「大声で大切なことを語られたイエス様」という題で、1+4つポイントを上げます。
※「大声で」(44節)…最近はコロナ渦で、大声を上げるのははばかられます。しかし、創造主である真の神のみもとから来られた神の御子イエス・キリスト様が大声を上げられたとき、それはたいてい、大事なときに大声を上げられています。十字架上でエリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)と、やはり十字架上で息を引き取られるとき、仮庵の祭りの時には「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来てのみなさい~」と言われました。また、墓に入っているラザロを生き返らせたときも大声を出されました。そして、このヨハネ12:44で、大声を出され、50節まで語られているのですから、この部分は大切な内容であると考えて間違いないでしょう。
①「神のもとから来られたキリスト」(44~45節)…キリストは「わたしを信じる者は、わたしを遣わした方を信じるのであり、わたしを見る者はわたしを遣わした方を見る」と言っています。つまり、キリストは、自分こそ、天の神、唯一の創造主のもとから、この世に来た真の神の御ひとり子であると、宣言しているのです。阪神タイガーズで活躍したマートン選手はクリスチャンで、現在、メジャーリーグのカブスの職員として働いています。彼が、ある記事で次のように言っています。「イエスを知るシンプルな方法の一つは、自分を取り巻く状況や、もろもろの事柄を注意深く観察してみることです。子どもの誕生であろうと、宇宙や地球の仕組みであろうと、神が私たち人間のために、あらゆることを行ない、与えて下さったことに気づくはずです。海の上でも、木の上でも昆虫でも、神は細部に至るまで十分に気を配って造られました。ですから、創造そのものが神の存在を示し、イエスがだれであるかを示しています。それに気づけば、イエスが私たちに永遠のいのちを与えるために十字架の死を選ばれたことを理解できるようになるのです。」
②「世の光として来られたキリスト」(46節)…次にキリストは、「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」と言っています。このことばとほぼ同じことをヨハネ8:12でも語られました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と。キリストを信じるとはキリストに従うということです。
③「さばくためではなく、救うためにて来られたキリスト」(47~48節)…イエス様に従って生きることはベストであって理想でもありますが、人間、誰でも完ぺきではありません。従えないことも度々あります。ですから、キリストは、ここで「大丈夫」と言っているのです。しかし、キリストを拒み、受け入れない人はさばかれます。私たちは、キリストを受け入れ、キリストに日々、顔を向けて歩むことです。
④「父の命令は永遠のいのち」(49~50節)…この最後のところでキリストは、自分は何を話すべきか、父の命令は何か、ということを言っています。そうです。父の命令は永遠のいのちである、と言っているのです。第一ヨハネ5:20には「イエス・キリストこそ真の神であり、永遠のいのちである」ということが記されています。私たちはこのイエス様を信じて永遠のいのちを受け取り、光の中を歩みましょう。そして、周りの人々に永遠のいのちであるイエス・キリストを証しし、人々の救いのために神に仕えていきましょう。