●2月12日礼拝メッセージ要旨(ルカ24:1~32)

   ルカ24:1~32から、「エマオの途上」という題で3つのポイントをあげて学びましょう。
   ①ここにはおられません。よみがえられたのです。…岩に横穴を掘った墓に、亜麻布に包まれたキリストの体が納められました。女たちは香油を持って、墓に着きました。彼女たちは、まさかキリストが復活するなんて少しも思っていません。しかし、墓に着くと、主の体はなく、主の使いが現われ、キリストは復活したと言うのです。キリスト教の中心、聖書の中心はキリストの十字架、キリストの死です。しかし、それは、キリストの復活が大前提になっています。キリストが復活したからこそ、キリストは神のひとり子であったと証明され、十字架が意味あるものとなりました。もし、キリストが復活しなかったのなら、第一コリント15:14にあるように、キリスト教の宣教も信仰も実質のないものになります。ところで、復活したイエス・キリストは、今どこにおられますか。天の父なる神の御座の右に着座しておられます。そして、イエス様の名を呼び求める教会とキリスト者一人一人の心の中に、聖霊によってご臨在してくださっています。
   ②心の鈍い人たち…墓から戻った女たちが、11弟子たちにキリストが復活したことを伝えると、彼らは全く信じようとしませんでした。そして、その後、そういった出来事を話題にしながら、二人の弟子がエルサレムからエマオに行く途上、キリストご自身が彼らと一緒に歩かれ、彼らの話に加わりました。その時、彼らの霊の目はふさがれていて、キリストだと分かりませんでした。しばらく話をしたあとキリストは「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」と言われました。今日、イエス・キリストを救い主と信じるか信じないかということは、大きな事ですが、それは聖霊の働きによるものであり、聖霊によるのでなければ、イエスを主と告白することはできません(第一コリント12:3)。既にイエスを主と告白したキリスト者は、人々のためにとりなしの祈りをささげましょう。また、自分自身の心が鈍くならないように聖霊に触れられる機会を絶やさないことです。
   ③心は内に燃えていた…二人の弟子は、キリストを家にお迎えしました。キリストが食卓に着かれ、パンを取って、祝福し、裂いて彼らに渡されたとき、彼らの目が開かれ、その方がキリストであることが分かりました。すると、キリストは見えなくなりました。二人は、キリストから聖書の話を聞いているとき、心は内に燃えていたということに気付きました。そうです。今日も、聖書のことばを聞くことによって心燃やされるのです。今の時代、キリストが預言した通り「不法がはびこり、多くの人たちの愛は冷たく(マタイ24:12)」なりました。しかし、この世がいくら冷たくなってもキリスト者は「霊に燃え主に仕えて(ローマ12:11)」まいりましょう。そのためにはイエスの名によって集まり、聖書を学び、そして祈りましょう。

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