座」です。そこから流れてくるのですから、どれだけいのちに溢れていることでしょう。ヨハネ7:37~38を見ますと、イエス様を信じる者は、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになると書いてあります。②聖徒はいよいよ聖なる者とされなさい。…さばきの時が近づいているとき、私たちが白か黒か分からない、灰色でどちらにも属さないようでは、神様もさばきに困って?しまうでしょう。もちろん、黒や灰色ではなく、イエス様の十字架によって洗われて白に属する者となりましょう。③この書の預言のことばを加えたり取り除いてはならない。…旧新約聖書66巻は正典と呼ばれ、神の霊感によって書かれたものですが、一方で外典、儀典と呼ばれている書もあるので、この点注意が必要です。④「来てください」「すぐに来る」…わたしたちは、数か月後、あるいは一年後の計画を立てていて、案外、その日がすぐに来るということを体験します。準備が十分出来ていると、待ち遠しいのですが、出来ていないと、「ちょっと待って」となります。「主イエスよ来てください。」と心から告白できるような歩み方をしている人はなんと幸いでしょう。