●2025年2月2日(日)礼拝メッセージ要旨

創世記13:1~18からです。振り返りますと、最初アブラムはハランから、次にシェケム、ベテル、ネゲブ、そしてエジプトへ、そこからネゲブ、そしてベテルに戻ってきます。この章では最後にヘブロンに来ます。今回もここからポイント3つ上げていきます。

1.「主のみ名によって祈った」…エジプトを出たアブラムは以前に滞在していたベテルに来て、かつて自分が祭壇を築いた同じ場所で主のみ名によって祈ります。「祭壇を築いて主のみ名によって祈る」とは、罪のためのいけにえをささげて礼拝するということです。こんにち、クリスチャンはいけにえをささげることはしません。それは、聖なる神の御子イエス・キリストが世に遣わされ、信じる者の罪のために自らいけにえとなられ、救いのわざを成し遂げられたからです。アブラムが「主のみ名によって祈った」というのは、ただ形式的なことではなく、全能の主を第一にして、主のみこころに従っていくことです。それは、こんにちのクリスチャンも同じです。目の先の欲得によって、事を決めるのではなく、聖書のみことばを土台とし、神のみこころに聞き従うのです。

2.「アブラムとロト」…アブラムは非常に富んでいました。ロトもその恩恵に与ったのでしょう。彼もそれなりに羊の群れ、牛の群を所有していました。ですから、アブラムとロトのそれぞれの持ち物が多くて、彼らの家畜の牧者たちの間に争いが起こりました。それで、アブラムはロトに「私と別れてくれ。あなたが右に行けば私は左に。あなたが左に行けば私は右に。」と言います。それでロトはヨルダンの低地、ソドムの近くに移動します。ここから2つのことを学べるでしょう。1つは、何でも一緒に行動すれば良いというものではなく、発展的な別行動もあるということです。もう一つは、ロトの態度です。聖書の記事を見る限りにおいては、それまで世話になったはずのアブラムに対して、ロトは自分本位に見えます。本来なら「あなたが右なら私が左に~」というセリフをロトが言うべきでしょう。その後、ロトは創世記14章では、ケドルラオメルという王たちに捕らえられ、財産も奪われています。19章では、ソドムとゴモラに天からの硫黄の火が降ってきて、散々な目に遭っています。やはり、私たちも、この地上において、主にあって誰に対しても親切と善意と誠実であるべきでしょう。

3.「この地を全部、永久に与えよう」…主は、アブラムが東西南北を見渡しているところを、あなたとあなたの子孫とに「全部、永久に与えよう」と言われています。実際的にはどうだったのでしょう。アブラムの孫ヤコブ(イスラエル)のとき、彼の息子ヨセフのゆえにイスラエル人はエジプトに行き、そこで400年ほど滞在しています。そののち、モーセの時代に出エジプトをして、ヨシュアのときにカナンの地を征服しています。しかし、その後は不安定な士師記の時代を過ぎ、サムエルの時代にサウルによって国の形が出来ます。そして、ダビデ、ソロモンの時代にカナンの地はイスラエルによってほぼ制圧されました。しかし、その後、ソロモンの罪ゆえに国が二つに分裂してしまいます。後に北イスラエルはアッシリヤに、南ユダはバビロンに滅ぼされます。その後、バビロンはペルシャに滅ぼされ、クロス王によって、ユダの捕囚民は再びエルサレムに帰還して神殿と城壁を建て直します。それからローマ時代に入り、聖なる神の御ひとり子イエス・キリストが世に来られ、十字架と復活の救いが完成して、キリストの福音が全世界に宣べ伝えられます。その後、AD70年にユダヤ戦争によってローマに敗北したユダヤ人は世界中に離散します。そして、1948年、カナンの地にイスラエルは再建を果します。しかし、こんにち、イスラエルは周辺諸国との争いが絶えず、先の「全部、永久に与えよう」という主のことばは実現していないように思えます。但し、この後、イエス・キリストが再臨し、イスラエルが主に立ち返ったときに、イスラエルは救われ(ローマ11:25~26参照)、この第三ポイントの冒頭のことばが完全に成就することになると思われます。

●2025年1月26日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記12:1~20からです。この章から信仰の父と言われるアブラ(ハ)ムが取り上げられていきます。その後は、次にイサク、ヤコブ(イスラエル)、そしてモーセ、ヨシュアというふうに、その時代ごとに神に用いられた人物が現われ、イスラエル民族にスポットが当てられていきます。この章もポイント3つ上げていきます。

1.「あなたの名は祝福となる」…主である神はアブラムに「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」と言われます。アブラムの名の意味は「尊い父」です。創世記17:5で主はアブラムにアブラハムとなると、改名を伝えています。そのアブラハムの名の意味は「多くの国民の父」です。聖書の記事においては、今日、アブラハムの孫であるヤコブ(イスラエル)の子孫が地上的な選びの民とされています。さらに聖書の記事においては、もう一つの大事な「霊的な選びの民」が存在します。それは、救い主イエス・キリストを信じる信仰によって神の子とされ、アブラハムの祝福を受け継ぐ人々のことです。ガラテヤ3:14には「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」とあります。アブラハムへの祝福とは何でしょう。それは①魂の救い、②すべての点における幸い、③健康です。(Ⅲヨハネ2参照)アブラハムはヘブル11:10で「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」と言われていて、富や長寿だけではなく、たましいの幸い、永遠のいのちへの希望も持っていたのです。

2.「信仰の人アブラ(ハ)ム」…アブラムは、主から「わたしが示す地へ行きなさい」と言われ、言われた通りにカナンの地へ出かけました。ヘブル11:8では「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」と記されています。現在の私たちが旅行するとすれば、ネットで旅先の情報を丹念に調べてから、出発するでしょう。「行くところを知らないで出発」するとは、それだけ主なる神を信頼していたということです。アブラムは、ハランからシェケム、ベテル、そしてネゲムへと移動していきます。主から「わたしが示す地へ行きなさい」と言われているものの、そこに行ったら、決して順風満帆ではありません。戦いがあるのです。これは、こんにちのクリスチャンも同じです。しかし、違うのは選びの民には全地全能の神が共におられ、みことばと祈りがあります。信仰の人アブラ(ハ)ムのように、そこで信仰を働かせなくてはなりません(ヘブル11:6参照)。

3.「エジプトへ下った」…アブラムには、さらなる試練があります。カナンの地が飢饉で、エジプトに下って行きます。当時エジプトはパロ王が君臨していました。アブラムの妻サライは稀に見る美女であり、アブラムは自分の身を守るために、妻サライに「私の妹だと言ってくれ」と口裏合わせをします。案の定、サライはパロの高官の目に留まり、パロ王に召し入れられる破目になります。しかし、そこに主が介入され、パロとパロの家にひどい災害が襲い、サライはアブラムに返されます。アブラムはサライを差し出した時点でパロから受けた多くの家畜や男女の奴隷を受け取りました。つまり、結果的にアブラムは以前の何倍かの財産を保有することになったのです。もちろん、信仰の人アブラ(ハ)ムが「なぜ、偽装工作をし、その上、妻サライをパロに引き渡したのか?」という疑問点は残ります。そのあたりは、やはりアブラムも人間としての弱さを露呈したということなのでしょうか。しかし、結果として見るとき、神に召された人には、神は全てを益として下さった(ローマ8:28参照)ということでしょう。キリスト者はイエス・キリストのゆえに天にある全ての霊的祝福を受けています(エペソ1:3参照)。ですから、私たちは、キリストのからだである教会を建て上げるという目的を基軸にしつつ、この世における様々な戦いに対して信仰によって勝利していきましょう。

●2025年1月19日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記11:1~32からです。前週の10章では、ヤペテ、ハム、セムの順で、それぞれの子孫の動向が語られていました。この11章では、時系列的には振り返る形で、まだ人々が世界に分散する前の状態から始まっています。今回もポイント3つ上げていきます。

1.「塔を建て、名を上げよう」…10章では、地上で最初の権力者であるニムロデの名が上がっていました。この11章ではニムロデの名は出て来ませんが、そのニムロデが人々を統率していた可能性は強いと思われます。4節でニムロデか、またはそのような人物が「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」と言っています。しかし、このとき、真の神は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られ、それを止めようとされています。21世紀に入った今日の世界において、現在、世界で最も高い建物はドバイにあるブルジュ・ハリハという建物で828mです。第二位はマレーシア・クアラルンプールのムルデカ118という建物で679mです。第三位は上海タワーで632mです。やはり、それぞれ、建設する時には、競争意識や話題性などを多分に計算に入れていることでしょう。それが是か非かは分かりませんが、ローマ12:2では「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。私たちは、全知全能の神を第一にして、その神のみこころを求め、自分自身を神のみこころに合わせていきましょう。

2.「その町の名はバベル」…天から降りて来られた主なる神は、人々の言葉を混乱させ、意志疎通を出来なくさせたので、彼らは全面に散らされ塔を建てるのを止めました。そこで、その町の名はバベル(混乱させる)と呼ばれるようになりました。当時の年代はBC2200~2300年頃のことです。そして、この後、BC600年頃になってバビロニアという国がユダ王国を滅ぼし、いわゆるバビロン捕囚がありました。さらに、AD90年頃になってヨハネによって記された黙示録14:8では「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」と、聖書では、バベルの塔から始まって、「バビロン」は権勢を誇りながらも罪のゆえに、滅びる象徴的勢力として出てきます。さて、今日、一般的(この世的)な世界史では、聖書の記述は無視される傾向にありますが、聖書の記事と、実際の歴史は矛盾することはありません。使徒17:26には「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」とあります。正に、創造主である神が、この世界を創造し、地の前面に人を住まわせ、今日に至っているのです。この創造主なる神と仲介者として世に遣わされたイエス・キリストの御名を呼び求め、この方と共に歩んでまいりましょう。

3.「セム、テラ、アブラム」…アダムから10代目はノア、ノアから10代目はテラです。テラは最初、息子のアブラムたちを伴い、カナンを目指してウルを出発したものの、ハランに住みつきます。しかし、ヨシュア記24:2でヨシュアは「イスラエルの神、【主】はこう仰せられる。『あなたがたの先祖たち、アブラハムの父で、ナホルの父でもあるテラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。」と言っています。テラの息子アブラムは神を恐れ、後の神の民にとっては信仰の父と言われるほどになったのに、なぜテラは他の神々に仕えたのでしょう。Ⅰヨハネ5:21には「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」とあります。人の手によって製作された偶像を拝むことほど愚かなことはありません。また、不品行は偶像礼拝でもあります。今日、私たちも偶像を警戒し、救い主イエス・キリストの神を信じる信仰を全うしようではありませんか。

●2025年1月12日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記10:1~32からです。最初にヤペテの子孫、次にハムの子孫、最後にセムの子孫という順に記されています。この当時は、正に、大洪水以後の世界史草創期で、人の名がそのまま地名になるという傾向があります。比較的乏しいデータではありますが、ヤペテの子孫は海沿いの地域、現在のヨーロッパ方面に移動したようです。ハムの子孫は南下し、現在のパレスチナ、北東アフリカ方面に移動したようです。そして、セムの子孫はチグリス、ユーフラテスの流域地域から東の方に移動したようです。この10章では、「力ある猟師ニムロデ」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「力ある猟師ニムロデ」…ハムの子孫は、クシュ、ミツライム、プテ、カナンです。地上で最初の権力者となったニムロデはクシュの子です。9節で「彼はのおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになりました。「のおかげで」は、新改訳聖書2017年訳では「の前に」となっています。いずれにしても、ニムロデは自分の力ではなく、全能の神である(ヤハウェ)の力によって権力者として立てられたのです。ここに、この第一ポイントでのメッセージがあります。今日、私たちには誰でも「願い」があります。しかし、その願いが何でも実現するわけではありません。全能の神のみこころならば実現するでしょう。また、ここに私たちの「忍耐」が必要とされるところです。Ⅰヨハネ5:14には「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」とあります。真の神は、私たちにとって最善を成してくださるお方です。私たちの願いは願いとして祈り続けましょう。でも、その中で、主の時を待ち望みつつ、主を信頼して、主にお委ねするという姿勢が成熟した信仰者のあり方と言えます。

2.「カナン人」…カナンは前章の9章でカナンの父ハムのゆえに祖父ノアから預言的に「のろわれよカナン」と言われています。もしかして、カナン個人に何かの問題があったのかもしれません。さて、カナンは人名で、後に地名にもなったのですが、地名としての「カナン」は両極端のイメージがあります。それはアブラハム、また出エジプトしたイスラエル人にとっては希望の地、約束の地でもありました。一方、そこはカナン人が住む所で、神の民にとっては物理的にも霊的にも戦いの場でもありました。後のエルサレムであるエブス人の地、また天から硫黄の火が降ったソドムとゴモラもあります。一方でエルサレム、一方はソドムとゴモラです。アブラハムもイスラエル人も、そこでは戦いがありました。それは、今日の私たちも同じです。ルカ13:24には「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。」とあります。その「努力して」のギリシャ語原語はΑγωνιζομαι アゴーニゾマイで「苦闘する、奮闘する」という意味があります。確かに、この世においては様々な戦いがあります。その戦いを主の御名により、みことばと祈りによって戦いぬいていきましょう。

3.「セムの子孫」…セムの子孫は、エラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラムです。そのうち、後のアブラハム、ダビデの先祖となるのがアルパクシャデです。アルパクシャデはシェラフを生み、シェラフはエベルを生みます。そして、エベルにペレグが生まれ、ペレグの時代に地が分けられます。これは物理現象のことを言っているのかもしれませんが、次の11章で記されているように「人々が全地に散らされること」を意味しているのでしょう。そして、最後の32節では「以上が、その国々にいるノアの子孫の諸氏族の家系である」とまとめています。振り返ってみれば、この10章の人々は全員、正しい人、全き人であった(創世記6:9)ノアの子孫なのです。しかし、進む方向は様々です。もちろん、今日の私たちもノアの子孫です。Ⅱコリント4:18には「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」とあります。この世の富、権力、名声などの見えるものではなく、いつまでも続く見えないものにこそ目を留めてまいりましょう。

●2025年1月5日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記9:1~29から、「わたしの虹を立てる」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「血の価」…創造主は「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」と、箱舟によって生き残った人と生き物たちを祝福して仰せられました。また、人に対しては、食物に関して「血のあるまま食べてはいけない」という特別な警告を発しています。レビ記17:14には「すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。『あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。』」とあります。理屈というよりも、全能の聖なる神の掟として受けとめ、それを守って神を恐れる生き方をすることが賢明です。もう一点、5節で「あなたがたのいのちのためには血の価を要求する」ということです。ヘブル9:22には「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とありますが、私たちは、十字架の上で御血を流され、贖いのわざを完成してくださっている救い主イエス・キリストを信じ受け入れ、まことのいのち、永遠のいのちを受けようではありませんか。

2.「わたしの虹を立てる」…この世界の様々な現象、月、星、太陽、そしてこの地球上の人や生き物など、その存在だけでも不思議です。そして、「虹」も不思議です。インターネットで検索して「虹はどうやって出来るのか」という記事などを読んでも、すんなりと理解は出来ません。ただ、地球規模の大洪水を経験したノアとその家族にとって、箱舟の体験は、大いなる救いの体験でもありましたが、同時に恐怖の体験でもあったことでしょう。ですから、その後、大雨が降る時、またあの大洪水になるのではないかという危機感が付きまとうでしょう。ですから、主は、それを見越して、虹を立て、「もう大洪水は起こさない」という契約のしるしとされたのです。そして、その、およそ2300年後のこと、イエス・キリストは最後の晩餐で弟子たちに新しい契約を結びました。ルカ22:20で「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」と言われました。今日、教会の象徴ともなっている十字架は、キリストの新しい契約のしるしと言えるでしょう。

3.「人をそしってはいけない」…ノアは箱舟を出たあと、ぶどう畑を作り始めた農夫でした。また、当時、ぶどう酒も作っていたのでしょう。あるとき、ノアはそのぶどう酒を飲んで酔っ払い、天幕の中で裸でした。それを息子のハムが見て、兄弟たちに告げました。それを聞いたセムとヤペテは、父の裸を見ないようにして、後ろ向きで近づき父の裸を着物で覆ったのでした。酔いから醒めたノアは、その一部始終を知って、「のろわれよカナン」と言い、セムとヤペテを祝福しました。エペソ5:18には「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」とあります。お酒には気を付けましょう。最初から「飲まない」と決めるのがベストかと思います。さて、この記事の焦点は、カナンの父・ハムの対応です。父親の失敗をフォローするどころか、外に拡散してしまいました。これは、親子の関係のみならず、私たちは、誰に対しても、その人の益を計り、その人の助けとなることを志すべきです。人は神のかたちに造られています。その、人を敬い、互いに助け合うことは、神を恐れて生きるということでもあります。詩篇15:1~3には「【主】よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない。」とあります。この2025年の最初にあたり、私たちは、真の神と共に歩み、正しく、義を行ない、真実を語る者でありましょう。そして、人をそしらないように気を付けましょう。

●2024年12月29日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記8:1~22から、「箱舟はアララテの山の上にとどまった」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「主はノアたちを心に留めておられた」…大雨は40日40夜降り続いて、150日間にわたって、地に大水がふえ続きました。創世記6:18で全能の主は、ノアと契約を結んでいます。それは、「ノアが主の言われた通りに箱舟を造って、それに入るなら救われる」ということです。ここで、少し考えてみましょう。「安心と不安」です。確かに、箱舟に乗っていれば安心ですが、地球規模の大洪水で浮かび上がった箱舟は長さ135mもあるとは言え、木の葉のようなもので激しい揺れや大きな音に脅かされていたことでしょう。今日(こんにち)、イエス・キリストを信じるクリスチャンは箱舟の中にはいませんが、霊的な意味で、キリストによる救いの箱舟の中にいます。キリストにある永遠のいのちを受けた者は安心の中にあります。しかし、そうかと言って、不安ゼロと言ったら嘘になるでしょう。この世に生きている限りは様々なプレッシャーがあります。マルコ5章には、12年間長血を患った女性がキリストの着物に触って癒された記事があります。病が直った彼女にキリストは「あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われました。また、そのあとすぐ、会堂管理者ヤイロの娘が死から生き返った記事があります。自宅に向かう途中で自分の娘が死んだという知らせを聞いたヤイロに対してキリストは「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われています。全知全能の主は、箱舟に乗ったノアたちを心に留めておられました。今日、主は私たちに対しても心に留めておられます。私たちも、イエス・キリストに信頼し、恐れず、信じ続けていきましょう。

2.「箱舟はアララテの山の上にとどまった」…このノアの大洪水の全容を見ましょう。まず、ノアの600年第二の月の17日に天の水門が開かれ大雨が降り始めます。その後、水は地にふえつづけていくのですが、水門は閉ざされ、主が風を吹きつけて水が引き始めます。第七の月の17日に箱舟はアララテの山の上にとどまります。そして、ノアの601年の第二の月の27日に地はかわききり、ノアたちは箱舟を出ます。但し、ここで言っている月というのは、ユダヤ暦であって、第二の月は太陽暦の5月頃、第七の月は10月頃で、季節的には行動しやすい時期で、そこに主の御配慮も感じます。さて、ターニングポイントと言いましょうか、V字回復と言いましょうか、一つの大きな起点となったのは、箱舟がアララテの山の上にとどまったことではないでしょうか。水の上を浮遊していた箱舟がようやく安定した地の上にとどまったのですから、ノアたちはどれほど安心したことでしょう。水もどんどん引き始め、大きな希望を持ったことでしょう。

3.「全焼のいけにえをささげた」…第七の月の17日に箱舟がアララテの山の上にとどまってから、第十の月の1日に山の頂が現われ、その後、第12の月の10日になってから、ノアはカラス、そして鳩を放つものの帰ってきます。その7日後、第12の月の17日に鳩を放つとオリーブの葉を加えて来ます。さらに7日待って、第12の月の14日に鳩を放つと、鳩はもう帰ってこなかったのでした。ノアは主に促されて動物たちと共に、いよいよ箱舟を出ます。そして、ノアはまず、主のために祭壇を築き、きよい家畜ときよい鳥のうちから、いくつかを選び取って祭壇の上で全焼のいけにえをささげます。ローマ12:1には「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とあります。ノアは、そのいけにえを通して、自分自身を主にささげ、神の国とその義を第一(マタイ6:33)にして歩んで行こうという姿勢を表したのです。もちろん、今の時代はいけにえは不要です。神の小羊であるイエス・キリストが十字架で尊い代価を支払ってくださいました。ですから、私たちは、このキリストのゆえに全能の主に祈り、自分自身を主にささげ、神第一の日々を過ごしてまいりましょう。

●2024年12月22日(日)クリスマス礼拝メッセージ要旨 

クリスマス礼拝ということで、最初にイエス・キリストの降誕にまつわる全体像、そしてルカ2:8~20から、主の使いが羊飼いたちに現れて語ったことばから、ポイントを3つあげていきます。

※キリスト降誕にまつわる全体像…まず、主の使いガブリエルがマリヤに現れ、乙女マリヤから聖霊によって救い主が生まれることが告げられます。後に、いいなづけのヨセフにも主の使いが現われ、そのことが告げられます。そして、ローマ皇帝アウグストの勅令によってマリヤとヨセフは住民登録のためにベツレヘムに行き、そこで救い主の降誕となります。主の使いが羊飼いたちに現われ、救い主が飼葉おけに寝ておられることを聞き、彼らは急いで見に行きます。その後、東方の博士たちが星に導かれ、黄金、乳香、没薬を携えて、救い主を礼拝に来ます。

1.「あなたがたのために救い主が生まれた」…ルカ2:11に「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と、野宿で夜番している羊飼いたちに、主の使いが突然現れて告げます。今日(こんにち)も、イエス・キリストは、私たち一人一人のための救い主として世に来られたのです。先日、筆者は運転免許証の更新のために宮城県運転免許センターに行ってきました。運転免許更新というと、申請書の記入が面倒、待ち時間と講習が長い、そんなイメージがあります。しかし、今回、驚いたのは、今まで持っていた免許証を銀行のATMのような台に差し込むと、自動で記入済みの申請書が出て来るのです。それに係員の方々が、先回りして、皆が迷わないように親切にアドバイスしてくれるのです。今回私は講習が免除になっていたので、なんと免許更新の全所要時間は30分弱で、免許更新でこれほど感服したのは初めてです。このことも一種の「救い」ですが、イエス・キリストによる救いは、罪と死からの救いであって、神の子とされ、永遠の祝福を完全な形で受けるという何にも代えがたいものです。

2.「あなたがたのためのしるしです」…主の使いは、羊飼いたちに「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。(ルカ2:12)」と言います。私たちの生涯においても何らかの「しるし」となるようなことがあって、それが転機となって進むべき方向性が変わったというようなことがあるのではないでしょうか。羊飼いたちに主の使いが現われたことだけでも大きなしるしですが、救い主を探す「しるし」は「飼葉おけに寝ておられるみどりご」だったのです。今日、私たちに与えられている救い主のしるしとは何でしょうか。それは「十字架」です。Ⅰコリント1:18には「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」とあります。十字架のことばに救いがあり、力があり、救いのしるしでもあります。

3.「地の上に平和があるように」…ルカ2:14で、多くの天の軍勢が現われ「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」と全知全能の神を賛美します。その平和とは「戦争と平和」の平和でもありますが、「御心にかなう人々にあるように」とありますので、それらの人々の心の中に平和、すなわち「平安」があるようにということです。この世においては、一時的な平安とか安楽を提供するものがありますが、まやかしの平安に惑わされてはなりません。本当の永遠に至る平安を得るにはイエス・キリストの救い以外にありません。使徒の働き4:12には「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」とあります。ヨハネ14:6でキリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。私たちは、この方によって救いを受け、平安をいただき、また、その平安が脅かされないように聖書のみことばから教えられ、熱心に祈りに励みましょう。

●2024年12月15日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記7:1~24から「箱舟に入りなさい」という題でポイントを3つ上げていきます。

1.「箱船に入りなさい」…ノアが500才のときにセム、ハム、ヤペテが生まれ、その時期に、主がノアに箱舟を造るようにと言われました。そして、その箱舟が完成し、ノアの600才のとき、いよいよ「箱船に入りなさい」と言われます。つまり、ノアの500才から600才の100年間は箱舟建造中だったのです。この期間に何があったのかということは聖書に詳しく記されてはいません。Ⅰペテロ3:20には「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」とあり、まず、箱舟による救いのメッセージが何らかの形で伝えられ、それを知った人々は、それを受け入れなかったということです。Ⅱペテロ3:6~7には「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」とあります。ノアの時代は箱舟に入ることによって救われました。今の時代、箱舟に入るとは創造主である全能の神が遣わされた神のひとり子イエス・キリストを信じ、従うことです。

2.「主は彼のうしろの戸を閉ざされた」…11節には「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。」とあります。現在、地球の上空には大気圏が取り巻いています。また最近よく聞くオゾン層というものもあり、それが破壊されて地球温暖化が起こっているようです。このノアの大洪水前には、もう一つの何らかの地球を守る大気の層が存在していて、11節の表現を借りると、それが「張り裂けた」のかもしれません。ですから、大洪水の後、地球環境が厳しくなり、何百歳も生きる人がいなくなったのでしょう。さて、ここではノアの家族と動物たちが箱船に入ったあと、16節で「主が彼のうしろの戸を閉ざされた」とあります。「戸を閉ざされた」ということばの中に二つの意味があるでしょう。一つは、箱舟に入った人と生き物を守ったということ。もう一つは、箱舟の外との遮断です。詩篇86:15には「しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。」とあるように、全能の主は実にあわれみ深く、情け深い方です。百年間も箱舟建造という形を通して、救いの呼びかけがなされてきました。しかし、最後の「戸が閉ざされる」ときが来たのです。私たちは、箱舟の戸の内側に入る者として、主のみことばに従順に聞き従いましょう。

3.「それらは地から消し去られた」…アダムが創造されてからノア600才まで計算しますと1656年です。仮にアダムからキリスト降誕までを4000年としますと、紀元前(BC)2344年に大洪水が起こったことになります。地球規模の大洪水は全てのものを破壊し消滅させますから、人間の歴史の痕跡はBC2344年以前は残っていないでしょう。しかし、一般的なこの世の見解ではノアの大洪水を無視していますし、その証拠も無いとしています。アメリカのアリゾナ州にあるグランドキャニオンは水平の地層が広大に広がっています。そのような水平の地層は世界中のどこにでもあり、高い山にも見られます。また、世界中に分布している化石は生き物が急激に土砂などに埋まり、空気と遮断されないと出来上がりません。要するに、地球規模の大洪水が起きない限り、世界中に見られるグランドキャニオンのような地層も、化石も説明がつきません。この大洪水で、最も高い山にまで水面が到達し、さらに15キュビト(約6.75m)増し加わりました。あのエベレスト山は標高8848mです。物凄い水量です。偉大で絶大な力を持つ全知全能の創造主は、私たち一人一人を覚え、御子イエス様をこの地上に遣わし、十字架による救いを成し遂げられました。今の時代、ノアの時代と重なります。ノアと家族は箱船建造中、きっと嘲笑を受けたことでしょう。マタイ7:13~14には「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」とあります。私たちは、いのちに至る門から入り、いのちにいたる道を進みましょう。

●2024年12月8日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記6:1~22から「箱舟を造りなさい」という題でポイントを3つ上げていきます。

1.「地上に悪が増大し」…2節に「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」とあります。当時、さすらい人となったカインの子孫が生存していました。そのカインの大きな過ちのゆえにアダムにもう一人の男子セツが与えられ、セツの子孫も共存していました。その「神の子ら」というのはセツの子孫と思われます。2節で言っている「人の娘たち」というのは、文脈から見てカインの子孫ではないかと推測します。それを神が良しとしなかったのでしょう。そのために「人の齢を120年にしよう」と言っています。詩篇90:10には「私たちの齢は70年。健やかであっても80年。」とあります。一方で、最近の世界の最高齢者は116~118才くらいで、確かに聖書通りです。それはともかく、当時の世界は悪が増大し、深刻な状況にあったようです。それは、今日の世界の状況にも言えることであり、平和と秩序ある世界に向かっているのではなく、その逆方向に向かっているように思えます。「当時の世界は水により滅ぼされ、今の天と地は火によって滅ぼされる。」ということがⅡペテロ3:6~7に記されていて、そのみことばどおりに世界が向かっているようです。

2.「ノアは神とともに歩んだ」…地上に人の悪が増大している中で、ノアは全き正しい人で、神と共に歩んでいました。ノアの先祖であり、同じセツの家系から出たエノクは65才でメトシェラを生んだあと300年間、神と共に歩み、生きたまま天に携え挙げられたようです。エノクにしてもノアにしても、彼らが実生活の中でどの程度の「全き歩み」をしていたのかは想像するしかできませんが、はっきりと分かっていることは、彼らはアダムの子孫であり、アダムの罪を受け継いだ罪人であるということです。しかし、それだからこそ、彼らは主の前にへりくだり、いつも悔い改めと感謝と願いの祈りを熱心にささげていたかと思います。セツにエノシュが生まれたとき、「人々は主の御名によって祈ることを始めた(創世記4:26)」とありますから、その「祈り」を彼らも受け継いでいたことでしょう。今日、神の民であるクリスチャンは、まず聖日の礼拝を重んじ、その上で、毎日みことばを読み、そして熱心にお祈りをささげていきましょう。

3.「箱舟を造りなさい」…神は大洪水で地を滅ぼそうとされる一方で、ノアの家族だけは助け出そうとされます。そのためにノアに箱舟を造るように命じます。箱舟の大きさは長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビトです。1キュビトを45センチで計算すると長さ135m、幅22.5m、高さ13.5mです。比率としては30対5対3で、これは今日の大型船舶とほぼ同じ比率です。またゴフェルの木を用いるように言われています。今日、ゴフェルの木がどの木であるのか確認されていないようです。真っすぐな大木で、丈夫で加工しやすく水に強い材質であったと想像します。そして、箱舟の内と外は木のヤニで塗られ、構造は三階建てで、部屋を仕切っていたようで、強度も、充分保たれていたのでしょう。ところで、先週の12月1日(日)はゴスペルシンガーのジョン・ルーカスさんに来ていただきコンサート礼拝を開催しました。素晴らしい演奏とともに「人間の想定外は神の予定通り」というメッセージを語られました。ジャマイカの大学を卒業しニューヨークに行く予定でいたところ、日本とジャマイカが友好関係を結び、その流れの中で日本に来ることになったそうです。今は、ゴスペルシンガーとして日本で大活躍しています。当時のノアにとっても、神が自分に大きな「箱船を造りなさい」と言われたことは想定外の事に違いなかったでしょう。しかし、ノアはいつも神とともに歩んでいたので、想定外で終わるのではなく、それを神の予定通り、すなわち神のみこころとして受けとめ、箱舟造りに着手していったのです。私たちも神と共に歩み、神の御声を聞き分け、それぞれ自分の歩むべき道を進んでまいりましょう。

●2024年11月24日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記5:1~32から「神とともに歩んだエノク」という題でポイントを3つ上げていきます。

1.「彼のかたちどおりの子を生んだ」…カインは殺人者でさすらい人とされ、アダムの後継から除外された形となりました。そこで、4章25節で言っているように、神はアダムにセツを授けられました。アダムは神に似せて造られました。そして、アダムの子セツは彼に似せて、彼のかたちどおりの子でした。すなわち、セツも神に似せて造られたのです。4章26節では、セツにエノシュが生れたとき、「人々は主の名によって祈ることを始めた」とありますから、たぶん、セツも祈ることを始めた張本人の一人であったのではないかと推測できます。そういう意味においても、セツは神に似た者であったと言えるでしょう。ピリピ3:21には「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」とあります。やがて終わりのラッパが鳴る時、キリストにある者は不死を着て復活の体に変えられます。そのときが来るまで、私たちはこの地上においてキリストを慕い求め、キリストに似た者とされることを求めてまいりましょう。

2.「エノクは神と共に歩んだ」…Ⅱ列王記2:11でエリヤは生きたまま天に引き上げられています。エノクも死を見ることなく天に引き上げられたようです。エノクはなぜ天に引き上げられたのでしょう。「神とともに歩んだ」からです。エノクが神とともに歩むようになったのは、彼が65才のときメトシェラが生れたときからです。「メトシェラ」の名前には「彼が死ぬとき、それは始まった」という意味があるようです。つまり、エノクにメトシェラが生れたとき、神からエノクに対して何らかの啓示があったのではないかと思われます。メトシェラ187才のときレメクが生まれ、レメクが182才のときノアが生まれます。そしてノアが600才のとき大洪水が起きます。187+182+600=969です。ノアの大洪水の年にメトシェラが969才で死にました。順序としては、おそらくメトシェラが死んだ直後に大洪水が起きたと思われます。エノクは神からの啓示を真摯に受けとめ、神と共に歩み、それゆえに生きたまま天に引き上げられました。ヘブル4:2には「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」とあり、このエノクとは真逆の人々、約束のカナンの地に入れなかったイスラエルの民のことが指摘されています。私たちは、エノクのように、神のことばに従い、まことのいのちに与る者とされましょう。

3.「この子は慰めを与えてくれるであろう」…メトシェラの子レメクが182才のときノアが生まれます。そのときレメクは「【主】がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」と言っています。当時、あのカインの子孫も共存しています。それゆえの悪もあったでしょうし、それに関連する「のろい」のゆえにレメクも苦労していたことがうかがえます。そして、その600年後、ノアの大洪水が起こります。その当時、地上に人の悪が増大し、その中でノアは正しい人であり、全き人で、神とともに歩んでいたのです。この章では、生きたまま天に引き上げられたエノクと大洪水の只中を経験するノアの誕生が記されています。マタイ24:37には「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。」とあります。当時は洪水によって滅びましたが、今の世界は火に焼かれるためにとっておかれています(Ⅱペテロ3:6~7参照)。また、マタイ24:31には「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」とあります。イエス・キリストの再臨の日が近づいています。終わりのラッパが鳴り響くとき、キリストにある人々はエノクのように天に携え挙げられるのです。そして永遠の安息の中に入るのです。