●2022年11月20日(日)礼拝メッセージ要旨 

本日は 第1テモテ1:12~20からです。パウロが神から受けた恵みなどについて書いてあります。「私は罪人のかしらです」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.私を強くしてくださるキリスト…パウロは、ガマリエルの門下生として厳格な教育を受けるほどの熱心なユダヤ教徒でした。後に、パウロはキリスト者になり、新約聖書の中の13巻の手紙(ローマ人への手紙~ピレモンへの手紙)を書いています。彼の持っていたユダヤ教の知識が大いに役立ったことでしょう。でも、パウロの手紙はユダヤ教の知識だけでは成り立たず、主が彼を強め、知恵を与え、それらが今日、聖書の中に組み入れられています。また、手紙だけではなく、パウロの働きは福音宣教で大いなる実を結びました。それは、主が彼を強め、聖霊の力によって用いられたのです。ピリピ4:13には「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」とあります。私たちも、イエス様を信じて従うとき、主によって強くされるのです。そして、喜びと平安な心で神の栄光のために仕えてまいりましょう。

2.私は罪人のかしらです…13節でパウロは、「 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。」と言っています。確かに、以前パウロはキリスト者を迫害する者でした。ステパノ殉教のとき、石打ちをする人たちの着物の番をしていました。ただ、パウロが直接的に暴力をふるった記事は聖書にはありません。それでもパウロは「私は罪人のかしらです」と言っています。これはパウロの謙遜から出たことばではないでしょうか。箴言18:12には「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」とあります。また、ヤコブ4:6には「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』」とあります。私たちは人に対して謙遜であることも良いことですが、もっと大事なことは、全知全能の創造主である真の神の前に謙遜であるかどうかということです。昼には太陽、夜には月が出ます。それは全知全能で創造主である真の神が、地球に住む人間のために備えてくださったのです。初日の出の太陽を拝んだり、「お月見」と言って月に供え物をすることは、誰かから贈り物をいただいたとき、それを下さった人に対してお礼を言うのではなく、いただいた物にお礼を言うことと同じです。そして、真の神様からの最大で最高の贈りものは、救い主イエス・キリストです。イエス様を信じる信仰によって罪の赦しと永遠のいのちがあるからです。真の神の前にへりくだり、パウロのように「私は罪人のかしらです」と告白する者に、神は豊かな恵みを注がれるのです。

3.目に見えない唯一の神に… 私たちが信じる神は、私たちの目に見えません。偶像は人の手によって作られ、人の目に見えますが、何の能力もありません。「彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。(詩篇115:4~7)」と聖書が言っている通りです。しかし、「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。(詩篇115:3)」のです。そして、神は情け深く、あわれみ深く、恵みに富んでおられます。また、詩篇145:18には「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」とあります。私たちは、この真実な神を呼び求め、神と共に歩んでまいりましょう。  

●2022年11月13日(日)礼拝メッセージ要旨  

 第一テモテに入りました。テモテへの手紙は牧会のあり方、監督や執事について記されていて、牧会書簡とも呼ばれています。1~11節から、ポイントを三つ上げて行きます。

①神の救いのご計画の実現をもたらすもの…まずパウロは、テモテに対して、ある人たちの違った教えに心を奪われないようにと警告しています。当時は、旧約聖書は存在していても、自分用のものなどありませんし、新約聖書はまだ無かった時代です。今では、旧新約聖書が揃っていて、しかも誰もがそれぞれの聖書を持っています。それでも、聖書本来の教えから脱線する人々もいます。かつてアメリカの有名な大伝道者であったビリー・グラハム博士(1918~2018)はメッセージの中で何度も“The Bible said”(聖書は言っています)と語っていました。私たちは、聖書に関連して、様々な情報を耳にするものです。確かに聖書が言っていることなら、「アーメン」ですが、そうでない場合は信じてはなりません。私たちは、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものであるか否かということをしっかりと見極めて行かねばなりません。

きよい心と正しい心…昨日(11月12日)、朝のローカルニュースで、石巻市の海の近くにイスラム教のモスク(礼拝施設)が出来たと伝えていました。漁船に乗って働く日本人青年が少なく、インドネシアから来た青年たちが漁船に乗り、訓練生として働いているのです。そんな彼らのために、小さなモスクが出来たのです。その青年たちの一人がインタビューに答え、生活する上での三つの目標を語っていました。一、感謝する。二、健康が守られる。三、正しい生活をする。その答えそのものは悪くはありません。イスラム教の場合は、コーラン(イスラム教の聖典)の教えを守ることによって救われるとしています。そして、イエス・キリストは預言者の一人であるけれども、全知全能の神の御ひとり子として認めてはいません。しかし、ヨハネ14:6には「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」とあり、またヨハネ10:9には「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」とあります。私たちの罪のために十字架で死に、葬られ、復活したイエス・キリストを信じる信仰によって罪の赦しという救いがあるのです。5節に記されている「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛」は、神の御子イエス・キリストを信じる信仰から始まっていくのです。

③律法と福音…この世界は創造主である真の神によって、創造され、成り立っています。その神が私たち人間に対して律法を授けました。この律法に従わない者は罪に定められます。しかし、真の神は人間を愛し、人間が滅びることを望まず、御ひとり子イエス・キリストを世に送られました。そして、キリストは十字架の贖いによる救いを成し遂げられたのです。9節には「人を殺す者」とあります。普通、そんなことはしません。しかし、マタイ5:21~22には、「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」と書いてあります。すべての人は罪人であり、ただ、神のひとり子イエス・キリスト十字架による贖いのゆえに義とされるのです。11節には「祝福に満ちた神の栄光の福音」とあります。また、パウロは「その福音をゆだねられた」と言っています。私たちも、この栄光の福音の喜び中に生き、そして、この福音をゆだねられた者として主を証ししていきましょう。

●2022年11月6日(日)礼拝メッセージ要旨

 第二テサロニケ3:1~18から「たゆむことなく善を行ないなさい」という題で、ポイントを3つ上げていきます。  

①みことばが早く広まりますように…パウロの宣教活動は、シリアのアンテオケを拠点とし、すさまじい勢いで、小アジア、マケドニヤ、アカヤ、つまり、今日のトルコ、ギリシャなどで大きな成果を得ました。それは2000年近く前のことで、今日、世界全体からみると、まだ世界の中の一地域に過ぎませんでした。それから現在、世界中に福音が宣べ伝えられ、例えば、旧新約聖書全部を原語から、その国の言語に翻訳している翻訳数は2020年現在で700言語に及んでいます。世界にはまだまだ言語が多くあって、3500以上の言語があり、新約聖書のみ、また福音書の一つだけ翻訳を完成しているという言語を加えると2013年現在で2850言語あるそうです。イエス・キリストはマルコ16:15で「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」と言われました。その大宣教命令に従い、世界中で、福音宣教が行われています。もちろん、国によっては政治的な理由によって自由に宣教できない国もあります。私たちも、福音宣教の働きの一端を担い、祈りつつ歩を進めてまいりましょう。

②ひねくれた悪人ども…世の中には良い人も悪い人もいます。オレオレ詐欺、無差別殺人、昨今は旧統一協会関連のニュースを頻繁に聞きます。また、先日、テレビで、昔のオーム真理教の事件を回顧する番組を見ました。クリスチャンだからと言って、悪に対して無防備でよいということはありません。マタイ10:16には「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」とあります。私たちは他人と関わる場合、基本的に素直な心で愛を持って接するべきですが、その一方で、その人の、人となりというものを見極めていかねばなりません。また、聖書の教えに従うことによって、ギャンブルや酒場など、クリスチャンが行くべき場所でない所に行かずに済みます。その上で、真実な主が私たちを強め、守ってくださるのです。

3.たゆむことなく善を行ないなさい…6~12節では「締まりのない歩み方をしてはいけない」と言っています。当時、テサロニケ教会ではそういう人がいたようです。私たちは与えられたこの地上での生活を勤勉に過ごしていくべきでしょう。先日、クリスチャンの映画製作会社・現代プロダクションによる映画の上映会が仙台福祉プラザで行われ、筆者も参加しました。明治初期、女子学院(ミッションスクール)の校長となった矢島楫子(かじこ)女史を主人公とした「我弱ければ」という映画です。今でこそ男女平等は当たり前ですが、当時の日本では男尊女卑はひどいものでした。矢島楫子氏は女子教育と女性解放運動に力を注ぎました。一夫一婦制、婦人参政権、廃娼運動などです。映画の最後に彼女の言葉が紹介されていました。それは「使命とは命を使うことです。自分の命は自分で使うのです。」というものです。この後半の言葉は、当時、女性は男性の奴隷のような位置付けにあり、自分の命を自分の思いのままに自由に生きることが出来ないという環境の中で語られたものです。第一コリント10:31には「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」とあります。私たち一人一人には、神からの賜物と、時間が与えられています。神の栄光を現わすため、福音宣教のため、そして、たゆみなく善を行なっていきましょう。

●2022年10月30日(日)礼拝メッセージ要旨

第二テサロニケ2:1~17からです。この2章は第二の手紙の中で、主の再臨に関する中心的な内容が記されているようです。「滅びの子が現われなければ主の日は来ない」という題で、ポイントを3つ上げて行きます。  

滅びの子が現われなければ…パウロの手紙が書かれてから現在まで2000年近い年数が経過しています。パウロの時代でさえも主の再臨のことが語られています。今の時代は、もっと主の再臨が近づいています。天の父なる神だけが、その再臨の日がいつなのかを知っています。確かに私たちは、その日が何月何日であるのかということを知らなくてもよいのですが、マタイ24章、マルコ13章、ルカ21章に記されているように、どういうときで、いつ頃なのかという、おおよその見当を知るべきでしょう。特に、キーポイントとなるのは、「滅びの子、不法の人」の出現です。彼は反キリストとも呼ばれています。その人物が現われ、やがて、自分を神と宣言し、神殿に座を設けると、いよいよ主の再臨が近づいていると言えます。ダニエル書9:27には、「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」とあります。一週というのは7年のことで、半週というのは3年半です。彼は何らかの7年間の契約を結ぶものの、3年半で破棄し、そこから彼の本性を表わすようです。

②今は引き止めているものがある…反キリストの現われを止めているものとは何のことでしょう?私たちは、それをはっきりと知ることはできません。それが、この世に存在する政治的機関であるとするなら、現在の国際連合のことかもしれません。常任理事国が5か国で、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国です。非常任理事国は10か国で、合計15か国中、9か国の賛成で決議されます。しかし、常任理事国の1か国が反対すれば否決されます。現在、ロシアがウクライナに対して侵攻しています。当事国のロシアが常任理事国ですから、これでは国連が機能しません。しかし、そういった、どうにもならない状態で、世界を丸く治める人物が現われるならば、そのとき、その人物は世界の英雄として迎えられるでしょう。しかし、ポイント1で言っているように、やがて本性を現わし、自分を神と宣言し、恐怖政治、独裁政治が行われるでしょう。クリスチャンにとっては、そのあたりが、忍耐の時になるでしょうが、恐れることはありません。8節には「その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。」とありますように、不法の人は、あっけなく主によって滅ぼされてしまうでしょう。

③惑わす力を送り込む…不法の人、反キリストには、偽りの力、しるしと不思議が伴います。ですから、私たちは、彼が不思議としるしを行なっていても、それを信じてはいけません。神は、真理への愛を受け入れず、悪を喜んでいる者たちを裁くために、意図的に惑わす力を送り込まれるのです。私たちは、聖書に基づいて、自分の頭でよく考えて、正しい判断をしなければなりません。私たちは、惑わされないように、聖書をよく読み、調べ、聖霊の導きに従って、日々を過ごしていきましょう。詩篇143:8には「朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」とあります。私たち一人一人が、日々、自分の行くべき道、すべきことを実行できますように。

●2022年10月23日(日)礼拝メッセージ要旨  

 第二テサロニケ1:1~12からです。第一の手紙が書かれたあと、数カ月後、再臨に対する誤った見解を持つ人たちがいて、それを正すために、この第二の手紙が書かれたようです。「神の国にふさわしい者」という題で、ポイントを3つ上げて行きます。  

①神の国にふさわしい者…かつてパウロは、御霊に導かれ、アジアからマケドニヤに渡りました。最初にピリピで伝道し、次にテサロニケで伝道しました。少なからぬ人々が信仰に導かれました。ところが、ユダヤ人たちから激しい迫害を受け、パウロたちはベレヤに行き伝道しました。それを聞いたテサロニケのユダヤ人たちは、ベレヤにも乗り込んで来て、迫害をしたのです。つまり、テサロニケの教会の人々は、激しい迫害の中で信仰をしっかりと保っていたのです。現在、私たちが暮らす日本では、今のところ、そういった迫害は殆どありません。でも、多少の霊的戦いのようなものはあります。例えば同調圧力のような10人中、9人が白を「黒い」と言えば、一人だけ「白い」と言うのは勇気が必要です。そんなとき、回りの人々はクリスチャンの行動を見ているもので、妥協すると、「なあんだ、それでもクリスチャンか」と思われます。どっちにしても悪口言われるなら、クリスチャンらしく、信仰に堅く立ったほうがいいでしょう。

②永遠の滅びの刑罰…筆者が、聖書を読み始めた頃、聖書に対して一番の問題点として注目したのは「永遠の滅びの刑罰」ということでした。そんなものはないということなら、キリストを信じなくても関係ないということになります。しかし、それが本当に実在するならば、キリストを信じなければなりません。聖書には、この第二テサロニケ1:9の「永遠の滅びの刑罰」の他に、マタイ25:46の「永遠の刑罰」、マルコ9:48の「ゲヘナには人を食うウジと消えない火がある」、ヨハネ3:36の「御子に聞き従わない者に神の怒りがとどまる」、ダニエル12:2の「ある者はそしりと永遠の忌みに」、黙示録20:15の「いのちの書に名の記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた」と、これだけではありませんが、確かに聖書には永遠の裁きがあることを語っています。ですから、私たちは、まず、自分自身が、この永遠の滅びから免れるために、主イエス・キリストの福音を信じ、受け入れ、そして、その信仰を保っていきましょう。そして、自分だけの救いで満足せず、私たちの回りの人々のことを覚え、人々のために祈り、執り成し、福音をお伝えしましょう。

③主にあって栄光を受けるため…イエス・キリストが再臨されると、そのとき、クリスチャンたちは一瞬にして永遠の体に変えられて、それによって、主の御名が崇められるでしょう。そのとき、クリスチャンたちは本当に「ああ。イエス様信じていて良かった。」と、心底喜ぶことになるでしょう。ですから、私たちは、この地上にある間に、神の栄光を現わすことを求めていきましょう。福音歌手として用いられている森祐理さんは、NHK教育テレビ「ゆかいなコンサート」の歌のお姉さんでした。そんなとき、夢見ていたミュージカルの主役に抜擢されました。しかし、喉を傷めて、それを辞退することになりました。この挫折がきっかけとなり、祐理さんは福音歌手として立つことになりました。ところが、1995年1月17日の阪神淡路大震災によって、祐理さんの弟さんが亡くなられました。彼は神戸大学の学生で住んでいたアパートが倒壊し、その犠牲となったのです。そのとき、祐理さんは悲しみの中に留まり続けるのではなく、自分を応援してくれていた弟さんから押し出されるように、被災地に出て行って歌いました。その延長で、2016年3月12日に当つばめさわ教会開設記念コンサートでも歌ってくれました。また、今年8月14日にはウクライナ西部の避難所となった学校や教会でも歌っています。第二テサロニケ1:12に戻りましょう。私たちは、主イエスの御名が崇められることを求めましょう。そうすることによって、私たちも主にあって栄光を受けることになるのです。最後に詩篇126:5~6です。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」

●2022年10月16日(日)礼拝メッセージ要旨 

 第一テサロニケ5:12~28からです。「絶えず祈りなさい」という題で、ポイント5つ上げていきます。  

①「主にあって」…12~13節では「(教会で)指導している人を認めなさい。また、その務めのゆえに深い尊敬を払いなさい」とあります。指導する立場にいる者が「自らを認めよ、尊敬せよ」と言うのはちょっと違和感がありますね。それはともかく、このことは、ちょうど、親子関係についても言えることですが、エペソ6:1には「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」とあります。神の摂理において、神が、その親子を親子としてお定めになったのですから、子が親を敬うということは、そうされた神を敬うことでもあります。また、そうすることによって神の祝福を受けるのです。但し、「主にあって」とありますので、例えば未信者の親が信者の子に対して「偶像礼拝せよ」と強要したら、従う必要はありません。教会の指導者がその教会の信者に対して、明らかに聖書のみことばに反することを指導したら、それは従う必要はありません。

②「いつも善を行なう」…14節で「気ままな者を戒め」とあります。昨今、人に対して間違いを正すことなどは、誰もやりたがりません。下手すると相手に恨まれてしまうからです。でも、その人が間違っていたら、そのまま見て見ぬふりをするより、正してあげるほうが親切です。もちろん、愛をもって配慮しながら正してあげることです。また、「小心な者を励まし、弱い者を助け、全ての人に対して寛容であり、悪に悪で報いず、すべての人に善を行なうよう努めよ」とあります。人間は感情に支配されやすいものです。自分の感情で物事を判断せず、いつでも主のみことばを基準として行動しましょう。

③「喜び、祈り、感謝」…誰でも、イエス・キリストを信じることによって救われますが、その信仰を最後まで持続しなければなりません。パウロは、Ⅱテモテ4:7で「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と言っています。私たちも、この世において信仰における霊的な戦いがあります。その戦いに勝利するために、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝するのです。Ⅰペテロ5:8には「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。悪魔とか悪霊と言われるものが実際に存在し、未信者に対しては目くらませを行ない、信者に対しては、その信仰をぐらつかせようと日夜働いています。ですから、神はキリスト・イエスにあって、喜び、祈り、感謝することを私たちに望んでいます。

④「御霊を消してはなりません」…20節で「預言をないがしろにしてはいけません」とあります。筆者は、3.11東日本大震災のあと、アメリカから来られたある方が「あなたに預言のことばがあります」と言われました。筆者がそれを受け入れると、その人は「あなたは日本人の偶像礼拝に対して、その罪に対する糾弾を恐れず語りなさい」と続けました。確かに、そのことは筆者に与えられた使命として意識していたので、励ましを受けました。最近、プロスポーツの一団体の選手たちが集団で某神社を参拝しました。良かれと思ってやっているのでしょうが、偶像礼拝は祝福どころか却ってマイナスとなるでしょう。19節の「御霊を消してはなりません」というのは、エペソ4:30では「聖霊を悲しませてはなりません」とあり、神のみこころを損なうようなことを行なって、御霊が消されることのないよう気を付けましょう。

⑤「霊、たましい、体」…人間の「死」というのは、聖書によると、外側の体と内側の霊魂と分離するということです。「霊とたましい」を「霊魂」として、一緒にしましたが、本体は魂で、その魂が霊の影響を受けて、ある人は救いに、別の人は滅びに至るのです。マタイ10:28には「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とありますように、やはり、本体の魂が聖霊の影響を受けていれば健全ですが、悪霊の支配下にあると不健全であり、場合によっては危険な状態にあります。クリスチャンはイエス様を信じて、この上ない救いを得たのですから、この地上での使命を十分に果たすためにも「霊、たましい、体」が完全に守られるように、やはり、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しましょう。

●2022年10月9日(日)礼拝メッセージ要旨  

 第一テサロニケ5:1~11からです。先週に引き続いて、イエス・キリストの再臨に関連して、「あなたがたは光の子です」という題で、ポイント3つ上げて行きます。 

1.それらがいつなのか…再臨はいつなのか?それは誰にも分かりませんし、分からなくてよいのです。でも、クリスチャンなら聖書を読んでいるのですから、ある程度、どんなときにそれが起こるのか、ということを知っておくべきでしょう。主の日の前兆として、偽キリストの出現、戦争、大地震、疫病、飢饉、迫害、偽預言者の出現、不法がはびこる、荒らす憎むべき者の出現、天変地異、それらのうち、現在、既に起こったこと、起こりつつあることもあります。大きなポイントとなるのは、「荒らす憎むべき者の出現」でしょう。第二テサロニケ2:3~4には「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」とあり、ダニエル書9:27でも預言されています。この人物が現われると、再臨がそろそろということになりますが、あくまでも目安です。肝心なことは、霊的暗闇の中にいて、突然、滅びが襲いかかるということのないように、気を付けなければなりません。

2.光の子ども、昼の子ども …ですから、霊的に眠っていないで、光の子ども、昼の子どもとして、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みを兜として被って、慎み深くしていましょう。つまり、イエス様を信じる信仰を持ち、イエス様による十字架の愛を受け、イエス様による救いの望みにあふれましょう。YouTubeで「超すごい人の7つの特徴」というのを見ました。①自慢しない②気遣いができる③約束を守る④いつでもポジティブ⑤自分の感情をコントロールできる⑥素直に相手を認める⑦陰で努力している、ということでした。これに「イエス・キリストを信じている人」が入っていれば本当にすごいでしょう。イエス様による救いを受けるには、ただ信じるだけで、能力も努力も不要です。でも、この信仰生活を持続していくためには多少の努力が必要です。ルカ13:24には「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。」とあります。大勢の人が行く道だから正しいとは言えません。私たちは、少人数でも正しい道を進むのです。イエス・キリストが道であり、真理であり、いのちです。イエス様を信じて従う者は光の子ども、昼の子どもです。

3.主とともに生きる…イスラエルではユダヤ暦で7月15日から仮庵の祭りが始まります。普通の太陽暦では今年10月10日からです。この日は、イスラエル人がかつてエジプトの奴隷から解放され、カナンの地に着くまでに40年間、天幕生活をしました。そのことを後の世代に伝えるために仮庵の祭りがあり、今でも、その期間、簡単な仮小屋を作って生活するのです。そのことは、今のクリスチャンにとってどんな意味があるのでしょうか。ピリピ3:19~20には「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」とあります。クリスチャンの本籍は天にあります。今、クリスチャンである人々は、天から遣わされて、仮庵のようなこの地上に住んでいるのです。この地上で何十億円もする豪邸に住んでいたとしても、永遠の天の御国の住まいに比べたら、仮小屋(仮庵)ほどもありません。私たちは、イエス様の御人格に倣い、イエス様と共に歩み、互いに励まし合い、互いに徳を高め合っていきましょう。

●2022年10月2日(日)礼拝メッセージ要旨  

 第一テサロニケ4:1~18からです。この聖書箇所は、イエス・キリストの再臨(クリスチャンのための空中再臨)について比較的具体的に記されています。再臨を中心テーマに、「空中で主と会う」という題でポイント3つ上げて行きます。  

①聖くなること…神のマスタープランは、この地上に住んでいる人々の中から、聖く歩んでいる人を選び出し、永遠の天の御国に住まわせることです。でも、人間は誰でも罪人です。ですから、イエス・キリストの十字架の贖いを信じ受け入れて聖い者とされ、神と共に歩んでいる、そういう人を神は選ばれるのです。黙示録21:7~8には「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」とありますが、もう既に、神に選ばれているクリスチャンは、特に、不信仰に陥らないように注意が必要です。筆者の知り合いで牧師のKさんは、2019年10月1日午前7時半頃、突然、半身不随の状態になり、救急車で運ばれました。救急車の中で、「直っても後遺症が残るのではないか。」などと暗い思いが支配しました。しかし、そのとき、使徒の働き16章でパウロとシラスが牢獄で祈りつつ賛美していたのを思い出し、救急車の中で賛美の歌を歌い始めました。すると、段々と声が出て、普通に歌うことが出来るようになりました。病院に到着し、検査を受けると、医師が「確かに脳に脳梗塞の所見があったが、詰まった所が取れて大事に至らなかった」とのこと。奇跡が起きたのです。ハレルヤ。私たちも聖められることを追い求め、信仰の人として歩みましょう

②落ち着いた生活 …今年イスラエルでは、太陽暦の9月26~27日に新年を迎えたとのこと。そして、太陽暦の10月10日、ユダヤ暦で7月15日から仮庵の祭りです。メシヤニックジュー(ユダヤ人クリスチャン)の間では、この時期にキリスト降誕があったのではないかと考えられているとのことです。(※その根拠のヒントは、バプテスマのヨハネの父ザカリヤと第一歴代誌24:10です。)キリスト降誕は初臨であり、再臨と時期が重なるという見方もあります。しかし、再臨がいつになるかということは天の父なる神様しか分かりません。それよりも、私たちは、キリストの再臨が、明日になっても、あるいは10年後、100年後になっても良いように、落ち着いた生活を志すべきです。学生なら勉学に励み、成人なら与えられた仕事に忠実に励むことです。

③空中で主と会う…マタイ24:4~31には、終わりの日には、偽キリストの出現、戦争と戦争のうわさ、飢饉、地震、迫害、偽預言者の出現、不法がはびこる、荒らす憎むべき者の出現、天変地異などが起こりつつあるときにキリストが再臨するのです。主の再臨の日は誰も知らず、用心しないと思いがけない時に、その日が来るでしょう。マタイ24:30~31節には再臨のことが記してあります。30節は再臨を悲しむ人、31節は再臨が救いとなる人のことが記され、非常に対照的です。言うまでもなく、私たちは、マタイ24:31に記されているように、再臨を待ち望み、選びの民として集められる者でありたいと願います。神のラッパの響きのうちにキリストは天から下って来られます。そのとき、キリストにある死者が初めによみがえり、次にキリスト者が雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。最後に詩篇の中に記されている再臨の記事です。「神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。(詩篇68:4)」

●2022年9月25日(日)礼拝メッセージ要旨  

第一テサロニケ3:1~13から「主にあって堅く立つ」という題で、ポイント3つ上げていきます。     

1.動揺しない…パウロのテサロニケでの宣教活動は数週間だったと思われます。しかし、それでも多くの決心者が起こされました。しかし、一方で、迫害も厳しく、パウロたちはベレヤに逃れ、そこでまた宣教しました。ところが、そこにもテサロニケのユダヤ人が妨害しに来ました。そこで、パウロはテモテとシラスをベレヤに残してアテネに行きました。その後、パウロはテモテと再会し、彼を、気に掛けていたテサロニケに遣わしたと思われます。その後、コリントで、パウロはテモテから、テサロニケ教会の人々の様子を聞くのです。ところで、現在、どこの教会の牧師さんでも同じだと思いますが、例えば、ある一人の方がイエス・キリストを信じて、洗礼を受けるとします。そのとき、その人がその信仰を持ち続けるどうかということは現実的に気になるところです。様々な困難が押し寄せ、それでも動揺することなく、信仰を持ち続ける人であってほしいと願います。パウロは、かつてユダヤ教の熱心な信者で、クリスチャンを迫害していました。その彼が、聖霊なるキリストに出会い、しかも、キリストから福音宣教の使命を授けられます。すると、今度は誰よりも熱心なキリストの伝道者になりました。人それぞれ、その証しは異なりますが、何らかのキリスト体験があるのではないでしょうか。でも、そういった体験が全てではありません。ヨハネ15:5には「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」とあります。しっかりとキリストに連なり、多くの実を結ぶ者となりましょう。

2.主にあって堅く立つ …パウロはテモテから報告を聞きました。テサロニケの人々がキリストを信じる信仰を持ち、パウロたちに会いたがっていることも聞き、喜びました。そしてパウロは8節で「主にあって堅く立っていてくれるなら、生きがいがある」と言っています。イエス・キリストを信じる信仰持ち、堅く立つためには、「気合」や「ファイト」も良いのですが、それよりも、私たちの信仰生活が習慣化することが望ましいでしょう。あの2015年、ラグビーワールドカップで、五郎丸選手はゴールキックの際、独特のポーズをして、それが「ルーティン」と言われて一時脚光を浴びました。朝起きたら顔を洗うことが習慣化しているように、礼拝、デボーション、証しの生活などが、習慣(ルーティン)化することにより、曲がった道に行くことを防ぐことが出来るのです。正に、主にあって、堅く立つことができるのです。

 3.愛を増させてください …イエス・キリストを信じる信仰が守られていくには、「愛」も必要です。それは互いに励まし合うということでしょう。日本語で「愛」は色々な意味で使われています。ですから誤解されやすいのですが、私たちが生まれながらに持っている思いや感情は時々間違えることがあります。神の愛(アガペー)が必要です。箴言3:5には「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」とあります。自分の悟りなどは当てになりません。全知全能の神様、イエス様に拠り頼むことです。パウロは、テサロニケ教会の人々のために、「あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。」と祈っています。また、今日、主の再臨の時が近づいています。私たちは、主の前にへりくだり、父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者でありたいと願います。

●2022年9月18日(日)礼拝メッセージ要旨  

 第一テサロニケ2:13~20から、「主イエスが再び来られるとき」という題でポイント3つ上げていきます。     

1.神のことばは働いている…神のことばによって、この世界は創造されました。今も、神の全能の力によって、この世界は統治されています。太陽が東から出て西に沈みます。また、春夏秋冬、神は季節を与えてくれます。それらは全能の神の力によるものです。しかし、人それぞれ、全能の神の存在すらも認めない人もいます。エペソ1:19には「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」とあります。私たちは、全能の神の力を信じ、神に感謝する者でありたいと思います。そして、もう一つ大切なこと、それは、私たちの内に神のことばが働いて、私たちの生活習慣が変わったことです。Ⅰペテロ1:18~19には「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。私たちは、イエス・キリストの十字架の救いによって、偶像礼拝、この世に蔓延する淫乱酩酊などから解放されたのではないでしょうか。それは、神のことばが私たちの内に働いている証拠です。

2.神の諸教会にならう者となった…イエス・キリストの福音宣教が始まったのは、イエス・キリストが十字架の死から復活して50日目のペンテコステの日です。その日、3千人ほどが弟子に加えられ、さらに、その後5千人が弟子とされました。正にエルサレムでリバイバルが起こり、それから全世界に福音が広がって行きました。それと同時に迫害も起こりました。それは今も同じです。福音宣教という最も素晴らしい良いことに対して反対する人がいるのです。イエス・キリストが悪霊に憑かれた人を癒したとき、パリサイ人はキリストに対して「悪霊どものかしらベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と、とんでもないことを言いました。昔も今も、福音宣教には、そうやって揶揄する人や迫害する人がいるものです。ですから、少しくらいの迫害など恐れることなく、私たちは福音を伝えましょう。テサロニケ教会の人々がそうであったように、私たちもエルサレムの初代教会にならう者であるべきです。

3.主イエスが再び来られるとき…イエス・キリストが再臨する日が近づいています。その日、ラッパが鳴り響き、イエス・キリストが雲に乗って来られます。そのとき、キリストを待ち望んでいる人にとっては、救いの日、喜びの日、栄えある日となります。しかし、そうでない人にとっては、地獄への入口に立つような、そんな日々の始まりとなるでしょう。最終的な地獄について、マルコ9:48には「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」とあり、黙示録20:15にはいのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」とあります。地獄などに行ったら、それは大変なことです。わたしたちは、永遠の滅びの刑罰を免れ、何が何でも、永遠の祝福の場所である天の御国に入らせていただかなくてはなりません。そのために、私たちは、まず礼拝を重んじ、イエス・キリストの父なる神を崇めることを第一としましょう。そして、聖書のことばを慕い求めましょう。また、日々悔い改めつつ熱心に祈り求めましょう。そして、福音宣教に励みましょう。それぞれに与えられた賜物を用い、イエス・キリストの証人となりましょう。