●2021年10月17日礼拝メッセージ要旨「第三の天」

第二コリント12:1~10からです。パウロは、これまで、誇ることは愚かであると言いながら、報酬を受けなかったこととか、厳しい迫害を受けたことなどを語ってきました。さらに、この章では、第三の天に上げられた体験を語っています。それもこれも、コリント教会の人々が真理に目覚めてほしいからです。ポイントを3つ上げていきます。

①「第三の天」…クリスチャントゥデイというインターネット記事からですが、岡山ニューライフ教会の牧師・佐藤史和氏は2016年4月、自転車に乗っていて、横から乗用車にぶつけられ、頭を打ち、一週間意識不明になりました。その間、いわゆる臨死体験のような経験をされたようです。夢で、天上の場所に移され、そこで、キリストのような方に出会い、地上で生きるための指針を得ました。主のために奉仕したり祈ったりすることは、人が思う以上に主が喜んでおられるとのことです。そして、天国の門の前まで連れて行かれたものの、そこで、地上に戻されました。パウロの場合、第三の天にまで引き上げられ、そこで人間には語ることを許されていない、口に出すことを許されていないことばを聞いた、と言っています。前述の佐藤牧師の体験とは多少異なりますが、共通することは、それぞれ、地上にまた戻され、福音宣教の使命を新たにしたことでしょう。

②「肉体のとげ」…パウロにあった肉体のとげというのは何だったのでしょうか。諸説があるようですが、ガラテヤ5:14~15によりますと、もしかしたら目が弱かったのかもしれません。パウロにそういった試練が与えられたのは、あまりにパウロが霊的に恵まれたため、高慢にならないためでした。箴言18:12には「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」とあります。私たち人間は調子が良いと無意識のうちに高慢になってしまうものです。ですから、私たちは十分に気を付けて、どんなときでも謙遜さを失わないようにしましょう。

③「弱い時にこそ、私は強い」…ワールドカップ最終予選で、サッカー日本代表は、オーストラリアに勝利しました。オーストラリアを苦手としていましたが、逆境に立った日本が、却って力を出しました。士師記6~8章ではギデオンのことが記されています。当時イスラエルは、7年間、ミデヤンの支配下にありました。そんなとき、主の使いがギデオンに現われ、イスラエルをミデヤンの手から救い出すように、と言います。最初ギデオンは、信じられませんでしたが、徐々に信仰が与えられ、立ち上がりました。ミデヤンの陣営は135,000人、ギデオンの陣営は当初32,000人でした。これでも勝算はありませんが、10,000人に減らされました。さらに、まだ多いとされ、たった300人で戦い、ミデヤンの兵士135,000人に勝利しました。それは、主の力が現れるためでした。私たちは弱くても大丈夫です。むしろ弱い時こそ、主が強くしてくださいます。但し、祈りは大事です。主の前にへりくだり、信仰を持って祈っていきましょう。

●2021年10月10日(日)礼拝メッセージ要旨「弱さを誇る」 

 本日は、第二コリント11章16~33節からです。11章前半の1節から15節でパウロは、「誇る」ということを愚かであるとしながら、コリント教会から報酬を受けなかったということを誇っていますが、ここの後半では、自分の「弱さ」を誇っています。なぜ、愚か者のように誇ることをしたのかというと、それは、ニセ使徒たちに翻弄(ほんろう)されているコリント教会の人々がそこから目覚めてほしいと思い、あえて、そのような手段を取ったのです。今回もポイントを3つ上げていきます。

①「キリストのしもべ」…当時、コリント教会にはニセ使徒たちが入り込み、支配的にふるまっていたと思われます。パウロは、ニセ使徒と自分と比べて、どちらが本当のキリストのしもべであるのかを伝えたかったのです。「キリストのしもべ」は英語で、ministers of Christ です。ministerとは、召使いのことですが、今日、ministerは教会の牧師や国会の大臣のことでもあります。つまり、人々に仕えることを期待されています。また、パウロはキリストのしもべであるということを心の底から喜んでいたのです。使徒の働き26章でパウロはローマ総督フェストとアグリッパ王の前で話(証し)をしています。そのとき使徒26:29で「私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」と、鎖に繋がれた囚人の立場であるにもかかわらず、「私のようになってください」と驚くべきことを言っています。

②「労し苦しみ、眠られぬ夜」…クリスチャンはイエス様を信じ、素晴らしい救いを受けたとしても、時々苦しいこともあります。パウロは福音宣教のために迫害されて多くの非常に苦しい体験をしました。死に直面したり、むち打ち刑、石打ち、難船、盗賊の難、その他等々、あまりに多くの苦難を体験しました。パウロのような経験をした人は、まず、いないでしょうが、人それぞれ、色々な形で何らかの苦難を経験するのもまた人生です。しかし、クリスチャンには祈りがあります。切に神を求めて、神からの助けをいただき、平安のうちに勝利を得させていただきましょう。

③「すべての教会への心遣い」…パウロは、クリスチャンになってから、その生涯は福音宣教に捧げました。そして、すべての教会のために仕えました。今、コリント教会の人々が信仰的につまずいているので、パウロの心は激しく痛んだのです。今日の私たちクリスチャンも関わる人々に対して無関心であってはなりません。宗教改革で有名なマルチン・ルターは「キリスト者の自由」ということを提唱して、「キリスト者は何に対しても束縛されない自由があるが、すべての人に仕えるしもべである」ということを言っています。特にクリスチャンは、イエス・キリストの救いの福音を届けるという大きな使命が与えられています。

●2021年10月3日(日)礼拝メッセージ要旨「キリストに対する真実と貞潔」 

第二コリント11:1~15からです。まず、この章の背景です。1節でパウロは「私の少しばかりの愚かさをこらえていただきたい」と言っています。この「愚かさ」とは「誇る」ということです。何を誇るのかというと、7節にあるようにコリント教会から報酬を受けなかったということです。なぜ、報酬を受けなかったかというと、報酬を受けたことを理由にして、パウロを訴える人々(にせ使徒、人を欺く働き人)がいたからです。今回もポイントを3つ上げていきます。

①「キリストの花嫁」…パウロはコリント教会の人々に対し「キリストの花嫁としてささげることにした」と言っています。今の時代においても、クリスチャンは、キリストにつくバプテスマを受け、キリストの花嫁として、真実と貞潔を期待されています。厳密には、キリストの再臨の時までは、クリスチャンはキリストと婚約関係にあると言えます。再臨の時が来て、晴れてキリストの花嫁となるのです。キリストの花嫁として最も期待されていることは「きよく生きる」ことです。マタイ5:8には「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」とあります。聖なる神は、きよさを求めて歩む者と共におられて、栄光を現わしてくださるでしょう。

②「人を欺く働き人の存在」…聖書を読んでいて、「なぜ神はサタンの存在を許したのか?」、また「なぜ神はこの世の悪を放っておかれるのか?」と思うことがあります。でも、それらのことは、神の領域に関することであり、我々人間の及ばないことであって、神に委ねるしかありません。既に、アダムの時代、エデンの園ではサタンの化身であるヘビが現れています。また、今日、科学技術が進み、生活が便利になった反面、それらの技術を悪用して人を欺こうとする悪人もいます。創世の初めから今日まで、悪魔と悪の存在は連綿と続いているのです。マタイ13章には、良い麦と毒麦のたとえ話があります。しもべが、生え出た毒麦を「抜き集めましょうか」というと、主人は「良い麦まで一緒に抜いてしまうから、収穫時まで待ちなさい」と言います。この世の終わりには、毒麦が集められて火で焼かれるように、神は正しい審判をされます。

③「惑わされないために」…大事なことは、サタンや悪に惑わされないことです。そのために私たちは、マタイ10:16にあるように「蛇のようにさとく、鳩のように素直である」ことです。この世は、善意の人ばかりではありません。悪を企んで近づいて来る人もいます。ですから、鳩のような素直さを保ちながらも、注意深く生活することです。第二テモテ3:15には「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」とあります。聖書は私たちに知恵を与えてくれます。特に日本においては、多くの人が偶像礼拝を罪であることを知らずにいます。人間はどんなに偉くなっても神格化すべきではありません。もちろん、死んでも拝む対象とすべきではありません。人間は互いに尊敬し合い、いたわり合うべき存在で、それ以上でも以下でもありません。ですから、よく聖書を読んで、そこから知恵を得て、よく祈り、毎日のデボーションを欠かさないようにしましょう。

●2021年9月26日(日)礼拝メッセージ要旨「私たちの戦いの武器」 

第二コリント10:1~18からです。この10章の背景です。コリント教会はパウロが伝道して建て上げられました。しかし今、教会の創設者であるパウロに対し、彼を非難する人々がいます。そういった人々に対し、パウロは自分の立場を丁寧に説明します。今回もポイントを三つ上げていきます

①「私たちの戦いの武器」…クリスチャンの戦いの武器は、この世の物ではありません。それは霊的なものです。しかも、戦いの相手は人ではなく、創造主なる神に敵対する悪霊です。この世は悪霊である空中の権威を持つ支配者の支配下にあります(エペソ2:2)。勝利するには聖霊の力に頼る必要があります。そして、パウロが1節で言っているように「キリストの柔和と寛容」をもって、物事に向かうべきです。オリーブライフ10月号には、ネタニヤフ首相から新首相に代わったベネット首相のことが取り上げられていました。ベネット氏はイスラエル史上初めてのユダヤ教正統派出身だということです。8月にアメリカのバイデン大統領とアメリカで会談をしました。その会談を終えて、帰りが安息日に引っかかると分かると、帰国を一日延ばし、アメリカでユダヤ教の礼拝をしたのだそうです。そしてよくお祈りするとのことです。あくまでもユダヤ教という枠組みの中での話ですが、そういった神を第一にする姿勢は見習いたいものです。クリスチャンの武器は、イエス・キリストの御名によって祈り、そこから注がれる聖霊の力です。そして、キリストの柔和と謙遜をもって、行動しましょう。

②「パウロは弱々しい?」…弱々しいなんてとんでもない。パウロほど力強い働きをした伝道者は他にいないでしょう。彼は、キプロス、小アジア、マケドニヤ、アカヤで多くの人をキリストの救いに導き、教会を建て上げて行きました。パウロが力強くなくて、誰が力強いのでしょう。しかし、10節では「パウロの手紙は力強いが、実際に会うと弱々しく、その話しぶりはなっていない。」と言われています。これは本当なのでしょうか?例えば、アポロという人がいます。彼は雄弁家で、公然とユダヤ人を論破した(使徒18:28)と記されています。しかし、そのアポロがパウロのように多くの人を救いに導き、教会を建て上げたという記事を聖書で見つけることはできません。その謎は、第二コリント12:9にあると思います。そこには「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」とあります。弱さのうちにキリストの力が完全に現れるのであるなら、パウロが表向きの強さに目もくれず、むしろ弱さを誇ったことがうかがえます。それゆえに、「パウロは弱々しい」と言われたのかもしれません。大事なのは、弱さの中に現われる神の力によって歩むことです。

③「誇る者は主を誇れ」…12~18節の文面から読み取れるのは、パウロを批判する人々は、自己推薦をしたり、限度を越えて他の人の働きを自分の働きのように誇っていたようです。それに対して、パウロは自分の功績を誇らず、ただ主を誇るべきだと言っています。エレミヤ9:24には「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。」とあります。仏教の開祖シャカ(仏陀)は、「人間は死や苦しみを免れることはできない。免れようと、もがくから苦しむ。それなら、死や苦しみを受け入れる。それが悟りだ。」と教えました。しかし、それでは何の解決もありません。イエス・キリストは、その死と苦しみから人々を解放するために、十字架で死なれ、葬られ、三日目に復活し、今も生きて、天の御座で執り成しておられるのです。聖書が示す「悟り」とはイエス・キリストを知ることです。そして、私たちが誇るのは、そのイエス・キリストただお一方です。

●2021年9月19日(日)礼拝メッセージ要旨「豊かに蒔く者は豊かに刈り取る」

第二コリント9:1~15からです。1~5節で、パウロは、エルサレム教会に対しての献金について、最初はコリント教会から始まり、その後、マケドニヤの教会に伝えたのでした。8章で記されている通り、マケドニヤの教会では、そのことを献身的に取り組みます。ですから、マケドニヤの教会メンバーがコリント教会に同行したとき、さっぱり、コリントではその意識が乏しかったら、パウロが恥をかくことになるので、コリント教会も尽力するようにと、訴えているのです。今回もポイントを三つ上げていきます

①「豊かに蒔く者は豊かに刈り取る」…バプテスト教会連合練馬バプテスト教会名誉牧師の泉田昭(いずたあきら)師が9月16日、89歳で召されたということをクリスチャン新聞で知りました。師は、「聖書を説き、教会を建て、社会に仕えよう」という理念の下に、教会を建て上げ、長く日本福音同盟の理事長をされ、さらには日本キングスガーデン理事長を務め、その働きを牽引してこられました。そのほか社会貢献もされたのでしょう。練馬区政功労賞、東京都政功労賞、厚生労働大臣から表彰も受けています。また、聖書は旧新約、原語で読まれ、その延長で泉田昭訳新約聖書を作ってしまわれました。一時、その新約聖書がギデオン協会で採用されました。私利私欲とか、名を上げようとしてではなく、ただ、与えられた賜物を用いて存分に貢献され、正に豊かに蒔き、豊かに刈り取りをされた生涯ではなかったかと思います。人それぞれ、その器の大きさも賜物も異なります。それぞれに応じて、豊かに蒔く者とならせていただきましょう。

②「その義は永遠にとどまる」…9節は詩篇112篇9節からの引用です。この112篇全体は、「決してゆるがされない人生とは何か」というテーマで記されています。詩篇112:1~6には「ハレルヤ。幸いなことよ。【主】を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。その人の子孫は地上で力ある者となり、直ぐな人たちの世代は祝福されよう。繁栄と富とはその家にあり、彼の義は永遠に堅く立つ。主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。しあわせなことよ。情け深く、人には貸し、自分のことを公正に取り行う人は。彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられる。」とあります。つまり、創造主を恐れ、みことばに従い、人には情け深く、正しく行う人は決してゆるがされないのです。箴言11:24~25には「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」とあります。自分に与えられた賜物をもって惜しみなく与える人は自分も潤される、永遠の祝福に与(あずか)るのです。

③「満ち溢れるようになる」…第一のポイントで泉田昭師のことを取り上げました。やはりクリスチャン新聞で知ったのですが、9月14日には世界最大のキリスト教会の主任牧師(後に元老牧師)だったチョー・ヨンギ師が86歳で召されました。師は韓国の貧民街で開拓伝道を開始され、たましい、経済、健康の三つの祝福、「三拍子の祝福」を提唱されました。そして、教会に訪れる貧しい人たちに、どんなに貧しくても十分の一は聖別して主にささげるよう徹底して指導しました。その通りにした人々は本当に祝福され、経済的に恵まれ、その様子を見た人々がまた教会に押し寄せ、爆発的な教会成長をし、最も多い時で70万人の教会となりました。ガリラヤ湖は、山から水が流れ込み、ヨルダン川に逃げていくので、魚が住むことが出来ます。しかし、死海ではヨルダン川から水が流れ込むのみで生き物が住めません。つまり、私たちに与えられた賜物をとどめておかず、還流させることによって祝福されるのです。そうすることによって満ち溢れていくのです。

●2021年9月12日(日)礼拝メッセージ要旨「この恵みのわざに富む」

第二コリント8:1~16からです。まず、この章の背景です。パウロは、エルサレムの教会のための献金を勧めています。また、当時、マケドニヤの諸教会が熱心にエルサレム教会のために献金をしていたので、彼らのことを例にあげ、恵みのわざ(献金)の祝福を語っています。今回もポイントを三つ上げていきます

①「まず自分自身を主にささげる」…マケドニヤの諸教会とは、ピリピ、テサロニケ、ベレヤの教会などでしょう。彼らは、エルサレム教会のために惜しみなく施しました。それは、まず、自分自身を主にささげていたのです。ローマ12:1~2には「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。この世と調子を合わせることなく、自分は聖なる神に所属するキリストのしもべであるということを自覚して行動しましょう。

②「この恵みのわざにも富むようになる」…パウロは7節で、全てのことに富むようになりなさい、と言っています。 A.信仰に富むように。ヘブル11:6には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」とあります。 B.ことばに富むように。コロサイ4:6には「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」とあります。 C.知識に富むように。この世の知識というよりも、聖書のみことばをしっかり蓄えましょう。 D.あらゆる熱心に富むように。ローマ12:11には「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」とあります。霊に燃えるには、みことばと祈りに励むことです。 E.愛に富むように。この「愛」はギリシャ語でαγάπη (アガペー)です。やはり、救霊の愛に富むということでしょう。 F.そして、恵みのわざに富むように。ルカ21:1~4で、貧しいやもめがレプタ銅貨二枚を献金箱に投げ入れました。それをご覧になっていたキリストは、「彼女は誰よりも多くささげた。なぜなら、生活費の全部をささげたから」と言われました。その後、彼女がどうなったのか聖書にはしるされていませんが、主は、その婦人にきっと良くしてくださったに違いありません。

③「キリストの貧しさによって富む者となる」…さてここで、「富む者」とはどんな人をイメージするでしょうか。例えば、その人が世界中の富を一人占めして、誰にも分け与えないとしたら、その人は、富む者と言えるでしょうか。それどころか守銭奴のレッテルが貼られるに違いありません。富む者とは「与える人」でしょう。ルカ6:38には「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」とあります。また、使徒の働き20:35には「受けるよりも与えるほうが幸いである」とあります。他者のことを思い、他者のために与える人こそ富む者です。イエス・キリストは天においても地においても一切の権威を持ち、全てのものを実際に所有する方です。この、この上なく富む方が、家畜小屋で人となって生まれられ、貧しい生活をされ、公生涯を過ごされたときは決まった住む家さえ持っておられませんでした。この方が、多くの人の罪をその身に負い、十字架で死なれ、葬られ、死後三日目に復活し、今も生きておられ、天の父なる神の右の座に就いておられます。私たちは、このキリストを信じ、この方のように、与える者となり、真の意味で富む者となりましょう。

●2021年9月5日(日)礼拝メッセージ要旨「慰めてくださる神」 

第二コリント7:1~16からです。まず、この章の背景です。パウロはコリント第一の手紙を書き、それをテモテに託して彼を派遣しました。しかし、その後、思うような成果を得られません。その後、第一と第二以外の、もう一つの手紙を書き、今度はテトスに託します。その手紙は非常に厳しい内容でしたので、パウロは、その手紙の反応が気になりました。そこで、自ら、マケドニヤに向かって行きました。そして、そこでテトスに会い、慰めを受けました。さらに、テトスから、その手紙に対するコリント教会の反応を聞いて、更なる慰めを受けるのです。今回もポイントを三つ上げていきます

①「慰めてくださる神」…聖書の神は、昨日も今日も変わることなく、私たちを愛し、あわれみ、慰めて下さいます。創世記28章で、ヤコブは兄エサウに変装し、父イサクから長子の特権の祝福を受けます。それを知ったエサウはヤコブを憎み殺そうとします。母リベカは、そのことを知ってヤコブにハランのラバンのところに逃げるよう勧めます。ヤコブは、兄から命を狙われ、一人で叔父の所に行こうとしています。心細かったに違いありません。途中、石の枕で夜を明かそうとしていると、夢で神が彼に現われます。天から梯子が立てられ、み使いが上り下りしています。そして、主がヤコブに、彼の子孫が多くなり、地上のすべての民族は彼の子孫によって祝福され、また主が彼とともにあり、彼を守り、決して捨てない(創世記28:15)、と言われます。このときヤコブはどれほどの慰めを受けたでしょうか。もう一人、第一列王記18~19章に登場するエリヤです。エリヤは450人のバアルの預言者たちに勝利した後、アハブ王の妻イゼベルから命を狙われます。彼は恐れて、立ち去り、ベエル・シェバからさらに進み、えにしだの木陰にすわり「もう十分です。私の命を取ってください。」と言います。そして、そこで寝ていると、み使いが現れ、パンと水を持ってきて、彼に食べさせます。そして、40日40夜費やして神の山ホレブに行き、そこの洞穴に入ります。そこで、エリヤは神の声を聞き、次のすべきことを告げられるのです。今日も、神は神の民を特別に扱い、特別な慰めを与え、励まし、神のご用のために用いようとされるのです。

②「神のみこころに添った悲しみ」…パウロによる厳しい手紙に対して、コリント教会の人々は、悲しんだけれども神のみこころに添って悔い改めました。11~12節では、「あの問題、処罰を断行、悪を行なった人(加害者)、被害者」などの言葉が使われています。いったい具体的に何があったのかは分かりませんが、何か事件に近いようなことがあったのでしょう。しかし、そこで、しかるべき処罰が断行され、加害者は悔い改め、被害者も納得して、和解があり、教会全体に良い感化が及んだと推測されます。悔い改めるとはギリシャ語でμετάνοια(メタノイア)で、その意味は「心を変えること。自己の主権を放棄し、自己の行為の義への依存を捨てて、キリストに全く依存し、キリストを我が全生活の主とするという心の根本的な切り替えをする。」と、某辞典に記されていました。第一ヨハネ1:8~9には「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。自分が罪人であることを認め、悔い改めることは祝福の第一歩です。

③「全幅の信頼」…一つの問題(事件)に対して、適切な対応がなされたということで、パウロはこれを喜び、コリント教会の人々に対して、全幅の信頼を寄せることができると言っています。人と人が意思疎通できないとき、その二人の間には信頼関係を持つことができません。聖なる神と人との関係も同じでしょう。人の生涯は、ちょうど建物を建てることに似ています。建物で最も肝心な部分は土台です。固い地盤の上に土台が築かれ、その上に建物が建てられなければなりません。ルカ6:47~48には「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。」とあります。私たちは、聖書のことばに聞き従うことによって、神に喜ばれ、また人にも信頼されるでしょう。ですから、日々、みことばと祈りに励み、自分がすべきことを示されて、それを実行してまいりましょう。

●2021年8月29日(日)礼拝メッセージ要旨「キリストとベリアル」 

第二コリント6:11~18からです。本日もポイントを三つ上げていきます

①「心を広くしてください」…パウロがコリントの教会に宛てた手紙は、基本的にはコリント教会にある問題点を正すためです。そういう中で、11~13節によりますと、パウロはコリント教会の人々と意思疎通ができていないということを感じていたようです。親が子どもに対するような気持で、彼らに「心を広くしてください」と言っています。彼らはパウロに対して心を閉じていたようです。エペソ4:2~3には「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」とあります。パウロとコリント教会の人々にかぎらず、クリスチャン同士であるならば、互いに相手に歩み寄り、イエス様にあって一つにされ、御霊の一致を熱心に保っていきたいと思います。

②「彼らと分離せよ」…第一のポイントは「心を広くしてください」でしたが、この「心を広くする」ということの具体的行動として、「この世の汚れから分離せよ」ということを言っています。パウロは「不信者とつりあわぬくびきをつけるな。正義と不法につながりはない。光と暗やみに交わりはない。キリストとベリアル(ヘブル語で無価値を意味するサタンのこと)に調和はない。信者と不信者に関わりが無い。聖なる神の宮と偶像に一致はない。」と立て続けに語っています。ここで、誤解してはならないことは、クリスチャンは世の不信者と全然関わってはいけないということではありません。もしそうなら、この世から出て行かねばならないでしょう(Ⅰコリント5:10)。結婚に関して、クリスチャン同士で結婚するのが理想です。でも、信者同士だから万全という保証はないし、不信者が信者になることも十分あります。要は、神の導きの下で結婚することが大事です。この第二のポイントの「分離せよ」というのは、ちょうどコップの中の水と油が一緒になっていても、しっかり分離しているように、信者は世の罪、汚れに飲み込まれないということです。むしろ、地の塩、世の光として、回りの人々に感化を及ぼしていくことです。

③「彼らはわたしの民となる」…当教会では「神様の宝物」というトラクトを取り寄せ、地域に配布しております。申命記7:6には「あなたは、あなたの神、の聖なる民だからである。あなたの神、は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」とあり、また、第一ペテロ2:9には「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあります。イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは、聖なる神様の宝の民とされているのです。最近、筆者が読んで教えられたある本には、次のようなことが書かれてありました。「クリスチャンは、キリストのからだなる教会の一部として、教会から出て行って至る所に遣わされている。そして、まず、遣わされている地域の人々を祝福しなさい。」と。人々を祝福すべきクリスチャンが、案外、「あの人は、ここが悪い、あそこが駄目」などと言って祝福どころか、呪いの言葉になっていないか注意が必要です。クリスチャンは祝福を受け継ぐために召されたのですから、祝福を与える者でありたいと願います(第一ペテロ3:9)。

●2021年8月22日(日)礼拝メッセージ要旨「今は恵みの時」 

第二コリント6:1~10からです。本日もポイントを三つ上げていきます

①「今は恵みの時」…東京五輪に時を合わせてコロナ感染者が拡大しています。報道では、五輪が間接的感染拡大要因になっているとしていましたが、果たして間接的でしょうか。筆者の見解は違います。これは五輪が直接的に影響を及ぼした以外の何物でもないと思います。引き続き、パラリンピック関係者の入国があり、パラ終了まで、まだまだ日数があり、コロナ収束を祈るばかりです。ルカ21:10~11には、世の終わりに起こる前兆として、民族対立、大地震、疫病、飢饉、恐ろしいこと等が挙げられています。ここのところ一、二週間だけでも日本各地における大雨の被害、世界各地における熱波による山火事、政治問題など、次々と災難が勃発しています。ここで私たちは、これらのことをどう受け止めたら良いのでしょうか?マタイ10:29には「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」とあります。この世で起こる全ての現象は、聖なる神の許しの下にあります。主なる神は、コロナや災害を通して、人々に警告をしておられるのではないでしょうか。つまり、「今は恵みの時であるから、遅れないうちにイエス・キリストの父なる神に立ち返りなさい。」と語りかけていると思われます。

②「自分を神のしもべとして推薦している」…使徒の働き16章で、パウロは占いの霊に憑かれた女から悪霊を追い出したゆえに、その主人たちから訴えられ、鞭打たれ、牢獄に入れられ、足かせをはめられます。しかし、パウロはシラスと共に獄舎で祈りつつ賛美していると、大地震が起き、牢のとびらが開きます。看守は囚人たちが逃げたと思い、自害しようとしますが、パウロが止めます。そのことがあり、看守は自分の家族と共にキリストを信じ、バプテスマを受けます。この記事で驚くべきことは、パウロとシラスが鞭打たれ傷も痛むであろう獄中で、足かせをはめられながらも祈りつつ賛美をささげていたことです。正に神のしもべとして推薦されるべき姿ではないでしょうか。イザヤ6章で、イザヤは主なる神とみ使い(セラフィム)を見て「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍のである王を、この目で見たのだから。」と言っています。そのとき、み使いがイザヤの口に聖霊による火を触れさせて「あなたの不義は取り去られた~」と言っています。そして、主がイザヤに「誰を遣わそう。~」と言われると、イザヤは「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と言うのです。私たちも聖霊に触れていただき、きよめられ、「私を遣わしてください」と、自分自身を神のしもべとして推薦する者とならせていただきましょう。

③「人に知られないようでも、よく知られ」…このごろ、「インフルエンサー」という言葉を耳にします。その意味は社会的影響力のある人のことを、そう言うのだそうです。語源的には風邪のインフルエンザと同じでしょう。逆にあんまり、社会的影響力のない人のことは「マイクロインフルエンサー」と言うのだそうです。さて、9節でパウロ「(私たちは)、人に知られないようでも、よく知られ」と言っていますが、これはどういう意味でしょうか。確かにクリスチャンの多くは、一般的に見て、多くの人々から無視されているようにも見えます。しかし、実は、クリスチャンは多くの人々が見ていないようで、注視されているのではないかと思います。つまり、「あの人はクリスチャンだと言うけれど、本物のクリスチャンだろうか。本当に堅く立っているだろうか。クリスチャンらしく生きているだろうか」と観察されているのではないでしょうか。偶像としっかり決別できているか、酔っ払いではないか、不品行ではないか、本物か、偽物か、と。そういう意味では人々に注目され、良く知られているのです。

●2021年8月15日(日)礼拝メッセージ要旨「キリストの使節」 

第二コリント5:11~21からです。本日もポイントを三つ上げていきます

①「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」…先日、テレビで「イマジン」という歌が歌われ、歌詞が字幕で映し出されていました。あのビートルズのジョン・レノン氏が作った曲で大ヒットしたようです。世界平和を願った歌だということですが、歌詞の冒頭で、「天国も地獄も見えないから存在しない」という意味の言葉がありました。聖書の教えとは異なります。第二コリン5:10には「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあります。そのさばきを受けることがないように、キリスト自らこの世に来られ、十字架による救いの道を開いてくださいました。14節で、そのキリストの愛が私たちを「取り囲んでいる」とありますが、2017年訳では「捕えている」になっています。英語ではcompelという語が使われ「支配する」という意味です。つまり、キリストが私たちのために死なれたということは、私たちは、この方のために生きるのです。キリストに従って生きる、その道しかないということです。先に取り上げた「イマジン」の世界観とは大きく異なります。パウロはピリピ1:21で「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」と言っています。

②「その人は新しく造られた者です」…東京五輪で金メダルを獲得した選手が、地元に凱旋し、市長さんを表敬訪問したら、あろうことか、市長さんにメダルを嚙まれてしまいました。市長さんへの非難とメダル交換の要望の声が多く上がっていました。しばらくして、メダルは新しいものに取り換えてもらえるとのことで、ひとまず落着しました。メダル(物)は新品交換が可能ですが、人間は交換不可能です。でも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。人間は誰でも失敗、罪、咎を持つものです。キリストは、私たちの罪、咎をその身に負われました。第一ペテロ2:24には「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」とあります。イエス・キリストと共に二人の犯罪人も十字架に架けられていました。二人のうちの一人は、キリストに「御国の位にお着きになる時は、私を思い出してください」と願うとキリストは「あなたはきょう、わたしととみにパラダイスにいます」と言われました。誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

③「キリストの使節」…高校野球夏の甲子園大会に初出場した東北学院高校が一回戦で強豪校を破り、校歌が歌われました。キリスト教を建学の礎とするだけあって、その歌詞の中には「世の光」ということばが使われていました。マタイ5:14には「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。」とあります。クリスチャンは、キリストによって新しくされ、この世において光を輝かせることが期待されています。また、和解の務めという使命が与えられているのです。クリスチャンはキリストの体なる教会(エクレシア)に連なり、教会から出て行って、教会の一部として、キリストの使節としての務めを担っているのです。職場、学校、家庭、様々な場所に遣わされた教会の一部であり、キリストの使節なのです。