「拒否されるパウロの証し」という題でポイントを3つあげます。
①パウロはなぜエルサレムに行ったのか…第三次伝道旅行を終えてエルサレムに向かっていたパウロに対して、預言者たちが再三にわたって、エルサレムに行かないようにと忠告しています。しかし、なぜかパウロは頑なに彼らの忠告を受け入れず、エルサレムに来ました。それはパウロの個人的な意志によるものではなく、神が彼をそうさせたのでしょう。エルサレムに着いたパウロはしばらく平穏だったのですか、やがて彼がエルサレムにいるということを知ったユダヤ人たちがパウロのもとに集まり大騒動に発展しました。しかし、ローマ軍の介入により、パウロは群衆に証しする機会を得ました。旧約聖書の士師記にサムソンが登場します。サムソンには一つの条件のもとに神から強い力が与えられました。しかし、一方でサムソンは奔放な人で、気に入ったペリシテ人の女性を見つけると、すぐに結婚しようとしました。それは、神がペリシテ人と事を起こそうとして(士師記14:4)神がそうさせたのです。すなわち、パウロが危険なエルサレムに行ったのは、彼の証しを通してユダヤ人たちの幾人かでも救いに導き入れようとする神の愛から発せられたものであると言えるでしょう。
②人々はなぜパウロに反対するのか…イエス・キリストが、十字架で死に、葬られて三日目に復活し、天に昇り、その後の五旬節に聖霊が下り、ペテロの説教を聞いた多くのユダヤ人がキリストを信じました。しかし、その一方で大多数のユダヤ人たちは、依然としてユダヤ教徒としての生活の中に安閑としていたのでしょう。そういう中で、かつて熱心なユダヤ教徒だったパウロがナザレのイエスを信じる信仰に回心し、その強烈な証しをしているのですから、聞いていたユダヤ人たちは、自分たちの立場が脅かされるのを感じ、パウロに強く反対したのでしょう。もちろん、根本的に、霊的な目が開かれていなかったということもあります。今日、私たちも、クリスチャンになったからと言って、油断できません。健全な信仰が保たれていくように、いつも主を慕い求める必要があります。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ7:7)」
③ローマ市民権…パウロの証しを聞いた群衆は「こんな男は地上から除いてしまえ。」と騒ぎ立てました。そこで千人隊長は、パウロを鞭打って取り調べるようにと言います。千人隊長としては、いつものように習慣的に命令したのでしょう。鞭打たれる側のパウロとしてはたまったものではありません。パウロは自分が生まれながらのローマ市民であることを百人隊長に訴え、難を逃れます。先日、ギデオン協会の方々と共に近隣の中学校の校門前で生徒さんたちに新約聖書の配布のお手伝いをしました。配布日の何日か前にギデオン協会員が、その学校に行って校長先生に配布の許可を得ています。現在、仙台支部の会員で学校の元教員だった方たちが、それを担っているようです。そういった以前の職業が、福音宣教に大いに役立っている典型と言えるでしょう。どんな人にもそれぞれ専門分野、知識や資格などがあるものです。それらが主の栄光のために用いられるのです。