●2026年7月12日礼拝メッセージ要旨

出エジプト記17:1~16からです。この章では、また、水のことでイスラエルの民はモーセに不満をぶつけます。そのあと、アマレクとの戦いがあります。今回もポイント3つ上げていきます。

1.「マサとメリバ」…イスラエル人はシンの荒野からレフィディムに来て宿営します。そこで飲み水がないので、民はモーセと争い「私たちに飲む水をください」と言います。モーセは民に「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか」と言い、そのあと、主に叫び「私はこの民をどうすればよいのでしょう~」と言うと、主は「ホレブの岩を打てば水が出る」と言われます。モーセはそのとおりにし、その所の名をマサ(試み)、またはメリバ(争い)と名付けます。出エジプト後、イスラエルの民がモーセにつぶやくのはこれで4回目(出エジプト記14:11、同15:23、同16:2~3、同17:2)です。しかも今回は、もう少しでモーセを石で打ち殺しそうになりました。それはモーセに対してというよりも、実は、主を試みているということなのです。イエス様が、マタイ4章で悪魔の試みを受けられました。悪魔はイエス様を神殿の頂に立たせて「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」と言いますと、主は「あなたの神である主を試みてはならない」と言われました。今日、私たちは、主を試みるようなことに心を向けてはなりません。それよりも、主が喜ばれることを行なってまいりましょう。

2.「アマレクとの戦い」…ここで突然、アマレクが来てイスラエルに戦いを挑みます。モーセは、戦いをヨシュアに託し、アロンとフルを伴い、神の杖を持って丘の頂に立ちます。モーセが手を上げているときはイスラエルが優勢になり、手を降ろしているときはアマレクが優勢になります。そこでアロンとフルはモーセを石の上に座らせ、左右からモーセの手を日が沈むまで支えます。結果、ヨシュア率いるイスラエルはアマレクを打ち破ります。16節に「主は世々にわたってアマレクと戦われる」とありますが、このアマレクというのは敵である悪魔のことを象徴的に表現しているのでしょう。Ⅰテモテ2:8には「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」とあります。モーセが神の臨在の象徴である神の杖を持って丘に上ったように、今日、私たちは、救い主イエス・キリストの御名によって悪魔に立ち向かい、祈り、勝利を得ましょう。

3.「アドナイ・ニシ」…モーセは祭壇を築き、それを「アドナイ・ニシ(主は我が旗)」と呼び(15節)ました。それは、ヨシュアが率いるイスラエルとアマレクの戦況を丘の上で見守り、自分は手を上げて(祈り)、結果、主によって勝利したということを目の当たりにしたからでしょう。つまり、主なる神様は自分たち(イスラエル)を団結させて、勝利へと導く神の旗というわけです。今からおよそ40~50年前に、韓国から申賢均という牧師さんが日本に来られて筆者の母教会や各地の聖会において講演をしておられました。新聖歌では338番「山行くも海行くも」の曲に申牧師が歌詞を日本のリバイバルを願って作詞されました。それは「日が昇る日本に聖霊のみしるし、主の使命果たすため命がけ祈ろう、我が望み我が望み日本に始まる、エホバ・ニシ(ハレルヤ)叫びつつ、主の国を建てよう」です。原歌詞では「ハレルヤ」が「エホバ・ニシ」になっていましたが、いつしかハレルヤが定着しました。正に「アドナイ・ニシ」、この出エジプト記17:15からです。主は我が旗、「主の旗の下に祈ろう」ということなのです。Ⅰペテロ5:8~9aには「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。~」とあります。

●2026年7月5日礼拝メッセージ要旨     

出エジプト記16:1~36からです。エジプトを出たイスラエル人は、エリムからシンの荒野に入り、一カ月ほどが経過しています。エジプトから携えてきた食糧も無くなってきたことでしょう。イスラエルの民は食べ物のことでモーセにつぶやきます。そこで主はパン(マナ)の奇跡を行なわれます。ポイント3つ上げていきます。

1.「主(創造主)の備え」…「私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせるのですか」というイスラエル人のつぶやきを聞かれた主は、モーセに対して、5日間毎日パン(一人当たり1オメル=2.3ℓ)が天から降ること、そして6日目には二日分のパンが降ると言われます。このことは週七日間と七日目の安息日を元にしています。創造主である真の神様は、第一日目に「光と闇の区別」、第二日目に「上の水と下の水の区別」、第三日目に「植物」、第四日目に「太陽と月と星」、第五日目には「あらゆる生き物」、第六日には「人間」を形造りました。そして第七日を休まれて、この日を聖とされました。今日、世界中で、この一週間の生活様式が採用され、日本では1876年(明治9年)に週七日、日曜日は休み、土曜日は半休が官公庁から始められました。これによって休みのない生活から解放された人も少なくないと思われます。また、創世記2:3には「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」とあります。ですから、日曜日をただ休みの日と認識して終わるのではなく、聖なる日、すなわち主を礼拝する日として位置づけることは、その人にとってはこの上ない祝福となるのです。

2.「不従順な人たちがいた」…毎日天からパンが降ってくるのですが、モーセはイスラエル人に翌日の朝まで残してはいけない、と言います。しかし、イスラエル人の中には、パンを翌日まで残しておく人たちがいました。また、安息日の前の6日目に二日分のマナが降ってくるのですが、翌日の七日目にパンを集めようとして出て行く者がいました。そのとき主は「あなたがたは、いつまでわたしの命令と教えを守ろうとしないのか」と叱責されます。先日のことでした。筆者の妻が車のキーを紛失しました。最近の車はスマートキーで、キーを携帯して車のドアのボタンを押すとロックが外れます。彼女は一人で車に入ることが出来ません。2日間ほど不便でしたが、キーが見つかりました。なんといつも持ち歩いているカバンの中にあったのです。ドアのボタンを押せばロックは外れたのです。私たち人間は元々神の子どもたちです。それを拒んで、神のことばに従わないでいると霊的な不自由を強いられます。救い主イエス様を信じ受け入れ、聖日である日曜日には教会に集まって礼拝をささげ、みことばと祈りに励み、証しの生活をする。それは、主が、私たち人間が本来の祝福を受けるために備えて下さっているものです。

3.「子孫のためのマナの保存」…天から降って来たパンを見て、イスラエル人たちは15節で「これは何だろう」といいました。英語ではWhat is it?その意味からマナと名付けられました。モーセは32~34節で「1オメルのマナを壺に入れて子孫のために保存せよ」と命じます。それはどういうことでしょうか。イスラエル人がカナンの地に入るまでの荒野で40年の間、主は彼らをマナで養われました。そのことを子々孫々、忘れないでいるためです。それは、今日も同じです。詩篇139:3には「あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。」とあります。またヘブル13:5には「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」とあります。イエス様が、信じる者とともにおられて、いつも見守ってくださるのです。

●2026年6月28日礼拝メッセージ要旨            

出エジプト記15:1~27からです。モーセとイスラエル人は、大きな奇跡を見て、主に向かって賛美をささげます。「主に向かって歌え」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「奇しいわざを行なう主」…出エジプト記14章では、聖書の記事の中でも最大級の奇跡が行われました。海の水が左右で縦の壁になり、イスラエル人は、その真ん中の乾いた地を歩いて行く。そして彼らを追いかけて来たエジプト軍は海の中に閉じ込められてしまう。そんなことは普通の常識ではありえません。しかし、全知全能の主であるお方に不可能なことは一つもありません。ここで、筆者の個人的な奇跡の体験をお話しします。3.11東日本大震災後、関東地区のN牧師さんが支援のために当教会に数度訪れてくださいました。その後、筆者に「S国の日本人教会に行ってくれませんか」と言われました。特に断る理由もないので行くことにして、2011年5月11日、県庁でパスポートを取得しました。その番号はなんと「7777777」でした。「7」は聖書では特別な数字、しかもその7が七つ並んだありえない番号です。もちろん、その番号で何か得したわけではありません。しかし、そのとき、天地を創造した主なる神様の何か特別な計らいを感じました。偶然と言ってしまえば偶然、否、筆者にとっては奇跡としか思えませんでした。ところで今、この辺りでは紫陽花(アジサイ)が咲く時期です。紫陽花でも、他の花でも、偶然や進化で「花」が存在しているのではありません。全知全能の創造主がデザインして、美しい花を私たち人間のために備えて、私たちが楽しむようにくださっているのです。

2.「主に向かって歌え」…出エジプト記15章の1~18節までは、モーセとイスラエル人が主に向かって歌った賛美歌です。20~21節では、モーセとアロンの姉ミリヤムがタンバリンを持って、他の女性たちとともに主をほめたたえています。私たちに全てのものを備え、また、何よりも、救い主イエス・キリストの十字架と復活による救いを完成してくださっている天の父を賛美することは幸いです。エペソ5:19は「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」と言っています。また、ヘブル13:15には「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」とあります。

3.「主の声に聞き従う」…大きな奇跡を体験したイスラエル人でしたが、葦の海からシュルへ、そこから三日間、荒野を歩いて水がありませんでした。マラに来て水を飲むと苦くて飲めませんでした。そのとき民はモーセにつぶやき、「私たちは何を飲んだらよいのですか」と言いました。主がモーセに一本の木を示されたので、モーセがその木を水に投げ込むと、なんと水は甘くなったのです。この箇所の記事が詩篇106:12~13に「そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。」と記されています。この前の章、出エジプト記14:11でも、イスラエル人はエジプト軍が自分たちに迫っているのを見てモーセに対して「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。」と言っています。私たちは、逆境に立たされたとき、誰かにつぶやきたくなるかもしれません。しかし、それでは主に喜ばれません。むしろ、主がどのようにしてくださるか、主を待ち望みましょう。今日(こんにち)、私たちは、聖書を読み、祈り、教会(イエス・キリストを心より信じる群れ)に集い、主のみこころを行なってまいりましょう。

●2026年6月21日礼拝メッセージ要旨            

出エジプト記14:1~31からです。聖書の記事の中でも最も劇的な章の一つです。「海の真ん中の乾いた地を行く」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「追いかけて来たエジプト軍」…エジプトから連れ出され、雲の柱と火の柱に先導されていたイスラエル人でしたが、ここで主は、モーセに「イスラエル人に引き返すように言え」と不思議なことを言っています。さらに「わたしはパロの心をかたくなにし、イスラエル人のあとを追えば、わたしは栄光を現わす」という内容のことを付け加えます。つまり、それはイスラエル人にとっては試練となります。その試練を通して、そこに主の栄光が現われるということです。新約聖書のヨハネの福音書9:1~3で、イエス様が道の途中で生まれつきの盲人を見られたとき、弟子たちはイエス様に「彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか?」と質問しています。するとイエス様は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」と言われ、結局、その盲人の目が見えるように導かれます。今日(こんにち)、私たちの人生を振り返るとき、何の問題もなく順風満帆の人は一人もいません。むしろすべての人が問題を抱えながら生きています。しかし、その問題を通して、却ってそこに主の栄光が現われることがあるのではないでしょうか。

2.「主の救いを見よ」…イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト軍が自分たちを追っかけて来て、後に迫っているではありませんか。そこで民はモーセに対して「エジプトに墓が無いのであなたは私たちをこの荒野で死なせるのですか?」と抗議します。するとモーセは「恐れてはいけない。しっかり立って、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい」と言います。結局その後、海の乾いた地を進ませると言う大きな奇跡を見させるのですが、それだけにとどまらず、19~20節では、民を先導していた雲の柱が民の後ろに移って、真っ暗な雲となってエジプト軍がイスラエル人に近づけないようにされています。「歌いつつ歩まん」という聖歌があります。折り返しは「歌いつつ歩まん ハレルヤハレルヤ 歌いつつ歩まん この世の旅路を」と歌います。後ろから迫って来たエジプト軍を見て恐れ、モーセに呟いたイスラエル人のようではなく、私たちは主を信頼し、主を賛美しつつ進んで行きましょう。

3.「海の真ん中の乾いた地を歩いた」…モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされました。そこでイスラエル人は、乾いた地を進んで行きました。水は彼らのために右と左で壁となりました。物理的な常識ではあり得ないことが起こりました。全知全能の神にとって不可能なことは一つもありません。さて、エジプト軍も後を追って乾いた地を進んで行こうとするのですが、主が彼らの行く手をかき乱され、戦車の車輪が外れ、進むのを困難にされます。それでエジプト人たちは、主がイスラエル人たちのために戦っておられるということに気づき、逃げようとするのですが、そのときモーセが再び海の上に手を伸ばすと、海が元の状態に戻り、エジプト軍は全滅することになるのです。新約聖書ローマ人の手紙8:37には「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」とある通りです。先日、筆者はマルコの福音書16章を読みました。特に15~18節の「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』」という箇所に目が留まりました。この記事は、世の一般常識では素直に受け入れ難いでしょう。しかし、私たちは、聖書のみことばの原点に立って行かねばならないということを改めて思わされました。

●2026年6月14日礼拝メッセージ要旨

出エジプト記13:1~22から「雲の柱と火の柱」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「種を入れないパンの祭り」…1~2節で、主がモーセに対して「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子は、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。」と言われます。3~10節で、モーセはイスラエルの民に対して、まず「種を入れないパンの祭り(過ぎ越しの祭り)」のことを語っています。それは、イスラエル人がカナンの地に着いたとき、種を入れないパンの祭り(過ぎ越しの祭り)を行ない、エジプトから連れ出されたこと、すなわち奴隷から解放されたことを忘れないように、また、そのことを子々孫々に伝えるように、と語ります。その約1500年後、神のひとり子イエス・キリストが世に来られ、十字架の救いを成し遂げられました。使徒の働き26:18で、イエス様はパウロに「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」と語っておられます。今日、私たちはイエス・キリストを信じ受け入れて、サタンの支配から解放され、罪の赦しを得て、聖なる者とされ、天の御国を受け継ぐ者とされましょう。

2.「初子を主にささげる」…次にモーセは11~16節で、イスラエル人が守るべきおきてとして、これは過越しの祭りと関連しているのですが、「初子を主にささげる」ことについて語ります。イエス様がこの世に人としてお生まれになったとき、ヨセフとマリヤは、きよめの期間が満ちてからエルサレムに行って幼子を主にささげました。ルカの福音書2:23~24には「──それは、主の律法に『母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない』と書いてあるとおりであった──また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。」とあります。今日のクリスチャンには不要なしきたりですが、イエス・キリストを信じ受け入れた者は主への献身者です。ローマ人への手紙12:1には「 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とあります。またⅠペテロ2:5には「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」とあります。イエス・キリストの父なる神様に、自分自身をおささげし、主の器として用いていただきましょう。

3.「雲の柱と火の柱」…17~22節です。主がイスラエルの民をエジプトから連れ出されたとき、地中海沿岸のルートではなく、シナイ半島方面の葦の海沿岸のルートに導かれました。そして主は、昼は雲の柱、夜は火の柱によって民を先導されたのです。私たちの教会のことを振り返ってみましょう。まず、1983年12月1日から福住町で開拓伝道が始まりました。次に福田町、そして蒲生、3.11東日本大震災後は新田、そして現在の燕沢に会堂が完成したのが2016年2月23日でした。大きな決断を迫られたのは、海岸線から約700メートルの蒲生の地に移るときでした。2005年10月のことですから、まだ3.11東日本大震災発生前ですが、やはり、津波に対する危惧はありました。その上で蒲生に行くことを決めました。大震災直後は確かに苦しみと戸惑いがありましたが、これまで、主が一つ一つを導いて下さったと受け止めております。これから先も主の導きに従っていきたいと思います。ルカ9:23です。「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」

●2026年6月7日礼拝メッセージ要旨      

出エジプト記12:29~51から「エジプトからの解放」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「私(パロ)の民の中から出て行け」…この記事では、第10番目の災いが起こり、それゆえにイスラエル人はエジプトから出て行くことになります。これまでの第1から9までの災いが起こったあと、パロは心頑なにして、イスラエル人を解放することはありませんでした。しかし、今度は逆に「出て行け」と言っているのです。それはもちろん、過ぎ越しの祭りの基となる一連の出来事の故であり、背後で全能の主なる神様が働いておられるのです。主は不思議をなさるお方です。例えば、アモス書8:11には「見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことのききんである。」とあります。今の日本の現状を考えてみましょう。主のことば、すなわち聖書のことばに対して、切に求めて聞こうという人は稀です。しかし、主が許されるなら、そのような時が来るのではないでしょうか。

2.「寝ずの番」…イスラエルの民は、ヤコブ(イスラエル)やヨセフの時代、エジプトでゴシェン(ラメセス)の地に住むことになりました。それから430年が経過し、ラメセスからスコテへ、スコテからエタムへと移動します。42節では「この夜、【主】は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。この夜こそ、イスラエル人はすべて、代々にわたり、【主】のために寝ずの番をするのである。」とあります。主がイスラエル人のために「寝ずの番」をされたのです。それは、今日、イエス・キリストの救いに与った異邦人である私たちも同じです。詩篇4:3には「知れ。【主】は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、【主】は聞いてくださる。」とあり、また、イエス様はマタイ28:20後半で「見よ。わたしは世の終わりまでいつも、あなたがたとともにいます。」と言われました。すなわち、キリストが私たちといつも共にいて、特別に扱ってくださり、祈りを聞いて下さるのです。さて、もう一つの「寝ずの番」は、イスラエル人が主のために寝ずの番をするのです。イザヤ62:6には「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。【主】に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。」とあります。今日のキリスト者にとってエルサレムとは、キリストの体である教会(建物ではなく)と見立てても間違いではないと思います。キリストにある一人一人がキリストに似た者とされる。また、そのために互いに支え合い、祈り合うのです。

3.「エジプトから連れ出された」…主がモーセとアロンに43節から、過ぎ越しのいけにえに関するおきてについて語っておられます。外国人などの場合は、男子は割礼を受けなければ食べてはならない、ということです。「割礼」はイスラエル人(ユダヤ人)におけるアブラハムの時代からの決まり事なのですが、今日、異邦人クリスチャンにとって割礼は不要です。但し、洗礼があります。マルコ16:16には「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」と。ガラテヤ3:27には「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」とあります。バプテスマ(洗礼)は、イエス様の命令(マタイ28:19)でもあり、キリストをその身に着て、自分はクリスチャンであるという旗印を掲げることでもあります。ガラテヤ5:1には「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」とありますが、イスラエル人が奴隷から解放されてエジプトから連れ出されたように、今日、私たちは、イエス・キリストの十字架の救いを信じて、悪魔の奴隷から解放されて、霊的な自由の中にあるのです。

●2026年5月31日礼拝メッセージ要旨     

出エジプト記12:1~28から「過越しの祭りの制定」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「過越しの血」…エジプト全土に神の裁きが臨むとき、エジプトの、人から家畜に至るまでの初子が死ぬという痛ましい事が起きます。しかし、イスラエル人にはそれから免れるために、傷のない一歳の雄羊か山羊を屠り、その血を家々の二本の門柱とかもいにつけるようにと、主がモーセとアロンに仰せられます。そのとき、その実行する月を最初の月とせよと言われます。太陽暦では3~4月で、過ぎ越しの祭り(ペサハ)の行われる第一の月ニサン。因みに、太陽暦で5~6月の七週の祭り(シャブオット)の行われるのは第三の月シワン。太陽暦で9~10月の仮庵の祭り(スコット)が行われるのは第七の月チスリ。ここで、その時から1500年ほど経過した時代に移行します。バプテスマのヨハネが自分の方に来られるイエス・キリスト様を見て「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。(ヨハネ1:29)」と言いました。ヨハネは、屠られた小羊のように十字架で血による贖いを成し遂げられようとされるイエス様を見て、預言的なことばを語るのです。ヘブル人の記者は「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(ヘブル9:14)」と言っています。新聖歌235番の歌詞です。「罪重荷を除くは血の力、主の血は。悪魔の業をこぼつ奇しき力なれ。力ある主イェスの血、受けよ受けよ。力ある主イェスの血、受けよ今受けよ。」

2.「過越しの食事」…小羊の血をヒソプで二本の門柱とかもいに付けた後、その肉を焼いて食すように言われます。そのとき、種を入れないパンと苦菜も食します。現代の食事と比較してみても栄養バランスが取れていると思われます。種を入れたパンは日持ちしません。しかし種なしパンは腐敗しにくいということで、霊的な腐敗という意味で新約聖書で取り上げられています。Ⅰコリント5:6には「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。」とあります。この当時、コリントの教会は道徳的に問題がありました。今日の教会には聖餐式があります。Ⅰコリント11:28には「ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」とあります。また同11:31には「 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。」とあります。私たちは聖餐式を行ない、自分自身を吟味する。そして、自分自身をさばくことによって罪の清算をして守られていきましょう。

3.「過越しの儀式」…主から過越しの祭りについて教えられたモーセは、イスラエルの長老たちを集めて、この過越しの行事について語ります。まず、「ためらうことなく羊を過ぎ越しのいけにえとして屠りなさい」と言い、そして「その羊の血を二本の門柱とかもいに付けた後、朝まで誰も戸口から出てはならない」と言います。そして、「子孫の掟として永遠に守りなさい。約束の地に入って、この儀式を守りなさい」と言っています。この約1500年後、21世紀の現在から見ればおよそ2000年前、聖なる神のひとり子イエス・キリストが世に来られ、十字架で救いを成し遂げられました。つまり、過ぎ越しの祭りはキリストの十字架の救いで完成されるということです。ヘブル9:25~26には「それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」とあります。「ただ一度」です。この完成されたイエス・キリストの十字架による永遠の救いこそ、私たちが子々孫々だけではなく全世界のすべての人に宣べ伝えなければならない福音です。

●2026年5月24日(日)礼拝メッセージ要旨   

2026年のイースターは4月5日、その日から数えて50日目の5月24日が五旬節、ペンテコステ記念日です。そのペンテコステ記念日に因んで使徒の働き1:1~14から「聖霊が臨まれるとき」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「水のバプテスマと聖霊のバプテスマ」…ある一人の方がクリスチャンになった場合を考えてみましょう。その人は、まず教会に来て、聖書のことばを聞き、やがてイエス・キリストを救い主として信じ、水のバプテスマを受けます。次にその人は聖霊のバプテスマ(聖霊体験)を受けます。これは一つの典型的な例と言えるでしょう。ペテロの場合はどうでしょう。彼は、イエス様に対し「あなたは生ける神の御子キリストです(マタイ16:16)」と言いました。その後、ペテロは使徒の働き2章の、あの五旬節の出来事で正に聖霊のバプテスマを受けました。その直後、ペテロは集まって来た人々に「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(使徒2:38)」と語りました。一方、サウロ(パウロ)の場合です。サウロは当時、ユダヤ教に熱心でキリスト者を捕らえるためにエルサレムからダマスコへ行く途上、イエス様(聖霊様)がサウロに臨み、まばゆい光のために目が見えなくなりました。そのとき主が、ダマスコ在住のアナニヤをサウロの所に遣わしました。アナニヤがサウロのために祈るとサウロの目が見えるようになり、そのあと水のバプテスマを受けました。つまり、サウロ(パウロ)は、まず聖霊体験をしてそのあとで水のバプテスマを受けました。人それぞれ、その聖霊の体験は独特でとてもひとくくりにはできないかと思います。

2.「聖霊の賜物」…聖霊の賜物についてはⅠコリント12章に詳しく記されています。その章の3節には「聖霊によるのでなければだれも『イエスは主です』ということができません」とあり、そもそもイエス様を信じる告白をすること自体が聖霊の働きによるものであると言っています。創世記の1:2には「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」とあるように、天地創造の初めから今日まで聖霊の働きによって全てが成っていったということでしょう。Ⅰコリント12:8~11には御霊の賜物が9つ記されています。「①知恵のことば②知識のことば③信仰④いやし⑤奇跡を行なう力⑥預言⑦霊を見分ける力⑧異言⑨異言を解き明かす力」です。この章でパウロは結論として、「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい(31節)」と言っています。また同14章では、特に異言の賜物に対する健全なあり方が懇切丁寧に説明されています。

3.「御霊の実」…使徒の働き1:8には「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」とあります。聖霊が与えられる目的です。それは、イエス・キリストの証人となるためです。また、ガラテヤ5:22~23には「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」とあります。クリスチャンは主の証人であり、「愛、喜び、平安…」などの御霊の実によってキリストの香りを放っていきたいものです。そのためにも私たちは、聖霊充満されることを求めてまいりましょう。かつてキリスト者に対する迫害に熱心だったパウロ(サウロ)は、自らがキリスト者になり、今度は誰よりも熱心に宣教活動に献身しました。そして新約聖書中13巻の手紙を書きました。キリスト者として非の打ち所の無いと思えるようなパウロが「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。(ピリピ3:12)」と言っています。私たちも「求める者にどうして聖霊を下さらないことがありましょう(マタイ11:13)」と言われた主に向かって、聖霊を熱心に求めてまいりましょう。

●2026年5月10日(日)礼拝メッセージ要旨  

出エジプト11:1~10からです。「10番目の警告」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「なお一つのわざわいを下す(1節)」…7章から10章まで9度のしるしと不思議(わざわい)が記されていました。そして、いよいよ最後の10番目のしるしが起ころうとしています。それは12章に記されていて、この11章では、その予告的な記事となります。モーセがパロに、その10番目のわざわいを語ります。すなわち、真夜中ごろ、主がエジプトの中に出て行き、王家から奴隷に至るまでの初子が死ぬという災いが起きるということ。そして、イスラエル人は区別されて何事も起こりません。但し、12章ではイスラエル人が区別されるためには、過ぎ越しの祭りの原点となる一つの行ないをしなければなりませんでした。それは傷のない一歳の雄の小羊(山羊)を屠り、その血を家々の二本の門柱とかもいにつけるということです。それが、後の過ぎ越しの祭りの原点となり、この約1500年後にイエス・キリストの十字架の救いへとつながっていくのです。さらに今日、主キリストの再臨の日が近づきつつあります。その再臨の日こそ、正に区別の時となります。マタイ24:30~31を見ますと、再臨の日、それは一方では「悲しみの日」であり、もう一方では「選びの民として集められる日」なのです。

2.「モーセもエジプトで尊敬されていた(3節)」…イスラエル人が出エジプトするとき、食料、金銀、着物などが必要となりました。ここで主は、それらの必要のために、エジプト人がイスラエル人に対して好意を持つように仕向けられます。また、モーセはパロの家臣とエジプト人に非常に尊敬されていたとのことです。21世紀の現代に当てはめてみましょう。今日、クリスチャンは回りの人々にどう思われているでしょうか。もし、好感をもたれ、尊敬されていたら、それはそれで喜ばしいことであると言えるでしょう。しかし、どう思われようが大事なことは、クリスチャンは聖書のみことばに忠実に歩んでいなければなりません。その歩み方の基礎となるのは十戒でしょう。その十戒の要約です。「1.あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。2.偶像を造ってはならない。3.主の御名をみだりに唱えてはならない。4.安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。5.あなたの父と母を敬え。6.殺してはならない。7.姦淫してはならない。8.盗んではならない。9.偽りの証言をしてはならない。10.あなたの隣人の家を欲しがってはならない。」、10の戒めのうち8つが「してはならない」で2つが「せよ」です。つまり、「してはならない」は何もせずにいて守れます。「せよ」の第4戒めと第5戒めを行なえば十戒全部を順守することになるわけです。2026年5月10日は母の日ですが、今日、まず、イエス様を信じて罪赦された者とされ、聖日の礼拝を守り、父母を敬って生きる(基本的には全ての関わる人々を敬愛する)ことによって、クリスチャンとして良い歩み方ができるのではないでしょうか。

3.「パロはモーセの言うことを聞き入れない(9節)」…モーセがパロに第10番目のわざわいの警告をしましたが、パロは相変わらずモーセの言うことを聞きません。それでモーセは怒りに燃えてパロの所から出て行きます。それは、エジプトで主の不思議が多くなるためであったのですが、結局、最後は主の実力行使、エジプト人にとっては非常に厳しいわざわいが襲います。主のみこころは、主ご自身が崇められ、主の栄光が現われることではないでしょうか。今日、私たちは、イエス・キリストによる救いを信じ受け入れ、キリストを通して、日々の生活の中で、主の御名が崇められることを求めてまいりましょう。

●2026年5月3日(日)礼拝メッセージ要旨         

 マタイ16:13~28からです。「自分の十字架を負い」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「わたしを誰だと言いますか(13節)」…ピリポ・カイザリヤに行かれたとき、イエス様は弟子たちに「人々は人の子を誰だと言いますか」と問いかけます。すると弟子たちは「バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人だと言っています」と答えます。そこでイエス様は「あなたがたはわたしを誰だと言いますか」と言われると、シモン・ペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです」と答えます。それに対して主は「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは、天にいますわたしの父です」と言われました。イエス・キリストの父なる神、全知全能の主は、不思議なお方で、私たち一人一人に目を留め、救いの御手を差し伸べておられます。そういう中で、イエス・キリストを信じ、救いに与ったのであれば、正にそれは神の恵みです。エペソ1:3~4です。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」

2.「この岩の上にわたしの教会を建てます(18節)」…18節でイエス様はペテロに「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロ(ペトロス)です。わたしはこの岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」と言われます。「この岩の上」とは何でしょう。イエス・キリストご自身とキリストを信じる信仰告白と言えるでしょうが、今日、その信仰の基となる聖書のみことばのことでもあるでしょう(エペソ2:20参照)。19節では、主はペテロに「天の御国のカギを上げます」と言われました。それは、ペテロだけではなく、全てのキリスト者に与えられている特権です。天の御国のカギとはイエス様を心から信じてお祈りすることでしょう。マタイ18:18~19です。「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」

3.「十字架を負う(24節)」…さて、その後、イエス様はエルサレムに行って苦しみを受け、殺され、三日目に復活するということを話されます。するとペテロが「そんなことがあなたに起こるはずはありません」と言いますが、主はペテロに「下がれサタン。あなたはわたしの邪魔をする者だ~」と言われます。今日、イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しを得させる悔い改めの福音が世界中で宣べ伝えられています。イエス様を信じた人々の集まりである教会は正しい人の集まりではありません。罪人の集まりです。もっと正確に表現すると「教会は、聖なる神の前に自分が罪人であるということを自覚した人々の集まり」ということです。そして、この教会に集う人々、すなわちクリスチャンは「自分を捨て、自分の十字架を負い、イエス様について行く者である」ことが求められています。「自分の十字架」です。人それぞれ、その人だけが持つ賜物、才能があるものです。裏を返せば、それは、その人に与えられた賜物、才能を用いて、その人の使命に生きるということです。26節には「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」とあります。人よりも上に立つことや優れた者になるということを目的とするような人生ではなく、むしろ、誰かの救いのために用いていただくような生き方でありたいと願います。