●2024年7月21日(日)礼拝メッセージ要旨 

黙示録10:1~11からです。七つのラッパのうちの七つ目のラッパが吹き鳴らされるのは11章15節ですが、この10章では、七つ目のラッパが吹き鳴らされる直前になって、一つの「間」がここに描かれます。そこに天の神様のみこころと言いましょうか、メッセージが隠されていると思われます。本日は「口には甘いが腹には苦い」という題でポイント3つ上げていきます。

1.もうひとりの強い御使い…もうひとりの強い御使いが登場します。この御使いは、「雲に包まれて、天から降りて来て、頭上には虹があり、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようである」とされています。さらに開かれた小さな巻き物を持っているのです。黙示録1:13~16に記されているイエス・キリストの本来のお姿を彷彿とさせます。もちろん、御使いですから、キリストではありません。そして、この御使いは、右足は海の上に、左足は地の上に置いています。これはどういう意味でしょう。黙示録12:12には「それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」とあります。永遠の天に比べ、地と海は不安定な場所です。しかし、まだ救いのチャンスが残されています。この強い御使いが海と地に足を置いているということは、そこに思いがある、そこに残された人々の救いを願っているということなのではないでしょうか。キリストに似た強い御使いが遣わされたのは、そのためなのでしょう。

2.もはや時が延ばされることはない…第一のポイントで取り上げた強い御使いが右手を天に上げ、創造主である方に誓って「もはや時が延ばされることはない」と言います。逆の視点から言いますと「救いの門が閉じられる時がそこまで来ているので、もう時間がない。今のうちに悔い改めなさい。」ということでしょう。Ⅱペテロ3:9には「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とありますように、創造主である真の神は、これまで忍耐に忍耐を重ねて、救いの締め切りの時を遅らせてこられたのです。今、キリストの救いに与っている人々は、その神の忍耐のゆえであると言えます。しかし、その締切日が間近に迫っているのです。

3.口には甘いが、腹には苦い…天から声が聞こえ、ヨハネに対して「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」言います。ヨハネは、「その小さな巻き物をください」と言って御使いから受け取り、それを食べると、それは彼の口には蜜のように甘いのですが、食べてしまうと、腹は苦くなりました。その開かれた小さな巻き物とは今日、私たちに与えられている聖書のことであると思われます。聖書には福音が語られています。その福音には二つの大きな要素があります。一つは「救い=永遠のいのち」であり、もう一つは「さばき=滅び」です。例えば聖書全体のメッセージをこの一節で表わしていると言われているヨハネ3:16には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。そのみことばにも二つの要素が含まれています。救いや永遠のいのちは私たちの口には甘いでしょう。しかし、さばきや滅びは苦いという域に収まらず、もはや敗北と絶望です。ですから、私たちは、まず、自分自身の救いの達成に努めましょう(ピリピ2:12)。そして、そこだけに止まるのではなく、家族、親族、友人、知人、そして全ての人に福音を宣べ伝えるべきなのです。11節でヨハネが「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」と言われたのは、実に、そのためなのです。

●2024年7月14日(日)礼拝メッセージ要旨 

今日は黙示録9:1~21からです。先週8章では、七つ目の封印が解かれ、そこに七つのラッパを持つ七人の御使いがいました。そのうち、第1~4の御使いがラッパを吹き鳴らすと、陸地、海、川、天体に害や異変が起こりました。それは、終末における神から人間への警告であると思われます。さて、本日は第5~6のラッパが吹き鳴らされるところからです。第1~4のラッパのときと違い、もっとひどい苦難となるようです。「第5~6のラッパ」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.第5のラッパ…この第一のポイントでのキーワードは「底知れぬ穴」です。第5の御使いがラッパを吹き鳴らすと、一つの星が天から落ち、その星が底知れぬ穴を開きます。そして、穴から煙が立ち上り、空も太陽も暗くなります。その煙の中からイナゴが出てきます。そのイナゴにはサソリの持つ力が与えられ、額に神の印が押されてない人間にだけ5か月間、害を加えるように言い渡されます。それらのイナゴの司令元はアバドンとかアポリュオン(破壊者の意)と呼ばれている「御使い」なのですが、さて、御使いですから神の陣営に所属しているのか、破壊者ということは悪魔的な陣営からなのか、悩むところです。いずれにしても、額に神の印、つまり、イエス・キリストを信じ受け入れ、救いを受けていないとサソリの力を持つイナゴに5か月間苦しめられる可能性があります。ですから、誰でも、今のうちに真の神に立ち返りましょう。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(Ⅱコリント6:2より)」

2.第6のラッパ…第6の御使いがラッパを吹き鳴らすと、神の御前から「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き離せ」という声が聞こえます。「つながれている」という表現ですが、なぜつながれていたのか不明です。場所はユーフラテス川のほとりです。ユーフラテス川はアダムとエバがいたエデンの園があった近辺です。また、ノアの大洪水の後、バベルの塔があった場所の近辺でしょう。エデンの園ではアダムとエバが罪のためにそこを追い出されました。バベルの住民は塔を建て、「頂が天に届く塔を建て、名を上げよう」と言ったことにより、神によって全知に散らされました。言うなれば、そこは「罪の発祥の地」です。現在、世界人口は約81億人です。人類の三分の一を殺すために解き放された四人の御使いによって立てられた騎兵の軍勢は2億です。81億人の三分の一は27億人です。27億に対して2億ですから、力関係からして実際的とも言えるでしょう。ポイント1の第5のラッパでは、害を受けるのは未信者ですが、この第6のラッパで殺される人は、特定されていません。しかし、マタイ24:21~22には「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」とあります。やはり、選ばれた者のためには何らかの守りがあるのでしょう。

3.心かたくなな人々…第5~6のラッパが吹き鳴らされたあとにおいて、生き残った人々が、偶像礼拝、殺人、魔術、不品行、盗みを悔改めることをせず、神に立ち返ろうとしませんでした。詩篇95:7~8には「主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」とあります。私たちは、全能の神の御声に対して従順であることが求められています。詩篇51:17には「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。人と人との関係においても、自分が間違っていたら謝ることが先決です。聖なる神の前なら、なおさら、へりくだり、悔い改めましょう。神はそういう人に目を留め、大いに祝福してくださるのです。

●2024年7月7日(日)礼拝メッセージ要旨 

今日は黙示録8:1~13からです。黙示録6~11章では、七つの封印と七つのラッパが出てきて、黙示録の中心的な内容を表していると言えるでしょう。今日は、七つ目の封印が解かれ、七人の主の使いが七つのラッパを持っていて、そのうちの四つのラッパが吹き鳴らされるところから見て行きましょう。やはり、ポイント3つ上げていきます。

1.聖徒たちの祈り…ラッパを持つ七人の御使いの他に、もう一人の御使いが現われ、金の香炉を持って祭壇のところに立つと、たくさんの香が与えられ、全ての聖徒の祈りとともに祭壇の上にささげようとしていました。先の黙示録5:8にも「この香は聖徒たちの祈り」という表現があります。詩篇141:2にも「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。」とあります。終末と言われるこの時に、クリスチャンの祈りが天に香として立ち昇り、天の神様の御働きのために用いられるということなのでしょう。ですから、私たちは、いつでもどこでも主の御名によって祈りを天に立ち昇らせましょう。「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。(Ⅰテモテ2:8)」

2.四つのラッパ…この8章では七つのラッパのうち第一から第四までの四つのラッパについて取り上げられています。第一の御使いによってラッパが吹き鳴らされると、地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草は全部焼けてしまいます。同じように第二のラッパが吹き鳴らされると海が害を受け、第三のラッパのときは川が、第四のラッパでは天体の三分の一が暗くなります。つまり、天の神が人間に対して、少しづつ警告を与え、人々が神に立ち返るように願っておられるのではないでしょうか。この広い、広い宇宙の中で生命の躍動があるのは地球だけです。水、空気、適度な気温、それは、全知全能の真の神がこの世界を創造し、そこに植物、あらゆる生物、そして人間を形造り、住まわせておられます。しかし、多くの人々は、創造主なる神を認めることなく自分勝手な生き方をしています。イザヤ53:6には「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」とあります。神に反逆する人々に対して、神はなおも人々に目を留め、救いの御手を差し伸べておられるのです。しかし、神はいつまでも反逆する人々に対して寛容ではありません。ヨハネ3:18には「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」とあります。私たちは、救い主イエス・キリストの御名を呼び求め、その救いに与り、そして、自分の救いだけではなく、家族、友人、知人の救いのためにも祈り、福音を伝えましょう。

3.わざわいが来る…第四のラッパが吹き鳴らされたあと、一羽の鷲が中天を飛びながら、大声で「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」と言います。この地が三分の一づつの害を受けることも大変なことであるのに、それよりもっと大きな災いが来ると言っているのです。確かに、このあと9章の第五のラッパでは星が天から落ちます。第六のラッパではハルマゲドンと言われて一般的にも知られている世界最終戦争が起こります。第1~4のラッパはマタイ24:8でキリストが「しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」と言われたことの範疇の出来事かと思います。また、第5~6のラッパはキリストがマタイ24:21で「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」と言われたことと重なるでしょう。先週の7章では、ひとりの御使いが「神のしもべの額に印を押す」という表現がありました。ズバリそれは、選ばれた人々がキリストに立ち返るということです。私たちは、イエス・キリストを信じ、従い、キリストの再臨を待ち望む者となりましょう。

●2024年6月30日(日)礼拝メッセージ要旨 

今日は黙示録7:1~17からです。先週は第1~第6の封印が解かれる場面からでした。第7の封印は8章からです。本日の7章は6章で語られた第6の封印の補足かと思われます。ポイント3つ上げていきます。

1.神のしもべたちの額に印を押して…1~3節では、主に二つのことを言っています。主の使いたちが「神のしもべたちの額に印を押すこと」と「その印を押してしまうまで、それを妨げないようにする」ということです。もちろん、それは象徴的な表現を用いているのでしょう。つまり、印を押すとは、神のしもべたちとそれ以外の人たちとを区別するということでしょう。そして、それが完了するまで守られるということです。額に印を押すとは、現実的にはイエス・キリストを信じて救いを受ける。選びの民となることです。ヨハネ15:16には「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。~」とあり、エペソ1:5には「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」とあって、真の神様は、神のしもべとなる人々を選び、定めておられたのです。ですから、今、私たちが救い主イエス・キリストを信じてキリストに着くバプテスマを受けているなら、それはもう、神のしもべとして、額に印を押していただいているのです。

2.144,000人とあらゆる国民、部族など…4~8節ではイスラエル12部族の144,000人、それから9節では、あらゆる国民、部族、民族など大ぜいの群衆が描写されます。この二種類の人々を同一の人々ではないかと解釈している解説書もあります。もしかして、そうかもしれませんが、いわゆる置換神学という説があり、イスラエル人は異邦人クリスチャンに置き換わるというものです。しかし、ローマ11:25~26には「~イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。~」とあり、基本的にユダヤ人はキリストを受け入れていませんが、異邦人クリスチャンの救いが完成されたとき、彼らもキリストを受け入れるのです。さて、10節、11節で御座にある方と小羊に対して賛美がささげられています。正に、天では賛美されるべき方が賛美されています。この地上はそうではありません。木や石の神々が拝まれたり、権力者に対して忖度が行われ、公正であるべき裁きが曲げられたりすることがあるのではないでしょうか。しかし、天においては正しい裁きが行われ、賛美されるべき方が賛美されるという義と聖が支配する世界です。そして、神の恵みと豊かさに満ち満ちた世界がそこにあるのです。

3.小羊が彼らの牧者となり…長老のひとりがヨハネに「白い衣を着ている人たちは誰ですか」と聞くと、ヨハネは「あなたこそご存じです」と言います。すると、その長老は「彼らは大きな患難から抜け出てきた者たちで、その衣を小羊の血で洗って白くしたのです。」と答えます。クリスチャン小説家・三浦綾子さん(1922~1999)は晩年に、エッセイ風の記事の中で「自分には『死』という大きな仕事が残っている」と、そういった内容のことを言っておられました。彼女はクリスチャンで当然、永遠のいのちの希望を持っておられたことでしょう。でも、やはり、空中再臨の時まで生きながらえるのでなければ、死は死ですから、それなりの苦難は免れることはできないでしょう。しかし、聖書は言っています。「神の国をまず第一に求めよ。明日のための心配は無用だ。(マタイ6:33~34)」と。先々のことを心配しても何の益にもなりません。目の前に与えられた自分が成すべき使命を果たしていきましょう。やがて、上げられる天では小羊なるキリストが私たちの牧者となってくださるのです。詩篇73:25には「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」とあります。天はイエス様一色の世界ですから、私たちは、この地上にいるときから聖霊の助けを受けながら、イエス様を第一にする生活を求めていきましょう。

●2024年6月23日(日)礼拝メッセージ要旨 

今日は黙示録6:1~17からです。聖書の他の箇所についても言えることですが、特に黙示録の場合、その記事が時系列に記されているわけではありません。時系列と思って理解しようとすると、混乱が起きてしまいます。例えば、ある人が「私は昨日、東京に朝早く出かけ、家に帰ったのは夜遅くになりました。」と言っておいて、そのあとで、「お昼は○○店で食事をしました。」と言ったとします。黙示録についても、そのように、後から追って細かい部分の説明を度々加えているようです。本日は、 「第1~第6の封印」という題で、6つの封印を3つの種類に分類して、ポイント3つ上げていきます。 

1.第1~第4の封印…小羊が第一の封印を解くと、「白い馬に乗っている者が弓を持っていて、彼は冠を与えられ、勝利の上に勝利を得ようとして出て行った」とあります。色々な解説書を調べても、ここの解釈は困難です。正義の陣営にいる者なのか、それとも終末に現れる反キリストなのか、困惑するところです。黙示録19:11~12には「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。」とあって、同じ白い馬なのですが、この19章のほうは明らかにキリストであることは疑う余地がありません。次の第二の封印では、赤い馬が出て来て、殺し合い、戦争の悲劇が描写されます。第三の封印では、黒い馬が出てきます。厳しい制約された状況、飢饉を表現しているのでしょうか。第四の封印では、青ざめた馬が出てきます。それに乗っている者には死とハデスが付き従ったと言っています。疫病、戦争、飢饉などの影響のようです。第一から第四の封印は、時代的には、初代教会の直後からのことなのか、それとも、終末に現れる反キリストに関連することなのか、正直、分かりかねます。しかし、いずれにしろ、全知全能の真の主とイエス・キリストを信じ、従っている者にとっては、何も恐れることはありません。

2.第5の封印…小羊が第五の封印を解くと、殉教した人々のたましいが祭壇の下にいて、「いつまでさばきを行なわず、我々の血の復讐をなさらないのですか」と言うと、「あなたがたと同じように殉教する人の数が満ちるまで、もうしばらく休んでいなさい」と言われます。初代教会が始まったと同時に教会は迫害と殉教の歴史を通ってきました。現時点の日本では、実質的な迫害はほぼありませんが、Ⅱテモテ3:12には「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあるように、クリスチャンであるなら、多少なりとも、それぞれ何らかの経験はあるでしょう。しかし、ヨハネ9:4では「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」とキリストが言われました。今は福音宣教の機会が開かれている霊的な昼間です。霊的な夜になる前に、私たちは恐れることなく、イエス様の福音を一人でも多くの人々に届けましょう。

3.第6の封印…第六の封印は天変地異です。太陽は黒くなり、月の全面は血のようになり、天の星が地上に落ちる時が来るのです。地上のあらゆる人々は、御座にある方と小羊の怒りに恐れおののくことになります。しかし、マタイ24:30~31には、天変地異のあとにキリストの再臨が加えられています。それは「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」です。正に考えられないようなことが起こるのです。聖書に書いてあることは、確実に実現していきます。私たちは、天地を創造した主と救い主イエス・キリストを信じ受け入れ、この最後の時に備えましょう。主の空中再臨に与り、選びの民として、天に携え挙げられることを待ち望みつつ、主の証人として、日々の生活に勤しんでまいりましょう。

●2024年6月16日(日)礼拝メッセージ要旨 

今日は黙示録5:1~14からです。 「ダビデの根が勝利を得た」という題でポイント3つ上げていきます。 

1.封印を解くのにふさわしい者…天の御座に座しておられる方が右手に巻き物を持っておられ、その巻き物には内側にも外側にも文字が書かれ、七つの封印で封じられていました。そのとき、ひとりの強い御使いが大声で「巻物を開いて封印を解くのにふさわしい者はだれか」と言っています。巻き物を開くことのできる者が見つからないので、ヨハネは激しく泣きました。そのとき、ひとりの長老が「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根(イエス・キリストのこと)が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」と言います。この長老のひとりとヨハネのやり取りの中に一つの隠された奥義を見ることができるのではないでしょうか。それは、この黙示録に限らず、イエス・キリストを信じるクリスチャンは、聖書のことばを受け入れ、それを理解することが許されているということです。と言うのは、未信者の方々は聖書を受け入れることも、信じることもせず、第一、関心さえ持つことがないのが通常ではないでしょうか。そういう中で、神に選ばれた人々は、聖書を毎日読み、そして、そのみことばを信じて、自分の生活に反映させているのではないでしょうか。でも、それは、先に述べた巻き物を解くのにふさわしい方であるイエス・キリストの助けによっているのです。

2.立琴と香のいっぱい入った金の鉢…小羊が御座に座る方から巻き物を受取ったとき、四つの生き物と24人の長老は、立琴と香のいっぱい入った金の鉢を持って、子羊の前にひれ伏しました。この香は聖徒たちの祈りであるとしています。立琴については言及していませんが、「賛美、祈り、施しなど」は天に積まれた宝と言えるものではありませんか。詩篇141:2には「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。」とあります。マタイ6:20には「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」とあり、使徒10:4後半には「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」とあります。私たちは、主に賛美をささげ、祈りをささげ、そのほか主が喜ばれることを行なって、天に宝を積み上げましょう。そこは、錆びることも盗人に盗まれることもないのですから。

3.ほふられた小羊への賛美…ここでは、ほふられた小羊に対して賛美をささげる三種類のグループがいます。第一のグループは、四つの生き物と24人の長老。第二のグループは、多くの御使いたち。万の幾万倍、千の幾千倍と表現するほどに多くいます。第三のグループは、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物たちです。この三つのグループが最大限の表現で、ほふられた小羊を賛美しているのですね。なぜ、これほどまでにほふられた小羊であるイエス様を賛美しているのでしょうか。それは、ピリピ2:6~9を見ますと「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」と記されているとおり、イエス様は、ご自身が神であられる方であるのに、人間と同じようになられ、実に十字架の死にまで従われたからです。ローマ12:11には「 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」とあります。私たちのクリスチャン生活も、かれらと同じように、全力を尽くして主を賛美し、主に仕えてまいりましょう。

●2024年6月9日(日)礼拝メッセージ要旨  

少し振り返ってみますと、黙示録1章では、イエス・キリストの本来的なお姿が記され、2~3章では、当時の七つの教会について記されていました。4~5章では、この黙示録が啓示される発信源となる天の御座について記されています。そして、黙示録の本論は6章以降となります。今日は黙示録4:1~11からです。 

1.御座に着いておられる方…天の御座、言うなれば天国の本部のような場所です。そこから、この見える世界である全宇宙、全世界に様々な指令が発せられているのでしょう。ヘブル11:3には「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」とあるように、今は、私たちに天国は見えませんが、その見えない所の見えない方によって、この世界が創造されたのです。そして1節で、主がヨハネに「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」と言われました。天から、地を見ているのです。先日、筆者は、ある「祈りについての本」を読みました。その中に「天から地に祈る」という項目がありました。普通、私たちは、地から天に向かって祈ります。すると、人間ですから、やはり私利私欲(※とは言うものの、はばかることなく何でも祈り始めることが大事です)が入ります。でも「天から祈る」とは、神のみこころにかなっているかと思います。Ⅰヨハネ5:14には「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」とあります。なるほど、そういう祈りが「天から地に祈る」ということかもしれません。

2.四つの生き物…6~8節の「四つの生き物」とは、私たちの感覚からすると何とも理解しがたい表現です。それを見たヨハネは、このように表現するしかなかったのでしょう。この四つの生き物とほぼ同じ存在がエゼキエル書1:4~14にも記されています。また、イザヤ6章では「セラフィム」という名で記されています。イザヤが万軍の主を見てしまったということで「ああ、私はもうだめだ。くちびるのけがれた者で」と言うと、セラフィムのひとりが燃えさかる炭火を持って飛んで来て、イザヤの口に触れて「これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」と言います。さて、その四つの生き物の回りも内側も目で満ちていたとあります。益々理解不能に陥ります。ある解説書では、「天からこの地を無数の目で見張っているのかもしれない」というものがありました。そして、それらが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」と昼も夜も絶え間なく叫び続けたのです。そのように、天の御座、そしてそこに座しておられる方は、あまりにも聖なる方であり、この地上に住む被造物である私たち人間が近づくことも出来ないのですが、ただ、聖なる神の御ひとり子イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、その尊い救いを信じ受け入れることによって、天の御国に入らせていただけるのです。

3.二十四人の長老…この4章の記事では、まず御座とそこに着座されている方がおられ、その近くに四つの生き物がいて、さらにその回りに24人の長老たちがいるということなのでしょう。この24人の長老たちは白い衣を着て、頭には金の冠を被っています。ある解説書では、同じ黙示録21:12~14から、イスラエル12部族とキリストの12弟子を表わすのではないかとありました。いずれにしても、彼らはきよめられ、天の御国にふさわしい何らかの貢献をした人たちかと思います。その彼らが、四つの生き物たちが栄光、誉れ、感謝をささげるときに、主の前にひれ伏して、自分の冠を投げ出して主を称えるのです。この姿勢は素晴らしいですね。金の冠を受ける栄誉を決して誇ることなく、ただただ主に栄光を帰す姿勢は、私たちが見習わねばならない姿です。ピリピ3:20には「私たちの国籍は天にあります。」とあるように、キリスト者は天国人です。天国人である私たちは、信仰の人、祈りの人として、天からこの地に遣わされている者として、主の栄光のために仕えてまいりましょう。

●2024年6月2日(日)礼拝メッセージ要旨  

黙示録3:1~22からです。黙示録2章では、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラの四つの教会を取り上げていました。この3章では、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤの三つの教会を取り上げています。 

1.サルデスの教会について…サルデスの教会は、1節で「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」と厳しいことを言われています。肉体的に生きていても、霊的に死んでいるということです。霊的に死んでいるとは、この世の罪、例えば偶像礼拝、不品行、酩酊、その他の悪事の中に埋もれているということです。マタイ5:13には「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」とあり、クリスチャンはこの世の腐敗を防止するために「地の塩」としての役目が期待されています。さて、このサルデスの教会には、「その衣を汚さなかった者が幾人かいる」とされ、その人たちは称賛されています。箴言4:23には「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。私たちは、地の塩、世の光として、きよい歩み方を目指していきましょう。ときには、芳しくない道を歩むことがあるかもしれませんが、そのときは悔い改め、軌道修正して、主に助けられながら自分自身を見守ってまいりましょう。

2.フィラデルフィアの教会について…フィラデルフィアの教会は、先に述べられているスミルナ教会と似ていて、ユダヤ人だと自称しているが実はそうではなく、サタンの会衆に属する者たちから何らかの迫害を受けていたのでしょう。しかし、フィラデルフィア教会の人たちは、「わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった」と褒められています。マタイ10:32には「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」とあります。私たちは、いつでもどこでも機会があれば、自分がクリスチャンであること、イエス様を信じていること、キリスト教会に行っていることなどを告白しましょう。そして、この黙示録3:11では「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」と言っています。「持っているもの」とは、救い主イエス・キリストを信じる信仰です。この信仰のゆえに莫大な永遠の富をキリストとともに共同相続するのです。これを決して手放してはなりません。

3.ラオデキヤの教会について…この一連の七つの教会、最後のラオデキヤの教会です。「あなたは熱くも冷たくもない。生ぬるい。」と言われています。また、ラオデキヤ教会は「自分では富んでいると思っていても、みじめで、哀れで、貧しくて、盲目であることを知らない。豊かな者になるために、火で精錬された金と白い衣と目薬を買いなさい。」と言われています。当時のラオデキヤは経済的には潤っていたようです。しかし、霊的、信仰的には乏しかったのです。そのため、霊的な意味において「豊かになりなさい。きよくありなさい。霊の目が開かれた者となりなさい。」と言われました。19節では「熱心になって悔い改めなさい。」と言われ、そして20節で「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」と、聖書の中でも有名な箇所が続きます。私たちが、イエス様を家に迎え入れ、共に食事をして交わり、会話を楽しむとすれば、それは大きな喜びと祝福です。つまり、主が私たちに願っていることは、私たちが世の事だけに時間を割くのではなく、イエス様に心を向け、主と交わる時間を十分に持つということです。ヨハネ15:5には「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」とあります。この世のものとか、自分の気合などは当てになりません。私たちは、主と交わって、そこから恵みを受け、主とともに歩んでまいりましょう。

●2024年5月26日(日)礼拝メッセージ要旨  

黙示録2:12~29からです。黙示録2~3章は、当時の七つの教会の現状を取り上げています。先々週はエペソ教会とスミルナ教会でした。本日はペルガモ教会とテアテラ教会を取り上げます。 

1.ペルガモ教会について…ペルガモにはサタンの王座があるとのことで、何らかの偶像礼拝の拠点があったのでしょう。そのため、主の忠実な証人であるアンテパスが殉教したのです。しかし、ペルガモの教会の人々は、信仰を捨てることはしませんでした。現在、日本においては実質的な迫害はありませんが、今後どうなるかについては分かりません。たといどうであれ、私たちは、恐れることなく、主への信仰を守り通していきましょう。さて14節で、ペルガモ教会には「バラムの教えを奉じている人々がいる」と指摘されています。この節の内容から、民数記25章で、イスラエル人が不品行と偶像礼拝に陥り、神罰で24000人が死んだのは、バラムがバラクに何らかの悪知恵を授けた結果だということを推測できます。昔も今も、同じように言えることです。私たちは、不品行と偶像礼拝に陥らないように気を付けましょう。さて17節を見ますと、「勝利を得る者には隠れたマナと白い石を与える」と言っています。隠れたマナとは霊的な食物、霊的ないのちの糧、もしくは永遠のいのちのことでしょう。白い石とは、当時の裁判で陪審員が被告に対して無罪を示すために白い石が使われたようです。そこから、白い石とはイエス・キリストを信じる信仰によって罪赦され、義とされるということでしょう。また、その白い石には新しい名が書かれていました。ルカ10:20には「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」とあります。クリスチャンは、イエス・キリストの十字架の救いによって罪赦され、義とせられ、いのちの書に名が記されているのです。

2.テアテラ教会について…テアテラ教会は「愛と信仰と奉仕と忍耐があり、近頃の行ないが初めの行ないに優っている」と褒められています。私たち人間は、この世に生を受け、子どもから大人へと成長をします。それは体の大きさだけではなく、人間性の成長も含まれます。同じように、キリスト者は、新生してから霊的な成長が期待されています。Ⅰペテロ2:2には「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。聖書のみことばを吸収して成長し、救いの達成をするということは大事なことです。この同じⅠペテロ2:9には「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあり、祭司の務め、すなわち、人々を執り成し、福音を宣べ伝えるという段階に引き上げられたら幸いです。しかし、このあとテアテラ教会は「イゼベルという女をなすがままにさせている」と言われています。Ⅰ列王記16:31に記されているイゼベルと同じような女性が存在していたのでしょう。シドンの王エテバアルの娘イゼベルは北イスラエルのアハブ王と結婚し、夫アハブを通して、北イスラエルに少なからぬ悪影響を及ぼしました。但し、テアテラ教会には、このイゼベルという女の悪影響を受け入れていない人たちもいました。そこで黙示録2:25で「ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。」と勧められています。私たちは、悪いことば、無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどの捨てるべきものは捨て、持っていなければならないものは最後の最後まで手放さないようにしましょう。ヘブル12:2には「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」とあります。救い主イエス・キリストから目を離さないでいましょう。