●4月13日礼拝メッセージ要旨(マルコ2:1~12)

四人にかつがれて来た中風の人がイエス様にいやされた記事から、ポイントを三つあげて学びましょう。
①彼らの信仰を見て…カナダのある湖で、釣りをしているお爺さんがいました。釣った大きな魚は湖に逃がし、小さな魚をバケツに入れています。それを見ていた人が不思議に思って、その理由を尋ねると、お爺さんは「うちのフライパンは直径25センチなんですよ。」と答えたということです。この話、某記事に書いてあって、本当にあったことかどうか知りませんが、固定観念にとらわれると、このようになるということです。他人の家を勝手に壊してはなりませんが、中風の人を運んだ四人は、彼の癒しを願い、信仰の故に、屋根に穴を開けたのです。鷹巣さんというクリスチャン女性は、「憲法九条にノーベル平和賞を」と本気で考えて、ノーベル委員会に電子メールを送り続けて、とうとう2014年ノーベル平和賞候補として正式受理をされたということです。神の栄光のため、信仰の目を大きく広げましょう。
②罪の赦し…「キリストはあなたの罪のために十字架につけられた。」と誰かに伝えても、その人に、すんなりとは理解してもらえないでしょう。しかし、創世記3章には、すでに罪の問題を扱っています。出エジプト記、レビ記などには罪の赦しを得るための方法が記され、新約聖書においては、キリストの十字架による「完全な罪の赦し」が示されています。また、罪の赦しは神との和解でもあります。「神の和解を受け入れなさい。(第二コリント5:20)」
③罪を赦す権威…「あなたの罪は赦された」と言うのと「起きて歩け」と言うのとどちらが易しいでしょうか。罪の赦しというのは、目に見ることは出来ないので、言うだけなら簡単です。ですからイエス様は、「起きて歩け」と、難しいほうを言われて、ご自分が真に罪を赦す権威を持っておられることを示されました。私たちの人生においては、時々「何で?」と思うようなことがあるものです。しかし、天においても地においても一切の権威を持っておられるイエス様に信頼し、忍耐を持って主の導きを求めていくなら、後に、「このためだったのか。」と納得する日が必ず来るのではないでしょうか。ですから、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しましょう(第一テサロニケ5:16~18)。

●4月6日礼拝メッセージ要旨(マルコ1:29~45)

マルコ1:29~45から、記事の内容に合わせて、四つポイントをあげて学びましょう。
①シモンのしゅうとめ…熱病で床に着いていたシモンのしゅうとめがイエス様によって癒され、すぐに今度はイエス様たちをもてなし始めました。このことは、イエス様に出会った人が明確に変えられていく姿を象徴的に表しているのではないでしょうか。普通の感覚では、直ったばかりですと、しばらく様子を見るために動こうとはしないでしょう。使徒パウロは、ダマスコ途上でイエス様に出会うと、直ちにイエスがキリストであると宣べ伝え始めました。私たちも、イエス様を信じたら、はっきりと向きを変えて主の道をすすんで行きましょう。
②イエスをよく知っていた…「知っていること」と「信じること」とは違います。悪霊は、イエス様のことをよく知っていましたが、信じて受け入れるということは決してありません。マルコ1:24には、悪霊がイエス様に「あなたがどなたかよく知っています。」と言っています。また、使徒16章では、占いの霊につかれた女がパウロとシラスのあとに着いて、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで~」と叫んでいます。結局、悪霊は神の働きを邪魔するのです。それが何から来ているか、惑わされないように注意が必要です。
③そこで祈っておられた…私たちは、この見える世界の中に生かされていますが、見える世界を支配している見えない霊の働きがあるということを意識していなくてはなりません。イエス様は、そのことをよくご存知で、朝早く暗いうちから起きて祈っておられました。
④お心一つで…ツァラアトに冒されている人がイエス様のところへ来て「お心一つできよくしていただけます。」と信仰を表しました。イエス様は彼に触れて即座に彼をきよめました。この世には、色々な弱い立場の人がいます。イエス様は、そういった人たち一人ひとりに目を留め、等しく愛しておられます。「福音宣教」とは、悪魔によって伝えられた曲がった教えを、本来の聖書のメッセージに修正する作業とも言えるでしょう。

●3月30日礼拝メッセージ要旨(マルコ1:12~28)

マルコ1:12~28から、記事の内容に合わせて、三つポイントをあげて学びましょう。
①荒野での試みと宣教開始…悪魔の誘惑は、最初の人であるアダムがその誘惑に負けて、人類に罪をもたらしました。第一コリント15:45では、そのアダムとイエス様とを比較して述べています。アダムは生きた者となった、とありますが最後のアダムであるイエス様は、生かす御霊となりました。そのためにも悪魔の試みに勝利され、宣教を力強く開始されました。今日、私たちも、最初の人アダムのように、ただ生きていて、やがて死に行くだけの人となるのか、それとも、イエス様を信じて、生かす御霊に支配されながら、滅び行く人に福音を述べ伝え、永遠の希望を持つ者となるのか。イエス様にある人生は、イエス様が私たちの内に働いてくださる。たとい死んでも永遠のいのち、そういう人生が既に始まっているのです。
②シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ…彼ら四人は、イエス様から招きのお声を掛けられると、何もかも捨てて、直ちに従いました。なぜ、彼ら四人は、そういった思い切った決断ができたのでしょう。色々考えられますが、彼らは、神に選ばれていたことは間違いないでしょう。この世は、善と悪、聖なる神と悪魔が対峙している世界であり、最終的には、天国か地獄です。私たちは、自分が関わるそれが何から来ているのかしっかりと見分けて、主から来ているものなら素直に従順に従っていきましょう。
③カペナウムの会堂で…イエス様は、会堂内で叫んでいる人の汚れた霊を、権威を持って追い出されました。キリスト者は、イエス様抜きでキリスト者として生きることはできません(第一ヨハネ15:5)。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけましょう(エペソ6:11)。みことばと祈りに励んでまいりましょう。

●3月23日礼拝メッセージ要旨(マルコ1:1~11)

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」で始まるマルコの福音書です。歴史上、神のひとり子がこの地上を歩まれるということは、大変なビッグニュースであり、これ以上の大きな出来事はないはずです。しかし、せっかく、神のひとり子がこの世に来ても、その方に出会う人々の心が整えられていないならば、神の御子として受け入れることができないでしょう。バプテスマのヨハネは、そのために登場し、人々に悔い改めのバプテスマを授けていました。今日、私たちも、信仰と霊性が整えられていないと、神の訪れを見逃してしまうこともあるでしょう。
最近、某団体のフェイスブックに当教会の移転用地の記事がありました。当教会のこれまで受けてきた各種のサポートと会堂建設無償提供プランについて、「誰かが計画したわけでもなく、人手によってバトンを渡したわけでもありませんでした。ただただ、神様の深い計画のゆえに、神様によってバトンが各団体に渡されました。」とありました。また、土地についての説明もあり、「面積は248坪で、山付き、その山は勝手に祈りの山と呼んでいます。」とありました。そういった信仰の目で物事を見ることができることは幸いです。しかも、山を見て「祈りの山」と表現していたので、その積極的な信仰姿勢に感心しました。マタイ24:35にあるように、この世界がいつまでも続くわけではありません。私たちは天に国籍を持つ天国人として、この地上に一時的に滞在しているに過ぎないのですから、いつも、天国の視点で物事を見ていきましょう。
イエス様がヨハネからバプテスマを受けられたとき、聖霊が鳩のようにくだりました。その同じ聖霊が、今日、イエス様を信じる私たち一人一人の心の中に住んでくださっています。聖霊様のご性質は、謙遜と柔和でもあります。また、イエス様の生涯がそうであったように、真実に生きることです。時には空気を読むことも必要ですが、たとい自分一人だけでも、正しいことは正しいと主張できる者でありたいと思います。全宇宙を支配しておられる主。そのひとり子イエス様が私たちと共にいてくださいます。イエス様の御名によって与えられる聖霊様の中に安らいながら、日々、励んでまいりましょう。

●3月9日礼拝メッセージ要旨(マタイ28:1~20)

マタイの福音書最後のイエス様復活の記事からポイントを三つあげて学びましょう。
①よみがえられたからです…今日、エルサレムでは、キリストの墓と言われているところがあり、キリストの墓は確かに存在しましたが、その遺体はありません。なぜなら復活したからです。イエス様は、眠った者の初穂として復活しました。それは、もはや決して死ぬことのない永遠の天上の形を持ったのです。イエス様を信じる私たちも、やがて、イエス様と同じように復活の体に変えられます。ですから、私たちは、天に国籍を持つ者として、堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みましょう。
②愚かな人々…トマスは、キリスト復活後の8日目に復活の主に出会い、主を信じました。そのときイエス様は「見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。最も幸いな人は、イエス様を見ないでも信じる人です。イエス様に出会ってから信じる人も次に幸いな人と言えます。ところが、イエス様や神の色々な顕現を見ても信じない人がいました。墓の番をしていたローマ兵、祭司長、民の長老たちです。紀元前1500年頃、出エジプト後、荒野で死んだイスラエルの民たちも数多くの神の顕現を体験しながら、不信仰のゆえにカナンの地に入ることはできませんでした。ですから、私たちは、信じない愚かな者にならないで、見ずに信じる幸いな者となりましょう。
③宣教命令…キリストの十字架と復活の事実は、聖書の中心記事であることは確かですが、しかし、単にそこに留まっていてはなりません。十字架と復活が何のためのものであるかをしっかりと認識していることが必要です。それは、主を信じる私たち自身の救いの完成のためであり、また、私たちの隣人の救いのためです。今年、当教会は三つの目標を掲げました。第一に、会堂建設です。第二は、外への宣教。第三は内側の強化です。もちろん、これらの目標は、イエス様抜きには何もできません。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(20節)」と言われたイエス様とともに、主に拠り頼みつつ一歩一歩進んでまいりましょう。

●2月23日礼拝メッセージ要旨(マタイ27:45~66)

イエス様が十字架につけられ、いよいよ息を引き取られる場面の記事からポイントを四つあげて学びましょう。
①エリエリレマサバクタニ…イエス様は、息を引き取られる直前に「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。なぜ神のひとり子がそのように叫んだのか。昔から神学的な議論がされているようです。一つは、詩篇22:1のみことばの成就であるという見方ができます。もう一つは、イエス様が、多くの人々の罪をその身に負われたゆえに、神に見捨てられた者になられたということです。また、それは、イエス様を信じる私たちが、罪を離れ、義のために生きるためでした。
②様々なしるし…イエス様が十字架上で息を引き取られるとき、様々なしるしが伴いました。12時から3時まで全地が暗くなりました。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。地が揺れ動き、墓が開いて聖徒たちのからだが生き返りました。それらのしるしは、イエス様が、確かに神のひとり子であるということを裏付けるものとなりました。私たち一人一人の生涯においても、神が生きていて自分に働いてくださったという特別な経験があるのではないでしょうか。主に従って歩んでいくとき、主は、生きて働いてくださり、そこに様々なしるしも現れるものです。
③アリマタヤのヨセフ…イエス様がエルサレム入城されるとき、ロバの子が用意されていました。ベタニヤのシモンの家におられたときには、一人の女性が、埋葬の用意にと、高価な香油をイエス様に注ぎました。また、最後の晩餐のための座敷の用意もありました。そして、十字架の死後、イエス様のからだを葬る場所を、サンヘドリンの議員でもあるアリマタヤのヨセフが備えていたのです。神の国とその義とを第一にするなら、主は、その人の必要を備えてくださるのです。
④墓の番…イエス様のからだを盗んで復活したと言って民衆を惑わすかもしれないという恐れを食い止めるため、当時の世界で最強のローマ軍の兵士に墓の番をさせました。しかし、結果的に、イエス様は復活して墓を打破り、そんなことは全くの無駄な努力でした。すべてのことは神から発し、神によって成り、神に至るのです(ローマ11:36)。確かに、見える世界の影響は小さくなく、無視できません。しかし、すべてのことの背後にあって、すべてを統べ治めておられるのはイエス・キリストの父なる神様なのです。この方に信頼してまいりましょう。

●2月19日祈祷会メッセージ要旨(箴言3章)

この章の全体をまとめてみましょう。
1~10節では、「わが子よ。わたしの教えを忘れるな。恵みとまことを捨ててはならない。収穫の初物で主を崇めよ。」
11~12では、「主の懲らしめをないがしろにするな。」13~20節では、「幸いなことよ。知恵を見い出す人、知恵は真珠よりも尊く、その道は楽しい道、平安。知恵はいのちの木。」
21~35節では、「わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな。にわかに起こる恐怖におびえるな。主が守ってくださる。善を行なう力があるとき、求める者にそれを拒むな。理由もなく人と争うな。暴虐な者をうらやむな。あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みをさずける。」 
特に3節で、「恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書き記せ。」とあります。「恵み」とは、神の愛、祝福に相当する部分でしょう。「まこと」とは、神の義、神の真実に相当する部分と言えるでしょう。実に、イエス様は、その恵みとまことに満ちておられる方(ヨハネ1:14)として、この地上を歩まれました。
3.11大震災後、丸三年を経過しようとしています。現在お借りしている建物に永続的に留まることはできません。新しい移転先をこの三年間探し続けてきました。一度、ある物件を購入しようと申し込んだことがありますが、売主側で断ってきました。また、昨年の今頃は国の主催する土地建物の競売に参加しましたが、全く手が届きませんでした。そして、この度、色々な条件を満たす素敵な場所が与えられました。恵みとまことに満ちておられるイエス様に信頼しつつここまで来ることができました。ここから、先もそうです。自分の悟りに頼るのではなく、主に信頼し、祈りつつ、主のみ声を聞きながら、一歩一歩進んでまいりましょう。

●2月9日礼拝メッセージ要旨(マタイ27章27~44節)

27節から44節まで、記事の内容に合わせて、ポイントを四つあげて学びましょう。
①ユダヤ人の王さま…たった一人の囚人に対して全部隊の兵士を集めたのですから、やはり、尋常でない警戒をしていたようです。緋色の上着といばらの冠と葦の棒は、王のマントと王冠と杖に見立てたのでしょう。ローマ兵たちは「ユダヤ人の王さまバンザイ」といって、嘲笑しましたが、イエス様はユダヤ人の王だけではなく王の王、主の主、全人類の王であることを彼らは知らなかったのです。1953年アメリカで制作された「聖衣」という映画(フィクション)は、キリストの十字架刑に関わった一人のローマ兵を主人公にしています。彼は後にクリスチャンになり殉教の道を進みます。
②クレネ人シモン…イエス様の代わりに無理矢理十字架を背負わされたシモンは、もしかしたら、そのまま自分も十字架につけられるかもしれないという恐怖を覚えたことでしょうが、イエス様が背負った十字架を代わりに背負ったということで、彼にとっては名誉なことだと、あとで思ったかもしれません。イエス様に香油を注いだマリヤのように、クレネ人シモンも世界中の教会で語り継がれています。マタイ16:24には「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とあります。私たちそれぞれに与えられた神からの使命を背負って、イエス様に従ってまいりましょう。
③苦味を混ぜたぶどう酒と十字架…苦味を混ぜたぶどう酒は、痛みをマヒさせるためであったようですが、イエス様が、それを拒否されたのは、あえて、痛みを全て受け止めたということでしょう。イエス様は今日、大祭司として、私たちの弱さや痛みに同情できない方ではありません。ですから、私たちは、おりにかなった助けを受けるために大胆に恵みの御座に近づきましょう。
④ののしり…ローマ兵、大祭司、長老たち、そして、共に十字架につけられている強盗たちからもののしられたキリストは、第一ペテロ2:22~24で、「罪も偽りもなく、ののしられてもののしり返さなかった」とあります。それは、キリストを信じる私たちが罪を離れ、義のために生きるためでした。

●2月2日礼拝メッセージ要旨(マタイ27章1~26節)

 いよいよ、イエス様が十字架にかけられる場面が出てくる章に入りました。1節から26節まで、ポイントを三つ上げて学びましょう。
 ①イスカリオテ・ユダの結末…ユダはなぜ自害までしたのでしょう。「イエスが罪に定められたのを知って後悔し」とありますが、イエス様がまさか罪に定められることはないだろうと思っていたのでしょうか。彼は元々、イエス様の12弟子の一人として、大きな祝福の輪の中に入っていました。しかし、それが、最も対極にある勢力と手を結び、結局、祝福とは反対の道に向かって行きました。マタイ18:20には「ふたりでも三人でも、わたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのです。」とあります。今日、私たちはイエス様の近くに居続けるということが大事なことです。教会の礼拝、諸集会になるべく多く参席することが祝福のカギでもあります。
 ②バラバだ…ローマ総督ピラトは、イエス様に罪は無く、祭司長たちの妬みによって訴えられていることを分かっていました。また、彼の妻も悪い夢を見て、夫のピラトにイエス様に関わらないようにと進言しています。しかし、群衆の暴動を避けるために、ピラトの思惑を外れ、イエス様を十字架につけるように判決を下すことになりました。結果的には祭司長たちの願い通りになったのですが、全てのことの背後にある全知全能の主のご摂理の通りになっていったのです。日々の生活の中で、私たちは最善の努力はしなければなりません。しかし、その結果は神に委ねることです。
 ③責任…「十字架につけろ」と叫ぶ群衆に対して、ピラトは手を洗って、「この人の血について、私には責任がない。」と言いました。もし、ピラトが責任を免れようとするなら、暴動覚悟で、イエス様に無罪を宣告しなければなりません。実際、現在、世界中の教会の使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け~」と、唱えられ続けています。それはともかく、私たち個人個人においても、自分の魂に責任があり、さらに、私たちが関わる回りの人々の魂に対して責任がないとは言えません。心を尽くして主を愛し、隣人を自分自身のように愛することができますように。

●1月29日祈祷会メッセージ要旨(箴言1章)

1節には、「ダビデの子ソロモンの箴言」とあります。30章、31章の冒頭にはソロモン以外の人物が書いたことが記されていますが、少なくともソロモンが箴言の編纂に深く関わったことは間違いないでしょう。25章1節には、ヒゼキヤ王の人々が書き写した、とありますが、ヒゼキヤ王は、王位就任当時、宗教改革に近いことをしているので、古くなった箴言を多くの人が読めるように整えたのでしょう。
さて、1章です。1~7節は、箴言全体の序章と言えます。この箴言が書かれた目的、それは、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためでした。
7~19節では、主を恐れることは知識の始めであり、父母に従い、罪人らと行動を共にするな、と言っています。
20~33節では、わきまえのない者たちに、いつまでわきまえのないことを好むのか、と叱責しています。そして、最後に、わたしに聞き従う者は安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかであると結んでいます。
もう一度、振り返ってみますと、7節では、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」とあります。ここで、愚か者とは、知能指数が低いという意味ではなく、主を知ろうとしない人のことです。伝道者の書4:13には「貧しくても知恵のある若者は、もう忠言を受けつけない年とった愚かな王にまさる。」とあります。人の忠言に対して頑な人は、結局、聖書のみことばに対しても同じようにするでしょう。ローマ12:2には「…神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。愛ある人の忠言、あるいは聖書のみことばに対して、いかに従順であるか、それが、後の日になって多くの実を結ぶか否かのカギとなるでしょう。