●1月13日(日)礼拝メッセージ要旨(使徒の働き9:19b~31)

「宣教開始したサウロ」という題でポイントを3つあげて学びましょう。
①イエスは神の子であると宣べ伝え始めた…アナニヤからバプテスマを受けたサウロは数日の間ダマスコの弟子たちと共にいて、そして、ただちに諸会堂で宣教を開始したと19~20節にあります。ガラテヤ書1:17~18を見ますと、サウロはアラビヤに行って、ダマスコに戻り、それから3年後にエルサレムに上ったと記されています。どの時点でアラビヤに行ったのか諸説はありますが、イエス様が宣教を開始されたとき、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、そのあと、荒野に退いて悪魔の試みを受けます。そして、ガリラヤ方面で宣教を開始されます。その行動に合わせて推測しますと、サウロもイエス様と同じように、宣教を開始する前、まずアラビヤに退いたのではないかと思われます。当時の地図では、ダマスコから東の近い所にアラビヤの国境があります。たぶん、それほど遠くない静かな場所で霊的な備えをしていたのでしょう。今日、キリスト者は、サウロが「イエスは神の子である」と宣べ伝え始めたように、福音を宣べ伝え、キリストの体なる教会を建て上げるために召されているのです。それぞれに与えられた賜物は全く違っていても、一つの目的のために、その賜物を生かし合い、主に仕えてまいりましょう。
②サウロへの迫害…サウロは先頭に立ってキリスト者を迫害していましたが、今度は自分が迫害される立場になってしまいました。ユダヤ人たちにとって、キリスト者を迫害するサウロは最も頼りになる存在だったのでしょうが、そのサウロがユダヤ人の諸会堂で熱心にイエス・キリストを証ししているのですから、最も困惑させる人物となり、「サウロを殺せ」という結論になったのでしょう。今日、キリスト者は全ての人と平和を保つべきです(ローマ12:18)。しかし、そうかと言って、平和のために世と妥協し、川の流れに身を任せて浮遊する死んだ魚のようであってはなりません。生きた魚は流れに逆らい、あるときは滝をさかのぼるのです。私たちは、少なくとも回りの人々に自分がクリスチャンであることを証しする。そして、教会に連れて来る。さらに、直接福音を伝える。それが生きた魚のようなクリスチャンの姿です。
③サウロを引き受けたバルナバ…命を狙われたサウロですが、なんとか難を逃れ、エルサレムの教会に来ました。しかし、かつてキリスト者を迫害していたサウロを皆は恐れていました。(聖書にそのあたりの細かい記事は記されていませんが)そんなとき、バルナバがサウロに声掛けをしたのでしょう。そして、ダマスコ途上で主イエスに出会い、回心したことなどをバルナバはサウロから聞き、その証しが真実であることを確信したのでしょう。それでバルナバは、使徒たちにサウロに起こったことを伝え、それでようやくサウロはエルサレムにおいて大胆に語ることができたのです。このバルナバの懐(ふところ)の深さと主のために人を生かして用いる姿勢を私たちも見倣いたいものです。31節には、「教会は…聖霊に励まされて前進し続けた」とあります。当つばめさわ教会も、この年、聖霊に励まされて前進させていただきましょう。

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