創世記の章、50章1~26節からです。ヤコブの葬儀が行われ、その後、ヨセフも死にます。「ヤコブの葬儀」という題でポイント3つ上げていきます。
1.「ヤコブの葬儀(1~14節)」…ヤコブが死に、ヨセフは生前の父の要望通り、遺体を先祖と同じカナンの地に埋葬します。喪主であるヨセフは、まずパロ王の承諾を得てから、エジプトの家臣やパロの家の長老たちを伴い、さらにエジプトの戦車と騎兵も同行します。それを見たカナンの住民は「これはエジプトの荘厳な葬儀だ」と言っています。現代の日本では、数年前まで葬儀というと、人が多く集まるというイメージがありましたが、新型コロナウィルスの騒動以後、「家族葬」とか「小さなお葬式」、または葬式をしないでいきなり火葬するケースもよく聞くようになりました。却って、コロナ騒動の影響で形よりも実質を重んじるようになったとも言えます。最近は「終活」という言葉をよく聞きます。確かに、自分が死んだあとのことを整えるということも疎かにできませんが、クリスチャンはイエス・キリストの救いによる永遠の希望が与えられているのですから、むしろ、この永遠の希望を証しすることに心を向けるべきでしょう。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)」
2.「仕返しの心配(15~21節)」…父ヤコブが死んでいなくなり、兄たちはヨセフが自分たちに仕返しをするのではないかと心配になりました。彼らはヨセフの所に行き、父ヤコブが生前「ヨセフに対して兄たちは悪いことをしたが赦してやってほしい」と言っていたという言葉を伝えて、改めて、かつてヨセフを奴隷として売り飛ばした悪事に対しての赦しを乞いました。ヨセフは「恐れることはありません。あなたがたは私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとされました」と彼らを赦しています。詩篇84:6には「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」とあります。誰の人生においても「涙の谷」があることでしょう。でも、神はそれを泉のわく所としてくださることを信じる信仰を持ちましょう。また、人を赦すと自分も神に赦され、赦さないと、自分も神に赦されません(マタイ6:14~15参照)。人を赦し、人を祝福し、それによって、自分も赦され、祝福を受けるのです。
3.「ヨセフの死(22~26節)」…ヤコブは147才で死に、ヨセフは110才で死にます。単純計算ですが、ヨセフは30才でパロに次ぐエジプトの支配者になり、9年目にヤコブ一族がエジプトに移住した時は39才です。その17年後に父ヤコブが死んだ時は56才、父の死後54年生きて、110才で亡くなった計算です。晩年も穏やかに幸せに過ごしたことがうかがえます。ただ、ここで興味深いことは、ヨセフ自身の葬儀のことは記されてはいません。ヨセフも自分の遺体をカナンの地に葬ってほしいと兄弟たちに言っていますが、実際にヨセフの遺骨がカナンの地に埋葬されるのは、その400年ほど後のことになります。ヨシュア記24:32には「イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。」とあるとおりです。つまり、ヨセフは自分の権力と財をもって父ヤコブの荘厳な葬儀をしたものの、自分が死ぬと、急激に彼の権勢はその影響力を失ったのではないかと思われます。世の権力や栄華はほんの一瞬です。私たちは救い主イエス・キリストの永遠の希望に目を留めてまいりましょう。「 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。(ダニエル書12:2~3)」