第一コリント9章19~27から、ポイントを三つあげていきます。
①「すべてのことを福音のために」…パウロは「自分はすべての人の奴隷となった」と言っています。ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法を持たない人には持たない者のように、弱い人には弱い者のように、それは、その人その人の心を開かせ、福音を伝え、幾人かでも救いに導くためでした。先日、私は二つ持っているうちの一つの補聴器をどこかに失くしてしまいました。自分の部屋にもない。車の中にもない。翌日、教会に行くと、事務所の机の上にありました。見つけたときの喜びは意外と大きなものでした。ルカ15章で、百匹中一匹の羊がいなくなった人、銀貨十枚のうち一枚を失くした人がそれぞれ、見つけて喜んだという話があります。そのあとで、ルカ15:10には「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」とあります。天にて喜びがわき起こるということは、そのことを天の神様が喜んでおられるということであり、そのことのために福音を伝えるということは、正に、どうしてもしなければならないことで(16節)、最も価値ある意義深いことなのです。
②「決勝点はどこか?」…一人の人が、天地を創造した聖なる神の前に、自分が罪人であるということを認め、悔い改めて、イエス・キリストによる十字架の救いを受け入れるならば、そのとき、その人には永遠のいのちが与えられ、たとい死んでも天の御国に入れられるという大きな希望があります。そこがクリスチャンの最終的な決勝点です。でも、クリスチャンには、この地上で使命があります。その福音を宣べ伝えるという使命です。福音を宣べ伝えるためには、その伝える人が整えられなければなりません。今年の当教会の目標は「みことばと祈りと従順」です。つまり、最終目標は「永遠のいのち」、その永遠のいのちのためには「福音宣教」が必要であり、その福音宣教に携わる人が「整えられる」ことが必要です。ですから、私たちは、どこに向かって進んで行くのか、そして、そこにたどり着くには、どこを通って行くのかという、総合的な目標設定を持っているべきです。
③「賞を受けられるように走る」…使徒の働き1:8には「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」とあります。クリスチャンはイエス・キリストの証人であるという自覚を持ちたいものです。福音を伝える。証しをする。言葉の人でないなら、生活を通して証しをしましょう。人には優しい。そうかと言って、この世の悪と妥協してはなりません。偶像礼拝、淫乱、酩酊などとは、明確に一線を引かねばなりません。地の塩、世の光として、神から期待されているのです。27節でパウロは「私は、自分のからだを打ちたたいて従わせます」と言っています。パウロほどの人なら、自然に体が反応するのではないかと思ってしまいますが、意外にも、私たちと同じように肉の体を持つ弱さの中にあるのです。だからこそ、私たちは、第二ポイントの繰り返しになりますが、みことばに根差し、祈りに励み、従順に主に仕えるということを求めましょう。朽ちない永遠の冠を受けられるような歩み方をさせていただきましょう。