●3月5日礼拝メッセージ要約(ヨハネ1:1~18)

   ヨハネ1:1~18から、ポイントを3つあげて学びましょう。
   ①はじめにことばがあった…この「ことば」はギリシャ語原語ではロゴスです。1800年代初頭、日本で最初に翻訳されたギュツラフ訳のヨハネの福音書では、「ことば」が「かしこきもの」と訳されたようです。この「ことば」は人となられたイエス・キリストですから、確かに賢いお方であったことは間違いありません。この「ことば」は初めから真の神とともにおられ、また、その神ご自身でありました。そして、真のいのちを持っておられ、そのいのちは人の光でした。つまり、私たちの心が、闇の中を歩むのではなく、そのいのちの光に照らされ、光の中を歩むことができるように、キリストはこの世に来てくださったのです。
   ②この方を受け入れた人々…この世界を創造された方、すなわち父なる神の傍らにおられて、共に創造のわざを実行された方(コロサイ1:16)が、この世に来られたというのに、この世の人々が、受け入れないとはいったいどうしたことでしょう。本来ならば、この方に感謝し、礼を尽くすことが、あるべき姿でしょう。しかし、この方を受け入れるならば、神の子どもとされる特権が与えられるのです。「この方を受け入れる」ということは、実際的には、イエス・キリストを心の中で信じ、口で「イエスを主」と告白する(ローマ10:9)ことです。神の子どもとされた者は、キリストが受けるべき超莫大な相続財産をキリストとともに共同相続するのです。しかし、この地上においては、そのような実感は無いかもしれません。だからこそ、神の子とされた特権を持つ者には「祈り」という最高の手段が与えられています。「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき主は聞いてくださる。」(詩篇4:3)とあります。この特権を大いに用いさせていただきましょう。
   ③この方は恵みとまことに満ちておられた…神のご性質、それは恵み深い愛なる方であり、同時に正しい方、義なる方でもあります。つまり、罪を赦す寛容なお方でありながら、裁きを曲げることのない方です。この二つのご性質は相反していて、矛盾するように思われます。しかし、イエス・キリストは、その矛盾すると思われるところを十字架によって解決されます。箴言3:3には「恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。」とあります。恵みとまことはキリストの十字架によって成就したのですから、私たちは、このキリストとともに歩み、恵みとまことの中に留まり続けましょう。すなわち、キリストを模範として、キリストが歩まれたように歩むということです。

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