出エジプト記5:1~23から「モーセとアロン、パロの所へ」という題で、ポイント3つ上げていきます。
1.「モーセとアロン、パロの所へ(1~5節)」…4章の最後の箇所で、モーセとアロンはイスラエルの長老たちに、それまでの経緯を伝え、理解を得、彼らから支持を受けた形となります。そして、いよいよパロ王の所へ行きます。モーセとアロンはパロに、「主はこう仰せられます『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ』」と言います。パロは当然のように拒否します。それは、最初から主がモーセに「わたしはパロの心をかたくなにする」と言われていた通りになります。ここで5節について、新改訳聖書第三版では「見よ。今や彼らは、この地の人々より多くなっている~」とありますが、2017年訳聖書では「見よ。今やこの地の民は多い~」となっていて、いわゆる意訳をせず、原語をそのまま訳しています。確かに、第三版訳ですと、「イスラエル人がエジプト人よりも多くなっている」ことになりますから、それはないでしょう。ですからここは、「自分たちイスラエル人が多くなってきたので、その勢いで労役を止めさせようとしている」という意味であるとしたほうがよいかもしれません。ここでは、モーセとアロンによるパロ王との折衝(交渉)は始まったばかりで、そのスタートラインに着いたと言えます。ここから長期間の忍耐が必要になってきます。ヤコブ1:3~4aです。「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。~」
2.「パロの反撃(6~18節)」…パロはモーセらの訴えに対して拒否しただけではなく、実効性のある反撃をします。それは、「レンガに混ぜ込むワラを与えず、イスラエル人自らワラを用意し、しかも、これまで通り仕上げるレンガの数を減らしてはならない」ということです。その背後には、全能の主が働いてパロの心をかたくなにしていると思われるのですが、ここで、一般的な私たち人間の行動のあり方について考えてみましょう。よく「知情意」と言われています。知性、感情、意志の三つが働いて我々人間の行動となって現れるとされています。イエス・キリストの父なる神を信じ、この方を恐れて行動するクリスチャンは「知情意」に「主のみこころ」、または聖書のみことばが加わるでしょう。よく言われるのは、「感情に負けて自分を見失わないように」ということですが、感情とか感性の部分が何でも悪いというものでもありません。それも神様が人間に与えてくださっているもので、それはそれで認めつつ、その上で、どうあるべきかということでしょう。基本的に私たちは、毎日の生活を喜び、楽しみながら許される限り平穏に、そして主と共に過ごしていきたいものです。
3.「人夫がしらたちの抗議(19~21節)」…イスラエル人たちにとっては、これまでも十分に苦役を課せられていたところに、モーセとアロンがパロに要望を突き付けたことにより、自分たちに課せられた苦役がさらに厳しいものになっていきます。人夫がしらたちがパロに抗議しに行き、そこを出たときに彼らはモーセとアロンに出会い、二人を責めます。そのあとモーセは主のもとに戻り、「主よ。なぜあなたは、この民に害をお与えになるのですか。何のために私を遣わされたのですか。」と訴えます。モーセとアロンの立場は正に、パロとイスラエル人の間に立つ仲介者です。それは、今日(こんにち)、神と人との間に立って執り成すクリスチャンの姿でもあり、その原点はイエス・キリストの十字架の贖いに見られるものです。Ⅰテモテ2:1~5です。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」