●12月6日(日)礼拝メッセージ要旨(第一コリント6:1~20)

 この6章では、5章に引き続き、当時のコリント教会の不品行の問題に加え、教会内の争いの問題を取り上げています。「主と交われば一つ霊となる」という題で、ポイントを4つあげます。

 ①「不正も甘んじて受ける」(7節)…当時のコリント教会は、クリスチャン同士で争いをし、それを同じクリスチャンの誰かに相談することなく、一般の裁判所に訴えるということをしていたようです。パウロは、それに対し、「そもそも互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北だ」と言っています。そして、「むしろ、不正をも甘んじて受けよ。だまされていなさい。」と言っています。第二テモテ2:24~25には「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。とあります。聖なる神に仕えるクリスチャンは、最低限、言うべきことは言いつつも、相手を罵倒したり、ののしったりということはせず、それ以上は主の御手に委ねるべきです。

 ②「キリスト者自由」(12節)…12~13節では、要約すると「私にはすべてのことが赦されています。私はどんなことにも支配されはしません。からだは主のためです。」と言っています。この言葉は、宗教改革者マルチン・ルターが提唱した「キリスト者の自由」と重なるところがあります。つまり、キリスト者は自由であり、何物にも隷属しない。けれども、一方で、キリスト者は自分が関わる全ての人に対して、魂に対する責任としての義務を負っています。この世に来られ、人として歩まれたキリストは、当時の王もローマ総督も恐れませんでした。その一方で、社会から見下されたような人には近づいて行って、彼らを立ち上がらせました。クリスチャンには霊的な自由と解放が与えられていますが、主のために生きると言う義務もあるのです。

③「主と交われば一つ霊となる」(17節)…第一ヨハネ5:16~17では、「死に至る罪」ということばが使われています。この第一コリント6:9~10では不品行、偶像礼拝、姦淫、男娼、男色などの罪が列挙され、こういったことをしている者は神の国を相続できないと言っています。遊女と交われば霊的な死に至り、主と交われば神の国を相続するのです。先日のハイナイトというビデオ集会のメッセージで、「神に服従するとは、神にくっついて離れないことだ」と、面白い表現をされていました。確かに、第二列王記2章で、エリシャはエリヤが天に携え挙げられるとき、くっついて離れませんでした。それゆえ、エリシャはエリヤの二倍の霊を受けました。

 ④「代価を払って買い取られた」(20節)…詩篇49:17には「人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。」とあります。莫大な財産を所有していたとしても、死ぬときは、それが何の役にも立たないし、あの世に持っていくことも出来ません。また、同、詩篇49:8には「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」とあり、世にあるすべての金銀を持っていたとして、それを差し出しても、魂の贖い代として遠く及ばないのです。しかし、第一ペテロ1:18~19には「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。2000年ほど前、聖なる神のひとり子イエス・キリストが十字架によって、尊い代価を支払ってくださったのです。このイエス様を信じ受け入れて、罪の赦しと永遠のいのちを自分のものとして受けとり、神の栄光のために生きましょう。

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