イエス様のところに、一人の財産家の青年が来て、永遠のいのちを自分のものにするには何をしたらよいのかと質問し、それにイエス様が答える場面。それを受けて、ペテロが口出しをしたのに対し、イエス様がお語りになります。ここからポイントを3つ上げて学びましょう。
①たっとい方は、神おひとり…青年はイエス様に対し「尊い先生。」と呼びます。するとイエス様は、「たっとい方は、神おひとり」と言われます。その青年は、行ないによって永遠のいのちを得ようと考えていたようですが、救いは行ないによるのではなく、神に出会うこと、神を信じることによって与えられます。エペソ2:8~9には「 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」とあります。もちろん、行ないなどはどうでもよいということではありません。まず、神に出会い、神を信じことが先決です。
②天に宝を積む…次にイエス様は、その青年に対して「殺してはならない。姦淫してはならない。父と母を敬え。などの戒めを守りなさい。」と言われると、青年は「そのようなことをみな、守っています。」と答えます。そこでイエス様は、「あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。」と言われると、青年は悲しみながら去って行きました。救いは行ないによるのではないのですが、神を信じて神に従う者の使命は、天に宝を積むことです。マタイ6:20には「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」とあります。神に対してささげ物をすることも天に宝を積むことですが、日常の行ないを通して神の栄光を現わすことによって天に宝を積むことにもなります。また、神のみこころにかなう祈りをささげることも天に宝を積むことです。
③イエス様と福音のために…ペテロは何もかも捨ててイエス様に従ってきた(マタイ4:19)ことを自慢げに語りました。するとイエス様は、それには直接応答せず、御自身と福音のために何かを捨てるならば、この世でその百倍の報いを受けると言われました。キリスト者にとって、永遠のいのちは最終的な報いですが、この世においても、主と福音とのために何かをするならば、主はそれに対して報いてくださいます。私たちは、それぞれに与えられた使命を果たしつつ、主と福音に仕えてまいりましょう。