●7月27日礼拝メッセージ要旨(マルコ6:1~13)

 イエス様が郷里のナザレに行かれたときのこと、そして、12弟子に権威を与えて、二人ずつ遣わされた記事から、ポイントを四つあげて学びましょう。
 ①郷里伝道と不信仰…天地の創造主が存在することは科学的に証明されてはいません。また、存在しないということも証明されているわけではありません。どちらを信じることも、共に信仰であると言えます。でも、明確に言えるのは、創造主の存在を信じて永遠のいのちの希望と目的を持って生きることのほうが、無神論を“信仰”して無目的に生きることよりもはるかに幸いです。さて、ナザレでは、イエス様に皆がつまずいて不信仰になり、そこではイエス様が力あるわざを行なうことができませんでした。信仰を持っているはずのクリスチャンも、時々、世の知恵と自分の肉の力を頼り、全能の神の働きを遮ってしまうことがあります。私たちは、心を尽くして主に拠り頼み、神の力の現われを大いに期待しましょう。
 ②権威が与えられる…当時の12弟子がイエス様から権威を授かったように、今日、クリスチャンもイエス様からの権威を受け、天の御国の大使として、キリストの使節として世に遣わされている筈なのです。ですから私たちは、みことばと祈りによって、聖霊充満されて、永遠の祝福を回りの人々に届けようではありませんか。
 ③何も持たずに行く…8節では、杖以外何も持つな、と言っていますが、マタイとルカでは、杖も持つな、と言っています。これは、どちらが正しいとか、杖の問題ではなく、必要最低限でオッケー、あれこれ先のことは心配無用ということです。特に、今、私たちは会堂建設をしようとしています。先々のことを心配していては何も出来ません。不信仰にならず、主を信頼して前進しましょう。
 ④足の裏のちりを払う?…使徒の働きの記事によりますと、パウロは、まずユダヤ人に福音を伝え、彼らに拒まれると、向きを変えて、異邦人伝道に向かうのでした。余計な争いは極力避けて、平和のうちに福音の種まきをしています。私たちの戦いは血肉によるものではなく、霊的な戦いです。

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