●9月13日礼拝メッセージ要旨(ルカ5:1~11)  

 シモン・ペテロが何もかも捨てて献身する記事からポイントを三つあげて学びましょう。
  ①でも、おことばどおり…ペテロの舟を借りて、舟に腰を下ろして浜にいる群集に教えておられたイエス様は、話を終えられてから、ペテロに「深みにこぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われます。このときペテロは、「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり網をおろしてみましょう。」と答えます。「でも」とか「しかし」ということばは否定することばですが、このときの「でも」は、イエス様のことばに対して従う「でも」です。マルコ7:24~30で、スロ・フェニキヤの女は、自分の娘から悪霊を追い出してくれるように、イエス様に願いましたが、イエス様は、「子供たちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくない。」と言われると、女は「主よ。そのとおりです。でも子犬でもパンくずをいただきます。」と答え、彼女の願いがかなえられます。私たちは、生活の中で時々うまくいかないことがあるものです。「だめだ。」で終わらないで、「でも、主にあって大丈夫。」と、いつも信仰の目を向けていましょう。
   ②私は罪深い人間です…たくさんの魚が網に入り、とても一そうの舟では間に合わず、二そうの舟で魚を引き上げましたが、二そうとも舟が沈みそうになるほどの大漁でした。シモン・ペテロは、そのとき、イエス様がただのお方ではないということを悟り、イエス様の足もとに平伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言いました。9月10日は、東日本大震災を思い起こすような豪雨が関東や東北を襲いました。なぜ災害が起こるのでしょう。時々ある人たちは「神がいるなら、どうしてあんな災害が起こるのだ?」と言います。確かに、全知全能で創造主である唯一の神の許しの下にすべてのことが起こっているのですが、もし、神に文句を言うなら、それは、神を相対的な存在として考えているからです。聖書が、私たちに示している神は、絶対的な存在です。その方に文句を言うということは、ちょうど、陶器師に形作られた陶器が、「どうして私をこんな形にしたのですか。」と言うようなもの(ローマ9:20)です。私たちは、創造主である絶対的な神を恐れ、この方の前に自分は罪人であることを認め、この方の恵みとあわれみを慕い求めることです。 
   ③人間をとるようになる…ペテロは、イエス様に「あなたは人間をとるようになる。」と言われると、何もかも捨ててイエス様に従いました。正にペテロは献身をしました。献身と言う時、ペテロのように、伝道者とか牧師になることを言う場合が多いのですが、今日、色々な形での献身があります。人間をとる(救いに導く)ために直接的な働きも必要ですが、間接的な働きも尊いのです。ダニエル12:3には「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」とあります。

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