●3月10日礼拝メッセージ要旨(使徒の働き12:1~17)

「ペテロ入獄と解放」という題でポイントを3つあげていきましょう。
①ペテロの入獄…初代教会が始まって、多くのユダヤ人がイエス・キリストを信じるようになると、その一方で旧来のユダヤ人たちは、そのことで不安を覚えたことでしょう。そして、キリスト者に反対するようになります。その頃、ローマ帝国の配下にありながら、ユダヤの王として君臨していたのはヘロデ(アグリッパ一世)王です。ヘロデ王はユダヤ人たちの人気を得ようと最初にヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺しました。それがユダヤ人たちに気に入られると、今度はペテロをも捕えて、四人一組の兵士たち四組に監視させ、過ぎ越しの祭の後に民の前に引き出そうとしていました。ここで、ヘロデ王の行動の動機をよく考えてみましょう。ヨハネの兄弟ヤコブは殺されなければならないような悪いことをしてはいません。ペテロもそうです。ヘロデの目指すところは自分自身の権力の安泰であり、そこに、真理とか正義を見出すことはできません。ヘロデ王家は、エドム人の子孫であり、オバデヤ書10節には「あなたは永遠に絶やされる」と預言されています。そして、その預言がAD70年のエルサレム滅亡とともにヘロデ家は歴史から姿を消すことになるのです。第二コリント13:8には「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。」とあります。今、栄えていても真理や正義に逆らっているなら、その人は恥を見、滅ぼされます。しかし、たとい今は栄えていなくても、真理に従い、正義を愛するならば、その人を主は祝福されるでしょう。
②教会の祈り…12使徒の一人ヤコブが殺され、ペテロも捕えられ、教会は危機的状況の中で、ペテロのために熱心に祈り続けていました。当つばめさわ教会の会堂が建てられようとするとき、筆者は、教会堂とは何だろうと改めて考えました。答えはイザヤ書56:7に見つけました。そこには「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とあります。教会堂は祈りの場所です。さて、なぜ、祈りはそんなに大事でしょうか。例えば、私たちが誰かをのろったり、悪口を言ったりするなら、イエス様はそれを喜ばれません。クリスチャンなら、御霊が離れて行くでしょう。しかし、主の前にへりくだって祈るならば、イエス様はその人と共におられるでしょう。全知全能の神がその人と共にいるということほど心強いことはありません。第一テサロニケ5:16~19を要約すると、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝せよ。御霊を消すな。」です。お祈りして願い求め、全能の神を味方につけ、神と共に歩みましょう。
③ペテロの解放…教会の祈りに主が応えてくれたのでしょう。ペテロが人々の前に引き出されようとしていた前夜、主の使いが彼に現われ、繋がれていた鎖も解け、番兵たちにも気づかれず、鉄の門もひとりでに開いてしまうという奇跡が起きました。最初ペテロは現実だと分からなかったのですが、御使いが離れた時、我に返り、彼の為に皆が祈っている場所に行きました。すると、祈っている人たち自身もペテロの解放を最初、信じられなかったのです。今日も、同じです。祈りはきかれます。たといすぐに答えを得なくても、神のなさることは、すべて時にかなって美しく(伝道者の書3:11)、最善に導かれるでしょう。

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