●8月4日礼拝メッセージ要旨(使徒の働き19:21~41)

「手で作った物など神ではない」という題でポイントを3つあげます。

①御霊の示し…エペソでの目覚ましい宣教活動のあと、パウロは御霊によって、マケドニヤとアカヤを通ったあとで、エルサレムに行くことを示されました。そして、さらに「ローマを見なければならない」と言いました。その後、実際、パウロはマケドニヤ、アカヤ、そこを折り返して、トロアス、ミレト、そしてエルサレム、また最終的にはローマに行くことになるのです。使徒16:6~10でも、パウロは御霊の示しにより、アジアからマケドニヤに渡りました。今日、私たちは明確な御霊の示しを受けて行動するということは稀かと思いますが、あとから振り返ってみて、御霊に導かれながら行動していたと思えることは多々あるでしょう。でも、本来なら、パウロのように主との交わりを深め、御霊に行く道を示されながら行動することが望ましいと言えます。

②手で作った物など神ではない…テモテとエラストをマケドニヤに向けて送り出したあと、パウロはなおエペソに留まっていました。そのとき一つの騒動が起こりました。当時エペソにはアルテミスという大女神とその神殿がありました。デメテリオという銀細工人がいて、彼はアルテミスの神殿の模型を作り、それで生計を立てていたのです。しかし、パウロの宣教の影響で、商売にかげりが見えてきたのでしょう。職人仲間を集めて抗議集会を開いたのです。集会は盛り上がりを見せ、他の群衆も巻き込み、パウロの同行者二名も捕らえ、劇場になだれ込んでの大騒動に発展しました。先日、私はテレビで涅槃(ねはん)像とやらを作成している工場の様子を見ました。まず、発砲スチロールで型を作り、それをさらに細工し、そしてそれを元にプラスチックで本体を作り、仕上げは金メッキを施すのだそうです。人の商売を妨害する気は毛頭ありませんが、問題は、工場で生産された像(工場であれ民家であれ、人の手によって作られた像ということが問題)が、神とされるというところにあります。今、日本ではお盆の時期です。盆は盂蘭盆(うらぼん)とも言い、盂蘭盆はサンスクリット語のウランバナーから来ていて、逆さづりというような意味です。シャカの弟子が自分の死んだ母親が死後の世界で苦しんでいる様子を夢か幻で知らされ、それから母のために供物を供えた、それがお盆の始まりと言われています。そもそも人間が死者の霊をコントロールすることはできません。お経を読んだり、供物を供えたり、盆踊りをしたら死者の霊が慰められるということはありません。第一ペテロ1:18~19には「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。私たちは先祖伝来の空しい生き方から解放され、あるべき姿を取り戻さなければなりません。

③この世において…その大騒動を静めようと、ユダヤ人のアレキサンデルが立ちますが、彼がユダヤ人だと分かると、群衆は却って叫び続けました。そこで、町の書記役が知恵をもって群衆を静め、解散させました。私たちは、この地上において、実に様々な状況の中におかれることがあるでしょう。その時、どのように行動すべきか、主の力と知恵をいただきながら、また、機会を十分に生かして、福音宣教のために自分をささげてまいりましょう。

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