●2021年5月9日(日)礼拝メッセージ「すべてのことを適切に、秩序をもって」 

第一コリント14:1~40からです。この章では、御霊の賜物である「預言」と「異言」に対する用い方について、記者パウロは丁寧に述べています。この二つの賜物だけでなく、全てのことについて適用できるキーワードとなる三つのみことばからポイントを上げていきます。

①「教会の徳を高める」(4節)…預言も異言も素晴らしい御霊の賜物です。預言は、聞く人が理解できる言語で語られます。異言は基本的に理解不能な言語で語られます。ですから、もし、教会で異言が語られる場合、解き明かす人が必要です。パウロは「自分は誰よりも多くの異言を話すが、教会では自分の知性を用いて五つのことばを話したい」と言っています。それは、「教会の徳を高める」ということに目標を置いているのです。先日、当つばめさわ教会のご近所の方からの提供により、足踏み式オルガンを搬入しました。男性四人で、完全に人力で運びました。ふと、マルコ2:3に記されている四人の人が中風を患う人をイエス様のところへ運んだ記事を思い出しました。彼ら四人の目的は、一人の患者をイエス様のところへ連れて行こうという目的で一致していました。オルガン運搬も同じように、丁寧に扱って教会まで運ぶということです。誰か一人がサボっていたら上手に運べません。同じように教会の徳が高められる、言い換えますと、キリストのからだである教会が建て上げられるために私たちは、自分に与えられた賜物を捧げるということです。つまり、その人がクリスチャンなら、さらに成長できるように。また、まだ未信者の方なら、その人が救いを受けられるように心を配るのです。

②「ものの考え方において大人になりなさい」(20節)…子どもと大人の違いはなんでしょう。たいてい、子どもは自分のことだけにしか思いが向かっていかないでしょう。一方、大人は子供に比べると、周囲の人々に対して色々な配慮ができるようになるものです。本日は5月の第二日曜日、母の日です。出エジプト記20:12、申命記5:16、エペソ6:2~3などには「あなたの父と母とを敬え。」とあり、母の日の始まりは、これらのみことばがもとになっています。9月には敬老の日があります。聖書のことばとは直接的に無関係でしょうが、レビ記19:32には「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしはである。」とあります。母の日、父の日、敬老の日、それぞれ個別に贈り物などをするのは良いことでしょうが、教会ではいろいろな立場の人がいて、配慮しなければならないところがあります。要は、一年に一度のパフォーマンスで終わるのではなく、常日頃、敬うべき人を敬い、恐れるべき方(天の神様)を恐れるということが大事です。

③「全てのことを適切に、秩序をもって」(40節)…基本的に、人間関係を良好に保つためには、関わる人に対して悪口を言わず、むしろ、褒めたり励ましたりすることです。親の立場から、子供を育てるときも基本的に褒めて育てるのが良いでしょう。でも、子供は成長途上にありますから、何でもかんでも褒めるのではなく、間違ったこと、また、悪いことをしたら、戒めることも必要です。もちろん、大人も間違いや悪いこともしてしまいます。そのときは、やはり、その人のために愛をもって(難しいものですが)勧告できたらと思います。でも、たったお一方、どんなときも正しいお方がいます。イエス・キリストの父なる神様です。この方に対し、私たちはいつでも賛美し、ほめたたえるべきです。詩篇には何度も何度も「主をほめたたえよ」とあります。それは、私たちの主への賛美に対して、天の神様もきっとお喜びになっているはずです。イザヤ30:18には「それゆえ、はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」とあります。主を賛美する。そして、関わる全ての人に対しては、その人の祝福となるように接していく。そうするならば、私たち自身も主に祝福されるでしょう。は私たちを恵もうと待っておられるのですから。

●2021年5月2日(日)礼拝メッセージ「愛がなければ」 

●2021年5月2日(日)礼拝メッセージ「愛がなければ」 

第一コリント13:1~13から、ポイントを3つあげていきます。この章は「愛の賛歌」、「愛の章」とも言われ、キリスト教式結婚式においても、よく用いられています。第一コリント12,13,14章では、御霊の賜物について取り上げていますが、当時のコリント教会では、その御霊の賜物に対する健全な位置付けがされずにいて、この手紙の記者であるパウロは、賜物云々以前に、もっと大切な事、「愛」について言及しています。

「愛は寛容であり~」(4~8節)…1~3節では、どんなに素晴らしい賜物をもっていたとしても、愛がなければ何の値打ちもない、と言っています。そして、その「愛」とは何かについて語ります。アメリカの第16代大統領アブラハム・リンカーンは、奴隷解放の父とも呼ばれています。リンカーンの母ナンシーさんは、彼に毎日、聖書を読んで聞かせました。ナンシーさんはリンカーンが9歳のときに他界したのですが、亡くなる前に「エイブ。あなたは聖書をよく読み、聖書のみことば通り、神を愛し、隣人を愛する人になりなさい。」と言いました。1861年に大統領になったリンカーンは、その後、1863年に奴隷解放宣言を行なっています。そして、時は1963年のことです。リンカーンの奴隷解放宣言百周年記念大会がワシントンで行われました。そのとき、マルチン・ルーサー・キング牧師は「私には夢がある」という有名な演説をしています。「夢」というのは人種差別のない世の中になるということです。その翌年の1964年に公民権法が制定されました。つまり人種差別を禁ずる法律が施行されたのです。そのことがあって、キング牧師はノーベル平和賞を受賞しました。しかし、それを良く思わない白人過激派グループがキング牧師の自宅に爆弾を投げ込みました。そのときキング牧師は、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44より)」を引用し、「憎しみには愛をもって報いなければなりません。」と言っています。

「不完全なものはすたれます」(10節)…預言も異言もすばらしい御霊の賜物ですが、完全な場所である永遠の天の御国では、もう必要ありません。しかし、「愛」は、すたれることがありません。天国は神の愛によって成り立っていると言っても過言ではないでしょう。今は鏡にぼんやり映るものを見ているけれども、その時は顔と顔を合わせて見ることになるのです。これは、一般的なイメージとは真逆でしょう。一般的なイメージとしては、「今がはっきり、天国はぼんやり」でしょう。しかし、本当は「今がぼんやり、天国ははっきり」なのです。イエス様は天国の門です。イエス様の十字架と復活を信じ、御名を呼び求め、やがて、主と顔と顔を合わせるときが来るのです。

「信仰と希望と愛」(13節)…私たちの教会は、宮城野区蒲生に建物がありました。2010年11月に建物を増築したとき、大工さんが、道路わきに十字架塔も無償で建造してくれました。しかし、翌年の2011年3月11日に東日本大震災が発生し、大津波によって建物は完全に消失しました。ところが、十字架塔は頑丈なコンクリートの土台の故に、斜めに倒れ掛かっていたものの、そこに残っていたのです。4月5日、ボランティアの方々など約10名で十字架塔を敷地の中央北寄りに再設置しました。その後、あるとき、その十字架塔を見に来ると、なんと、線香の燃えカスが残っていました。一般の方々に十字架の意味を正しく理解してほしいと思い、クリスチャンの看板業者さんに依頼し、ステンレス製の立派なパネルをコンクリート土台部分に取り付けました。それには第一コリント13:13のみことば「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」を記しました。キリストを信じる「信仰」、キリストによって与えられる「希望」、キリストの十字架による「愛」は消えることはありません。私たちは、その中でも特に「愛(アガペー‹αγαπη›)に目を留め、主に祈り、助けていただきながら、少しでも、その愛を証ししていきたいと思います。

●2021年4月25日(日)第一礼拝メッセージ「イエス様との会食?!」 

黙示録3:14~22から、ヨハネがパトモス島で、主から当時の七つの教会についてメッセージを受けています。その最後、七つ目のラオデキヤ教会について言われていることから学びましょう。

「熱くありなさい(霊に燃える)」(15~16節)…先日、大阪のカニ料理店の店先に設置してあるカニのオブジェが破壊されたというニュースがありました。店主は警察に被害届を出したそうですが、その後、それを壊した若者が親と一緒に店を訪れ、謝罪をし、オブジェの修理費を支払ったのだそうです。店主はクリスチャンで、彼らを許し、ただちに警察への被害届を取り下げ、その加害者の若者をキリスト教会に連れて行ったのだそうです。若者は「また教会に来たい」と言っていたとのことでした。加害者を許すだけでなく、霊に燃えていないと、教会に連れて行くという発想は沸いてこないのではないでしょうか。クリスチャンは神と人とを愛するという使命を負っています。「愛する」ということは、人の魂の救いに心を注ぐことです。人々を教会に導いたり、福音を伝えたりすることは、神を愛することでもあります。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。(ローマ12:11)」

「豊かな者となる」(17~18節)…当時のラオデキヤは裕福な町で、金、着物、目薬などの商取引があったようです。主が、それらのものを引用して、「わたしから金、白い衣、目薬を買いなさい。」と、つまり、イエス様によって「霊的に豊かな者となりなさい。霊的に武装をしなさい。霊の目を開きなさい。」と言っておられるのです。

③「イエス様との会食」(20節)…霊的に豊かな者となるためにどうすればよいのでしょう。19~20節によると、熱心に悔い改め、戸の外に立っておられるイエス様を迎え入れて、共に食事をすることです。でも、実際に主と共に食事をするわけではありません。エゼキエル3:1(黙示録10:9)には「巻物を食べよ」とあります。ローマ10:17には「信仰は聞くことから始まる」とあります。キリストと共に食事をするとは、聖書のみことばをよく読んで、みことばを基準にして生きるということです。でも、私たちは、この世に生きている限り、この世の基準の影響を無意識のうちに受けてしまいます。最近、筆者は、当教会でも非接触式体温計を導入しようと、ネット販売を利用し、購入しました。早速、その体温計を試してみました。ほとんど常時、体調もよく、至って健康な筆者の体温は今まで低い方でしたが、その体温計だと低くて37度、高い時は38度以上を記録します。おかしいと思いながら、繰り返し調べているうちに、何か首のあたりがポカポカしてくる感じがしました。幸い、寝てすぐ直りましたが、このことを通して学んだことは、間違ったものを基準にしていると、体調まで悪化させ、やがて人生そのものを崩壊させてしまう危険があるということです。人間が生きるための正しい基準は聖書のみことばです。学校の教科書、新聞、テレビ、インターネットなど、そこから発せられている知識や情報は全て正しいわけではありません。私たちは、聖書のみことばに聞き、真の勝利を得る者とならせていただきましょう。

●2021年4月18日(日)礼拝メッセージ「キリストのからだ」 

第一コリント12:12~31から「キリストのからだ」という題で、キリストのからだである教会のあり方について、ポイントを3つ上げていきます。

①「からだは一つ」(12~20節)…教会には老若男女、色々な人が集まります。でも、イエス・キリストを信じる信仰によって、一つになれます。人の体には多くの器官があり、それらは異なった形や働きをしますが、同じ一つの体を形成しています。先日NHKテレビで「オープン・シェア革命」ということを取り上げていました。最初に、MLBのダルビッシュ投手がピッチングにおけるボールの投げ方(握り方)を公開しているということを取り上げ、次に、青山学院大学陸上部の原晋監督も、自チームの練習方法を公開しているということを取り上げていました。そんなことをすれば、他チームがそれを真似て強くなり、自チームにとっては不利になるはずなのですが、原監督は、陸上界全体のレベルアップのためには良いことであると考え、結果的には自チームにとってもプラスになると言っていました。聖書には「与えなさい。そうすれば自分も与えられます。(ルカ6:38)」、「受けるよりも与えるほうが幸いである。(ルカ20:35)」とあります。自分の持っている賜物をそれぞれ、分かち合って役立てる、という考え方は正に教会としてのありかたと重なります。

②「弱い器官、苦しんでいる部分」(22~26節)…人間の体で、運動面からみて一番弱い部分は頭部でしょう。頭部の中でも一番デリケートなところは目でしょう。でも、そのあたりは一番なくてはならない部分でもあります。また、体の中で一部が病んでいるとき、例えば歯痛などがあるとき、体全体がそこに集中し、痛みが無くなるまで落ち着かないものです。教会の中で、一人の人が苦しんでいるときは、皆がその人のために祈ります。クリスチャン新聞福音版5月号で、12世紀のイタリヤのアッシジの「フランシスコの祈り」が紹介されていました。その一部です。「憎しみのあるところには愛を。いさかいのあるところには赦しを。分裂のあるところには一致を。迷いのあるところには信仰を。誤りのあるところには真理を。絶望のあるところには希望を。悲しみのあるところには喜びを。」とありました。教会は社会の問題も含めて、様々な問題のために祈りましょう。ヨハネ14:14には「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」とあります。イエス様の名によって、信仰をもって弱っている人、病の人、問題解決のために祈りましょう。

③「あなたがたはキリストのからだです」(27節)…エペソ1:23には「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」とあります。クリスチャンは、不思議な神の導きにより、教会に集まり、教会の一員とされています。教会には3つの段階があります。まず、第一は個々の教会。第二は公同の教会、つまり世界中のキリスト教会です。そして、三つめは天上の教会です。先日私は登米市米山町平筒沼の桜を見ました。大きな沼(湖)の回りに桜が見事に咲いていました。それを見たとき、桜の木を何年か前に計画的に植えたであろう人たちのビジョンに感心しました。私たち一人一人も、自分の人生設計をしっかりと持たねばなりません。まずは、個々のキリストのからだなる教会に連なり、その器官となって、多くの実を結び、やがて務めを終えたならば、天上の教会(天の御国)に移されるのです。「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラテヤ6:8)」

●2021年4月11日(日)礼拝メッセージ「御霊の賜物」 

第一コリント12:1~10から「御霊の賜物」という題でポイントを3つ上げていきます。

「御霊による信仰の告白」(1~3節)…かつて、筆者はクリスチャンから見れば異教徒に属する者でした。子どもの頃の記憶ですが、神社での行事やお寺を会場にした行事に参加したことがあります。そのほか、世の風習に従い、今では決してしない偶像礼拝となるような行動をしました。それは確固たる動機からではなく、世の流れに流されていたに過ぎません。しかし、ちょうど45年前の4月に、その頃、先にクリスチャンとなっていた母の葬儀が終わった夕方、イエス・キリストを信じ受け入れました。そのとき、聖霊による著しい喜びと安心感を体験し、それが落ち着いた形で今日まで続いています。ですから、私たちが教会に連なり、聖霊の臨在を信じて聖霊に関わるということは、非常に大きな祝福であり、幸いなことです。第二コリント6:15には「キリストとベリアル(サタンを指すヘブル語で無価値の意)とに何の調和がありましょう」とあります。私たちは、本当に価値あることに関わることを求めてまいりましょう。

「御霊による奉仕と働き」(5~6節)…奉仕について、具体的にローマ12:6~8には「 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」とあります。働きついてはエペソ4:11に「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」とあります。奉仕と働きの明確な線引きは出来ませんが、いずれにせよ、それらは教会の益となるために同じ一つの御霊が与えて下さっているものです。

「御霊の現われ」(7~11節)…御霊の現われとして、「知恵のことば、知識のことば、信仰、いやしの賜物、奇蹟を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力」が列挙されています。当時のコリント教会は、こうした賜物に恵まれていたようですが、それらの賜物が健全に用いられないで、却って仲間割れの原因になったようです。本来は、与えられた賜物を用い、互いに謙遜に仕え合うべきでしょう。列挙された賜物は9つですが、ガラテヤ5:22~23には9つの御霊の実が列挙されています。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。御霊の現われよりも御霊の実のほうがはるかに大事です。有名なA社のCEOは4年連続で総資産世界一なのだそうで、なんとその額は19兆円なのだそうです。しかし、ここで、考えてみてください。19兆円と一人の魂の救いとどちらが大きいと思われますか。一人の魂です。クリスチャンはそれぞれに与えられた賜物を用い、滅びに向かっている人に福音を伝え、まことのいのちに与ることができるようにするという使命が与えられています。「私たちの体の細胞一つ一つは大都市のような構造と働きをしています。しかも数十億の細胞がお互いに助け合い、体全体として巨大なネットワークを形成しています。無限の英知と愛が込められた創造主の作品です。」とは、創造論宣教師として立っているT牧師の言葉です。クリスチャンには偉大な主が共にいてくださいます。主からの非常に尊い使命が期待されているのです。エペソ4:7には「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」とあります。キリスト者それぞれに御霊の賜物が与えられているのです。霊に燃え、主に仕えてまいりましょう。

●2021年4月4日(日)礼拝メッセージ「よみがえられたイエス様」 

イースター(復活祭)に因み、マタイ28:1~10を中心にイエス・キリストの復活について、ポイントを3つ上げていきます。

①「ここにはおられません。よみがえられたからです。」(6節)…日曜日の早朝、マグダラのマリヤらは、墓を見に出かけます。すると、その前に地震が起き、墓を塞いでいた石が取り除けられ、主の使いがそこに現われたので、ピラトから派遣された番兵たちは恐ろしさのあまり、死人のようになってしまいます。マリヤらがそこに到着すると、御使いが彼女らにキリストが復活したことを告げるのです。さて、このキリストの復活ということを整理しましょう。イエス・キリストは、神のひとり子、つまり、神ご自身でもあるのですから、本来、死ぬということはありえないことです。「復活」よりも「死」ということのほうが大きなニュースです。その十字架の死ばかりが強調されると、復活が陰に隠れてしまいます。そのためイースター(復活祭)の存在意義があるというものです。ところで、今、現在、イエス・キリストはどんなお姿でしょう。黙示録1:14~15では、燃える炎のような目、光り輝く真鍮のような足、大水のような声の持ち主であられ、恐ろしく力強い方です。この方が、信じる者を執り成し、助けてくださるのです。もう一つ知るべきことは、イエス・キリストの復活は初穂(第一コリント15:20)だったということです。つまり、キリストを信じる者も、キリストに続いて永遠に死なない体に復活するのです。

②「おはよう」(9節)…キリストは、墓を見に来たマリヤらに「おはよう」と声をかけています。英語の聖書ではrejoice(喜ぶ)ということばが使われています。原語のギリシャ語ではχαίρετεという「喜び」を表わすことばが使われていて、あいさつの言葉として使われるようです。ピリピ4:4の「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」という箇所でも使われている語と同じです。さて、昨年から今年にかけて、新型コロナウィルスの問題が続き、私たちの心に暗い影を落としています。しかし、今は桜の開花時期で、あちらこちらで見事に美しい桜を見ることができます。コロナ渦でありながら、美しい桜で、天の神様、イエス様は、私たちに喜びを与えてくれているのではないでしょうか。ちょうど、墓の前で主がマリヤらに「おはよう(rejoice)」と声を掛けられたことと重なります。ところで、最近、よく聞く言葉ですが、「自分を信じて」という表現を耳にします。たぶん、「自信を持って頑張ってね」というような意味で使われていると思います。でも厳密に解釈するなら、立派でもない自分を信じてどうするのでしょう。エレミヤ17:9には「 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」とあります。自分を信じて挫折するのではなく、その前に自分の弱さ、愚かさを悟り、完全な方であるイエス様を信じ、この主にあって喜びつつ生きるべきではないでしょうか。

③「恐れてはいけません」(10節)…イエス様は、マリヤらに「恐れてはいけません。」と言われたあと、彼女たちに、これからすべきことを言われます。そうです。キリストが復活したら、それで終わりではありません。むしろ、そこから、福音の宣教が始まっていくのです。弟子たちには、まずガリラヤに行くように彼女たちに伝えています。その後、弟子たちはガリラヤに行ってから、エルサレムに戻り、五旬節の日に聖霊を受けてから、本格的に福音宣教が展開されていきました。今日、私たちも、そのときそのとき、自分に与えられている成すべきことを一つ一つ行ないつつ前に進むのです。主は、このコロナ渦であっても、美しい桜を見せてくれているように、一方で「元気を出しなさい」と励ましてくれるのです。ローマ8:34には「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」とあります。復活の主が執り成してくださるのです。但し、私たちは今のコロナ渦の世にあって、マスク着用等、謙虚に予防対策をし、その上で、主を信頼し、恐れることなく、前に向かって進んでまいりましょう。

●2021年3月28日(日)第一礼拝メッセージ「十字架の奥義」 

今年2021年のイースター(復活祭)は4月4日です。そうすると、今週はキリストが十字架で死なれた受難週ということになります。そこで、本日はマタイ27:27~44から、キリストの受難を覚えて「十字架の奥義」という題で学びましょう。キリストの十字架によってもたらされる恵みは数えきれないでしょう。でも、頭の中で整理するためにも三つにまとめてお話しします。

「罪の赦し」…罪のない神の御子イエス・キリストが何のために十字架におかかりになったのでしょう。それは信じる者の罪を赦すためです。そもそも「罪」とは何でしょうか。悪いことをする。法律に違反する。そういったことも罪ですが、聖書で「罪」というとき、それは、その人の心の状態のことを言います。新約聖書のギリシャ語原語で罪のことをαμαρτία(アマルティア)と言い、「標的を射そこなう(的を外す)」という原意があります。言うなれば、的外れな人生を送ることが罪であるということです。この世界は自然や偶然に存在しているのではありません。創造主である真の神が天地を造り、そこに住む私たち人間を形造り生かしておられます。その創造主であり、聖なる神様を無視して生きることが罪であり、罪人に対して、神は正しい裁きを下すのです。しかし、神は人を愛し、その裁きから救い出すために、御子イエス・キリストを世に送り、十字架による救いの道を備えたのです。ローマ3:23~24には「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」とあります。私たちは、キリストの救いを信じ受け入れ、罪赦されて義とせられ、神の目的のために、神の栄光を現わすことを求めてまいりましょう。

「解放と自由」…キリストが十字架におかかりになったのは、私たちを悪魔の奴隷から解放するためです。今から3500年ほど前、BC(紀元前)1500年頃のこと、エジプトで奴隷になっていたイスラエル人が解放されました。解放の決め手になったのは過ぎ越しの出来事です。神の怒りがエジプト全土に及んだとき、イスラエル人の家の二本の門柱とかもいには傷の無い一歳の雄羊の血が塗ってあったので、神の怒りが過ぎ越しました。しかし、エジプト人の家は何もしていないので、神の怒りが及びました。それゆえ、イスラエル人はエジプトの奴隷から解放されたのです。ヘブル2:14~15には「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」とあります。悪魔の支配下にあって、死の恐怖におののきながら生きるのではなく、イエス様を信じて悪魔から解放され自由となり、永遠のいのちの希望と喜びの中を歩みましょう。

「豊かな人生」…イエス・キリストは、ベツレヘムで人として生まれられたとき、飼い葉おけに寝かされました。30歳の頃、公に人々の前に姿を現されたとき、「人の子には枕する所もない」と言われた通り、決まったご自分の家を持ってはいませんでした。最後は、何の罪も犯していないのに、鞭打たれ、つばきを掛けられ、罵られ、十字架にかけられました。第二コリント8:9には「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」とあります。キリストを信じる者は富む者とされるのです。キリストを信じて神の子どもとされ(ヨハネ1:12)て、キリストとの共同相続人となる(ローマ8:17)のですから、クリスチャンであるということは、永遠の莫大な富の所有権者なのです。但し、この世で生きている限り、色々な戦いや試練があるものです。しかし、キリストにある者は特別に扱われ、祈るとき、主がこたえてくださる(詩篇4:3)のです。そして、クリスチャンには、インンマヌエル(神は私たちと共におられる)と呼ばれるイエス様がいつも共にいてくださるのです。

●2021年3月21日(日)礼拝メッセージ「わたし(キリスト)を覚えて」 

第一コリント11:17~34から、聖餐式と食事会に関しての記事からポイントを3つ上げていきます。

①「聖餐式と食事会」…当時のコリント教会では、集まりをするとき、分裂、分派があったようです。パウロは、本当の信者が明らかにされるためには、それもやむを得ないと言っています。そのことと併行して、聖餐式とそれに伴って行われる食事会のことに言及しています。それぞれ持ち寄った食物を皆で分けて食べるべきところを、富む者たちが独占して、貧しい者たちをないがしろにしたようです。聖餐式は、キリストの十字架の犠牲を覚える儀式です。その聖餐式に与った者が、その直後に行なわれる食事会で、その精神に反する行動をとるとは、本末転倒です。ところで、今日、多くの教会では当たり前のように、集まると食事会を行なっていたものです。ところが、昨年の春ごろから新型ウィルスの問題が波及し、それが出来なくなりました。クリスチャン同士で食事を共にしながら交わる(会話する)ということは、楽しく意義深いことだと思います。なぜ、このことが出来なくなったのか、今は分かりません。ヨハネ13:7にはキリストが「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」と言われました。コロナ終息後、再び食事会が出来るようになったなら、その時を以前よりももっと充実したものにしていければと思います。

②「わたし(キリスト)を覚えてこれを行ないなさい」…プロテスタント教会で定められている聖礼典は、洗礼式と聖餐式です。洗礼(バプテスマ)はイエス・キリストを信じて従って行くことを神と人の前に表明し、誓約することです。聖餐式は、救いを完成されたキリストの十字架の死、わき腹を槍で突き刺され、手足を十字架に釘づけられ血を流されたことを思い起こすための儀式です。イエス・キリストを覚える、それは、十字架の犠牲のみならず、そこに至るまでのキリストの歩みを覚え、キリストを模範とすることでもあります。クリスチャン新聞福音版4月号に、コメディアンの明石家さんま氏のことが書いてありました。さんま氏には「生きてるだけで丸儲け」というギャグがあるそうですが、それは師匠の笑福亭松之助さんの教えから来ているとありました。松之助師匠は、キリスト教の人生観に影響を受け、自分の子供さんたちを教会学校に通わせたそうで、さんま氏にもクリスチャン作家の本を読むように勧めたとのことです。その記事は、「暗い思いになっても感謝を」という題で記されたものです。世は、フェイスブックやツィッターで「つぶやく」ということが勧められていますが、元々の「つぶやき」の意味は不平不満をいう事です。クリスチャンはつぶやきよりも感謝をささげましょう。ヨハネ11章で、ラザロが死んだとき、キリストは死後四日してから、ラザロが葬られた墓の前で「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。(ヨハネ11:41)」と祈られたあと、ラザロを生き返らせました。感謝して祈るとき、神はその人を祝福し、素晴らしい奇跡を現わされるのではないでしょうか。

③「自分を吟味する」…車に乗っている人は、車の点検を怠ってはなりません。オイルやタイヤの空気圧などのチェックが常に必要です。それ以上に私たちは、自分自身の心を点検することも必要です。詩篇139:23~24には「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」とあります。聖なる神様と自分との間に罪が邪魔をして、神様が見えなくなったり、祈りが聞かれなくなったりしないように、いつも悔い改めの祈りをして、自分をきよく保っていきましょう。第二のポイントで語ったように、まず、キリストを覚え、主を見上げつつ、自分自身の心も点検しながら歩んでまいりましょう。

●2021年3月14日(日)礼拝メッセージ「男性と女性」 

第一コリント11:1~16から、「男性と女性」というテーマでポイントを3つ上げていきます。

①「聖書の視点から見る男性と女性」…先月のことでしたか、オリンピック組織委員会の会長さんが「女性蔑視発言」をしたとかで、辞任に追い込まれました。そのときジェンダー(gender)という言葉をよく耳にしました。その意味は、生物学的な性別を示すセックス(sex)に対して、社会的、文化的に形成される性別、なのだそうです。その意味において、本日の聖書の個所は、そのジェンダーに関する内容だと言えます。創世記2:21~22ではアダムのあばら骨の一つからエバが造られたことが記されています。だからといって「男性が偉いとか女性がどうだ」ということではありません。互いに必要として存在しているのです。リーダーシップということについて考えてみましょう。男性は女性よりも体力的に勝っているということもあり、大抵は、男性のリーダーが多いですね。聖書の中でも、主なリーダーは男性ばかりです。モーセ、ヨシュア、ダビデ、ソロモン、ペテロ、パウロなどは男性です。士師記で女預言者デボラという人も出て、イスラエルのリーダーになっています。リーダーではありませんが、ルツやエステルのように神に用いられた女性もいます。新約聖書では、キリストの母となったマリヤ、アクラとプリスキラ夫妻のプリスキラなども女性で用いられたようです。次に、男女平等ということについて考えましょう。この世においては、無神論が前提となっているので、時にやみくもな男女平等が語られます。神様が造られた男性と女性の性質を無視した男女平等は却って不平等になることがあります。男性よりも弱い存在の女性を社会全体で守っていくという真の意味での男女平等が望ましいと思います。

②「かぶりものと祈り」…5~6節、14~15節を見ますと、祈るとき女性はかぶりものをするべきで、長い髪はかぶりものとして女性に与えられている。また男性が長い髪をしていたら恥ずかしい。そういったことが記されています。エゼキエル書44:20には祭司に対してですが、「彼らは頭をそってはならない。髪を長く伸ばしすぎてもいけない。頭は適当に刈らなければならない。」とあります。女性についても男性についてもヘアースタイルは「こうでなければならない」という強い主張は聖書にはないと思われます。要は、神の権威に従いなさいということです。神の権威に従うことの具体的な行動の一つは「祈り」です。昨日は、3.11東日本大震災後10年を覚えてのリモートによるコンサートが各地で行われました。そのうちの一つ、竹下静さん、みぎわさん、神山みささんの三人のジョイントコンサートを視聴しました。みぎわさんは、あの北朝鮮に娘さんが拉致された横田早紀江さんと同じ教会のメンバーです。昨年、夫の滋さんがお亡くなりになりました。しかし、亡くなる前(2017年)にイエス・キリストを信じ、洗礼を受けられたとのこと。その滋さんの葬儀で、歌った同じ賛美歌をみぎわさんが歌ってくれました。娘のめぐみさんはまだ帰って来れていませんが、夫の滋さんがクリスチャンになっていたのは大きな慰めだったと思います。早紀江さんはどんなにか祈っていたことでしょう。クリスチャンにとって「祈り」があるということはなんと素晴らしいことでしょう。

③「私を見ならってください(1節)」…芳しくない生活をしている人が「私を見ならえ」と言っても「何言っているの。」となるでしょうが、使徒パウロが「私を見ならってください」と言うとき、「あ、はい。」となるでしょう。キリストに回心した後のパウロほど完成された人はいないでしょう。そのパウロの原動力は「キリストを見ならっていた」ということです。私たちもパウロのように、キリストの生き方にならい、天に宝を積むことを求めてまいりましょう。

●2021年3月7日(日)礼拝メッセージ「ただ神の栄光を現わすため」 

第一コリント10:14~33からです。ここでは、食事に関連して、偶像礼拝を避けるようにという勧めがされています。キリスト者は、聖餐式を行ないます。それは、キリストの血に与ることであって、せっかく聖められたはずの人が、当時のコリントの地域性もあって、偶像にささげた肉を食し、悪霊と関わるようなことにならないようにと警告しています。そして、すべてのことは、してもよいが、すべてのことが有益とは限らない。食べるにも飲むにも何をするにも、ただ神の栄光を現わすことを求めるように、と勧めています。本日はここから、3つのポイントを上げて、私たち日本人の傾向に合わせた形でお話しします。

①偶像礼拝(14節)…先日3月3日は桃の節句、ひな祭りの日でしたが、クリスチャンはひな祭りをしません。ただ、ひな祭りは明確な偶像礼拝とも言い切れないところはあります。テレビで、仙台市内のある寺で、多くの家庭から不要になった数千体のひな人形を供養するというニュースを取り上げていました。供養という事は、正に人形を偶像化してしまっているということです。あの、正月後のどんと祭も、スーパーなどで購入した正月の松の飾りつけを何か神格(偶像)化して、正月が終わるとゴミ収集車にも出しにくいということで、どんと祭の存在があるのでしょうが、処分に困るようなものを最初から飾らなくても良いのにと思います。また、日本の多くの家庭には仏壇があり、位牌があります。徳川幕府の時代になり、本格的なキリシタン禁制が敷かれ、寺請制度、五人組などにより、キリシタンを徹底的に排除したのです。そのとき、仏壇が、仏教徒か否かの識別のため一役買ったと思われます。その結果、今でも、日本の多くの特に古い家では仏壇が当たり前のようにあります。しかし、出エジプト20:3には「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」とあります。先祖崇拝(言っておきますが、位牌に先祖の霊が来て住むなどということは決してありえません。)は偶像礼拝であり、それは創造主である聖なる神様の前では罪であり、神の祝福を受けることはできません。

②偶像と悪霊…偶像と悪霊とは一体化しています。悪霊が存在する所、それは罪のあるところです。殺意、憎しみ、妬み、偶像礼拝、そういった罪のあるところに悪霊が来て共存するのです。特に、良かれと思って偶像のある場所に頻繁に出入りしていると、いつしか、そこに行くと落ち着くなんてことになったら、そこから抜け出せなくなる恐れもあります。伝道者の書12:1には「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」とありますが、悪霊に支配され、心が頑なになる前に、創造主のみもとから来られたイエス・キリストの救いを受け、喜びと希望をもって毎日を過ごしましょう。イエス様を信じ、クリスチャンになるということは、悪霊(悪魔)の支配から脱し、聖なる神の支配に移されるのです。つまり、悪魔に囚われている人々の救いのために悪魔の敵となって真の神に仕える者となるのです。

③何をするにも神の栄光を現わそう…33節には「私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。」とあります。キリスト者は、自分の利益よりも、回りの人々の利益、その人が真の意味で幸いを得、祝福されることを願う生き方が求められます。ある読み物に、こんな記事がありました。アメリカのトップクラスの大学を優秀な成績で卒業した若者に雑誌記者がインタビューしました。「将来、どうなさいますか?」「幸い、一流企業に入りましたから、早く出世して高給取りになりますよ。」「それから?」「あんまり年を取ってまで働かず、適当なところで隠退して、世界旅行や釣りをします。」「それから?」「うるさいなあ。多分死ぬんだろうよ。」と、そういった会話でした。人間は自分自身のためだけに生きていては行き詰まってしまいます。自分を創造してくださった真の神の栄光を現わすことを求めて生きるべきなのです。