●2025年6月8日(日)礼拝メッセージ要旨 

6月8日は2025年のペンテコステ記念日です。キリストの降誕、そして十字架と復活の救い、さらに、七週の祭り(五旬節)と関連するペンテコステの聖霊降臨は重要です。ということで、使徒の働き2:1~21から「五旬節の日になって」という題で、ポイント三つ上げていきます。

1.「五旬節の日になって…筆者が住んでいる家の西側は田んぼが広がっています。今年は、家のすぐそばの田んぼ麦畑になっています。今年のイースターの日である4月20日頃は、緑色でしたが、それから七週間後の現在は刈り入れを待つばかりとなっています。ちょうど、聖書の記事と時期が重なっています。旧約聖書のイスラエル人が守るべき年三度の祭りのうちの「七週の祭り」が影であるとするなら、その実像は、新約聖書の使徒の働き2章に記されている五旬節の聖霊降臨の出来事であると言えます。レビ記23:15~17には「あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を【主】にささげなければならない。あなたがたの住まいから、奉献物としてパン──【主】への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの──二個を持って来なければならない。」とあります。過越しの祭りには「種を入れないパン」が使われます。それは罪の無いイエス・キリストのみからだを表しています。しかし、七週の祭りはパン種の入ったパンなのです。あるメシアニックジュー(ユダヤ人クリスチャン)のYouTubeでの解説を聞いたところ、「パン種の入った二つのパンとはイスラエル人と異邦人を表わし、両者は聖霊によって共にキリストのからだに連なり一つにされる」ということを表わすとのことでした。

2.「それぞれの国の言語で」…キリストは、天に昇られる前に弟子たちに「エルサレムを離れないで父の約束を待ちなさい」と言われます。そのことばに従って集まっていた弟子たちに激しい風の音とともに聖霊が降臨したのです。その頃、過ぎ越しの祭り、そして続いて行われる七週の祭りのために、ユダヤ周辺の諸国から敬虔なユダヤ教徒たちがエルサレムに集まっていました。彼らは尋常ではない物音を聞いてキリストの弟子たちがいた場所に集まって来ました。すると、弟子たちは聖霊で満たされ、御霊が話させてくださるとおりに他国の言葉、すなわち集まって来ていた周辺諸国の国語で話しているのですから驚きました。しかし、中には「彼らはぶどう酒に酔っているのだ」と、あざける者たちもいました。そこでペテロが立ち上がり、福音を宣べ伝え、結果的にその日3000人がバプテスマを受け、弟子に加えられます。ところで、Ⅰコリント12章は、聖霊の賜物についての詳しい記事となっています。他国の言葉で話す異言もそのうちの一つの賜物です。但し、その12章3節には「聖霊によるのでなければ誰も『イエスは主です』と言うことはできない」とありますので、たとい、賜物らしきものが与えられていないと思う人でも、イエス・キリストを心から信じて、「イエスは主です」と告白できる人は聖霊を受けているのです。もちろん、そこで慢心していてはなりません。同章31節には「より優れた賜物を熱心に求めなさい」とあります。

3.「わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する」…ペテロは、集まった諸国から来た敬虔なユダヤ人たちに宣教のことばを語ったとき、最初にヨエル書2:28~32を引用して語り始めます。正に、使徒たちは、そのヨエル書の預言通りに聖霊充満され預言したのです。この出来事はAD30年頃のことです。それから2000年ほど経過した終わりの日に近い現在も、この預言は続いています。私たちも聖霊充満され、預言する、つまり、主から聖書のみことばを預かって人々に伝えるのです。「太陽は闇となり、月は血に変わる」、そのような時が近づいているのです。しかし、主の御名(救い主イエス・キリストの御名)を呼び求める者は皆救われます。自分自身はもちろん、回りの人々も、その救いに与ることを切に願い求めてまいりましょう。

●2025年6月1日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記26章17~35節からです。「レホボテと呼んだ」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「レホボテと呼んだ」…イサクは、地に種を蒔けば百倍の収穫があるし、何をしても栄えて非常に豊かになっていくので、ペリシテ人から妬まれ、アビメレク王からは「我々の所から出て行ってくれ」と言われ、ゲラルの谷間に天幕を張って住みます。しかし、そこでも二度にわたって井戸をふさがれます。それでイサクは三度目の正直ではありませんが、三度目の場所に移ります。そこでは争いがなく、そこをレホボテ(広い所)と呼びました。そしてイサクは「今や、主は私たちに広い所を与えて私たちがこの地で増えるようにしてくださった。」と言いました。2005年10月から2011年3月11日まで、私たちの教会は宮城野区蒲生にありました。近所に私たちに対して非常に協力的なOさんがいました。教会建物の東側に40坪ほどのOさん所有の土地があり、そこを畑として私たちに貸してくれました。あるとき広い駐車場を利用して屋外コンサートをすることになりました。Oさんは舞台設定まで協力してくれました。あいにく、雨が降って屋内でのコンサートになりましたが、Oさんらの協力で、満杯の人が集まりました。その後でしたか、詳しく覚えていませんが、Oさんを含めて教会の東側の方たちの家に下水が通っていないということで、教会の敷地を通過させて欲しいという話がありました。もちろん承諾し、関係者の方々には多少なりとも協力することができました。尤も、その後3.11大震災があって、協力できたのはわずかの期間でした。ローマ12:17~18です。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」

2.「主の御名によって祈った」…イサクは、そこからベエル・シェバに上りました。主は、その夜、彼に現われ、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」と言われました。それで、イサクは祭だんを築き、主の御名によって祈ります。要約すると、「①恐れるな。②主が共にある。」です。今日、イエス・キリストを信じる者には、その名はインマヌエルと呼ばれるイエス様、つまり聖霊様がともにおられます。イエス様はマタイ28:20で弟子たちに「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言われました。それはもちろん、今日のキリスト者にも言っておられるでしょう。来週はペンテコステ記念日です。クリスマス、イースター、ペンテコステ、この三つの祭典は、旧約時代の仮庵の祭り、過ぎ越しの祭り、七週の祭りと関連があり、どれも欠かすことはできません。ローマ10:13には「主の」御名を呼び求める者はだれでも救われる」とあります。私たちもイサクのように主の御名によって祈りましょう。すべては祈りから始まって行くのです。

3.「主が共におられることをはっきり見た」…そのころ、アビメレクが友人アフザテと、その将軍ピコルを伴い、イサクのところに来ました。イサクとしては、それまで散々、井戸のことなどで彼らに妨害されていますから、「今度は何しに来た?」という心境だったでしょう。しかし、彼らは、イサクとともに主が働かれていることをはっきりと見て、イサクを恐れ、平和条約を結びに来たのです。イサクは、あっさり彼らの願いを受け入れ、彼らのために宴会を催し、その翌朝に契約し、平和のうち散会します。その日、イサクのしもべたちが帰ってきて、井戸を掘りあてたという報告をします。そこでその井戸をシブア(誓い)と言い、その場所をベエル・シェバ(誓いの井戸、七つの井戸)と呼びます。そういった祝福に満ち満ちたイサクですが、息子のエサウがヘテ人の妻たち二人をめとり、イサクとリベカにとっては、彼女たちが悩みの種となります。いつの時代であっても、悩みの無い人などこの世にいないでしょう。だからこそ、私たちは、主により頼み、へりくだってお祈りするのです。「【主】を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ55:6~7)」

●2025年5月25日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記26章1~16節からです。「百倍の祝福を見た」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「あなたを祝福しよう」…イサクは飢饉に遭遇し、ゲラルの地、ペリシテ人の王アビメレクの所へ行きます。主がイサクに現われ「エジプトには下るな。わたしが示す地へいきなさい。あなたはこの地に滞在しなさい。わたしはあなたと共にいて、あなたを祝福しよう。(3節)」と言われたからでしょう。また「地の全ての国々はあなたの子孫によって祝福される。(4節)」と言われています。その通りに、イサクは祝福を受け、イサクの子孫イスラエル民族はあるときには苦難の道を通ってきたものの、他民族には見られない特別な祝福を受けてきたと言えるでしょう。そして、もう一つ肝心な事は、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫、及びダビデの子孫として世に来られたイエス・キリストの十字架と復活による救いを受けたキリスト者も大きな祝福を受けています。エペソ1:3には「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」とあります。この目に見える世界は目に見えないものによって創造されました。つまり、「全ての霊的祝福」とは、天と地における全ての祝福のことを言っています。キリスト者は受けた祝福を自分だけのものに留めるのではなく、この祝福を人々に分け与えていきましょう。

2.「あれは私の妹です」…イサクは父アブラハムと違い、妻リベカが不妊の女性であることを知って、彼女のために祈ると子が与えられました。また、主の導きの下ではありますが、エジプトに下ることはしませんでした。しかし、ここで、父アブラハムと全く同じ轍を踏みます。妻リベカがあまりに美人で、自分が妻のゆえに殺されるのではないかということを恐れて、「あれは私の妹です」と言ったのです。それを知ったアビメレク王は窓から外を見ているとイサクがリベカを愛撫しているのを見ました。そこで、イサクを呼び寄せ、イサクに「あの女はあなたの妻だ。民の一人があなたの妻と寝て、我々に罪を負わせるところだった。」と抗議します。普通なら、ここで、イサクに何らかの危害が及んでも不思議ではありませんが、アビメレクは「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。(11節)」と言って、却ってイサクとリベカを守ります。これは、第一のポイントで取り上げたように、主がイサクを祝福しているからでしょう。主がアビメレクに働き、彼にそう言わせているのでしょう。「知れ。【主】は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、【主】は聞いてくださる。(詩篇4:3)」

3.「百倍の収穫を見た」…イサクがその地に種を蒔くと、百倍の収穫を見ることになりました。13節には「こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。」とあります。箴言10:4には「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます。」とあり、その一方で同章10:22には「【主】の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」と言っています。確かに、勤勉で努力して富者になるという側面もありますが、誰でも努力すれば富者になるという保証はありません。やはり、最終的なカギを握っておられるのは全知全能の神の御手があるかないかということではないでしょうか。但し、それはともかく、箴言3:1~10には、もっと深い本当の祝福が記されています。そこには七つのことが記されています。①みことばに心を留める。そうすることによって長寿と平安がある。 ②恵みとまことに満ちておられるイエス・キリスト(ヨハネ1:14)から離れない。 ③神と人との前に好意と聡明を得よ。すなわち、神を愛し、隣人を愛する。(マタイ24:37~40) ④自分の悟りに頼らず、主により頼む。つまり祈る。 ⑤すべてのことに感謝し、どんな状況でも主に期待する。 ⑥悪から離れる。それが健康と元気のもとになる。 ⑦神の国とその義を第一にする。そうすれば満たされる。

●2025年5月18日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記25章19~34節からです。「ヤコブとエサウ」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「イサクとリベカの信仰」…イサクはリベカと結婚し、20年ほど経過するのですが、妻リベカが不妊の女性であるということを認識します。そこでイサクは妻のために主に祈願すると、主は彼の祈りに応えてくださり、リベカは身ごもります。イサクの父母はアブラハムとサラです。イサクには異母兄弟のイシュマエルの存在があります。イサクはそのあたりの経緯については父母から聞いて知っていたことでしょう。つまり、イサクは父母たちと同じ轍を踏まなかったということです。一方、子を身ごもったリベカですが、お腹の子たちが中でぶつかり合います。リベカは「こんなことで私はいったいどうなるでしょう」と言っています。たぶん、お腹の子の動きが通常と異なり、彼女としては不安だったと思われます。そこでリベカも主に祈ると、主は彼女に応えて「二つの国があなたの体内にあり~」と言われます。リベカとしては「なるほど、そういうことだったのか」と納得し、安心したことでしょう。イサクもリベカも「問題が起きたとき祈る」という最善の方法を選択したのではないでしょうか。

2.「ヤコブとエサウ」…時が満ち、リベカが出産します。最初に出てきた子は赤くて全身毛衣のようでエサウと名付けられました。弟の方は、兄の踵(かかと)をつかんで出てきたゆえにヤコブと名付けられます。ヤコブは、この後、主によってイスラエルと改名させられ、イスラエル人の祖先となります。エサウは「赤い」ということからエドムと呼ばれ、エドム人の祖先となります。オバデヤ書には、このエドム人のことが記され、イスラエルに敵対する国として、主からのさばきを宣告されています。ところで、父イサクは、エサウが巧みな猟師で、彼が仕留めて来る獲物を好んでいたのでエサウを愛していました。母リベカはヤコブを愛していました。人それぞれ好みというものがあり、一つの物事に対する感じ方も違うものです。自分と違うからと言って、無闇に相手を批判したり、見下げたりということは正しくありません。ローマ12:10には「 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」とあります。

3.「長子の権利」…ヤコブがレンズ豆の煮ものを煮ているときに、エサウが飢え疲れて帰ってきました。「その赤いのを食べさせてくれ」とヤコブに言うと、ヤコブは「長子の権利を私に売りなさい」と言います。エサウは煮物が欲しくて長子の権利を軽んじます。そのことがヘブル12:16で「また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」と表現されています。アブラハムからイサクに受け継がれ、イサクから受け継がれようとしている長子の権利とは、単に世の財産だけではなく、信仰的、霊的な祝福が伴うものです。ヤコブは、永遠につながる祝福に目を留めていたのです。その意味で、今日、私たちも、この世の物的な消えて無くなってしまうものにではなく、真に価値あるものに目を留め、そこに焦点を当てた生き方が求められているかと思います。ヤコブ(押しのける者)は、イスラエル(神は争われる、神の王子となる)になりました。このイスラエル人のユダ族の出であるダビデ王の子孫として世に現れたのが聖なる神の御ひとり子イエス・キリストです。この方の十字架の救いによって、信じる者は罪赦され、永遠のいのちを受け継ぐのです。ヨハネ1:12には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。イエス様を信じる信仰によって、ヤコブがイスラエル(神の王子)とされたように、神の子とされる特権が与えられるのです。

●2025年5月11日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記25章1~18節からです。「アブラハムの召天」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「ケトラの子孫」…アブラハムの妻サラは127才で亡くなりました。そのときアブラハムは137才です。そして彼の息子イサクがリベカと結婚したのは40才、アブラハムが140才のときです。たぶん、その頃、アブラハムはもう一人の妻ケトラをめとったのでしょう。ケトラはアブラハムに6人の息子を産みます。その中にミデヤンという人物がいます。この人物の名の付いたミデヤンの地はアラビア半島の西部にあります。ずっと後の時代になって、イスラエル人がエジプトで奴隷になっていたときに、モーセは40才の頃、エジプトを逃れ、ミデヤンの地に行きます。そしてミデヤンの祭司イテロの娘チッポラと結婚をします。80才になり、ミデヤンから再びエジプトに行き、イスラエルをエジプトの奴隷から解放するという働きに遣わされるのです。元をただせば、モーセもチッポラもアブラハムの子孫です。箴言19:21には「人の心には多くの計画がある。しかし【主】のはかりごとだけが成る。」とあります。私たちは、今、この世の人間中心社会の中にあります。人の判断で事が決められていくということです。しかし、その背後には、人の目には見えない全知全能の創造主である方がおられて、その主のはかりごとが成っていくのです。ですから、私たちは、この全知全能の主を覚え、この主のみこころを求め、みこころに従って歩みましょう。

2.「アブラハムの召天」…アブラハムは長寿を全うし、175年の生涯を終えます。このときイサク(75才)とイシュマエル(89才)が、父アブラハムの妻サラが葬られていたマクペラのほら穴に父を葬ります。この後、イシュマエルの生涯は137才で、イサクの生涯は180才です。イサクは穏やかな人で、主の祝福を受けました。今日、少子高齢化が加速し、介護施設などの需要が拡大している傾向にあります。その一方で、「健康寿命」と言われ、やはり誰でも、健康で元気で長生きをしたいものです。そのために、なるべく体を動かす。その人に合ったエクササイズなどが有効でしょう。その他、栄養、睡眠なども適切に確保したいものです。クリスチャンは基本的に日曜日の礼拝に集まりますから、この点、外の空気を吸い、礼拝はもちろん、教会で人との健全な関りもまた健康のためには効果的と思われます。本日(5月11日)は母の日です。十戒の第5戒は「あなたの父母を敬え」です。1~4戒は神との関係、5~10戒は人との関係です。つまり、人との関係の最初が「父母を敬え」です。父母がいなくても、身近な人から始まり、全ての人を尊重し、和合して暮らすということでしょう。出エジプト20:12には「あなたの父と母を敬え。あなたの神、【主】が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」と、意外ですが、むしろ、そこにこそ元気で長生きの秘訣があるようです。

3.「イシュマエルの子孫」…今日、イスラム教系のアラブ人が「自分はアブラハムの子孫である」と言うとき、アブラハムとハガルによって生まれたイシュマエルの子孫であるということを示しているようです。このイシュマエルの子孫は「それぞれ自分の全ての兄弟たちに敵対して住んだ(創世記25:18)」とあります。また、イシュマエルが母ハガルのお腹にいたとき創世記16:12で「彼は野生のロバのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」と預言されています。2023年10月7日にイスラム過激組織ハマスがイスラエルに対して大規模テロを実行しました。ハマスの目的はイスラエルの殲滅(せんめつ)です。元より、イスラエルと平和共存する気はありません。子どもらに学校教育で反イスラエル思想を植え付けています。しかし、イスラエルは周辺諸国と平和に共存することを願っています。人質奪還などのために止むを得ず反撃するのですが、一般の大手メディアは何故か反イスラエル(反ユダヤ主義)です。             

そういう中で、最近のある情報によりますと、ハマスの大規模テロ以後、イスラム教の岩のドーム(神殿の丘)に変化が起きているとのことです。これまで、ユダヤ人は、嘆きの壁と言われる所までしか行かなかったが、大規模テロ以来、イスラエル警察は治安維持という理由でイスラム教徒の立ち入りの人数制限するようになったとのこと。逆に、その神殿の丘にユダヤ人が立ち入り、祈りをささげることを警察が容認するようになったとのことです。また、それと併行して、その神殿の丘にユダヤ教の第三神殿を建てる計画が着々と進んでいるというのです。Ⅱテサロニケ2:3~4によりますと、主の日(再臨の日)が来る前に滅びの子(反キリスト)が現われ、彼が神の宮(第三神殿)に着座するのです。すなわち、今は正に終末時代に差し掛かっている時と言えます。イエス・キリストの再臨が刻々と近づいています。私たちは、「主の日」を覚えて、霊の目を覚まし、主を待ち望みつつ、日々、与えられた使命を果たしてまいりましょう。

●2025年5月4日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記24章の後半、33~67節からです。「主から出たことですから」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「このことは主から出たことですから」…アブラハムのしもべ(僕)は、アブラハムから主人の息子イサクの妻となる女性を探し出し、カナンの地にお連れするという特命を受け、主人の生まれ故郷を訪れました。彼は水汲み場で佇んでいて「水汲みに来た女性に自分が水を求めた時とき、水を与えてくれて、さらにラクダにも水を飲ませてくれたなら、その女性こそイサクの妻となる人でありますように。」とに祈ります。その祈りが終わらないうちに、なんとアブラハム兄弟ナホルの孫でもあるリベカが水汲み場に現われ、アブラハムのしもべが祈った通りのことが起きるのです。そして、しもべたち一行は家に招かれ、リベカの兄ラバンと父ベトエルらと食事を共にすることになりますが、しもべは自分の用向きを話さなければ食事をいただかない、と言います。すると「お話しください」と言われ、それまでの経緯を話し、最後に「私の主人に恵みとまことを施してくださるでしょうか。」つまり、「リベカをイサクの妻として連れて行くのは是か非か?」ということです。それを聞いていたラバンとベトエルは「このことはから出たことですから、私たちはあなたに良し悪しを言うことはできません。」と答えるのです。このアブラハムの僕とラバンたち両者との会話の中には全知全能のを第一にするという共通の価値観があります。偶像崇拝大国とも言える日本には、これがありません。使徒17:24~25でパウロは、哲学発祥の地アテネの人々に「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」と言いました。

2.「はい。まいります。」…アブラハムのしもべは、話が成立すると、リベカに銀や金の品物や衣装を与え、彼女の兄や母にも貴重な品々を贈ります。そして翌朝、しもべが帰ろうとすると、兄と母が「娘を10日間ほど留めておいてから行かせたい」と言います。しもべは「私が遅れないようにして下さい」と言います。彼らは「娘に聞いてみましょう」と言い、リベカに聞くと「はい。まいります。」とあっさり答えるのです。リベカもまた信仰の人で、神に従順に従う道を真っすぐに進もうとしていました。今日、私たちの信仰も、いつまでもどっちつかずではいけない。全知全能の主を信じ、主の道をまっすぐに進んで行きましょう。ラバンたちはリベカに対し、「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」と祝福します。この後、イサクとリベカによってヤコブが生まれ、イスラエル民族の祖先となります。また、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として世に来られたイエス。キリストの十字架と復活による救いが完成され、人類最大の敵である死の力が打ち破られるのです。

3.「イサクとリベカ」…リベカが彼女の乳母と侍女たちを伴い、アブラハムのしもべと共にカナンの地に帰ってくると、イサクが野に散歩していて、彼らの到着を迎えたのです。リベカがしもべに「あの人は誰ですか」と聞くと、しもべは「あの方が私の主人です。」と答えます。すると、リベカはベールを取って身をおおいます。今日、キリスト教式の結婚式では花嫁はウェディングベールを着用します。たぶん、この聖書の箇所が今日のウェディングベールの由来となっているのではないでしょうか。さて、イサクとリベカが今日行われるような結婚式を挙げたという記事はありませんが、何らかの形を取ったかもしれません。イサクとリベカ、そして、その回りの人々が全能の主の導きを求め、それに従ったゆえに、祝福された結婚に至ったと言えるでしょう。最後は申命記28:1です。「もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、【主】は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。」

●2025年4月27日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記24章はイサクが結婚する箇所です。長い章ですので2回に分け、今回は、その前半創世記24:1~32から、「イサクのために妻を迎えなさい」という題でポイント3つあげていきます。

1.「アブラハムと最年長のしもべ」…アブラハムは年を重ねているものの、あらゆる面で主の祝福を受けていました。Ⅲヨハネ2節には「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。この箇所は「三拍子の祝福」とも言われています。たましいの幸い、全ての面での幸い、そして健康です。でも、やはり一番は、たましいの幸いです。ただ、アブラハムにとって、気がかりだったのは息子イサクの妻が決まっていなかったことでしょう。そこで、一番信頼のおける最年長のしもべを立て、自分の生まれ故郷からイサクの妻となる女性を連れてくるようにという任務を託します。アブラハムはそのしもべの手を自分のももの下に入れさせ、その任務遂行のために誓いをさせています。それだけ切実だったということがうかがえます。旧約聖書では、「誓い」の場面が度々出てきます。しかし、新約聖書では「誓い」をすることは、マタイ5:34~37やヤコブ5:12などで肯定していません。もちろん、人生の中では、例えば「結婚の誓い」など、重いものもありますが、最も大切な誓いはイエス・キリストを信じる信仰を公に表わすバプテスマでしょう。「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。(Ⅰペテロ3:21b)」

2.「アラム・ナハライムのナホルの町へ」…アブラハムのしもべは、主人から貴重な品々を預かり、らくだ10頭を取って出かけました。たぶん、らくだの数と同じ10人くらいの従者たちも同行したのでしょう。アラム・ナハライムのナホルの町に着いて、夕暮れ時、水汲み場で、に「自分が水を求めたときに『どうぞお飲みください。らくだにも水を汲んであげましょう』と言ったなら、その人こそ、主人の息子のために定められた妻でありますように」と祈りました。その祈りが終わらないうちに、リベカが現われ、その祈った通りに導かれたのです。先月3月28日にミャンマーでマグニチュード7.7の大きな地震がありました。ミャンマー宣教師のI氏は、久々にミャンマーに行く予定でしたが、ちょうど出発10日前に、その大地震があったのです。しかしI氏は、「恐れていては何もできない。地震前から訪問すると決めていたし、こんな時だからこそ行く意味がある」と、ミャンマー行きを表明したところ、多額の支援金が集まったとのこと。そして、この4月7~18日までミャンマーに行くと、大変な現地の状況にもかかわらず、不思議と目的の地に行くことが出来、現地の牧師さんに義援金を渡し、「こんな大変なときによく来てくれた」と非常に喜ばれ、I氏も「本当に行って良かった」とのことでした。見えるところは困難でも、主の導きの中で行動するとき、そこには主の大きな祝福があります。

3.「リベカとラバン」…アブラハムのしもべが、リベカに金の飾り輪と腕輪を渡し、「あなたはどなたの娘さんですか。私どもが泊めていただく場所はありますか。」と聞くと、リベカはそれに答えてから、自分の家に知らせに行きます。すると、すぐにリベカの兄ラバンがやって来て、アブラハムのしもべたち一行を案内するのです。このラバンは、こののち、イサクとリベカが結婚してヤコブとエサウが生まれ、ヤコブとエサウが対立し、ヤコブがラバンの家に来て、ラバンの娘ラケルを愛し、結婚しますが、初夜の翌朝、気が付くと隣に寝ていたのはラケルの姉レアでした。それはラバンの仕業でした。ラバンは機転が利く反面、若干の狡猾さも垣間見えます。ヤコブ3:13には「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。」とあります。また17節には「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」とあります。上からの知恵である柔和、純真、平和、寛容、温順によって行動し、主の祝福のうちを歩んでまいりましょう。

●2025年4月20日(日)礼拝メッセージ要旨 

今年の復活祭(イースター)は4月20日です。AD325年にニカイア公会議が行われました。そのとき、有名な三位一体の定義付けがされ、そして、毎年の復活祭の日程が春分以後の満月後の日曜日と決められたようです。Ⅰコリント15:14には「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」とありますように、キリストが復活されたということが非常に大きな意味を持ちます。そのためにも、今日まで復活祭が行われてきました。また、復活祭は過ぎ越しの祭りと時期が重なります。過越しは、イエス・キリストの十字架の予表でもあり、キリストの復活は、十字架と一体にして受けとめられるべきものです。本日はマタイ28:1~20から、「主はよみがえられた」という題でポイント4つ上げていきます。

1.「主はよみがえられた」…安息日が終わり、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと他のマリヤが墓を見に来ました。すると大地震が起こり、主の使いが天から降りて来て、墓を塞いでいる石を脇へ転がし、その上に座りました。番兵たちは恐ろしさのあまり、死人のようになりました。現在エルサレムにはプロテスタント教会が管理している公園墓地(Garden tomb)内のキリストの墓を彷彿とさせる横穴があります。その内部には英語で「ここにはおられません。よみがえられたからです(He is not here; for He is risen)。と書かれたボードがあります。

2.「ガリラヤに行くように言いなさい」…主の使いに出会って、大喜びで弟子たちの所に向かった女たちにイエス様が現われ「おはよう」と言っています。英語の聖書では「Rejoice」、ギリシャ語聖書では「χαίρετε(カイレーテ)」、また、ヘブル語で書かれた(新約)聖書もあって、それには「שָׁלוֹם(シャローム)」となっています。主が単なる挨拶のことばを言われたのではなく、御自身が復活したのですから、「主にあって喜ぼう」という意味で声をかけられたのでしょう。さて、イエス様が復活した、生きておられる、ということは、「こうしてはおられない。次に何をすべきか。」ということになります。主の使いも、イエス様ご自身も、女たちに「ガリラヤに行くように弟子たちに言いなさい」と言われます。エルサレムはキリスト復活のことで、てんやわんやになるでしょう。ガリラヤならエルサレムから距離があり、元々そこはキリストと弟子たちが最初に活動した原点の場所です。

3.「番兵と祭司長たち」…主の復活で勝利の喜びを味わっている人たちがいる一方で、ずっこけている人たちがいます。墓の番をしていた兵士たちと祭司長たちです。元々、祭司長たちはキリストが復活するかもしれないということを察知していて、そのために総督ピラトに願って、兵士たちに墓の番をしてもらったのです。兵士たちも祭司長たちも「イエス・キリストが復活した」ということを動かしがたい事実として認識したはずです。しかし、愚かな彼らは、どこまでもそれを否定しようとします。祭司長たちは協議した上で、兵士たちに多額の金を与えて「自分(兵士)たちが寝ている間に弟子たちがキリストを盗んで行った」と言うようにと画策します。主は生きておられ、正しいさばきをなされます。私たちは、どこまでも誠実に真実に歩みましょう。

4.「いつもあなたがたと共にいます」…11人の弟子たちはガリラヤに行き、そこで復活されたキリストにお会いし、礼拝します。主は彼らに、「わたしは天においても地においても一切の権威を持っている。行って、あらゆる国の人々を弟子とし、バプテスマを授け、わたしが命じたことを彼らに教えなさい。(マタイ28:18~20より)」と言われます。そして「見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいます。」と言われます。私たちと共に主がいつも共におられる。そのためには、私たちが主の前にへりくだることです。「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:17)」

●2025年4月13日(日)礼拝メッセージ要旨

創世記23:1~20からです。「マクペラのほら穴」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「サラの一生は127年であった」…創世記6:3で主は「人の齢は120年にしよう」と言われています。また、詩篇90:10では「私たちの齢は70年。健やかであっても80年。」とあります。アブラハムの妻サラの一生は127年だったということですが、ノアの大洪水以前の最高齢者はメトシェラで969才です。創世記6~8章の大洪水のあと、地球環境が変化し、人間の寿命に大きな影響を与えるようになったと思われます。そのために、大洪水以後の人間の寿命が急激に短くなっています。昨今、日本人の平均寿命は世界的にも恵まれていて、男性81才くらい、女性が87才くらいです。世界最高齢者は現在日本人女性のようですが116才くらいです。ですから、人間の寿命に関しては、ほぼ聖書通りであると言えるでしょう。アブラハムの一生は創世記25:7で175才です。大洪水以前の長寿の余韻があって、そのためアブラハムもサラも長寿だったと思われます。さて、そのサラですが、ヘブル11:11で「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」と、その信仰姿勢が評価されています。ところが、そのサラの行状を顧みるとき、自分の女奴隷ハガルをいじめたり、ハガル親子を追い出すよう夫に告げたりしています。しかし、たといそうであっても、サラはアブラハムとともに神に選ばれた神の器であることに違いありません。今日、イエス・キリストによって選ばれ、救いを受けた私たちも、何も立派ではなく、不完全な者であることを自分自身が一番よく知っています。それでも、神の大きな恵みを受けているのです。

2.「マクペラのほら穴」…アブラハムは妻の死を悲しんでいたのですが、ふと、死体を葬るということに心を向けます。そこで、ヘテ人エフロンの所有の畑地とその端にあるマクペラの洞穴を取得します。死者本人にとって大事なことは、墓よりも、たましいの行き先です。聖なる神の前に悔い改め、イエス・キリストの十字架の救いを信じ受け入れて、永遠の天の御国に入る備えをしましょう。但し、死者本人の遺族は、遺体を葬らなければなりません。その意味では墓を何らかの形で確保する必要があります。さて、ここのところで、アブラハムが墓地確保の願いをヘテ人たちに申し出ると、彼らは「あなたは神の司です」と言って、快くその申し出を受け入れます。それだけ、アブラハムは異教の世界の中にあっても、神を証ししつつ、謙遜に人々と和合して暮らしていたのでしょう。当時のアブラハムと今日の日本のクリスチャンたちと重なるところがあるのではないでしょうか。アブラハムのように、私たちも、イエス・キリストの父なる神を証ししながらも、回りの人々と協調しながら暮らしていきたいと思います。

3.「銀400シェケルの土地」…土地の所有者エフロンは畑とそこにある洞穴を無償で譲ってくれると言っていますが、アブラハムとしては代価を払い、ヘテ人たちが見ている前で所有権移転が行われたことの確かな形を取っておくべきだと考えたのでしょう。「通り相場で銀400シェケル」とありますから、まあ、普通に誰もが納得する金額だったのでしょう。ところで、イスカリオテ・ユダはイエス様を裏切って、祭司長たちに銀貨30枚で売りました。しかし、彼はその後、後悔し、銀貨を神殿に投げ込んで自害しました。祭司長たちは、その金を神殿に納めるのは良くないということで、陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地としました。今週はイースターの前の受難週でもあります。詩篇49:7~8には「人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」とあります。聖なる神のひとり子イエス・キリストは、十字架の尊い御血によって、私たちの罪の贖いの代価を支払って下さったのです。確かに墓地も大事ですが、それよりもはるかに大事で、しかも永久にあきらめなくてはならないほど高価な、たましいの贖い代をイエス・キリストが十字架の救いによって支払って下さったのです。

●2025年4月6日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記22:1~24からです。「イサクをささげなさい」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「試練」…アブラハムは、妻サラとの間に待望の約束の子イサクが生まれ、その心は喜びに溢れていたことでしょう。そんなとき、主はアブラハムに試練を負わせます。「モリヤの山に行き、そこで一人子イサクをささげなさい」と言われるのです。アブラハムが信じる主なる神も、こんにち私たちが信じる主も全く同じ主です。その方は「まことに、【主】のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。(詩篇33:4)」と言われていて、主の為さることに誤りはありません。しかし、このアブラハムに対する試練については、誰もすんなり納得できるものではないのではありませんか。強いて言うなら、アブラハムの心の中に、全知全能の主よりもイサクへの思いのほうが上回っていたのかもしれません。たぶん、アブラハムもそのことを感じていたのか、主に対して何も抗議することなく、二人の若者を伴い、イサクを連れてモリヤに向かって行くのです。マタイ6:33には「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。何はともあれ、私たちも主を第一にして歩んでまいりましょう。

2.「主の山の上には備えがある」…ヘブル11:19には「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」と、アブラハムの心の内を記しています。このあたりが、アブラハムが信仰の人として評価されている所以でしょう。彼がイサクをほふろうとしたとき、主の使いがそれを止めました。すると、角を藪に引っ掛けている雄羊がいて、アブラハムはその雄羊を取って全焼のいけにえとして主にささげたのです。正に、主の山の上には備えがありました。2011年3月11日に発生した東日本大震災の直後から今日に至るまで、筆者にとっては「主の山の上の備え」を経験してきました。震災直後の小学校の避難所、その後の福室のアパート、新田の元喫茶店と青葉区の住居、そして、現在の教会と住宅です。その間には断られたりとか、購入できなかったりとかありましたが、今考えると、却って、あのとき断られて良かったというようなことが再三ありました。主が今日まで最善の備えをして下さったのです。

3.「あなたを大いに祝福し」…16節で、主の使いがアブラハムに主のみ告げとして「あなたはひとり子を惜しまなかったから、あなたの子孫は海辺の砂のように増え、敵の門を勝ち取り、地の全ての国々はあなたの子孫によって祝福を受けるようになる。(要約)」と言っています。こののち、アブラハムの子孫によってイスラエル民族が起こり、建国され、ダビデ、ソロモン時代には相当の権勢を現わしますが、それは一時的でした。そのことばが完全に成就することになったのは、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として世に来られた神のひとり子イエス・キリストの十字架と復活による救いが完成してからのことです。新約聖書の使徒の働きでは、当初、パウロはユダヤ教の熱心な信者としてキリスト者を迫害していました。そのキリスト者をひっ捕らえるためにエルサレムからダマスコに行く途上、聖霊なる主(イエス・キリスト)にお会いし自らがキリストの証人に任命されます。そして「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。(使徒26:18)」と言われます。正にパウロの世界宣教から始まり、こんにち、全ての国々の人々は、イエス・キリストの御名によって敵(悪魔)の門を勝ち取り、永遠のいのちの祝福を受けるのです。