●2021年1月17日(日)礼拝メッセージ「どうしたら主に喜ばれるか」 

 クリスマスと年末年始で、順番に学んでいる聖書の個所から離れていましたが、昨年12月13日の続き、第一コリント7:17~40から「どうしたら主に喜ばれるか」という題で、ポイント三つあげていきます。

①「召されたときの状態にとどまっていなさい」…この章では全体的に「結婚」ということをテーマにしているのですが、部分的に、割礼のことを取り上げています。召されたとき、すなわちキリストを信じ受け入れたとき、割礼を受けていてもいなくても、そのままにしておきなさい、と言っています。また、召されたとき、奴隷であっても気にすることはない、と言っています。また、結婚について、現在の危急のときは、既婚者も独身者のようであれ、と言っています。但し、結婚してはいけないということではない、とも言っています。パウロ自身は独身者だったので、そのような味気ない表現になったという見方もありますが、ここで、私たちは、人の一生のことを考えてみましょう。まず、この世に生まれ、成長し、学校へ行き、卒業したら就職し、ある人は結婚し、またその中のある人は子が与えられ、やがて孫も与えられ、人によっては多くの財産を持つこともあります。しかし、年齢が積み重なり、この世を去る時が来ます。その人がもし、イエス・キリストの救いを知らず、あるいは受け入れないで一生を終えるとすれば、たといこの世で子宝や富に恵まれていても、寂しく、空しい人生だったということになるでしょう。今年、私は、N教会のT牧師から年賀状をいただきました。実に、一般的な年賀状らしくない500文字ほどの証しと勧めが書かれていました。T牧師は今年77歳になられるとのこと。17歳でキリストを信じ、信仰歴は60年。その間、27歳で大学の研究者となり、47歳で牧師に召されたとのこと。そして最後に、「私たちの目標は、永遠に変わらない神の愛を日々味わい、笑顔で創造主の愛を伝えることです。」と結んでいました。第一コリント7:19には「大事なのは神の命令を守ること」とありますが、私たちの身の回りの環境などは、二の次のこと、もっと大事なことに目を留めることです。

②「どうしたら主に喜ばれるか」…32~34節には、既婚者は、夫あるいは妻を喜ばせようと、世のことに心を配るが、独身者は主のことに心を配り、心が分かれる、と言っています。もちろん、総体的に、ということでしょう。誰であれ、要は、主に喜ばれることに心を向けることです。ところで、「主に喜ばれること」とは何でしょう。ピリピ2:21には「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」とあります。主に喜ばれることとは、キリスト・イエスのことを求めるということです。昨年春頃から新型コロナウィルスのニュースを聞かない日はありません。私たちは、早く収束するようにと祈り続けていますが、収束の兆候はまだ見えていません。しかし、必ず、収束はするでしょう。第二歴代誌7:13~14で、主がソロモンに言ったように、神の民は、自らへりくだり、祈りをささげ、主の御顔を慕い求め、悪い道から立ち返るなら、主がその祈りに目を留められるのです。コロナ収束はクリスチャンの祈りにかかっていると言っても過言ではありません。コロナの問題は、私たちが主を慕い求める機会となり、結果的にそのことを主が喜んでおられることでしょう。

③「秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕する」…パウロが、この「結婚」ということについて、どちらかと言えば否定的に発言しているのは、私たちの利益のためです。私たち人間は、どうしても、この世のことに心を向けてしまうものです。知らず知らずのうちに、焦点がずれた考えや行動をしてしまうものです。ヘブル12:2には「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」とあります。私たちは、キリストを見上げ、天に宝を積むことを第一にした歩み方をすべきです。でも、そういう歩み方こそ、その人を真に幸いな生涯へと導いていくのです。

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