●2022年8月7日(日)礼拝メッセージ要旨 

コロサイ3:1~11から、「天にあるものを思いなさい」という題で、ポイント3つ上げて行きます。

1.天にあるものを思いなさい…今、私たちは、目に見える世界であるこの地上に住んでいます。この地上は善と悪が混在しています。それは霊的な解釈では、聖霊と悪霊が混在しているということでもあります。そして、やがて、この地上を去る時が来ます。そこから、ある人は永遠のいのちに、別の人は永遠の忌むべき場所に行くのです。ですから、私たちはイエス・キリストを信じて、聖霊と関係し、やがて、この地上を去っても、キリストが神の右に座を占めておられる天に迎えられ者となりましょう。詩篇73:25には「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」とあります。日々、イエス・キリストを慕い求めて、永遠の天に連なる歩み方をさせていただきましょう。

2.むさぼりが偶像礼拝…日本の国は八百万の神々と言われる偶像が満ちています。神と名の付くものであるなら、ただ拝礼することが良いことであるとするような風潮が支配しています。しかし、偶像礼拝は大きな罪であり、拝礼した人に祝福をもたらすことは決してありません。そういった元々の偶像礼拝の他に、このコロサイ3:5では、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼりが、そのまま偶像礼拝であると指摘しています。それから、怒り、憤り、悪意、そしり、また口から出る恥ずべき言葉、そして、偽りを捨てなさい、と言っています。多くの人々は、どれだけ儲けたか?また、どれだけ成功したか?そういうことに関心を持ちます。そういったことは一瞬にして崩れ去ります。本当に価値ある人間の生き方は、清く生きることです。ヘブル12:14には「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とあります。清く(聖く)生きることに本物の価値があるのです。

3.新しい人を着たのです…ガラテヤ3:27には「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」とあります。キリストを着せられた私たちがイエス・キリストを信じて力強い生き方をしたいなら、「信仰」が大事です。不信仰な人は、風に吹かれて揺れ動く海の大波のようです。事実である聖書のことばを信頼し、信じて従う人に対して、主は祝福をされるのです。新しい人は「信仰の人」であるべきです。その「信仰の人」である新しい人は、造り主のかたちに似せられて、ますます新しくされ、真の知識に至るのです(コロサイ3:10より)。

●2022年7月31日(日)礼拝メッセージ要旨  

 本日はコロサイ2:11~23からです。「本体はキリストにある」という題でポイントを3つ上げていきます。 

①キリストと共によみがえらされた…イエス・キリストを信じてバプテスマを受けた人は、キリストと共に葬られ、キリストと共に生きているのです。そのことは、人の目に見えるものではありませんが、クリスチャン一人一人が自分の心の中で信じています。それは非常に大きなもので、莫大な負債を負った人が、その負債を免除されたようなものです。詩篇49:8には「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」とあります。しかし、イエス様を信じる信仰によってたましいの贖いしろである債務証書は無効となったのです。

②かしらに堅く結びつく…現在、テレビやインターネットニュースなどで旧統一協会と自民党などの一部議員との関係が日を追うごとに明らかにされています。一般のキリスト教会にとっては、旧統一協会はエホバの証人とモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)と並んで三大異端と位置付けられていて、トラクトなどにも、それら三つの団体とは「関係ありません」とわざわざ注意書きを施しています。しかし、キリスト教会とは縁のない多くの人々にとっては、どれが普通の教会で何が異端かは分かりにくいでしょうから、いい迷惑と思う部分もありますが、問題が問題として浮き彫りにされることは良いことです。その異端の団体の特徴は、聖書の基本教理を逸脱した独特の教えを広め、教会のかしらであるイエス・キリストに結び付くことをしません。もちろん、普通の教会、聖書に堅く立っていると自覚している教会であっても慢心は禁物です。謙遜になって、自らを省み、教会のかしらであるイエス・キリストに堅く結びつき、連なる一人一人が養われ、成長させていただきましょう。

③御霊に導かれて進む…結局、かしらに堅く結びつかず、肉の力で生きようとしても「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られ、この世の生き方と同じになってしまいます。ガラテヤ5:24~25には「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」とあります。勝利の秘訣は「様々な欲望に打ち勝つ」というよりも、イエス・キリストの聖霊に導かれて生きることです。筆者は先週、山形県尾花沢市に行ってきました。当教会で7年ほど協力宣教師として奉仕してくださったエドワーズ夫妻が次のステージとして、山形県尾花沢市で伝道することになりました。ご夫妻は、尾花沢の住居を探している頃から、村山市にあるシオンキリスト教会の礼拝に参加しておられました。そして、この度、筆者がご夫妻にお会いして、知ったことですが、既に、お二人はシオンキリスト教会の協力宣教師として、その教会を拠点とし、尾花沢市の住居が伝道所として位置づけられていました。願ってもないような形で、良いポジションが備えられ、私たちもそれを喜びました。正に、御霊の導きがあったのでしょう。どうぞ、ご夫妻のため、そしてシオンキリスト教会の働きのために祈りましょう。

●2022年7月24日(日)第一礼拝メッセージ要旨  

本日の第二礼拝はゲストをお招きしての特別礼拝です。いつもならコロサイ書からですが、本日の第一礼拝では詩篇33篇からです。段落ごとに見ていきます。

①賛美(1~3節)…この世においては、罪人である人間や、その人間が形づくった偶像が崇められることが多々あります。賛美されるべき方は、救い主イエス・キリストの父なる神様だけです。「賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい」とあります。私たちは、創造主であり、救い主である真の神を喜んで賛美しましょう。色々な楽器を使って、出来れば上手に、主に向かって大いに賛美しましょう。

②みことば(4~5節)…いつの時代でも言えることでしょうが、私たちは、絶えず様々な心配や不安の中で日々を過ごしているのではないでしょうか。しかし、クリスチャンにとっては、聖なる神のみことば、聖書があります。「主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。」とあります。どんな時代のなかにあっても、正しく真実なみことばに信頼してまいりましょう。

③天地創造(6~8節)…最近、スコットランドの湖で、1億年前の魚類系の化石が発見されたとのことです。大きさは数センチほどです。どうして1億年前の化石なのかというと、発見された地層が1億年前だということです。もちろん、いつもそうですが、何によって、その地層が1億年前であるのかということは全く述べていません。これは科学ではなく、推定とか空想によるものです。捏造と言っては言い過ぎでしょうか。この世界は、創造主なる真の神によって創造されました。私たちは、この神を恐れなくてはなりません。

④はかりごと(9~11節)…10節には「主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。」とあります。また、マタイ10:26には「だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。」とあります。天地創造の神は、全てをお見通しで、必ず正しい裁きを下されます。

⑤幸いな国(12節)…人や偶像を自分の神とするのではなく、天地を創造した真の神様を自分たちの神とする国、もし、そのような国があるなら、本当に幸いな国と言えます。日本がイエス・キリストを自分たちの神とする国となりますように。

⑥主は目を注ぐ(13~15節) …神は人間の肉体だけを創造したのではなく、その人間の内側に心を造られました。ですから、当然、神は全ての人の心を読み取ることがお出来になります。

⑦大きな力と救い(16~17節) …第一サムエル17章、ダビデとゴリアテが一騎打ちをしたとき、ゴリアテの身長は6キュビト半(約286センチ)で、鎧と兜で武装し、大きな槍を手にしていました。一方、ダビデは武装無しで、武器は石投げと5つのなめらかな石でした。ダビデの一投目の石がゴリアテに命中し、軍配はあっけなくダビデに上がりました。1967年6月にイスラエル対アラブ諸国の第三次中東戦争が起こりました。明らかにイスラエル不利の戦況の中で、「六日戦争」と言われるようにイスラエルの奇跡的勝利で短期間に終わりました。常に、大きな力を持つ者が勝つのではありません。

⑧主を待ち望む(18~22節) …この詩篇33篇の結論です。私たちに求められていることは、主を恐れ、主の恵みを待ち望むこと。主を喜び、イエス・キリストの御名に信頼して祈り求め続けることです。

●2022年7月17日(日)礼拝メッセージ要旨  

コロサイ2:1~10から「キリストのうちに知恵と知識との宝が隠されている」という題でポイント3つ上げていきます。

①キリストを真に知る…私たちが、イエス・キリストを真に知るにはどうしたらよいでしょうか?キリストのことを研究し、徹底的に調べ、完全に理解できるのでしょうか?それは却って難しいでしょう。それよりも、まず、私たちが、イエス・キリストを信じて心の中に迎え入れることです。コメディアンであり小説家でもあるピース又吉さんは、小学生の頃、クリスチャンの祖父の影響で、教会学校に行っていました。小学1年生のとき、洗礼を受ける決心をしたのですが、母親から「小学3年生になってから、もう一度改めて決めたら」と言われました。小学3年生になって、結局、洗礼を受けるのを止めたということです。当教会のWさんは、「天の御国は、からし種のようなもので、どんな種よりも小さいけれど、どんな野菜よりも大きくなる(マタイ13:31~32)」という話を聞き、「自分はまだ、イエス・キリストを信じる信仰は十分とは言えないけれど、からし種ほどの小さな信仰でもよいなら、信じて行こう」と思い、決心してバプテスマを受けました。受洗後、Wさんは、信仰に堅く立っています。

②キリストのうちに知恵と知識との宝が隠されている…パウロは、空しい騙しごとの哲学によって、誰のとりこにもならないようにせよ、と言っています。アメリカのベストセラー作家のフィリップ・ヤンシーさんはプロテスタント福音派のクリスチャンです。3.11東日本大震災の直後、当教会に来られ、青葉区上杉の教会で講演しました。筆者も、そこに参加しました。その講演内容は殆ど忘れましたが、一つだけ覚えていることがあります。それは、「すべての物事は、十字架で救いを完成されたイエス・キリストを通して見るべきである」と、そういったことを話していました。ヨハネ5:39~40には「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」とあります。聖書の中心はイエス・キリストです。世界の中心もイエス・キリストです。イエス・キリストのうちに知恵と知識の宝が隠されているのですから、キリストを通して物事を見て行くとき、そこに、神の知恵から来る的確な判断が出来るのではないでしょうか。

③キリストの中に根ざす…この度の参議院議員選挙で、クリスチャンの金子道仁さんが比例区で当選しました。金子氏は、福音派の牧師ですから、しっかりとキリストに根ざし、立場を鮮明にしていけば、その辺の戦いはあるでしょう。ですから、私たちは、金子氏のためにお祈りし、地の塩として、忖度しないで国会の腐敗防止の役目を担えるように祈りましょう。さて、私たちが健康を保つために必要なものは何でしょう。運動、睡眠、栄養、精神衛生です。年齢を重ねても体力を維持するためには筋肉に刺激を与えるのが有効です。また、笑うことも非常に健康に良いと思います。クリスチャンとして信仰を保つためには、WWPPです。礼拝(Worship)、聖書のみことば(Word)、祈り(Pray)、宣教と証しの生活(Preach)です。キリストはすべての権威と支配のかしらです。そのキリストが私たちの内におられるなら、私たちはキリストにあって満ち満ちている(コロサイ2:10)のです。

●2022年7月10日(日)礼拝メッセージ要旨  

コロサイ1:21~29から「しっかりとした土台の上に」という題でポイント4つ上げて行きます。

1.しっかりとした土台の上に…ある有名な建築家は、「建物は土台が出来たら、全体の50%完成したと同じだ」と言ったとのことです。植物も根がしっかり下に張ってないと強く成長しません。マタイ5~7章で、イエス・キリストが山で弟子たちを始めとする群衆に語られた聖書箇所を山上の垂訓とも呼ばれています。その最後の所で、岩の上に建てられた家と砂の上に建てられた家の話が出てきます。雨が降り洪水が押し寄せたとき、岩の上の家は倒れなかったが、砂の上の家は倒れ、しかもその倒れ方がひどかった、とあります。それは、建物のことではなく、私たちの人生の土台のことを言っています。マタイ7:24には「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」とあり、人生の土台となるイエス・キリストのことば、聖書のことばを聞き、それを実行しましょう。また、この世においては、良い人も悪い人もいます。蛇のようにさとく鳩のように素直な心で(マタイ10:16参照)、日々、過ごしてまいりましょう。

2.キリストのからだのために…パウロは24節で「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。」と言っています。このことばは、指導者としての模範となるべきものと思います。プロ野球で選手として大活躍し、また監督としても手腕を発揮した落合博満さんは、監督時代、選手がミスをすると、「俺の責任、その選手を使った俺が悪い」と言って、決して選手を責めることはありませんでした。さて、パウロですが、24節後半で「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです」と言っていますが、キリストのからだなる教会は、人間の集まりですから、当然、完全ではありません。その不完全で、弱い部分に対して、パウロは何らかの手立てを施して満たしていると言っているのです。サーバントリーダーシップという言葉があります。リーダーであるけれども、召使いのように仕えるということです。キリストは、マタイ20:27で「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」と言われました。

3.奥義とはキリスト、栄光の望み…アダムとエバの時代から今日まで約6000年です。聖なる神の御子イエス・キリストが十字架の救いを完成し、天に昇り、聖霊が降り、初代教会が誕生してから約2000年です。つまり、最初の4000年間は隠されていたのですが、ペンテコステの聖霊降臨以後、この奥義が聖徒たちに現わされたのです。この奥義とは、キリスト者の内におられる聖霊、栄光の望みです。また、キリスト者は、ガラテヤ5:22~23の御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)を結んでいるか、自らを吟味しましょう。

4.キリストにある成人として…第一のポイントでは「土台」について話しました。この第四では土台の上に建てる建物についてです。第一コリント3:11には「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」とあります。キリストの土台の上には、キリストにある建物を建てねばなりません。終わりの日が来た時、真価が試されます。キリスト者は神に選ばれ、任命されました。それは実を結び、その実が残るためです。また、御名により、祈った祈りを聞いていただくためです(ヨハネ15:16参照)。祈りは、自分の願いを神に求める。それで良いのですが、一方で、祈りは神との対話でもあります。祈りを通し、神のみこころ知り、そのみこころに従うことがキリストの成人と言えるでしょう。

●2022年7月3日(日)礼拝メッセージ要旨

コロサイ1:13~20からです。「万物は御子にあって造られた」という題でポイント3つ上げていきます。   

③御子は見えない神のかたち…13節には「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」とあります。キリスト者は暗やみの圧制である悪魔の支配から解放され、今はイエス・キリストの側に立つ者となりました。そのような素晴らしい導きを与えてくださった神の御子イエス・キリストは、そもそも、どのような方であるのかが次の15節から記されています。さて、一人の人物がそこにいたとしましょう。その人がどういう人なのかを知るには、その人が何を語り、何を行なったかで知ることができます。目に見えない本当の神を知るためには、神の子イエス・キリストによって知ることができます。ヘブル1:3には「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」とあります。また、神は三位一体なる方です。なぜ神は三位一体なのでしょうか。それは私たち人間の罪をきよめるために、神の子イエス・キリストを遣わす必要があったからです。今日、私たちは神と人との仲介者であるイエス様の名によって祈るとき、天の御座の父なる神から聖霊が遣わされるのです(ヨハネ14:26参照)。

②万物は御子にあって造られた…クリスマスでお祝いされるイエス・キリストは2000年ほど前に処女マリヤからお生まれになりました。しかし、キリストは、それ以前の、世界が創造される前から存在しておられました。そして、キリストは父なる神と共に全てのものを創造しました。洋服、時計、コンピューターは人間が造り、人間のためにあるように、全てのものはキリストが父なる神と共に創造し、キリストのためにあるのです。コロサイ3:17には「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」とあります。私たちは、新しい一日を始める前、食事をする前、車の運転をするときも、何をするときもイエス・キリストの名によってそれを行ないましょう。

③御子は教会のかしら…天の神様は、キリストのからだである教会を通して福音宣教が行われるようにされました。御子は教会のかしらです。エペソ1:23には「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」とあります。今日、ギリシャ語原語ではエクレシア(集会の意)と言っている「教会」があるということは本当に幸いなことです。もし、教会がなければ、日曜日は何をしたらよいのでしょうか。スポーツですか。今は暑いので海水浴に行きますか。かつて、筆者は、未信者の時、日曜日に野球をしていました。野球そのものは楽しいし、悪いことではありません。でも、日曜日に教会にも行かないで野球を楽しんでいても、心の奥で、何か空しさを感じていたものです。イエス様は十字架の救いによって平和と和解の福音を備えてくださいました。教会は福音宣教の拠点です。教会のかしらであるイエス・キリストのみことばに聞き従い、クリスチャンは平和と和解の福音の使者としての使命が与えられているのです。まず日曜日は教会に集まり、礼拝をささげましょう。そして、教会から遣わされ、あらゆるところでキリストの使節として仕えてまいりましょう。

●2022年6月26日(日)礼拝メッセージ要旨  

コロサイ人への手紙に入ります。パウロが第三次伝道旅行で、エペソにいたとき、ツラノの講堂で二年間(使徒19:10)論じました。そのときアジア(現在のトルコ)各地から人々が集まりました。たぶん、そのとき、エパフラスもいて、信仰を持った彼がコロサイ教会を建て上げたのではないかと推測できます。本日はコロサイ1:1~12から「真の知識に満たされる」という題でポイントを3つ上げて行きます。    

①信仰と希望と愛…コロサイ教会の問題は、2章で指摘されています。しかし、パウロは、いきなり問題に切り込むのではなく、まず、コロサイの人々に敬意を表し、1:4~5でコロサイ教会の人々が「信仰と愛と希望」を持つことになったことを評価しています。第一コリント13:13には「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。イエス・キリストを信じる信仰、その信仰によって得られる永遠の希望、そして、愛とはイエス・キリストの十字架による救いです。確かに、一番すぐれているのは愛です。すべてはイエス・キリストによる十字架の愛から始まっています。

②世界中に実を結ぶ福音…6月23日は、沖縄で「慰霊の日」の式典が行われました。太平洋戦争において、日本では、唯一、沖縄だけ地上戦が行われました。1945年6月23日、沖縄の日本軍の司令部の機能が崩壊し、沖縄戦は終結しました。そもそも戦争ですから、相対する双方の国のどちらか一方を正義とすることは出来ませんが、事実として、アメリカ軍には従軍牧師(チャプレン)がいて、軍隊で聖書が説かれていたようです。そして終戦となり、日本はGHQ(連合軍最高司令部)の指揮下に置かれ、事実上、アメリカの大きな影響を受けてきました。アメリカは自由と民主主義の国です。もし、独裁的な国の支配下に置かれたら日本はどうなっていたことでしょうか。戦後、信教の自由の下、日本に多くの宣教師たちが来られて福音宣教が行われてきたのです。今日、ウィクリフという聖書翻訳の団体によりますと、聖書全巻翻訳は704言語、新約のみ翻訳は1551言語、分冊か聖書物語翻訳は1160言語、翻訳プロジェクト進行中は2831言語、翻訳プロジェクトを始める必要のある言語2014言語です。国連加盟国が193カ国ですから、いかに多くの言語で翻訳がされてきたかが分かるでしょう。そして、それは、何を意味しているかと言いますと、福音は、どうしても宣べ伝えなくてはならないものだからです。この世は闇か光です。福音によって闇のような世界を明るく照らさなければなりません。教会の使命は福音を宣べ伝え、神の国をこの地上に実現することです。

③真の知識に満たされる…今、紫陽花(アジサイ)が見頃です。当教会にも直径1メートルほどの紫陽花が二つあり、もう少しで満開になるところです。誰であっても花を見て美しいと思うでしょう。無神論・進化論者なら「数億年前は不細工だった花が進化して今の美しい花になった」と仮説を唱えるのでしょうか。そんな幼稚で愚かな空想から卒業すべきです。聖書は「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」と言っています。私たちは、神のみこころに関する真の知識に満たされ、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、強くされ、父なる神に感謝をささげる者となりましょう。

●2022年6月19日(日)礼拝メッセージ要旨  

ピリピ人への手紙4:10~23から「あらゆる境遇に対処する秘訣」という題でポイントを3つ上げて行きます。    

①あらゆる境遇に対処する秘訣…パウロは12節で「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」と言っています。パウロは多くの場合、福音宣教のゆえに迫害を受け、鞭打たれ、ある時は獄舎で過ごしました。そういった苦しく、厳しい環境に置かれていた一方で、豊かさの中にいたこともあったのでしょうか?使徒24:26に、ローマ総督ペリクスがパウロから金をもらおうとしていたことが記されていますので、もしかしたら、一時的にパウロは大金を所有していたのかもしれません。または、生れ育った実家が富裕だったことも考えられます。さて、「あらゆる境遇に対処する秘訣」です。13節に「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことも出来るのです。」とあります。パウロは、様々な試練の中で、主の御名を呼び求め、助けを受け、難局を乗り超えていたのです。

     

②私のほしいのは霊的祝福…今日は父の日です。テレビで、お父さんたちが父の日に何が欲しいのか、というアンケート調査をしていました。第一位は「何もいらない」でした。確かに、父親の立場から、我が子から自分へのプレゼントを特に欲しいとは思わないでしょう。そんなことより、我が子の幸せをひたすら願うだけでしょう。以前、超教派の集会でのことです。そのとき講師だった福音伝道者のF先生は、小学生の息子さんから父の日に箸をプレゼントされました。長い箸で、それは、食事用のものではなく、料理用の菜箸(さいばし)だったそうです。F先生は、それを喜び、その長い箸で食事をしたとのことです。後に、その息子さんは大人になり、現在、牧師として用いられています。父が我が子を思うように、パウロはピリピ教会の人々からの支援を喜びつつも、彼らの霊的成長と永遠の祝福を得ることを願うのでした。使徒20:35には、「受けるよりも与えるほうが幸いである」とあります。段階的に、人はイエス・キリストを信じてクリスチャンになると、最初は自分のことにしか思いが行き届きません。しかし、段々と霊的に成長し、大人のクリスチャンとなり、自分の回りの人々の救いと祝福のために祈り願うようになります。

③私の神は必要を満たして下さる…19世紀後半に、ジョージ・ミュラーはイギリスで孤児院を開設しました。その孤児院には数千人の孤児がいました。ジョージ・ミュラーは、その運営について、人に頼らず、ただ神に頼る(祈る)という方針でした。食事時になっても食べ物が無くて、困っていると、そのたびに奇跡が起き、パンを積んだ運搬車が突然訪れるということが度々ありました。後にジョージ・ミュラーは同志社の新島襄に招かれ、日本に来て講演をしています。その講演を聞いた医師の石井十次は岡山で孤児院を開設しました。また、救世軍の山室軍平も感化を受けました。私たちは、それぞれ、様々なものや才能が与えられているものです。それらを自分のために蓄えたところで、やがて、この世に置いていかねばなりません。それらを神の栄光のためにささげて、用いていただきましょう。その結果、全能の神は、ご自身の栄光の富をもって、私たちの必要をすべて満たしてくださいます。

●2022年6月12日(日)礼拝メッセージ要旨

本日はピリピ4:1~9からです。「いつも主にあって喜びなさい」という題でポイントを3つ上げて行きます。

1.いつも主にあって喜びなさい…何年か前、アメリカ人の原作で「少女ポリアンナ」というアニメーションが日本のテレビで放映されました。ポリアンナの父親は牧師で、亡くなる前に娘のポリアンナに対して「どんなに苦しいときでも、良いことを探しなさい」、つまり「良かった探し」を遺言として伝えていたのです。たった一人になったポリアンナでしたが、父の教えを実行し、厳しい環境の中でも「良かった探し」を実行して明るく過ごし、周囲に対し良い感化を及ぼして行くというストーリーです。さて、4節には「主にあって」とあります。クリスチャンにはキリストによる救いがあり、神が共にいてくれる。それだけでも「良かった探し」以上です。しかも、それに加えて、マイナスさえもプラスになるという約束があります。ローマ8:28には「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」という約束です。

2.何も思い煩わないで…思い煩わない人はいないでしょう。思い煩うのが人間です。でも、ここで、「何も思い煩わないで」と教えています。確かに私たち人間は思い煩ってしまうものですが、その思い煩いの中に留まり続けるべきではありません。そこから脱出の道が備えられているからです。それは「祈り」です。ピリピ4:6~7には「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とあり、本当にこのとおりになります。思い煩いの原因となる個々の問題はそれぞれ異なるでしょうが、平安が与えられるまで祈れば良いのです。このピリピ4:6~7のみことばは力になります。暗唱することをお勧めします。

3.心を留めるべきこと…私たちは、真実なこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、そういった天の神がお喜びになることを求めるべきです。イスラエルの初代王サウルは、卑小な人物であったと言えるでしょう。ダビデが戦士であって、戦いに出て勝利を収めて帰ってくると、女たちは笑いながら「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った(第一サムエル18:7)」と繰り返して歌いました。それを聞いたサウルは怒り、ダビデに激しい嫉妬をしたのです。それ以後のサウルの生涯は、心を入れ替える場面はあるものの、ダビデを殺すことだけに心が向いて行き、はかなく、哀れなものでした。創世記41章には、ヨセフがパロ王の見た夢を解き明かし、ヨセフは囚人(無実の罪)から一気にエジプトの総理大臣となりました。そのことは、ヨセフを任命したパロ王の人間としての大きさを窺い知ることができます。結果的に、そのヨセフの功績によってエジプトに大きな富がもたらされるのです。私たちは、自分の感情に支配されるのではなく、真実なこと、正しいこと、清いこと、愛すべきことなど、すなわち、神のみこころを求めましょう。そこに目を留めていきましょう。そこに永遠の祝福があるのです。

●2022年6月5日(日)礼拝メッセージ要旨

6月2日(木)の昼過ぎ頃でした。突然、雹を伴う夕立がありました。関東の方では、学校の窓ガラスが割れるなどの被害がありました。今朝、私はヨブ記37章を開いていました。ヨブ記37:5~7には「 神は、御声で驚くほどに雷鳴をとどろかせ、私たちの知りえない大きな事をされる。神は雪に向かって、地に降れ、と命じ、夕立に、激しい大雨に命じる。神はすべての人の手を封じ込める。神の造った人間が知るために。」とあります。創造主である真の神は、ご自身の存在を知らせるために、私たち人間が神を恐れるために、時々、大自然を用いて大きなことをされます。さて、 本日は、ピリピ3:12~21から、「私たちの国籍は天にある」という題でポイントを3つ上げて行きます。

①神の栄冠を得るために…スポーツ選手が栄冠を目指して頑張る姿は、私たちクリスチャンの生き方と共通するところがあります。イエス様はルカ9:62で「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」と言われました。クリスチャンは、この地上において、うしろを振り返ったりせず、天を目指して、神の栄冠を得るために、日々、前に向かって進んで行きましょう。

②キリストの十字架の敵…本日はペンテコステ記念日です。イスラエル民族は年に三つの祭りをするように神から命じられています。過ぎ越しの祭り、七週の祭り(初穂の祭り)、仮庵の祭りです。七週の祭りが今日のペンテコステ記念日と重なります。三つの祭りには、それぞれ意味があります。過ぎ越しの祭りは、かつてエジプトで奴隷生活をしていた苦役を忘れないためです。七週の祭り(初穂の祭り)は、神が備えてくださった土地に定着したことを感謝するためです。仮庵の祭りは、出エジプト後、40年間荒野で定住地のない日々を過ごしていたことを忘れないためです。私たち人間は豊かになり、恵みが溢れてくると、傲慢になる傾向があります。だから、神は、イスラエル民族に対し、祭りを通して神の恵みを忘れないようにさせたのです。本日行われる聖餐式も、それと共通します。クリスチャンが一番忘れてはならないのは、イエス・キリストの十字架による救いです。そして、クリスチャンは、キリストとともに、十字架の道を歩むのです。自分の欲望や自分の栄光を求める生き方はキリストの十字架を敵とする生き方です。マタイ16:24でイエス様は弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われました。

③私たちの国籍は天にある…以前のことですが、福島県で伝道しておられるG牧師先生は、ご自分の名刺に国籍を入れておられました。その国籍は「天国市平安区歓喜町392番地」です。392というのは語呂合わせで「ミクニ(御国)」ということです。その名刺を頂いた方がG先生に真顔で「あなたは中国の出身ですか」と言われたそうです。なるほど、「天国市」は日本にありません。でも、そうやって、自分の国籍は天にあるということを証ししている姿勢は見習うべきです。天国には呪われるものは何もありません。死も、病も、戦争も、悩みも、苦しみもない。そして夜もありません。イエス様を信じる信仰により、恵みによって私たちはやがて天国に入らせていただきます。でも、まだしばらくは、この地上に使命があります。だから、私たちは、天の栄冠を目指し、日々、うしろのものを忘れ、前のものに向かって進むのです。