イエス様が、あるパリサイ人の家に食事に招かれました。そのとき一人の罪深い女がイエス様の足に香油を塗りました。その記事からポイントを三つあげて学びましょう。
①人それぞれの心の中…そのパリサイ人シモンにとって、その町で知られている罪深い女が家に入ってきたので心中、迷惑千万だったと思います。一方、罪深い女としては、自分のような人間を毛嫌いしているパリサイ人の家などには入りたくないけれども、そこにイエス様がおられて、自分の心の苦しみを一刻も早く解決してくれるなら、少々嫌われても構わない、そんな思いだったのでしょう。そして、食事をしているイエス様のところに、その女が近づき、イエス様の足に香油を塗りました。すると、シモンがその様子を見て、心の中で、そのままにさせているイエス様を非難します。人の思いと言うのは、本当に違うもので、良かれと思ってやっていることが、相手には受け入れられなかったり、逆に、相手のしていることを誤解したりということが多々あるものです。ですから相手に対する寛容な心が必要ですし、その時は、相手に理解されなくても、もっと良いことのためには少々誤解されても忍耐するということも必要です。人の思いや考えは違うもので、その前提に立った上で寛容に事を行なっていくということです。
②よけい愛した…当時は、サンダルのような履物で道を歩いたようなので、家に入るときは足を洗うという習慣があったようです。ですから客人を食事に招く主人としては、客人に足を洗う水を用意するのが礼儀というところなのですが、パリサイ人シモンはイエス様に、その水を用意しませんでした。あまり心の伴わない招待だったようです。そんなシモンをよそに女は涙でイエス様の足を濡らして髪の毛で拭い、香油を塗っていたのです。なんという違いでしょう。元々、神の目から見たら、誰が罪深いということはなく、皆同じようなものです。使徒パウロは、第一テモテ1:15で「私は罪人のかしらです」と言っています。確かに、パウロは、クリスチャンを迫害した時期もありましたが、自分は「罪人のかしら」であるという自覚が、パウロをより主に仕えさせた原動力になったのでしょう。
③安心していきなさい…罪の赦しを得て、「安心していきなさい」とイエス様に言われた女は、その後どうなったのか聖書には書いてありませんが、おそらく、彼女は悔い改めの実を結び、祝福の道を進んで行ったことでしょう。私は3.11大震災後、3回引っ越しました。結婚してからですと7回目の引っ越しです。行く先々で何があるか分かりませんが、主に信頼して従って行くだけです。第一ペテロ5:7には「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」とあります。神様の側で、私たちのことを心配していてくださるのです。大事なことは、主と共にいるかどうかということです。