「一粒の麦」という題で、ポイントを三つあげてお話しをします。
①エルサレム入城…キリストがエルサレムに入られると、ラザロの奇跡を見た多くの人々が「ホサナ」(救ってくださいの意)と言って出迎えました。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。人々はキリストを政治的なメシヤとして期待し、歓迎したのでしょう。また、キリストはロバの子に乗られたのですが、それはゼカリヤ9:9の預言の成就でもありました。普通の人なら、こんな大歓迎を受けたら、舞い上がってしまうでしょう。でも、キリストは、すでに、マタイ4章とルカ4章にあるように、悪魔の試みに勝利され、しかもこの時は、ご自分が十字架で死なれることを承知していました。誰でも人にほめられて悪い気はしませんが、一番危険な時でもあります。箴言27:1には「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」とあります。さらに、箴言27:21には「るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる。」とあります。人から称賛されたときは、冷静さを保ち、主に栄光を帰すことを心掛けましょう。
②一粒の麦…ギリシャ人の幾人かが、キリストに面会を求めました。彼らは、多くの人々から注目され、有名なキリストにお目にかかり、何らかの特権を得ようとしたのかもしれません。しかし、ここでキリストは「一粒の麦が地に落ちて死ねば実を結ぶ」と言われました。つまり、ここで、ご自分が十字架で死なれることを暗示したのでしょう。そして、さらに、キリストは彼らに「自分を捨てて、ご自身(キリスト)に仕えよ」と言われます。マタイ13章とマルコ4章には四つの種のたとえ話があります。良い地に落ちた種は多くの実を結びました。その「良い地」とは、みことばを聞いて悟る人のことであり、また、みことばを受けいれる人のことです。私たちは、聖書のみことばをよく読み、自分の思いを捨てて、そのみことばを受け入れ、悟り、多くの実を結ぶ者とされましょう。
③このためにこそ…キリストは、十字架の死を間近にし、「わたしの心は騒いでいる」と言われました。私たちと同じ人としての肉体を持った方ですから、やはり、平常ではいられなかったのでしょうが、そもそも、そのためにこそ、キリストは来られたのです。エステル記のエステルは、ユダヤ人でありながら、ペルシャ王妃となりました。しかし、ユダヤ人を根絶やしにするという法令が発布されると、養父だったモルデカイはエステルに使いを送り、「あなたが、この王国に来たのは、このときのためかもしれない」と伝えました。するとエステルは、ユダヤ人に断食を要請し、自分は命がけで王に法令の取り消しを訴えました。私たち一人一人にも、主から、それぞれ使命が与えられていることでしょう。その使命というのは、人を喜ばすことではなく、私たちの心をお調になる神が喜ばれる(第一テサロニケ2:4)ことでなければならないでしょう。