「永遠のいのち」という題で、ポイントを3つあげて学びましょう。
①永遠のいのちを受けるには…伝道者の書3:11には「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」とありますが、潜在的に、人の心の中には永遠のいのちという概念が与えられているようです。ある役人がキリストに「私は何をしたら、永遠のいのちを受けることができるでしょう。」と質問しました。キリストは、あえてその人の考えに合わせて「戒めを守りなさい。姦淫するな。殺すな。盗むな。偽証を立てるな。父母を敬え。」と言いますと、役人は「そのようなことは小さい時から守っています。」と答えました。そこでキリストは、「あなたには欠けたとこりがある。持ち物を全部売り払って貧しい人々に分け与えなさい。」と言うと、役人は非常に悲しみました。たぶん、この役人は、自分のことを正しい人間で、永遠のいのちを受けるにふさわしい者であると思っていて、その確信を得ようとして質問したのでしょう。しかし、自分の義で誰も永遠のいのちを得ることはできません。正しく、完全な人など、この世に誰もいないのです。
②人にはできないことが神にはできる。…役人が悲しんで去って行くと、キリストは「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」と言われました。すると人々は「それでは、誰が救われるでしょう。」と言い、それに対してキリストは「人にはできないことが神にはできる。」と言われました。そもそも何でもおできになる神の領域に入り込もうとするのが間違いなのです。創世記11章でのバベルの塔の事件は人間が神の域に到達しようとしました。ユダ書6節にあるように、一部の御使いたちは神の領域を守ることをせず、暗やみの下に閉じ込められました。原子力利用についても、また、医学の分野において生命倫理に抵触するものも神の領域を侵している可能性があります。また、オバデヤ4に「あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろす。――主の御告げ。――」とあり、最近の宇宙開発についてはどうなのでしょう。人間が天に昇ろうとする前に、神はひとり子イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架による救いの道を備えられました。私たちは、その救いの道を信じ受け入れ、この道を進んでまいりましょう。
③神の国のために…ペテロは、少し自慢する感じで「ごらんください。私たちは、自分の家を捨てて従ってまいりました。」と言いますと、キリストは、「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあって、そのいく倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」と応えます。もちろん、家族は大切ですが、神の国建設のための優先順位として、家族が多少犠牲になることがあるものです。しかし、主はきちんと、それに応じた報いを用意しておられます。ですから、私たちの生活のリズムを神の国建設ということに焦点を合わせて、主に仕えてまいりましょう。