2019年最後の礼拝メッセージは、使徒の働きの最後からです。いよいよローマに到着したパウロは、番兵付きながら自分だけの家に住むことが許されました。そして、そこにユダヤ人たちを招いて満二年間、福音を大胆に宣べ伝えました。パウロの語ることを信じた人もいましたが、ある人々は信じようとしませんでした。そこで、この記事に関連して、イエス・キリストを信じる信仰とはどういうことかというテーマで、信仰の三要素についてお話しします。
①真実…日本には「イワシの頭も信心から」ということわざがあります。筆者の生家では、イワシではなくサンマの頭が串に刺して玄関に飾ってありました。日本では、何でも信じればよいという風潮がありますが、これはとんでもない思い違いです。聖書で「信仰」というとき、その対象は真実でなければなりません。新約聖書の原典のギリシャ語では「信仰」は「真実」という意味とほぼ同じです。イエス・キリストは実在された方であり、多くの人の罪をその身に負い、墓に葬られ、三日目に復活し、今も生きておれる真実な方です。第二テモテ2:14には「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」とあります。
②見ずに信じる信仰…復活したイエス様が弟子たちの前に現われたとき、そこにトマスはいませんでした。あとから、イエス様が復活したということを聞いたトマスは、「私は見なければ信じない」と言って、イエス様が復活したことを疑いました。その8日後、イエス様がトマスの目の前に現われると、トマスは「私の主。私の神。」と言いました。そのとき、イエス様はトマスに「見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。福音書の中でイエス様が、その信仰を一番褒めた人はローマの百人隊長でしょう。彼は「ただ、おことばをください。そうすれば、私のしもべは直ります。」と言い、その通りになりました。ヘブル11:1には「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。
③告白の力…信仰は、頭の中だけで考えるものではなく、実際にどうすべきかということです。信仰の信は「人」という字と「言」という字で成っています。つまり、口で告白するということです。マルコ5章で、12年間、長血を患っていた女性はイエス様の噂を聞き、お着物にさわることでもできればきっと直ると言って(直訳)いました。ペテロの舟に腰を下ろして岸辺の群衆に話をしたイエス様は、話が終わると、ペテロに舟を深みに漕ぎ出して、魚をとりなさい。」と言うと、ペテロは「先生。私たちは夜通し働きましたが何一つ取れませんでした。でも、おことば通り、網を下ろしてみましょう。」と言って、その通りにすると大量の魚がとれました。ペテロは、常識から見るならば、このとき漁に出ても魚はとれない筈でした。しかし、真実なことばを話されるイエス様が言うのならということで、「でも、おことば通り網を下してみましょう。」と言って行動に移しました。このときのペテロの「でも」は信仰的な「でも」でした。今日も同じです。私たちの口から出ることばは信仰的であるべきです。「だめだ。」と言っていれば駄目になるでしょう。主にあって「できる。」と言っていれば、本当にその通りになっていくでしょう。