●9月28日礼拝メッセージ要旨(マルコ8:22~38)

  イエス様は、ベツサイダで盲人を見えるようにされ、そのあと、ピリポ・カイザリヤへ向かいます。その途中で、弟子たちに向かって、ご自分が誰であるのかという質問をされます。また、ご自分が十字架で殺され、三日目に復活するということも話されます。ここから、ポイントを3つ上げて学びましょう。 
   ①見えるようになった盲人…イザヤ42:7には「こうして見えない目を開き~」とあり、盲人の目が見えるようになる、そういったみわざが起こることが、救い主(メシヤ)到来の一つのしるしとして預言されています。イエス・キリストは、いつまでも変わることなく、今日も、イエスの御名によって祈るとき、いやしのわざ、奇跡のわざが起こりえます。ここで、イエス様ならどんなことでも出来るのに、なぜ一度にではなく、二段階にて盲人の目を見えるようにされたのでしょう。色々と考えられますが、今日、私たちが祈り願うとき、段階的に、その祈りが聞かれる、そういうことを示唆(しさ)しているのかもしれません。
   ②あなたはキリストです…23節で、イエス様は盲人を村の外に連れ出しています。また、26節では、その人に、村々に入るなと言われます。それは、この第二のポイントに関連しています。すなわち、イエス様を誰だと言うのか。奇跡を行なう一時的な人気者として見るのか。当時、そういう人がほとんどだったのです。村の外に連れ出したのは、それを避けるためだったのでしょう。ペテロは「あなたはキリスト(メシヤ)です。」と言いました。今日、私たちも、イエス・キリストが誰であると位置づけるのか、それは非常に重要な問題です。新聖歌201番には「イェスは我が命、また喜び、全ての全てぞ我にとりて」という歌詞があります。
   ③自分の十字架を負う…31節でイエス様は、ご自分が十字架で殺され、三日目によみがえることを言われます。そのとき、ペテロはイエス様をいさめます。結局、ペテロは、「あなたはキリストです」と言ったものの、それは、この世的な、政治的なメシヤとしての位置づけでしかなかったのでしょう。そんなペテロを叱ったイエス様は「自分の十字架を負って、わたしについてきなさい。」と言われます。私たちそれぞれ、その人にしか出来ない使命があります。それは最終的に、イエス・キリストと福音のため(35節)の使命であるべきでしょう。

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