●10月12日礼拝メッセージ要旨(マルコ9:14~29)

  イエス様とペテロとヤコブとヨハネが、高い山から下りてくると、他の弟子と律法学者が議論をしていて、それを取り囲むように群集がその様子を見ています。そこにイエス様が来られたということで、口をきけなくする霊にとりつかれた息子の父親が、霊を追い出してくれるようにと願います。ここから、ポイントを3つあげて学びましょう。
   ①ああ、不信仰な世だ…そこにいたのは、弟子たち、律法学者、群集ですが、イエス様は誰に対して「不信仰だ」と言われたのでしょう。おそらく全員に対してでしょう。今日、「信仰」と言っても、人それぞれ、その段階があります。偶像礼拝者、一神教でもイスラム教やユダヤ教もあります。キリスト教系の怪しいグループもあります。正統なキリスト教でも、熱心な人とそうでない人もいるでしょう。但し、熱心で立派なクリスチャンであっても、何か大きな問題を抱えている人から、その解決をお願いされたとして、すぐに、その解決を提供できるかというと、そう簡単には行かないという現実もあるでしょう。しかし、それでも、私たちは、大胆に主の御名によって祈りを通して、その人に祝福が受け継がれることを期待してまいりましょう。
   ②どんなことでもできる…その息子の父親は「もし、おできになるなら」と言い、イエス様からお叱りを受けました。ヤコブ1:6には、「少しも疑わず、信じて願いなさい。」とあります人間が彫刻した偶像の神々や怪しい宗教は疑ったほうが良いのですが、聖なるイエス・キリストの神は、信じて、期待して、信仰の目を大きく上げて、願い求めましょう。
   そのためにも第三のポイントは③祈りによらなければ…です。弟子たちが、イエス様に、「なぜ自分たちは、その男の子から霊を追い出せなかったのでしょう。」と質問すると、主は、「祈り(と断食)によらなければ」と答えられます。今日のキリスト教界においても、奇跡やしるしを行なう賜物を持った人が現われます。それは素晴らしいことですが、そういったしるしや奇跡ばかりを追い求めると、本来の信仰から脱線する危険性もありますから注意が必要です。現実的、実際的には、一つのことを願うとき、「祈り続ける」ということが大切です。私たちは、イエス様の栄光のため、また、滅びに向かっている方々の救いのために、自分自身が世から聖別されて、信じて祈り続けてまいりましょう。

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