●10月1日礼拝メッセージ要旨(ヨハネ9:1~23)

ヨハネ9:1~23より「神のわざが現われるため」という題でポイントを3つあげて学びましょう。
①神のわざがこの人に現われるため…道の途中で生まれつきの盲人を見られたキリストに対して、弟子たちは「彼が盲目に生まれついたのは誰が罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」と質問しました。この弟子たちのような考え方は、どこの国でも、いつの時代にもあるのではないでしょうか。しかしキリストは、「この人が罪を犯したのでも両親でもなく、神のわざがこの人に現われるためだ。」と言われました。旧約聖書に出てくるヨブという人は、当時、彼ほど潔白で正しい人はないと言われていました。そんなヨブでしたが、持ち物や家族を失うという大変な災難に遭い、さらに自分の身が病で冒されました。当教会は、あの3.11大震災で教会の建物を失いました。しかし、「神がすべてのことを働かせて益となる。(ローマ8:28)」というみことば通り、多くの教会、団体、個人の支援と協力があってのことですが、震災前に対して、現在の土地、建物の面積はそれぞれ2~3割増えています。もちろん、面積以上の大きな恵みがそれに加算されています。私たちそれぞれの人生においてもですが、色々な出来事、プラスもマイナスも、キリストが言われたように「神のわざが現われるためである」という信仰に立ち続けましょう。
②昼の間に行なわなければなりません…2014年1月1日の元旦礼拝では、このヨハネ9:4からメッセージしました。なぜなら、今もそうですが、その前年、各地で多くの大災害が発生し、いつ起こるともわからない災害に対して、どういった心構えを持ったらよいのか、答えを求めていたからです。つまり、先に起こる何かを恐れて過ごすのではなく、今与えられている恵みを感謝し、喜び、福音宣教のために、機会を十分に生かして用いてまいりましょう(エペソ5:16)。
③シロアムの池で洗いなさい…キリストは、その盲人に対して、つばきで泥を作り、それを盲人の目に塗り、「シロアムの池で洗いなさい。」と言われました。盲人は、行って洗うと見えるようになり、帰って行ったのです。それにしても、なぜ「目に泥を?」と思ってしまいます。ひとことばで、あるいは手を置くだけで良いのではないかと思ってしまいますが、それは、このあと続く、パリサイ人たちとの安息日論争をあえて引き起こすためだったのかもしれません。創造主なる天の神から遣わされたキリストが、シロアム(遣わされた者の意)の池に盲人を遣わし、そこから、波紋が広がっていくのです。今日、私たちも教会に集まり、みことばによって整えられて、キリストの使節として遣わされ用いられますように。

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