●4月26日礼拝メッセージ(マルコ14:53~72)

  ゲッセマネの園で群集に捕えられたイエス様は、大祭司の邸宅の中庭に連れて来られました。そこで大祭司たちから審問を受けます。また、それと並行して、あとをついて中庭に入ってきたペテロについての記事もあります。「大祭司の中庭で」という題で、ポイントを3つあげて学びましょう。
   ①偽証…本来はサンヘドリンと呼ばれる議会において裁判が行なわれるのですが、夜の夜中、緊急に大祭司の中庭で事実上の裁判が行なわれました。しかし、それは公明正大な裁判ではなく、最初からイエス様を死刑に定めるための裁判だったのです。申命記19:15に基づき、二人、三人の証人による証言が一致しなければならないのですが、イエス様を罪に定めるための証言が一致しませんでした。十戒の第九戒には「偽りの証言をしてはならない。」とありますが、人を罪に定めようとして、自ら偽証という罪を犯しているという愚かさをここに見ます。結局、彼らの計画通りに事は進んで行きませんでした。箴言19:21には「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」とあります。
   ②わたしはそれです。…大祭司は、証言者の証言が一致しないので、やきもきしていたに違いありません。そこで、「あなたは、ほむべき方の子キリストですか。」と質問すると、イエス様は「わたしはそれです。~」と答えられました。それで、大祭司は自分の衣を引き裂き、「神を汚すことばを聞いた」と言い、イエス様を死刑に定めてしまいます。レビ記24:16には「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。~」とありますが、どう見ても、イエス様がここで御名を冒涜してはいません。罪なき神のひとり子が主の御名を冒涜するはずもありません。むしろ、キリストを死刑に定め、つばきをかけ、こぶしで殴り、平手で打った彼らこそ、冒涜の罪を犯しました。箴言12:16に「愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。」とあります。
   ③ペテロの否認…ペテロは14:31で「たといご一緒に死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません。」と言っています。その手前もあったのか、イエス様が連れて行かれる後を追って、大祭司の中庭まで入りました。しかし、見事に、鶏が二度鳴く前に三度もイエス様を知らないと言い、しかも三度目は、のろいをかけています。この後、ペテロは悔い改めて、エルサレム初代教会の指導者となっていますから救いがありました。マタイ10:32~33には「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」とあります。この時代にあって、私たちも決してイエス様を否認することなどありませんように。むしろ、唯一の救いである福音を恥とすることなく、大胆に証ししていきましょう。

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