●8月3日礼拝メッセージ要旨(マルコ6:14~29)

ヘロデ王がバプテスマのヨハネを殺害した記事からの学びです。
ヘロデはユダヤの王。地位、権力、財産に恵まれていました。一方、ヨハネはイナゴと野蜜を食べて暮らし、らくだの毛衣を着ていました。権力も財産もありません。しかし、ヨハネは天の神から遣わされた神の人であることを誰もが認めていました。今日、誰もがヘロデよりもヨハネを尊敬するでしょう。ヘロデは世の権力者でしたが、邪悪な人物であり、一時的で滅びに向かっている人でした。何も持たないヨハネは、天に名が記され、永遠の家が用意されていることでしょう。
私たちの信仰生活の究極目標は、正に、イエス様が備えてくださる天の家(ヨハネ14:2)に入ることです。また、私たちだけがそこに入ればよいのではなく、一人でも多くの人々がそこに入らなければなりません。そのために教会があり、教会の建物があります。現在、当教会では建物の建設を目指しております。先日、当教会を訪問されたご夫妻が、お帰りになってから、手紙をくださいました。その中に、会堂建設について、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」というイザヤ9:7のみことばが記されていました。詩篇37:5には「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」とあります。イエス様ご自身が、キリストのからだなる教会を建て上げ、会堂も建設してくださることを覚えながら、引き続きお祈りしていきましょう。
私たちが信じている神は、真実で憐れみ深く、私たちの願いを聞いてくださる方です。いつでも、どんなときでも、主を呼び求めてまいりましょう。

●7月27日礼拝メッセージ要旨(マルコ6:1~13)

 イエス様が郷里のナザレに行かれたときのこと、そして、12弟子に権威を与えて、二人ずつ遣わされた記事から、ポイントを四つあげて学びましょう。
 ①郷里伝道と不信仰…天地の創造主が存在することは科学的に証明されてはいません。また、存在しないということも証明されているわけではありません。どちらを信じることも、共に信仰であると言えます。でも、明確に言えるのは、創造主の存在を信じて永遠のいのちの希望と目的を持って生きることのほうが、無神論を“信仰”して無目的に生きることよりもはるかに幸いです。さて、ナザレでは、イエス様に皆がつまずいて不信仰になり、そこではイエス様が力あるわざを行なうことができませんでした。信仰を持っているはずのクリスチャンも、時々、世の知恵と自分の肉の力を頼り、全能の神の働きを遮ってしまうことがあります。私たちは、心を尽くして主に拠り頼み、神の力の現われを大いに期待しましょう。
 ②権威が与えられる…当時の12弟子がイエス様から権威を授かったように、今日、クリスチャンもイエス様からの権威を受け、天の御国の大使として、キリストの使節として世に遣わされている筈なのです。ですから私たちは、みことばと祈りによって、聖霊充満されて、永遠の祝福を回りの人々に届けようではありませんか。
 ③何も持たずに行く…8節では、杖以外何も持つな、と言っていますが、マタイとルカでは、杖も持つな、と言っています。これは、どちらが正しいとか、杖の問題ではなく、必要最低限でオッケー、あれこれ先のことは心配無用ということです。特に、今、私たちは会堂建設をしようとしています。先々のことを心配していては何も出来ません。不信仰にならず、主を信頼して前進しましょう。
 ④足の裏のちりを払う?…使徒の働きの記事によりますと、パウロは、まずユダヤ人に福音を伝え、彼らに拒まれると、向きを変えて、異邦人伝道に向かうのでした。余計な争いは極力避けて、平和のうちに福音の種まきをしています。私たちの戦いは血肉によるものではなく、霊的な戦いです。

●7月13日礼拝メッセージ要旨(マルコ5:21~43)

  会堂管理者ヤイロの娘が生き返った記事と長血を患った女がいやされた記事から、ポイントを三つあげて学びましょう。
  ①生み出す信仰…ヤイロは、イエス様に来ていただき、娘の上に手を置いてもらえるなら、きっと直るという信仰を持っていました。一方、長血を患った女はイエス様の着物にでも触ればきっと直ると信じていました。彼女は、12年間医者にかかったものの、持ち物を失い、かえって悪くなったのですが、当時の習慣から(レビ記15:25~26)、彼女は、人前に堂々と出るわけにはいかず、群衆に紛れて、そっとイエス様に近づいたのです。イエス様の着物に触った女の病は立ちどころに直りました。女はたぶん、こっそりとその場を去りたかったのでしょうが、イエス様は彼女をあえて人々の前に出して、証しさせます。それは、彼女の病がいやされ、きよめられたことを公にし、彼女が今後、人前で堂々と生きていけるために、そうしたのでしょう。ヤイロの場合もそうですが、この女も「イエス様がなんとかしてくれる」という信仰から始まっているのです。問題はチャンスの時でもあります。新たなものが生み出される機会でもあります。
  ②信じ続ける…最初にイエス様にお願いしたのはヤイロなのですが、長血を患う女性が道の途中で割り込んできて、ヤイロとしてはイライラしたかもしれません。そこに、家からの使いが来て「お嬢さんはなくなりました」と言うのですから尚更です。しかし、そこでイエス様は「「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われます。私たちも、信じ続けること、祈り続けることが大事です。主を待ち望む者は新しく力を受けるのです(イザヤ40:31)。
  ③信仰と不信仰…ヤイロの家に着くと、そこには人々が泣いたり取乱したりしています。イエス様が「子どもは死んだのではない。」と言われると、人々は嘲笑いました。そこでイエス様は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネと子どもの両親だけを伴って、娘のところへ行き、「タリタ・クミ」と言われて娘を生き返らせます。この世は、人間の最大の問題である「死」に対して、何の解決の術を持ってないにもかかわらず、イエス様の救いを嘲笑うのです。しかし、私たちは信じましょう。自分自身の救いはもちろん、日本の霊的復興も信じて祈っていきましょう。

●7月6日礼拝メッセージ要旨(マルコ5:1~20)

 イエス様一行が舟で向こう岸のゲラサ人の地へ行き、そこで悪霊につかれた人を解放した記事から、ポイントを三つあげて学びましょう。
 ①聖書が語る霊的世界…最近、福岡県の某高校の生徒が、由緒正しいと言われている神社に遠足に行って、「悪霊をテイクアウトした」というニュースがありました。別のメディアでは、「集団ヒステリーが起きた」としていました。遠足から帰った女生徒たちが集団で異常な状態となり男性の言葉を語るなどしていたということですが、聖書をまともに信じている人にとっては、何が原因かを説明するまでもないでしょう。申命記18:10~11、第一コリント10:19~20を見ますと、占い、まじない、呪術、霊媒、偶像礼拝などは結局、悪霊との関わりであり、聖書はそれらの行為を厳しく禁じています。しかし、もし関わってしまったのなら、イエス・キリストの御名によって、悔い改めて、悪霊との関係を断ち切ることが肝要です。
 ②なぜイエスに去るように願ったのか…ゲラサの人々はイエス様に去ってくれるようにと願いました。2000匹の豚を失うことよりも、一人の魂の解放を喜ぶような地域ではなかったのでしょう。10節には、悪霊どもが「この地方から追い出さないでください。」と懇願しています。つまり、この地は彼らが住みやすい、彼らに愛される地だったのです。本来なら、悪霊ではなく聖霊様に愛される地とならねばなりません。私たち個人としても、イエス様が去ることを願うのではなく、いつも共にいてくださることを願い求めてまいりましょう。
 ③イエスを証しする…解放された人は、イエス様のお供をしたいと願い出ましたが、イエス様は、家に帰って証しするようにと言われます。レギオンと呼ばれる無数の悪霊に支配されて狂っていた人が正気になりました。大きな奇跡です。しかし、今日、最大の証しはイエス様の十字架と復活による救いです。イエス様が私たちのためにどんなに大きなことをしてくださったか、わたしたちは、このことの証人として召されているのです。

●6月29日礼拝メッセージ要旨(マルコ4:35~41)

  4種類の地に落ちた4つの種の話、そして、からし種の話などの話を終えられたイエス様は、乗られていた舟をそのまま漕ぎ出して向こう岸に渡ろうと言われます。群衆はというと、弟子たちが去らせました。
  さて、舟は激しい突風で波をかぶって水でいっぱいです。弟子たちは恐怖で右往左往しているのに、イエス様は艫(とも)のほうで枕して眠っています。弟子たちの助けを求める声に答えてイエス様は波と湖をしかりつけると、湖は一瞬にして大凪(おおなぎ)となりました。そして、弟子たちに「信仰がないのはどうしたことです。」と言われると、弟子たちは「いったいこの方はどういう方なのだろう。」とつぶやきます。
  18世紀のイギリスの大伝道者であるジョン・ウェスレーは、アメリカ行きの船で大嵐にあい、非常な恐れを感じました。そのとき、船の中で、賛美と礼拝をしている一団(モラビア兄弟団)に会い、自分が持っていない確かな信仰を彼らから感じ取ります。その時以来、ウェスレーは、生きて働く本当の信仰へと引き上げられたのでした。
  (次の話の出自は不明)ある人が、二人の画家に「平安」というタイトルで絵を書くように願いました。先に描き上げた人の絵は、正に平安にふさわしい静けさを表す風景画でした。次にもうひとりの画家も絵を持ってきました。それは、なんと大嵐の絵です。しかし、よく見ると、そこに小鳥の親子が描かれ、小鳥は親鳥の翼の中で嵐を恐れることなく安らいでいるのです。絵を注文した人は後者の絵のほうを高く評価したとのことです。
  イエス様は「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)」と言われました。文字通り、私たちの人生は順風満帆ではありません。しかし、イエス様がご一緒なら大丈夫です。「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われたイエス様に従い、様々な困難があろうとも、神の国建設のために仕えてまいりましょう。

●6月22日礼拝メッセージ要旨(マルコ4:21~34)

 イエス様が、岸辺で舟の上から、陸地にいるおびただしい群衆に向かって、四つの種の例え話に続いて、お話をされます。四つの内容からポイントを四つあげて学びましょう。
 ①燭台の上のあかり…あかりは目立たない所に置くものではなく、全体を照らす所に置きます。ここで、あかりというのは、聖書のことばであり、真理のことでもあり、また、福音、あるいは証しのことでもあり、さらにはイエス様のことでもあると言えるでしょう。最近の賛美の歌に「この光輝かそう。この光輝かそう。この光輝かそう。光れ。光れ。光れ。」とあります。福音の光は、人々の前に出して、なるべく輝かすようにしましょう。
 ②祝福の法則…ガリラヤ湖から死海までは南北にほぼ直線で100km、そこをヨルダン川によって結ばれています。ガリラヤ湖は北のヘルモン山から流れる水を受けて死海に向けて水を供給し、一方、死海はヨルダン川から流れてくる水を受けるだけ。そのため、死海は文字通り死んだ海で、生物が生きられません。パウロは、ミレトの長老会で「受けるよりも与えるほうが幸いである(使徒20:35)」とイエス様のみことばを引用しました。私たちは、誰かの役に立つために生きているのです。人に仕えたり、与えることによって、却って豊かにされるのです。
 ③人手によらず…神の国の進展と植物の成長とは重なる部分があります。エリコの城の攻略を神に委ねられたヨシュアは、神のことばに従い、エリコの城の回りを六日間にわたって一回ずつ、七日目は七回回り、時の声をあげると城壁が崩れました。城壁が崩れたのは神の業です。一人の魂が救いに導かれるとき、それも神の業です。しかし、神の業が表れるため、私たちは自らの手で、すべきことはしなければなりません。
 ④神の国はからし種のようなもの…イエス様ご在世当時もそうでしたが、今日も、同じように、救いの福音は、この世の中では、ほとんど無視され、一見、頼りないように見られますが、からし種が、どの野菜よりも大きく、鳥が巣を作るほどになるように、福音以外に頼りになるものは世にありません。私たちは自力で生きているのではなく、創造主である神の奇跡的な力によって生かされています。その方が与えてくださっているイエス様による唯一の救いの福音に全面的に信頼してまいりましょう。

●6月15日礼拝メッセージ要旨(マルコ4:1~20)

 四つの種の例え話は、マタイ13章にも出てきて、多くのクリスチャンにとっては何度か聞いたことがある話でしょう。でもそれは、私たちにとって必要だから繰り返されているのでしょう。第一に、道端に落ちた種は、鳥に食べられてしまいましたが、これは、みことばをサタンに奪い取られた人のことです。第二は、岩地に落ちた種です。最初は喜んでいても、根がないため、困難や迫害があると躓いてしまう人です。第三のいばらに落ちた種とは、世の心づかい、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで実を結ばない人のことです。第四の良い地に蒔かれた種とは、みことばを聞いて受け入れ、豊かに実を結ぶ人のことです。
さて、イエス様がなぜ、この例え話をされたのでしょう。このとき、イエス様は、おびただしい群衆を前にしてこの話をされています。イエス様は、そのおびただしい群衆が一時的な現象であることをよく知っていました。実際に、イエス様が十字架にかけられるために捕らえられたとき、いつも側にいた弟子たちでさえもついてこなかったのです。しかし、キリスト昇天後のペンテコステのとき、ペテロの説教で3千人が弟子とされました。そののち、美しの門にいた足の効かない人がいやされたあと、信じた人は5千人になりました。迫害下の当時の状況から見て、この人たちは、ちょうど、良い地に落ちた種のようです。

さてそこで、今日の私たちがどうあるべきでしょうか。ヨハネ15:16には「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」とあります。私たちは実を結ぶために選ばれました。実を結ぶ、それは、私たちが主の御名によって祈り求めること(実際的な日常生活の中では切に祈り求めることが必要)、そして、その祈りが答えられることです。それらを通して主の栄光が現われ、御名が崇められます。

●5月25日礼拝メッセージ要旨(マルコ3:7~19)

 7節から12節では、イエス様が湖のほとりにおられたとき、近くから遠くから多くの人々が病のいやしを求めて集まったという記事。13~19節では、イエス様が12弟子を任命した記事です。その二つの記事からポイントを三つ上げて学びましょう。
 ①宣教…病の癒しや汚れた霊が追い出されることは、宣教の一つの現象でもありますが、すべてではありません。使徒26:18でパウロは、福音宣教について「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」と言っています。福音宣教には様々な要素が含まれています。それは、福音宣教により、人々が真理を知り、霊の目が開かれ、悪の霊から真の神の支配に移され、イエス・キリストの十字架と復活に対する信仰のゆえに、罪の赦しと永遠のいのちが与えられることです。
 ②任命…イエス様が山に登って12弟子を任命されました。それは、ご自身の十字架と復活後、昇天されたあとの準備を既に考えておられたのでしょう。実際に、12使徒を中心に福音宣教が展開されていきます。私たちの教会としても、将来のことを準備していなければなりません。また、個人としても、自分だけで終わるのではなく、自分を通して誰かの救いの実が結ばれることを期待しましょう。ルカ10:6には「もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。」とあります。イエス様の福音を受け入れる人を探し出すことは、イエス様の12弟子任命と重なります。
 ③派遣…ローマ10:15には「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」とあります。今日、教会の働きのために遣わされるには、聖書の知識、総合的な知恵や知識、経験、信仰などが実際的に必要となってきます。但し、誰でもクリスチャンは教会から、それぞれの家庭や職場、学校などに遣わされているのです。日々の生活の中で主に用いられるため、あるいは将来のためにも、「どうぞ私を遣わしてください。私を用いてください。」と祈り、備えていましょう。

●5月4日礼拝メッセージ要旨(マルコ2:23~3:6)

「安息日の主」という題で、三つのポイントで学びましょう。
①安息日の起源…創造主である聖なる神は、6日で天地万物を創造され、7日目を休まれました。第一日目が地球と光。第二日目が空気(大気圏)。第三日目が陸地と植物。第四日目が太陽と月と星。第五日目が魚と鳥。第六日目が虫、動物、人です。特に、人を形造ったときは特別な存在として、神に似せて造られました。そして、第7日目を祝福し、この日を聖であるとされました。出エジプト20:8の十戒にも、安息日を覚えて聖なる日とせよ、とあります。イザヤ58:13~14には、主の聖日を喜びの日、栄えある日とするなら高い所を踏み行かせるという約束があります。
②安息日と枝葉末節…ある読み物に「ユダヤ人が安息日を守ったのではなく、安息日がユダヤ人を守った。」と書いてありました。今日の多くのユダヤ人の安息日の過ごし方は特別です。それは、ユダヤ人自らそうしたというよりも、神の選民として選ばれたユダヤ人に対して、神がそのように仕向けたとも言えるでしょう。出エジプト31:15では、「安息日に仕事をする者は必ず殺されなければならない。」とあり、実際に民数記15:32~36では、安息日にたきぎを集めている人が石で打ち殺されています。そういった背景の中でタルムードと言われる律法以外の教えが歴代のラビたちによって作られ、それを根拠にして、パリサイ人らはイエス様に安息日についての質問をしていますが、彼らは、元々、安息日のことよりもイエス様を困らせようとしたのです。本来、私たちの行動基準は、悪いことばを出さず、必要なとき、その人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えることです(エペソ4:29)。
③安息日の主…今日、キリスト教会では日曜日を安息日として位置づけています。その根拠として考えられることは、イエス様が日曜日に復活し、その日の夕方に弟子たちの前に現われ、さらにその八日後の日曜日にも現れて弟子たちの礼拝を受けられています。また、使徒20:7及び第一コリント16:2では、日曜日(第一の日)に礼拝が行われていたようなのです。イエス様は安息日にも主であるとはどういうことでしょう。それはすべてにおいて主であるということです。キリスト者はこの主であるイエス様のものであり、イエス様に所属しています。私たち人間の生き方の原点と究極は、この主を呼び求め(ローマ10:13)、主のみこころに従って、日々を過ごすことではないでしょうか。

●4月27日礼拝メッセージ要旨(マルコ2:13~22)

湖のほとりの収税所に座っていたアルパヨの子レビは、イエス様に「わたしについてきなさい。」と言われると、ただちに従いました。それからレビは、イエス様一行を自分の家に迎え、取税人や罪人らを交えて食事のもてなしをしました。それを見ていたパリサイ人が、イエス様に対して「なぜ取税人や罪人と一緒に食事をするのか。」と問いかけます。その箇所からポイントを三つ上げて学びましょう。
①分離…この箇所では分離ということが否定的に扱われているように見えますが、例えば生活の中において、汚れた物ときれいな物は別々にするように、分離ということについて大切な一面があります。第二コリント6:16には「神の宮と偶像とに何の一致があるでしょう。」とあります。イエス様を信じる者は偶像に関わるべきではありません。また、クリスチャンは聖霊の宮(第一コリント6:19)です。タバコやアルコールなどを避けて、体をきよく保ちましょう。自分自身に関してはこの世の汚れから分離して、きよめられることを求めましょう(ヘブル12:14)。
②罪人を招くために来た…イエス様以上にきよい方はいません。そのイエス様がなぜ取税人や罪人と共に食卓に着かれたのでしょう。元々、イエス様は罪人を招くためにこの世に来られました。イエス様を信じ、きよめられたはずのクリスチャンは、世の汚れから分離しつつも、この世に遣わされているのですから、この世と関わり、積極的に福音を証ししていきましょう。主は、一人として滅びることを望んでおらず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます(第二ペテロ3:9)。
③新しい皮袋…ここでイエス様は「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる」と言っておられますが、イエス様がこの世に来られ、正に、旧約時代から新約時代に入りました。今日、世界中に、イエス・キリストを信じる信仰が広められています。救いに与ったクリスチャンは、聖霊様を宿す新しい皮袋として、健康管理も大切ですが、何より、みことばと祈りによって、整えられていることが求められています。