●2026年10月4日礼拝メッセージ要旨

マタイ5:17~32から「律法の全部が成就されます」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「わたしが来たのは律法成就をするため」…聖書を理解しようとするとき、基本的に、旧約聖書に書かれていることが新約聖書で成就するという図式があります。例えば、創世記22章で神に命じられたアブラハムがイサクをささげようとした場面があります。それは、天の父なる神様がひとり子イエス・キリストを世に送り、十字架の救いを成し遂げられることの予表として見ることができます。また、出エジプト記2章で、モーセが生まれた当時、エジプトの中でイスラエル人が多くなり、パロ王にとってはイスラエル人の存在が脅威となったので、生まれたイスラエル人はナイル川に投げ込まなければならないとされ、そのとき赤子のモーセはパピルスのかごに入れられ、ナイル川の岸辺に置かれます。そのとき、パロの娘がモーセを発見し、その子を自分の子として育てます。イエス様がベツレヘムお生まれになったとき、ちょうど当方の博士たちがヘロデ王に謁見し、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」と言ったので、ヘロデは恐れ惑い、その後で、ベツレヘム近辺の二歳以下の男の子を殺させます。その直前に、ヨセフは夢で妻子を連れてエジプトに逃げるように主の使いに言われています。その他、旧約聖書で語られていることがイエス様によって成就していることは無数に見られます。ヨハネ5:39には「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」とあります。

2.「人を殺してはならない」…殺人は重大犯罪であり、そんなことをすれば、その人の人生は終わってしまうと言っても過言ではありません。イエス様は、人の心の根底にあるものを指摘しています。「ばか者」と言う者はゲヘナ(当時のゴミ捨て場であるが地獄のこと)に投げ込まれると言っています。また、誰かに恨まれていたらすぐに和解するようにと教えています。但し、自分が和解しようと努めても相手が応じないことがあるかもしれません。そのときはローマ12:18に「 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」とありますから、「自分に関する限り」は自分が謝ったり、相手を赦したりすることです。またたとい、自分が正しくて理不尽なことを言われたとしてもⅠコリント6:7には「 そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。」とあります。キリスト者には、あの十字架のイエス様のように歩むことが期待されています。

3.「姦淫してはならない」…十戒においては第7番目の戒めです。6番目から「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証を立ててはならない」「貪ってはならない」と続きます。その中でも「姦淫の罪」は、人間の持つ最も弱い部分が試される罪とも言えるでしょう。ですから、充分に警戒をしなければなりません。例えば、サッカーの試合で、選手が相手チームの選手を蹴ったり暴力行為を働くと審判がイエローカードを出したり、場合によってはレッドカードで退場を命じられます。しかし、サッカーの場合は、基本的に2試合ほどの出場停止で、再び試合に出られます。「姦淫の罪」は、サッカーの競技のようなわけにはいきません。その人の人生に大きな禍根を残し、場合によっては人生を破滅へと追いやられます。ですから、そうならないための徹底した対策をするように、語られています。Ⅱテモテ2:22です。「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」

●2026年9月27日礼拝メッセージ要旨              

マタイ5~7章は「山上の垂訓」と言われているイエス様のおことばです。主は、ガリラヤ湖の北西岸ではないかと言われている山で、群衆と弟子たちに語られました。マタイ5:1~16から「幸いな人」という題で一節ずつ見ていきましょう。

「八つの幸い」…まず3節「心の貧しい者は幸いです」と言われました。このときの「心」は、英語聖書ではspirit、ギリシャ語原語でも「霊」の意味です。ただ、日本語で「霊の貧しい人」というのは伝わりにくいので「心の貧しい人」と翻訳されたと思われます。意訳するとすれば「自分の霊的な乏しさを自覚している人は幸いである」となるでしょう。次に4節「悲しむ者は幸い」です。案外、悲しみ、苦しみのあとに神様の慰めがあるものではないでしょうか。5節「柔和な者は幸い」です。尖って生きるよりは柔和に生きた方が断然うまくいくでしょう。6節「義に飢えかわく者は幸い」です。箴言21:21には「正義と誠実を追い求める者は、いのちと正義と誉れとを得る。」とあります。7節「あわれみ深い者は幸い」です。人間は弱いものです。互いに相手を思い遣り、助け合っていきましょう。8節「心のきよい者は幸いです」の「心」は英語の聖書ではheart、ギリシャ語原語も同じで、心臓や人格を意味します。「その人は神を見るから」とありますが、「真の神に出会う、神を知る」ということでしょう。9節「平和をつくる者は幸い」です。真の平和は救い主イエス・キリストを信じる信仰によって得られます。エペソ6:15には「足には平和の福音の備えをはきなさい。」とあります。10節には「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」とあります。八つの幸いのうち「天のみ国はその人のものだから」とされているのは最初の3節とこの最後の10節です。すなわち、「心の貧しさ」、自分の足りなさを自覚して謙虚に生きる人、そして、たとい義のために迫害を受けていたとしても、その人は天のいのちの書に名が記されているという最大の恵みがあるのです。

「喜びおどりなさい」…11~12節です。イエス様を信じる信仰のゆえに、ののしられたり、迫害されていたとしても「喜びおどりなさい」と言われています。使徒16章で、パウロは、自分たちの宣教活動を実質的に妨げている占いの霊につかれた女性に対して「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言うと、霊が出て行きました。そのため、商売が出来なくなった彼女の主人たちはパウロたちを訴え、パウロとシラスはピリピの牢獄に入れられます。しかし、彼らは獄舎の中で神に祈りつつ賛美の歌を歌いました。すると大地震が起こって、牢の扉は開き、鎖は解けてしまいます。目を覚ました看守は、囚人たちが逃げたと思い、自害しようとしました。そこでパウロは「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と言うと、看守は「先生方。救われるためには何をしなければなりませんか。」と言うと、パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言います。その後、その看守と家族は全員イエス様を信じてバプテスマを受けるのです。

「地の塩、世の光」…13節です。塩は、料理においても重要な役割を担っています。信仰的、霊的な意味において、キリスト者は塩気を保ち、世の腐敗をくい止める役目を担っています。14~16節、「あなたがたは世界の光です。」とあり、家の中の明かりは片隅にではなく、部屋の中全体を照らすところに置くべきです。そのように、人々の前で光を輝かせることが期待されています。大阪の某牧師さんは70才になったとき、気力を失いました。そこで「主よ。私を天に召すか、気力を与えてくださるかどちらかにしてください。」と祈りました。すると、その牧師さんに天からの力が注がれ、今もバリバリお元気で大活躍しておられます。私たちも主に祈り求め、聖霊充満されて「地の塩、世の光」とならせていただきましょう。

●2026年9月20日礼拝メッセージ要旨    

召天者記念礼拝ということで、Ⅰコリント15:50~58から「死は勝利にのまれた」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「血肉のからだは神の国を相続できない」…旧約聖書の最初には「 初めに、神が天と地を創造した。(創世記1:1)」とあります。創造主である全知全能の神様が、この宇宙と世界を創造し、そこに私たち人間を住まわせてくださっています。私たちは、この目には見えないけれども、全能の方によって、今、この時、生かされて生きているのです。ある人は「いいえ。私は自分で生きています。自分の力で歩き、自分で食事をして生きています。」と言われるかもしれません。それは大きな勘違いです。歩く力が与えられているので歩くことが出来、食欲も与えられているから食べることができるのです。創造主によって形づくられ、生かされている私たち人間ですが、そのまま死んで行くとすれば行き着く先は永遠の滅びです。血肉のからだは神の国を相続できません。ローマ3:10には「義人はいない。一人もいない。」とあり、ローマ3:23には「すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず」とあります。現時点での世界人口は約83億人です。83億人、正に一人残らず聖なる神の前に罪人です。しかし、朽ちるもの死ぬものが、朽ちないもの不死を着るならば、つまり、イエス・キリストの内にあるなら、終わりのラッパが鳴るときに死者は朽ちないものによみがえり、一瞬のうちに変えられるのです。

2.「死は勝利にのまれた」…死ぬものが不死を着るとき「死は勝利に飲まれた」と記されているみことばが実現します。今から、およそ2026年前、聖なる神のひとり子イエス・キリストが人としてこの世に生まれられました。そしてその約33年後、イエス様はローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに十字架に架けられ、苦しみを受け死なれます。そして、墓に葬られますが、死を打ち破り復活し、墓を出て40日間弟子たちの前に復活の姿を現わされます。そして天の父なる神様のもとに帰られ、さらにその10日後、すなわち復活から50日目に弟子たち120名ほどが祈っているところに聖霊様となって降られるのです。今からちょうど50年前、1976年4月26日のことです。筆者は、キリスト教会で行なわれた母親の葬儀に参列しました。そのとき筆者は未信者でした。葬儀のメッセージでは、私(筆者)の母はイエス・キリストを信じたので永遠のいのちを持ったということが語られたようです。その日の夕方、私はその母のお骨を火葬場から一時的に自宅に持って帰りました。私が死んだら、自分の魂がどうなるかを考えました。私に永遠のいのちの保証はありません。心が苦しくなりました。しばらくの時間を経て、私は降参しました。「イエス様。信じます。」と心の中で祈った瞬間、苦しみは完全に消え、大きな喜びと安心感が入ってきたのです。それ以来、私は教会に通うようになり、同年6月6日にバプテスマ(洗礼)を受けました。ガラテヤ3:27には「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」とあります。正にキリストを着て、喜びと平安と勝利が与えられたのでした。

3.「いつも主のわざに励みなさい」…イエス・キリストを信じたら、次は、堅く立って動かされることなく、歩んでいきたいと思います。特に、クリスチャンは日曜日の礼拝出席に全てがかかっていると言っても過言ではありません。イザヤ26:3には「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」とあります。主を信頼し、従ってまいりましょう。もちろん、人間は元々罪人であり、弱い者です。だからこそ、大事なことは「祈り」です。主を信頼し、主に祈り求めつつ、いつも主のわざに励むことが出来ますように。

●2026年9月13日礼拝メッセージ要旨    

マタイ4:1~25から「人はパンだけで生きるのではない」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「悪魔の試み」…マタイ3章ではイエス様(※以後キリスト)がバプテスマのヨハネからバプテスマを受けました。キリストは人として歩まれるために、公生涯を始める前に、バプテスマを受けられ、そして、悪魔の試みを受けられます。40日40夜断食して空腹を覚えられたキリストに近づいて悪魔は、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」と言います。キリストは「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。(申命記8:3)」と、聖書のみことばをもって応じます。次に悪魔はキリストをエルサレムの神殿の頂に立たせて、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる(詩篇91:11~12)』と書いてありますから。」と、なんと悪魔は聖書のみことばを使ってきます。するとキリストは「『あなたの神である主を試みてはならない(申命記6:16)』とも書いてある。」と言われます。すると悪魔は、キリストを非常に高い山に連れて行き、この世の栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と言います。するとキリストは「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ(申命記6:13)』と書いてある。」 と言われます。すると悪魔はキリストを離れて行き、御使いたちが近づいて来て仕えます。もちろん、キリストは一言葉で悪魔を退けることがお出来になるのですが、私たちの模範となるために、聖書のみことばをもって応じられました。

2.「ガリラヤへ立ち退かれた」…バプテスマのヨハネが捕らえられたことを聞いて、キリストはガリラヤに立ち退かれ、カペナウムに来て住まわれます。そこはゼブルンとナフタリとの境にある湖のほとりの町です。イスラエル12部族の族長であるゼブルンは6番目でビルハ(ラケルの女奴隷)の子です。ナフタリは10番目でレアの子です。彼らは12部族の族長たちの中で中心人物たちではありません。マタイ4:15~16にはイザヤ9:1~2のみことばが引用されていて、そのイザヤ9:2には「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」とあります。キリストが、その地に来られ、霊的な闇の中にいた人々にキリストを通して大きな光が照らされるのです。

3.「わたしについて来なさい」…キリストは、いよいよ宣教を開始され、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と第一声を語られます。正にキリストは「天の御国」そのものですから、確かに天の御国が近づいたのでした。そして、ペテロとアンデレに「わたしについて来なさい」と言われ、さらにヤコブとヨハネをお呼びになると、彼ら四人はすぐにキリストに従います。この後、彼らは12弟子の中でも中心人物となっていきます。今日、私たちは、毎日毎日、あるいは毎時毎分、目の前にある選択すべきことを決断しながら選択しつつ、前に進んでいるのではないでしょうか。右に行くか左に行くか、白を選ぼうか赤にするか、それは実に多方面にわたっています。つまり、私たちはそれぞれ、この世に生を受けてから今まで、自分の決断の積み重ねの結果として今の自分があるのです。エペソ2:10には「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」とあります。キリストに従って、ついていったペテロたち四人のようにキリストと聖書のみことばに従い、良い行ないに歩んでいきましょう。その道こそ、その人を永遠の祝福に導く最善の道です。

●2026年8月23日礼拝メッセージ要旨         

 マタイ3:1~17から「バプテスマのヨハネ」という題でポイント4つ上げていきます。

1.「荒野で叫ぶ者の声」…3節では、イザヤ40:3からの引用で「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」とあります。バプテスマのヨハネの役目は「主の道の用意」、つまり「救い主(メシア)が来られるので、その方を迎える準備をしなさい」ということです。ヨハネの父はザカリヤ、母はエリサベツ、ザカリヤは祭司で、神殿に入って香をたいていたとき、そこに主の使いガブリエルが現われ、ヨハネ誕生の御告げを受けます。しかし、ザカリヤは「自分も妻も年寄りで…」と、御告げを信じることができませんでした。それゆえ彼はヨハネが生まれるまで口がきけなくなってしまいます。結局、ヨハネが誕生して名前を付けるとき、板に「彼の名はヨハネ」と書いてから、話ができるようになったのです。要するに、イエス様を人々に紹介する役目を担ったバプテスマのヨハネは、確かに主に選ばれた信頼に値する人物であったということです。

2.「まむしのすえたち」…ヨハネは、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々に、悔い改めのバプテスマを授けました。それらの人々の中にパリサイ人やサドカイ人も大ぜいいました。ヨハネは彼らに「まむしのすえたち。~」と何の忖度もなく言っています。箴言17:15には「悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、【主】は忌みきらう。」とあります。私たちは、聖書の規準に従って、悪は悪、善は善であるとしなければなりません。女優であり、映画監督でもあり、ユダヤ教徒でもあるナタリー・ポートマンさんが、あるトーク番組に出演し、それがYouTubeで紹介されていました。その番組で、彼女は日本に留学した経験から、日本のことを聞かれ「日本は多神教(アニミズム的な原始宗教)の国であるのに美意識が高く、礼儀正しい、それゆえに日本はクレイジーである」と、そういった発言をしています。もちろん、美意識が高いことや礼儀正しいことは素晴らしいことですが、聖書は多神教=偶像礼拝は罪であるということを明確にしています。Ⅰペテロ4:3には「忌むべき偶像礼拝」と表現しています。

3.「聖霊と火とのバプテスマ」…ヨハネは11節で「~その方(イエス様)は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」と言っています。火のバプテスマとは何でしょう。火は熱く、物を燃やします。つまり、「聖霊によって心が燃える」ということでしょうか、それとも「聖霊によって心の中の罪や汚れを焼き尽くしていただく」ということでしょうか。ルカ11:13bには「~天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」とあります。私たちは主に祈り求め聖霊に満たされましょう。

4.「御霊が鳩のように下った」…さて、ヨハネは自分の所に来たイエス様に「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに」と言うと、主は「今はそうさせてもらいたい~」と言われます。そして、主が水から上がられると、天が開け、神の御霊が鳩のように下ります。そして、天から「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と、父なる神の声がします。ガラテヤ3:26~27には「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」とあります。天の父がイエス様を喜んだように、クリスチャンは神の子どもであり、聖霊を着ています。同じように、天の父がクリスチャンの存在を喜んでくださっています。もちろん、誰であっても人間は罪人であり、不完全で、弱い者です。だからこそ、私たちは主の御名を呼び求め、完全な方である聖霊様に来ていただいて、この方と共に喜びと安心の日々を過ごさせていただきましょう。

●2026年8月16日礼拝メッセージ要旨                     

 マタイ2:1~23から「ベツレヘムから(エジプト経由)ナザレへ」という題でポイント4つ上げていきます。

1.「背景、状況」…元々、ヨセフとマリヤはナザレに住んでいました。ルカ2章では、ローマ皇帝アウグスト勅令の住民登録のために二人はベツレヘムに来て、そこでイエス様がお生まれになります。その頃、東方の博士たちが星に導かれてエルサレムのヘロデ王の所に来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みにまいりました」と言いました。この博士たちは、よく「三人」とされていますが、もっと大人数だったと思われます。ヘロデ王は祭司長、学者を集めてキリスト(メシヤ)が何処で生まれるのかを問いただすと旧約聖書ミカ5:2から「ベツレヘム」であることが分かります。次に、博士たちに、星の出現の時間から何時生まれたのかを調べます。そして、「自分も行って拝むから詳しい情報を知らせてくれ」と、幼子を殺すために、心にもないことを言います。

2.「ヘロデ王」…ここでヘロデ王について簡単に説明します。彼の生涯はBC73年~BC4年、王としての在位はBC37年~BC4年、この時は60代後半だったと思います。彼はユダヤ人ではなく、イドマヤ(エドム)人の血筋で、ヘロデ大王と呼ばれ、BC20年頃より第二神殿の大改修に着手し、ユダヤ人の歓心を得ようとします。第二世代がアケラオとバプテスマのヨハネを殺害したヘロデ・アンテパス、第三世代がヤコブを殺しペテロを捕らえたアグリッパ一世、第四世代はパウロの弁明に立ち会ったアグリッパ二世です。その後、ヘロデ王は、東方の博士たちが自分の所に戻って来ないと、騙されたと思い、ベツレヘムとその近辺の2才以下の男の子を殺してしまいます。

3.「東方の博士たち」…博士たちは、ヘロデ王の所を出ると星に導かれ、幼子のいる家に入りました。そして、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげました。博士たちとしては、当時、最も高価な物を用意したということでしょう。このあと、ヨセフたちはエジプトへ、そしてナザレに行きますので、受けた贈り物が旅費や滞在費になったことでしょう。但し、結果として、キリスト降誕がヘロデの耳に入り、そのために危険が及んだのですが、イエス様は、世の権力者が治めるこの世に来られ、この世との関わりの中で十字架の救いを成し遂げられました。今日、私たちは、イエス・キリストの救いを受け入れ、キリスト者同士の交わりも大切にしながら、この世の人々と関わり、福音を証ししていきたいものです。

4.「ヨセフの家族」…ヨセフは、博士たちの来訪を受けたあと、夢で主の使いからエジプトへ逃げるように言われます。そして、ヘロデが死ぬと、今度はイスラエルに行くように言われます。しかし、ヘロデの子アケラオが治めていることを聞いて、夢で戒めを受けてガリラヤ地方に立ち退き、ナザレに行って住むことになります。23節には「これは預言者たちを通して『この方はナザレ人と呼ばれる』と言われたことが成就するためであった」とありますが、旧約聖書には直接「ナザレ」ということばは記されてはいません。よく考えてみますと、もし「ナザレ」とそのまま記されていると、「ベツレヘム」と同じように、住んでいる場所を特定される恐れが出てくるでしょう。さて、この後、ヘロデ王家は四代目で途絶えます。一方、ヨセフとマリヤはナザレに下ったものの、幼子イエス様は後に十字架において永遠の救いを成し遂げられます。ルカ1:51~53のマリヤの賛歌には「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」とあります。私たちは心高ぶる者ではなく、全知全能の創造主の前でも人の前でも謙虚であり続けましょう。

●2026年8月9日礼拝メッセージ要旨   

前回までは出エジプト記でしたが、今回から新約聖書です。まずはマタイ1:1~25から「イエス・キリストの系図」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「アブラハムの子孫、ダビデの子孫」…福音書は四つあります。このマタイの福音書はイスラエル人(ユダヤ人)向けに書かれたものであると言われています。ですから、まずイエス・キリストの出自、その出所を明確にするためにこの系図があるのでしょう。1節で「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」とあります。アブラハムは75才のとき、主なる神にカナンの地に行くように言われます。そのとき「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。(創世記12:3)」と、全ての民族の祝福の源となることを告げられます。そして、ダビデはイスラエルの最も優れた王であり、預言者を通して主はダビデに「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。(Ⅱサムエル7:12~13)」と言われました。つまり、キリストはダビデの子孫として生まれられます。実際に、ヨセフもマリヤもダビデの子孫です。

2.「四人の女性」…この系図の中にはタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻(バテ・シェバ)の四人が出てきます。タマルはユダの息子と結婚しますが、長男が死に、義弟としての務めを果たすために結婚した次男も死にます。ユダは三男も死ぬかもしれないと思い、タマルを実家に帰していました。かなりの日が経過してユダの妻が死んで喪が明けたとき、ユダの動向の知らせを耳にしたタマルは遊女の装いをしてユダの通る道端に座っていました。ユダはタマルとは知らず、その遊女のところに入ります。タマルは妊娠し、双子を産み、ペレツ(パレス)が系図を継ぎます。ハガルはエリコの遊女でイスラエルの二人の斥候を匿い、エリコの城が陥落した時に助けられ、サルモンと結婚しボアズを産みます。ルツはモアブ人でしたがナオミの息子と結婚したものの、やもめとなりました。結局、ナオミの故郷であるベツレヘムへ二人で来ました。そこでボアズとルツは結婚します。この二人のひ孫がダビデです。ダビデ王は立派な名君ではあるのですが、ウリヤの妻バテ・シェバと道ならぬことをして、さらに、自分の王としての立場を使ってバテ・シェバの夫ウリヤを前線に立たせ死に至らせてしまいます。イエス・キリストの系図で出て来るこれらの人々は、罪と過ちに覆われています。しかし、そういう罪に満ちた人間の世界にイエス様は来てくださり、むしろ、その罪からの解放の道を備えてくださった、そこに福音があります。

3.「イエス・キリストの誕生)」…18~25節は、それまでの系図から離れて、キリストの降誕が記されています。このときマリヤは聖霊によって身重になりました。婚約者のヨセフは正しい人で、このことを内密に去らせようとしましたが、主の使いが夢でヨセフに現われ、「マリヤの胎に宿っているものは聖霊によるものであり、妻としてマリヤを迎えなさい。生まれる男の子は、ご自分の民をその罪から救ってくださる方である」と語ります。確かに、罪の無い神の子として聖霊によって生まれるのでなければ救い主にはなれません。23節には 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)とあります。もちろん、イエス様は「インマヌエル」とは呼ばれていませんが、確かにイエス様は信じる者と共にいてくださる救い主です。マタイ28:20では「~見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言われました。

●2026年8月2日礼拝メッセージ要旨 

出エジプト記20:1~26からです。いよいよ十戒が記されている出エジプト記20章です。取り上げたい内容が多くある章ですが、今回もポイントを三つにしてまとめたいと思います。

1.「十戒の全体像」…この10の戒めのうち、第1~4戒は主である神に対する戒め、第5~10戒は人に対する戒めです。一人の律法の専門家がイエス様をためそうとして「先生。大切な戒めはどれですか。」と尋ねると、主はマタイ22:37~40で「そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」と言われました。つまり。「心を尽くして神である主を愛すること」は第1~4戒に相当すると考えてよいでしょう。また「隣人を自分自身のように愛する」ことは、第5~10戒に相当するでしょう。イザヤ書48:18には「あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。」とあるように、創造主である天の主は、私たち人間が幸せになり、正しく生きることを望んでおられ、それゆえに、この十戒を示しておられるのです。

2.「してはならない」と「せよ」…十戒の中で八つの戒めは「してはならない」、二つの戒めが「せよ」です。「してはならない」は「しない」ことによって守ることが出来ます。そうしますと、「せよ」という第4戒と第5戒が大切な戒めであると言えます。第4戒は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」です。第5戒は「あなたの父と母とを敬え」です。ですから、今日、日曜日(※)は仕事を休んで教会の礼拝に集まる。そして、父母を敬う。既に父母が他界している人は、身近な人から関わる全ての人を敬愛することです。(※安息日は土曜日ですが、今日、世界的に日曜日が実質的な安息日とされています。それはイエス・キリストが復活された、週の初めの日で、この日に復活されたイエス様は弟子たちに現われ、そこに不在だったトマスに現われたのも、その八日後の週の初めの日(日曜日)です。さらに、初代教会では、この日曜日に集まり、礼拝をしていたと思われます。【使徒20:7、及びⅠコリント16:2参照】)

3.「補足(第3戒、10戒+2戒)」…第3戒は「あなたは、あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。~」です。イスラエル人は、この戒めから、יהוה(ヤハウェ)の御名をアドナイ(主)に置き換えて言うようになり、正式な発音が不明になったと言われています。新約時代になって、イエス様が救い主として世に来られ、主の祈りを教えられたとき、マタイ6:9で「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。~』」と言っておられます。その後、イエス様は結局、十字架で救いを成し遂げられ、パウロはピリピ2:9で「それゆえ神は、この方(イエス・キリスト)を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」と言っています。ですから、今日、私たちは、イエス様の御名が崇められるようにしなければなりません。次に第10番目の「あなたの隣人の家を欲しがってはならない」の「欲しがる」とは心の中の罪です。全ての罪は、まず心の中から始まって行くのですから、この第10戒は、まとめの戒めと言えます。さて、十戒を語り終えられたあと、主はモーセに第2戒の「偶像を造ってはならない~」に加えて、「金銀で神々を造ってはならない」と言われています。偶像礼拝は、その背後にある悪霊との関わり(Ⅰコリント10:19~20参照)になります。ですから、本当に要注意です。それよりも、「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(出エジプト20:6)」という千代に至る恵みに目を留めていきましょう。

●2026年7月26日礼拝メッセージ要旨 

出エジプト記19:1~25からです。この章は、あの十戒が記されている出エジプト記20章の直前の章、19章です。「主は山(シナイ山)から彼(モーセ)を呼んだ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「宝の民となる」…エジプトを出たイスラエル人が第三の月入って、シナイ山のふもとに宿営していたとき、主は山からモーセを呼んだので、モーセは神のみもとに上って行きました。主はモーセに「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」と言われます。イスラエル人が主の声に聞き従うなら宝の民となり、祭司の王国、聖なる国民となる、ということです。新約聖書Ⅰペテロ2:9には「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあります。今日、私たちは、聖書のみことばによって整えられ、イエス・キリストの福音を証しさせていただきましょう。

2.「三日目のための用意」…三日目に、主がシナイ山に降りて来られるので、民は聖別されて着物を洗わなければならない、と言われます。実際、三日目には山は雷と稲妻と全山煙が立ち込めます。新約聖書Ⅰペテロ4:7には「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」とあります。確かに今は世の終わりに近づいています。私たちは、祈りのために心を整え、身を慎みましょう。同じⅠペテロ4:2には「こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」とあります。人間である以上、様々な欲望が無くなることはありません。その中で、神のみこころに心を向けていくことが求められています。次の出エジプト記20章では十戒が記されています。その第四戒は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」です。今日(こんにち)の、主にある教会においては、仕事を休み、イエス・キリストの御名によって礼拝をささげることです。特に「休む」ということは、日本において一般的に「怠慢」の意味に受け取られがちですが、適切に休むことによって、むしろ仕事の能率が上がるでしょう。今は、真夏の時期で無理は禁物です。適度に賢く休み、正しい理解において神のみこころに従いましょう。

3.「三日目の朝(当日)」…いよいよ三日目の朝になると、山の上に雷と稲妻と密雲、角笛の音が非常に高く鳴り響いて、宿営の中の民は皆、震えあがりました。13節にありますように、主は「雄羊の角が長く鳴り響くとき、彼らは山に登って来なければならない。」と言われました。しかし、あまりにも山が恐ろしい状態で、民は山に近づくことができません。しかし、その最中(さなか)にあってモーセは神のことばを受け、山を下って民に神のことばを告げることになるのです。こののち、アロンとその家系が祭司の役割を担っていくのですが、ここではモーセが実質的に神と人との仲介者、正に祭司的な役目を担っています。新約時代に入り、神の御子イエス・キリストがこの世に来られ、完全な仲介者、完全な大祭司としての役目を担うことになります。ヘブル10:26には「また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」とあります。私たち人間は聖なる神の前に罪人であり弱い者です。だからこそ完全な大祭司であるイエス様に助けていただきながら、日々、神のみこころを求めてまいりましょう。

●2026年7月19日礼拝メッセージ要旨 

出エジプト記18:1~27からです。この章では、モーセのしゅうとイテロが、先に送り返されていたモーセの妻と二人の息子を伴い、モーセに会いに来ます。ここから今回もポイント3つ上げていきます。

1.「モーセとイテロの再会」…モーセとイテロは再会し、互いに安否を問い合ったあと、天幕に入ります。そして、モーセはエジプト脱出からこれまでのことをイテロに話したことでしょう。たぶん、あの過ぎ越しの祭りの起源となった過ぎ越しの出来事、そして紅海が乾いた地となって、そこを渡った出来事などを中心に話したことでしょう。それを聞いたイテロは喜び、主をほめたたえ、主があらゆる神々にまさって偉大であると言いました。イテロはミデヤンの祭司でしたが、どういった宗教の祭司なのか、聖書には記されていません。このあと、12節で、イテロは全焼のいけにえと神へのいけにえを持って来ていて、アロンとイスラエルの長老たちとともに神の前で食事をしていますので、イテロは、イスラエルの神、すなわち全知全能の主に回心したのかもしれません。

2.「イテロの提言」…その翌日、モーセは民をさばくために、さばきの座に着いていました。ところが、さばくのはモーセ一人で、多くの民が順番待ちで朝から夕方まで立っているのです。そこで、イテロはモーセに対して率直に「あなたのしていることは良くありません」と言い、その解決方法を提言します。それは、「あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。(出エジプト記18:21)」と言います。これと少し似たようなことが新約聖書の使徒の働き6章で起こります。当時エルサレム教会の信徒は少なくとも5千人(使徒4:4)はいたようです。毎日の配給のことで彼らのうちのやもめたちがなおざりにされていました。そこで十二使徒は弟子たち全員を呼び集めて「御霊と知恵に満ちた評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」と言います。今日の教会においても、キリストにある信仰を土台とし、その上に立って、互いに与えられた賜物を提供し合い、協力してキリストのからだなる教会を建て上げていきたいと思います。

3.「しゅうとの言うことを聞き入れるモーセ」…ここでモーセは、しゅうとイテロの提言を素直に受け入れて実行に移します。イテロはモーセの義父ですが、モーセはこれまで全能の主とともにイスラエルの民をエジプトから導いてきました。つまり、全知全能の主への信仰は、イテロよりもモーセのほうが先輩になります。しかし、モーセは、ここでつまらないプライドはおくびにも出さず、しゅうとの提言を受け入れるのです。パウロはピリピ3:3~4で「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。」と言っています。神への信仰は大事ですが、人間的なものも無視することは出来ません。またパウロはⅠコリント9:23で「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」と言っています。優先順位は何か?決勝点はどこか?そういったことを見極め、イエス・キリストの父なる神を第一にして、この世にあっては関わる全ての人を敬愛し、人々の救いのために福音が伝わることを願い、求めてまいりましょう。