「真実一路」という題でポイントを3つあげます。
①ユダヤ人にはユダヤ人のように…エルサレムに到着したパウロは二日目にヤコブ(主の兄弟)ら長老たちの前で世界宣教の証しをします。それを聞いた彼らは主をほめたたえたあと、パウロに次にような内容のことを言います。それは「パウロがユダヤ人信者たちに、子供に割礼を施すな。モーセにそむくように教えているという噂を聞いている。だから、その誤解を解くために、誓願を立てている四人と共に清めの期間を過ごしなさい。」です。するとパウロはあっさりと了承し、言われた通りを実行するのです。確かにパウロは、ユダヤ人の慣習に従って歩むことよりもイエス・キリストを信じる信仰が大事であるという立場に立っていますが、同時に、譲れるところは譲る、相手の立場を尊重し、真理に背くのでなければ相手に合わせることを否定しません。第一コリント9:20で「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。」と言っています。また同9:22では「弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」と言っていて、何が真に大切なことかという視点から外れることはなかったのです。
②真実と偽り…長老たちの勧めのままに清めの期間を過ごしたパウロですが、その期間が終わろうとしていたとき、アジアから来たユダヤ人たちが、パウロが宮にいることを聞きつけ、「パウロは律法に逆らうことを教え、ギリシャ人を宮の中に連れ込んで神聖な場所をけがしている」という内容のことをあおりたてました。しかし、実際のところ、パウロは律法に逆らうことを教えていないし、ギリシャ人を宮に連れ込んではいません。つまり、彼らはパウロに反対し、危害を加えようとしてデマを吹聴したのです。結局、このデマにより、町中が大騒ぎとなり、人々はパウロを捕らえ、宮の外に引きずり出し、殺そうとしました。ここで私たちは一つの道理を見出すことができます。それは、デマ、偽りは物事を破壊するということです。ヨハネ8:44には「悪魔は初めから人殺しであり~偽りの父である」とあります。しかし、真実で誠実な真の神に仕え、この神のみことばに従っていくとき、整えられ、着実な修復がなされるのです。「あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる(申命記7:9)」
③すべては福音のために…暴徒たちによって宮から引きずり出されたパウロは殺されかけますが、間一髪のところで、ローマの千人隊長らによって助かります。兵営に入れられようとするとき、パウロは千人隊長に「一言お話ししてもよろしいでしょうか。」と言い、階段の上に立ち、そこに集まっている群衆に向かって証しを語ることになるのです。パウロは何のために今エルサレムに自分がいるのかということを忘れていませんでした。福音を伝えるためです。「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる』とシオンに言う者の足は。(イザヤ52:7)」