●8月23日礼拝メッセージ要旨(ルカ4:14~30)  

  悪魔の試みを受けた後、御霊の力を帯びたイエス様は、ガリラヤのカペナウム、そして、故郷のナザレに行かれます。その時の記事からポイントを三つあげて学びましょう。
   ①カペナウムとナザレ…イエス様はカペナウムで恵みのわざを行ない、会堂で教えて、人々に崇められました。一方、ナザレでは、会堂でイザヤ書を開いて教え、一旦は喜ばれたものの、「この人はヨセフの子ではないか」という声から始まって、皆に不信の思いが広がり、最後は、がけから突き落とされそうになりました。カペナウムでは崇められ、ナザレでは殺されそうになるという極端な違いです。まるでイエス様の地上生涯の縮図を見ているようです。時に、私たちの人生においても、人にほめられたかと思っていると、そのあとで誰かから非難されるというようなことがあるものです。もちろん、間違ったことをして非難されるのは当然のことですが、正しいこと、真理に立っていても非難されたり迫害されたりすることがあるのです。しかし、私たちは、非難や迫害を恐れるのではなく、周りの人たちに配慮し、尊敬しつつ、いつでも真理に立ち続けることが大切です。
   ②いつものとおり…イエスさまが安息日に会堂に入るのは「いつものとおり」だったのです。当教会の歴史上2011年3月13日と3月20日の二回の聖日は礼拝に集まることはできませんでした。それは、東日本大震災の甚大な影響のためです。しかし、3月27日の礼拝には私の家族が借りたアパートで礼拝をささげることができました。このとき、集まることの喜びと励ましと恵みとを体験しました。伝道者の書12:1には「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また[何の喜びもない。]と言う年月が近づく前に。」とあります。若い時分から、創造主を礼拝するということが習慣化されている人はなんと幸いなことでしょう。ダニエル書のダニエルは、日に三度祈ることが習慣化していました。故に、神の栄光がダニエルを通して現われました。
   ③主の恵みの年…カペナウムでは、人々がイエス様を受け入れたので、恵みが注がれました。しかし、ナザレでは人々がイエス様につまずき、主の恵みの年が訪れることはありませんでした。今日、私たちの前にはイエス様の恵みの年が備えられているのです。それを受け取るか拒否するかは私たちにかかっています。私たちは、イエス様に心を開き、恵みをしっかりと受け取ろうではありませんか。そして、今度は、その恵みの福音を回りの一人一人に愛をもって届けようではありませんか。

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