●2024年6月16日(日)礼拝メッセージ要旨 

今日は黙示録5:1~14からです。 「ダビデの根が勝利を得た」という題でポイント3つ上げていきます。 

1.封印を解くのにふさわしい者…天の御座に座しておられる方が右手に巻き物を持っておられ、その巻き物には内側にも外側にも文字が書かれ、七つの封印で封じられていました。そのとき、ひとりの強い御使いが大声で「巻物を開いて封印を解くのにふさわしい者はだれか」と言っています。巻き物を開くことのできる者が見つからないので、ヨハネは激しく泣きました。そのとき、ひとりの長老が「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根(イエス・キリストのこと)が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」と言います。この長老のひとりとヨハネのやり取りの中に一つの隠された奥義を見ることができるのではないでしょうか。それは、この黙示録に限らず、イエス・キリストを信じるクリスチャンは、聖書のことばを受け入れ、それを理解することが許されているということです。と言うのは、未信者の方々は聖書を受け入れることも、信じることもせず、第一、関心さえ持つことがないのが通常ではないでしょうか。そういう中で、神に選ばれた人々は、聖書を毎日読み、そして、そのみことばを信じて、自分の生活に反映させているのではないでしょうか。でも、それは、先に述べた巻き物を解くのにふさわしい方であるイエス・キリストの助けによっているのです。

2.立琴と香のいっぱい入った金の鉢…小羊が御座に座る方から巻き物を受取ったとき、四つの生き物と24人の長老は、立琴と香のいっぱい入った金の鉢を持って、子羊の前にひれ伏しました。この香は聖徒たちの祈りであるとしています。立琴については言及していませんが、「賛美、祈り、施しなど」は天に積まれた宝と言えるものではありませんか。詩篇141:2には「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。」とあります。マタイ6:20には「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」とあり、使徒10:4後半には「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」とあります。私たちは、主に賛美をささげ、祈りをささげ、そのほか主が喜ばれることを行なって、天に宝を積み上げましょう。そこは、錆びることも盗人に盗まれることもないのですから。

3.ほふられた小羊への賛美…ここでは、ほふられた小羊に対して賛美をささげる三種類のグループがいます。第一のグループは、四つの生き物と24人の長老。第二のグループは、多くの御使いたち。万の幾万倍、千の幾千倍と表現するほどに多くいます。第三のグループは、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物たちです。この三つのグループが最大限の表現で、ほふられた小羊を賛美しているのですね。なぜ、これほどまでにほふられた小羊であるイエス様を賛美しているのでしょうか。それは、ピリピ2:6~9を見ますと「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」と記されているとおり、イエス様は、ご自身が神であられる方であるのに、人間と同じようになられ、実に十字架の死にまで従われたからです。ローマ12:11には「 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」とあります。私たちのクリスチャン生活も、かれらと同じように、全力を尽くして主を賛美し、主に仕えてまいりましょう。

●2024年6月9日(日)礼拝メッセージ要旨  

少し振り返ってみますと、黙示録1章では、イエス・キリストの本来的なお姿が記され、2~3章では、当時の七つの教会について記されていました。4~5章では、この黙示録が啓示される発信源となる天の御座について記されています。そして、黙示録の本論は6章以降となります。今日は黙示録4:1~11からです。 

1.御座に着いておられる方…天の御座、言うなれば天国の本部のような場所です。そこから、この見える世界である全宇宙、全世界に様々な指令が発せられているのでしょう。ヘブル11:3には「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」とあるように、今は、私たちに天国は見えませんが、その見えない所の見えない方によって、この世界が創造されたのです。そして1節で、主がヨハネに「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」と言われました。天から、地を見ているのです。先日、筆者は、ある「祈りについての本」を読みました。その中に「天から地に祈る」という項目がありました。普通、私たちは、地から天に向かって祈ります。すると、人間ですから、やはり私利私欲(※とは言うものの、はばかることなく何でも祈り始めることが大事です)が入ります。でも「天から祈る」とは、神のみこころにかなっているかと思います。Ⅰヨハネ5:14には「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」とあります。なるほど、そういう祈りが「天から地に祈る」ということかもしれません。

2.四つの生き物…6~8節の「四つの生き物」とは、私たちの感覚からすると何とも理解しがたい表現です。それを見たヨハネは、このように表現するしかなかったのでしょう。この四つの生き物とほぼ同じ存在がエゼキエル書1:4~14にも記されています。また、イザヤ6章では「セラフィム」という名で記されています。イザヤが万軍の主を見てしまったということで「ああ、私はもうだめだ。くちびるのけがれた者で」と言うと、セラフィムのひとりが燃えさかる炭火を持って飛んで来て、イザヤの口に触れて「これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」と言います。さて、その四つの生き物の回りも内側も目で満ちていたとあります。益々理解不能に陥ります。ある解説書では、「天からこの地を無数の目で見張っているのかもしれない」というものがありました。そして、それらが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」と昼も夜も絶え間なく叫び続けたのです。そのように、天の御座、そしてそこに座しておられる方は、あまりにも聖なる方であり、この地上に住む被造物である私たち人間が近づくことも出来ないのですが、ただ、聖なる神の御ひとり子イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、その尊い救いを信じ受け入れることによって、天の御国に入らせていただけるのです。

3.二十四人の長老…この4章の記事では、まず御座とそこに着座されている方がおられ、その近くに四つの生き物がいて、さらにその回りに24人の長老たちがいるということなのでしょう。この24人の長老たちは白い衣を着て、頭には金の冠を被っています。ある解説書では、同じ黙示録21:12~14から、イスラエル12部族とキリストの12弟子を表わすのではないかとありました。いずれにしても、彼らはきよめられ、天の御国にふさわしい何らかの貢献をした人たちかと思います。その彼らが、四つの生き物たちが栄光、誉れ、感謝をささげるときに、主の前にひれ伏して、自分の冠を投げ出して主を称えるのです。この姿勢は素晴らしいですね。金の冠を受ける栄誉を決して誇ることなく、ただただ主に栄光を帰す姿勢は、私たちが見習わねばならない姿です。ピリピ3:20には「私たちの国籍は天にあります。」とあるように、キリスト者は天国人です。天国人である私たちは、信仰の人、祈りの人として、天からこの地に遣わされている者として、主の栄光のために仕えてまいりましょう。

●2024年6月2日(日)礼拝メッセージ要旨  

黙示録3:1~22からです。黙示録2章では、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラの四つの教会を取り上げていました。この3章では、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤの三つの教会を取り上げています。 

1.サルデスの教会について…サルデスの教会は、1節で「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」と厳しいことを言われています。肉体的に生きていても、霊的に死んでいるということです。霊的に死んでいるとは、この世の罪、例えば偶像礼拝、不品行、酩酊、その他の悪事の中に埋もれているということです。マタイ5:13には「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」とあり、クリスチャンはこの世の腐敗を防止するために「地の塩」としての役目が期待されています。さて、このサルデスの教会には、「その衣を汚さなかった者が幾人かいる」とされ、その人たちは称賛されています。箴言4:23には「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。私たちは、地の塩、世の光として、きよい歩み方を目指していきましょう。ときには、芳しくない道を歩むことがあるかもしれませんが、そのときは悔い改め、軌道修正して、主に助けられながら自分自身を見守ってまいりましょう。

2.フィラデルフィアの教会について…フィラデルフィアの教会は、先に述べられているスミルナ教会と似ていて、ユダヤ人だと自称しているが実はそうではなく、サタンの会衆に属する者たちから何らかの迫害を受けていたのでしょう。しかし、フィラデルフィア教会の人たちは、「わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった」と褒められています。マタイ10:32には「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」とあります。私たちは、いつでもどこでも機会があれば、自分がクリスチャンであること、イエス様を信じていること、キリスト教会に行っていることなどを告白しましょう。そして、この黙示録3:11では「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」と言っています。「持っているもの」とは、救い主イエス・キリストを信じる信仰です。この信仰のゆえに莫大な永遠の富をキリストとともに共同相続するのです。これを決して手放してはなりません。

3.ラオデキヤの教会について…この一連の七つの教会、最後のラオデキヤの教会です。「あなたは熱くも冷たくもない。生ぬるい。」と言われています。また、ラオデキヤ教会は「自分では富んでいると思っていても、みじめで、哀れで、貧しくて、盲目であることを知らない。豊かな者になるために、火で精錬された金と白い衣と目薬を買いなさい。」と言われています。当時のラオデキヤは経済的には潤っていたようです。しかし、霊的、信仰的には乏しかったのです。そのため、霊的な意味において「豊かになりなさい。きよくありなさい。霊の目が開かれた者となりなさい。」と言われました。19節では「熱心になって悔い改めなさい。」と言われ、そして20節で「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」と、聖書の中でも有名な箇所が続きます。私たちが、イエス様を家に迎え入れ、共に食事をして交わり、会話を楽しむとすれば、それは大きな喜びと祝福です。つまり、主が私たちに願っていることは、私たちが世の事だけに時間を割くのではなく、イエス様に心を向け、主と交わる時間を十分に持つということです。ヨハネ15:5には「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」とあります。この世のものとか、自分の気合などは当てになりません。私たちは、主と交わって、そこから恵みを受け、主とともに歩んでまいりましょう。

●2024年5月26日(日)礼拝メッセージ要旨  

黙示録2:12~29からです。黙示録2~3章は、当時の七つの教会の現状を取り上げています。先々週はエペソ教会とスミルナ教会でした。本日はペルガモ教会とテアテラ教会を取り上げます。 

1.ペルガモ教会について…ペルガモにはサタンの王座があるとのことで、何らかの偶像礼拝の拠点があったのでしょう。そのため、主の忠実な証人であるアンテパスが殉教したのです。しかし、ペルガモの教会の人々は、信仰を捨てることはしませんでした。現在、日本においては実質的な迫害はありませんが、今後どうなるかについては分かりません。たといどうであれ、私たちは、恐れることなく、主への信仰を守り通していきましょう。さて14節で、ペルガモ教会には「バラムの教えを奉じている人々がいる」と指摘されています。この節の内容から、民数記25章で、イスラエル人が不品行と偶像礼拝に陥り、神罰で24000人が死んだのは、バラムがバラクに何らかの悪知恵を授けた結果だということを推測できます。昔も今も、同じように言えることです。私たちは、不品行と偶像礼拝に陥らないように気を付けましょう。さて17節を見ますと、「勝利を得る者には隠れたマナと白い石を与える」と言っています。隠れたマナとは霊的な食物、霊的ないのちの糧、もしくは永遠のいのちのことでしょう。白い石とは、当時の裁判で陪審員が被告に対して無罪を示すために白い石が使われたようです。そこから、白い石とはイエス・キリストを信じる信仰によって罪赦され、義とされるということでしょう。また、その白い石には新しい名が書かれていました。ルカ10:20には「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」とあります。クリスチャンは、イエス・キリストの十字架の救いによって罪赦され、義とせられ、いのちの書に名が記されているのです。

2.テアテラ教会について…テアテラ教会は「愛と信仰と奉仕と忍耐があり、近頃の行ないが初めの行ないに優っている」と褒められています。私たち人間は、この世に生を受け、子どもから大人へと成長をします。それは体の大きさだけではなく、人間性の成長も含まれます。同じように、キリスト者は、新生してから霊的な成長が期待されています。Ⅰペテロ2:2には「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。聖書のみことばを吸収して成長し、救いの達成をするということは大事なことです。この同じⅠペテロ2:9には「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあり、祭司の務め、すなわち、人々を執り成し、福音を宣べ伝えるという段階に引き上げられたら幸いです。しかし、このあとテアテラ教会は「イゼベルという女をなすがままにさせている」と言われています。Ⅰ列王記16:31に記されているイゼベルと同じような女性が存在していたのでしょう。シドンの王エテバアルの娘イゼベルは北イスラエルのアハブ王と結婚し、夫アハブを通して、北イスラエルに少なからぬ悪影響を及ぼしました。但し、テアテラ教会には、このイゼベルという女の悪影響を受け入れていない人たちもいました。そこで黙示録2:25で「ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。」と勧められています。私たちは、悪いことば、無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどの捨てるべきものは捨て、持っていなければならないものは最後の最後まで手放さないようにしましょう。ヘブル12:2には「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」とあります。救い主イエス・キリストから目を離さないでいましょう。

●2024年5月19日(日)礼拝メッセージ要旨 

ペンテコステ記念日に因み、使徒の働き1:1~11から「わたしの証人となります」という題でポイントを3つ上げていきます。 

1.聖霊のバプテスマ…私たちが信じている天地創造の真の神は三位一体なる、父、子、聖霊なるお方です。そのことに関連して、レビ記23章にはイスラエル人が守るべき三つの祭りについて記されています。過越しの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りです。仮庵の祭りは、イスラエルの民が出エジプト後、カナンの地に定着するまでの天幕生活を忘れないようにするための行事です。永遠の天の御国から見たこの地上は仮の宿のようで、一時的なものです。また仮庵の祭りの時期は秋の収穫の時期と重なり、食物が豊富です。つまり、天の父は永遠の方であり、豊かで、恵み深くあわれみ深い方です。次に、過ぎ越しの祭りは出エジプトの際、子羊の血を二本の柱とかもいに塗り、それによって神の怒りが過ぎ越したことを覚える行事です。それは神の御子イエス・キリストの十字架の救いの予表でもありました。さて、過越祭の七週間後に行なわれる七週の祭り(初穂の祭り)と時期を重ねて起こったのが、聖霊降臨と初代教会誕生です。今日、ペンテコステ(五旬節=7×7+1=50)記念日とされています。それが使徒の働き2章に詳しく述べられています。それ以来、今日まで聖霊の働きによって世界中に福音が宣べ伝えられ、キリスト者である私たちもその恵みに与りました。使徒2章のような激しい体験が無くてもエペソ1:13には「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」とあり、それぞれの心に聖霊の証印をいただいているのです。

2.わたしの証人となります…使徒1:8には「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」とあります。聖霊を受け、力を受けるのは主の証人となるためです。創造主である真の神は、私たち一人一人に生まれながらの賜物を与えてくださっています。そしてイエス・キリストを信じてから、さらに聖霊の賜物を分け与えてくださっています。Ⅰコリント12章には、同一の御霊が、人それぞれに各種の奉仕の賜物、知恵のことば、知識のことば、信仰、いやしの賜物、奇跡を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力を与えてくださると言っていて、同章の最後の31節では「より優れた賜物を熱心に求めなさい」と加えています。そして次の13章は「愛の章」で、さらに次の14章1節では「愛を追い求めなさい」と言っています。すなわち、より優れた賜物は愛であり、その愛を求めよ、と言っているのです。Ⅰコリント13:4には「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」とあります。私たちは聖霊に満たされることを願い、祈り、神の愛に満たされ、寛容、親切、謙遜を身に着け、主イエス・キリストの証人とされましょう。

3.またおいでになります…キリストは、弟子たちに聖霊のバプテスマを約束したあと、雲に包まれて天に上げられました。そして、そのときと同じように、今度は再びキリストがこの地上に再臨されるのです。ヘブル9:27~28には「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」とあります。特に「彼を待ち望んでいる人々」という部分に注目しましょう。キリストの再臨を待ち望んでいるでしょうか。再臨について使徒1:7では「いつとかどんなときとか知らなくてよい」とあります。再臨研究に没頭するのではなく、マタイ24:14には「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」とありますから、私たちは、再臨を待ち望みつつ、聖霊充満され、神の力を受けて、福音宣教に励む。そこに焦点を当ててまいりましょう。

●2024年5月12日(日)礼拝メッセージ要旨  

黙示録2:1~11からです。1章では、著者のヨハネに対して、この黙示録が示される源であるイエス・キリストの恐ろしいほど力強い本来のお姿が記されています。そして、2~3章では、当時の七つの教会について言及されています。本日は、そのうちの二つの教会、エペソ教会とスミルナ教会について、良い点、問題点、また励ましのことばなどを通して、地域と時代を超えて、現代の教会、そして私たちの教会も比較、対照しながら、教えられ、整えられてまいりましょう。 

1.エペソ教会について…エペソ教会は、イエス・キリストの御名のために忍耐し、ニコライ派という誤った教えに対して妥協しなかったということが評価されています。しかし、4節で、「初めの愛から離れてしまったという点についてお叱りを受けています。クリスチャンは基本的に救い主イエス・キリストを信じ、そのことを公に明らかにするためにバプテスマを受けます。そして、その信仰を維持し、守り通して行くのですが、当然のごとく試練があり誘惑もあります。それから守られるために、当教会では昨年まで「WWPP」という標語を掲げていました。礼拝、聖書のみことば、祈り、福音宣教(証しの生活)に勤しむことによって守られようということです。もちろん、人生色々、人間は強くありません。だから、5節で言われているように「それで、あなたはどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。」と語られています。つまり「悔改める」ことが大切です。そして、7節では「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」とあります。私たちは、聖書のことをしっかりと聞き、天のパラダイスで、いのちの木の実をいただくという素晴らしい祝福に与る者とならせていただきましょう。

2.スミルナの教会について…スミルナの教会は「苦しみと貧しさの中にあったけれども実際には富んでいる」と言われています。現在、円安が進み、金の価格が高騰しているようです。黙示録21:21には「都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった」と記されています。私たち人間は、ほんの一時期、仮の宿のような、この地上の生活の中にいます。少しばかり貧しくても大した問題ではありません。また逆に富んでいるとしても、永遠の視点からすれば、ほんの一瞬のことです。さて、9~10節で、スミルナの教会は、「ユダヤ人と称しているが実はサタンの会衆である人々からののしられ、苦しみを受けるけれども、恐れてはいけない。死に至るまで忠実でありなさい。」と言われています。もう44~5年も前、母教会でのことですが、筆者はそれまで人前で説教を語ったことがなく、ある集会(訓練のためという意味合いもあったと思う)で初めて伝道メッセージを語ることになりました。そのときのプレッシャーは大きく、聖書から励ましのことばを探していました。そのときです。この10節の「死に至るまで忠実でありなさい」というみことばに励まされ、メッセージに立ったのです。もちろん、みことばの原意とそのときの筆者の立場とは程遠いものかと思います。そして、11節です。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」とあります。第一の死とは肉体の死、第二の死とは霊魂の死、すなわち永遠の滅びの刑罰があるということです。私たちは聖書のみことばに聞き従い、まことの勝利を得、第二の死から免れ、永遠のいのちを受ける者とならせていただきましょう。

●2024年5月5日(日)礼拝メッセージ要旨  

黙示録1:9~20から「人の子のような方が」という題でポイント3つ上げていきます。 

1.神のことばとイエスのあかしのゆえに…ヨハネは福音宣教のゆえに、迫害を受けてパトモス島に島流しをされていました。Ⅱテモテ3:12には「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあります。5月3日は憲法記念日でした。一昔前は、その平和憲法の恩恵を皆が感じていたような空気があったと思うのですが、この頃では「憲法改正」を叫ぶ風潮が前に出てきているのではないでしょうか。その槍玉に挙げられているのが憲法九条です。しかし、護憲派としては、九条を皮切りに、変える必要のない他の部分に手を付けてほしくないという思いがあります。特に、憲法20条です。信教の自由が阻害されるような暗黒の国になってはなりません。もちろん、たといどのような時代になろうとも、私たちはキリスト・イエスにあって敬虔に生きる道を進んでまいりましょう。

2.人の子のような方が…ヨハネは、主の日に御霊に感じ、自分の背後からラッパの音のような大きな声を聞きました。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会に送りなさい」と言われます。そして、その声の主を見ると、それは、13~16節に言われているように、圧倒的に力強く、完全で、恐ろしいほどの方を目にすることになったのです。実際、ヨハネは衝撃を受けて、その方の足元に倒れて死者のようになりました。イエス・キリストは私たちの罪をその身に負うために弱さを持つ人間と同じようになられましたが、今現在のキリストは、永遠から永遠に力強く、完全で、恐ろしいほどの方です。それに比べ、我々人間は、弱く、欠けだらけで、罪人です。でも、それでよいのです。むしろ、私たちは、自分の弱さ、欠点、罪人であるということを認めて、救い主であるイエス・キリストに拠りすがりながら歩むところに真の勝利があるのです。

3.七つの星と七つの燭台…第2のポイントの「人の子のような方」は、七つの金の燭台の真ん中に立ち、右手に七つの星を持っていました。そして、20節では、「七つの燭台は七つの教会」、「七つの星は七つの教会の御使いたち」と言っています。エペソ1:22~23には「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」とあります。キリストをかしらとする教会にキリストが満ち満ちているのですから、私たちは教会に集まることを大事にしましょう。そして、「七つの教会のみ使い」です。少々説明が難しいのですが、み使いは主に仕えているはずです。2011年3月11日の午後2時46分に東日本大震災、大地震が起こりました。その時、筆者の妻は宮城野区田子にある商店で買い物を済ませたばかりでした。咄嗟に思ったことは、海のそばの教会兼自宅にいる夫である筆者のところに戻らなければならないということでした。彼女は、(田子と仙台港付近を南北に結ぶ四車線道路を)多くの車が渋滞しながら海側から内陸側に避難しているところ、一人だけ車を海に向けてひたすら走り、筆者のところに来たのです。そして、筆者はその妻と共に、今度は七北田川沿いの道路(他の車は全く無し)を内陸に向かい、岡田に抜ける橋を渡ったところで、七北田川をさかのぼる第一波の津波(その時点では小津波も、その後、大津波となった)を見たのです。結局、私たちは無事だったのですが、後から考えると、想像ですが、主に遣わされたみ使いが、私たちを助けたかもしれません。そうです。これからも、私たちは、キリストのからだなる教会に連なり、主と聖霊と、み使いに助けられながら歩んでまいりましょう。

●2024年4月28日(日)礼拝メッセージ要旨  

きょうから黙示録に入りました。本日は黙示録1:1~8からポイント4つ上げていきます。 

1.この預言のことばを心に留める人々は幸いです…1節で「これは、すぐに起こるはずのことをそのしもべたちに示すため」とあります。この黙示録が書かれてから、2千年近くが経過しています。2千年を「すぐに」とは言わないでしょうから、この黙示録で示されている6章からの預言(七つの封印)が、ヨハネの時代直後から始まって今日に至っていると思われます。4月3日、台湾の花蓮で大きな地震がありました。それに関連して沖縄では3メートルの津波が予想されていましたが、幸い、予想は外れて軽度の津波で終わりました。天気予報もですが、度々外れることがあります。それは仕方ありません。さて、聖書の預言はどうでしょう。例えば、イザヤ7:14ではキリストの処女降誕が預言され、その約700年後にその預言が成就しています。イザヤ53:1~9では、イエス・キリストの十字架の場面が預言され、やはりその約700年後に成就しています。また、イスラエルが再建される預言がエゼキエル11:17で預言され、1948年にイスラエルが独立宣言を果しました。つまり、聖書の預言は、その通りに成就していくということです。であるならば、私たちは、聖書、黙示録の預言のことばを心に留めるべきなのです。

2.七つの教会へ…この七つの教会はアジアにあるエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤです。アジアとは小アジア、今のトルコにある教会ということになります。しかし、完全数7を用いた「七つの教会」という表現から、地域と時代を超えて、全ての主にある教会に向けたものであると受け止めて間違いないでしょう。教会とは建物のことではなく、イエス・キリストの名によって集まる人々のことです。5節で「キリストは私たちを王国とし祭司とした」とあります。このことはⅠペテロ2:9の「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」と一致します。今日、キリスト者は、この世における身分は高くないかもしれませんが、霊的には高い地位にある王である祭司なのですから、人々を執り成し、福音を証しするために召されているということを自覚すべきです。

3.見よ、彼が雲に乗って来られる…先日、イランがイスラエルを攻撃し、イスラエルはその後、イランの軍事施設を攻撃し、いよいよ世界も終末の様相を色濃くしたという印象です。今後、イスラエルはどうなっていくのでしょう。エゼキエル39章の北からの大集団によるイスラエル侵攻の記事、あるいはダニエル9:27の荒らす憎むべき者の七年の契約の記事がまだ成就していませんから、少なくとも一旦は平静を取り戻し、その後、時が来て「キリストが雲に乗って来られる」はずです。そのキリスト再臨の時、地上は大変な状況になるでしょう。そのことがマタイ24:30節と31節に記されています。ある人々は悲しみながらキリストが雲に乗ってくるのを見ます。一方、別の人々は、再臨のとき選びの民として天に引き上げられます。そうです。私たちは、前者ではなく、後者の人々、すなわち、キリストの再臨を待ち望む人々でありたいと切に願います。

4.アルファでありオメガである…8節には「神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」とあります。イエス・キリストは永遠から永遠の方です。この方の前に私たちは限定的にこの地上に生かされています。しかし、キリストの十字架による救いを受け入れたならば、罪の赦しと永遠のいのちが与えられ、この地上では、創造主と救い主キリストの目的のために生きるようになるのです。ですから、何をするにしても神の栄光を求め(Ⅰコリント10:31)、関わる人々の徳と益を計り、また人々がイエス・キリストの救いに与ることができるように心を注ぐ者とならせていただきましょう。

●2024年4月21日(日)礼拝メッセージ要旨  

ユダの手紙1~25から、「自分自身を築き上げる」という題で、ポイント3つ上げていきます。聖書にはユダという名の人物は何人か出てきます。この手紙のユダは、ヤコブの兄弟であると言っています。キリストの12弟子のヤコブの兄弟はヨハネですから、おそらく主の兄弟ヤコブの弟であるユダということでしょう。  

1.神の恵みを放縦に変えるな…桜の最盛期は終わりましたが、木々の若葉が出始めの良い季節になりました。正に神の恵みを感じます。創造主である真の神は、あらゆる恵みを私たちに与えてくださっています。多くの恵みの中で最も大きな恵みは神のひとり子イエス・キリストの十字架の救いです。ローマ3:23~24には「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」とあり、キリストによって罪の赦しという大きな恵みを無代価で受けることができるのです。ヨハネ8:1~11では、一人の女が姦淫の現場で捕らえられ、パリサイ人、律法学者がキリストに詰め寄り、「律法によるならば、この女を石打にすべきだ」と言います。するとキリストは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われると、その場に誰もいなくなりました。そこで、主は「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」と言われると、彼女は「だれもいません。」と言い、そこで、イエス様は「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。「罪に定めない」としつつも、キリストは「今からは決して罪を犯してはなりません。」と戒めることを怠りませんでした。神の大きな恵みを放縦に変えてはなりません。

2.思い出させたいこと…ユダは、手紙の読者に「あなたがたに思い出させたいことがある」として、出エジプト後、不従順のゆえに約束の地カナンに入れなかった人々、堕落した天のみ使い、ソドムとゴモラで滅ぼされた好色と不自然な肉欲に支配された人々、そのほかカイン、バラム、コラなどが挙げられています。これらの者たちは神のさばきを受けたのです。聖書が語っていることは、おとぎ話でも神話でもありません。たんたんと真実が語られているのです。それならば、私たちは、神の裁きから逃れなければなりません。そのために救い主イエス様を信じることです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます(使徒16:31)」

3.自分自身を築き上げる…円安が進み1ドル154円になりました。円安になった原因は、ある見立てによると、日本の国力が弱くなったからだということです。確かに少子高齢化と言われています。小泉・竹中時代の郵政民営化など構造改革の悪影響、また消費税導入によるものであるとする見方もあります。ここで、聖書を信じる筆者の見立てです。国が栄えるか否か?それは、全知全能の神の祝福があるかないかにかかっています。つまり、正しい政治が行われているかどうかです。最近で言うなら、自民党の裏金問題、税金さえ課されないとは何ということでしょう。その一方で、ある70代の一般女性が知人からもらった稲荷寿司パックを持っていたら、警察に万引きを疑われて三日間拘留されたということです。箴言17:15には「悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、【主】は忌みきらう。」とあります。善を善、悪を悪としてこそ、国としての体を保つことが出来るのではないでしょうか。そして何より、悪い政治が横行するような国を、全能の神が祝福することは出来ません。個人についても同じです。私たちは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせるイエス・キリストのあわれみを待ち望んでいきましょう。