●3月1日(日)礼拝メッセージ要旨( ローマ5:1~11)

  「神との平和」という題でポイントを3つあげます。

   ①神との平和…人類最初の人、アダムとエバが罪を犯したため、全人類に罪が及びました。しかし、主なる神は救い主イエス・キリストを世に遣わし、十字架の死による罪の赦し、救いの道を開いてくださいました。今日、救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、義とされ、聖なる神との平和の関係を持つ者とされるのです。但し、神との平和と言っても、人と人との関係とは異なります。モーセの後継者ヨシュアは、ヨルダン川を渡って、いよいよこれからカナンの地に入ろうとするとき、彼の前に主の軍の将が現れました。ユシュアはその方に「あなたは私たちの味方ですか。敵ですか。」と尋ねました。するとその方は「あなたの足のはきものを脱げ。」と言いました。つまり、神と和解するということは全能の聖なる神の前に跪(ひざまず)くということです。なぜなら、聖なる神は絶対的な方で誤りのない方であるからです。今日、私たちは、救い主イエス・キリストを信じ受け入れ、そしてイエス様に従って行くことが、神との平和の関係にあるのです。

   ②大いなる喜び…神との平和の関係を築いたら、神がその人の味方ですから、誰もその人に敵対できません(ローマ8:31参照)。その結果、その人の心は喜びに満ち溢れるのです。ルカ10章で、キリストに遣わされた70人が喜んで帰って来ました。それはイエス様の名を使うと悪霊どもが彼らに服従したからです。するとキリストは「だがしかし、悪霊どもが、あなたがたに服従するからといって喜んではなりません。ただ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカ10:20)」と言いました。キリストのために何か良いことをしたとしても、その人の名が天のいのちの書に記されているということ以上の喜びはないということです。

   ③患難さえも喜んでいる…私たち人間は、患難があると、忍耐を強いられます。その忍耐をすることによって品性が練られます。そして、その練られた品性が希望を生み出します。キリスト者にとって、その希望は失望に終わらない永遠の希望です。今、巷(ちまた)では新型コロナウィルスの脅威が叫ばれています。一刻も早く収束してほしいところですが、私たち人間、特にキリスト者は、こういった患難を通し、真に大事なものは何かということに目覚める機会となるのではないでしょうか。つまり、患難を通して神に近づくことになるのです。神を忘れ、世の生活にだけ目を向けているとき、一つの患難が押し寄せることによって、自然と心は全知全能の神に向けるでしょう。ですから、結果として、患難さえも喜びとなるのです。

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