●8月13日礼拝メッセージ要旨(ヨハネ7:1~24)

   ヨハネ7:1~24から「主の栄光を求める」という題で、ポイントを3つあげて学んでまいりましょう。      ①あなたがたの時は、いつでも来ているのです。…仮庵の祭の頃、キリストは、弟たちに「ユダヤに行って、自分を世に現したらどうですか。」と言われました。するとキリストは「私の時は来ていないが、あなたがたの時はいつでも来ている。」と答えました。「わたしの時」とは、十字架につけられる時でしょう。「あなたがたの時」とは何でしょうか。まことの神に立ち返るときではないでしょうか。なぜなら、当時、創造主である真の神のひとり子イエス・キリストを目の前にして、弟たちは、その方がだれであるか分かりませんでした。今日、私たちにも、神に立ち返るときはいつでも来ています。第二コリント6:2には「…確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」とあります。すでにキリストを信じているはずのクリスチャンも、もし、信仰が冷えていたら、もう一度、立ち返り、心燃やされてまいりましょう。
   ②良い人か、惑わす人か…通常、私たちは善良な人々に囲まれて平穏に暮らしています。それらの善良な人々は、皆良い人々と言えるのでしょうが、ただ、聖なる神の前にどうであるかという見方をするなら、罪の無い人は一人もいません。しかし、たった一人だけ、神のひとり子として、この地上を歩まれたイエス・キリストだけは、罪の無い聖く正しい方であり、愛なる方です。キリストは、私たちの罪をその身に負って、十字架の上で死なれました。ですから、このキリストのうちにあるならば、その人は罪に定められることは決してありません(ローマ8:1)。つまり、私たちは、この世の基準で善悪を判別して、それで終わるのではなく、聖なる神の前に罪の無い聖い者とされ、聖霊に満たされ、キリストを証しする者とされましょう。
   ③自分を遣わした方の栄光を求める…キリストの地上の生涯は、父なる神の栄光を現わし、ご自分に与えられた使命を全うすることにありました。心理学では、「自己注目のし過ぎは抑うつ状態を生む」のだそうです。健康的に生きている人は、あまり自分自身のことを考えない、つまり、神の栄光を求めて行動すればよいわけです。第一コリント10:31には「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」とあり、また、エペソ4:7には「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」とあります。私たちもキリストに倣い、神の栄光を求め、自分に与えられた賜物によって、それぞれの使命のうちを歩んでまいりましょう。

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