●2024年11月24日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記5:1~32から「神とともに歩んだエノク」という題でポイントを3つ上げていきます。

1.「彼のかたちどおりの子を生んだ」…カインは殺人者でさすらい人とされ、アダムの後継から除外された形となりました。そこで、4章25節で言っているように、神はアダムにセツを授けられました。アダムは神に似せて造られました。そして、アダムの子セツは彼に似せて、彼のかたちどおりの子でした。すなわち、セツも神に似せて造られたのです。4章26節では、セツにエノシュが生れたとき、「人々は主の名によって祈ることを始めた」とありますから、たぶん、セツも祈ることを始めた張本人の一人であったのではないかと推測できます。そういう意味においても、セツは神に似た者であったと言えるでしょう。ピリピ3:21には「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」とあります。やがて終わりのラッパが鳴る時、キリストにある者は不死を着て復活の体に変えられます。そのときが来るまで、私たちはこの地上においてキリストを慕い求め、キリストに似た者とされることを求めてまいりましょう。

2.「エノクは神と共に歩んだ」…Ⅱ列王記2:11でエリヤは生きたまま天に引き上げられています。エノクも死を見ることなく天に引き上げられたようです。エノクはなぜ天に引き上げられたのでしょう。「神とともに歩んだ」からです。エノクが神とともに歩むようになったのは、彼が65才のときメトシェラが生れたときからです。「メトシェラ」の名前には「彼が死ぬとき、それは始まった」という意味があるようです。つまり、エノクにメトシェラが生れたとき、神からエノクに対して何らかの啓示があったのではないかと思われます。メトシェラ187才のときレメクが生まれ、レメクが182才のときノアが生まれます。そしてノアが600才のとき大洪水が起きます。187+182+600=969です。ノアの大洪水の年にメトシェラが969才で死にました。順序としては、おそらくメトシェラが死んだ直後に大洪水が起きたと思われます。エノクは神からの啓示を真摯に受けとめ、神と共に歩み、それゆえに生きたまま天に引き上げられました。ヘブル4:2には「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」とあり、このエノクとは真逆の人々、約束のカナンの地に入れなかったイスラエルの民のことが指摘されています。私たちは、エノクのように、神のことばに従い、まことのいのちに与る者とされましょう。

3.「この子は慰めを与えてくれるであろう」…メトシェラの子レメクが182才のときノアが生まれます。そのときレメクは「【主】がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」と言っています。当時、あのカインの子孫も共存しています。それゆえの悪もあったでしょうし、それに関連する「のろい」のゆえにレメクも苦労していたことがうかがえます。そして、その600年後、ノアの大洪水が起こります。その当時、地上に人の悪が増大し、その中でノアは正しい人であり、全き人で、神とともに歩んでいたのです。この章では、生きたまま天に引きき上げられたエノクと大洪水の只中を経験するノアの誕生が記されています。マタイ24:37には「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。」とあります。当時は洪水によって滅びましたが、今の世界は火に焼かれるためにとっておかれています(Ⅱペテロ3:6~7参照)。また、マタイ24:31には「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」とあります。イエス・キリストの再臨の日が近づいています。終わりのラッパが鳴り響くとき、キリストにある人々はエノクのように天に携え挙げられるのです。そして永遠の安息の中に入るのです。

●2024年11月17日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記4:1~26の「カインとアベル」の記事から、「最上のささげもの」という題でポイントを3つ上げていきます。

1.「最上のささげもの」…アダムとエバがエデンの園を追い出されたとき、彼らには神から一定の祝福も与えられていたことでしょう。また罪ゆえの「のろい」の部分も引継いでしまいました。その「祝福」と「のろい」の両面がこの4章で表わされているのではないでしょうか。さて、ある時期になり、カインとアベルは主へのささげものをしました。まず、アベルのささげものに焦点を当てましょう。アベルは羊を飼う者となり、彼の羊の初子から、それも最上のものを持って来ました。これは何を意味しているのでしょうか。神に対する姿勢です。たぶん、アベルは両親から、彼らがなぜエデンの園を追い出されたのかを聞いていたに違いありません。アベルはその話を聞いて、「自分は神を恐れ、神第一の生き方をすべきである」と思ったことでしょう。今日、クリスチャンはキリストのしもべとしてふさわしく生きることが求められています。聖日の礼拝を尊び、聖書を読み、お祈りをする。そして証しの生活をし、アベルのように神へのささげものをする(マラキ3:10参照)のです。ヘブル人への手紙11:4です。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」

2.「さすらい人カイン」…カインは、自分のささげものが神に目を留めてもらえなかったことに対して、ひどく怒り、顔を伏せました。主はカインに「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だがあなたはそれを治めるべきである」と言われます。今日、私たちの日常生活においても、これと似たような場面に時々遭遇するのではないでしょうか。例えば、誰かに侮辱されたとしましょう。怒りが燃え上がり、自分を侮辱した人に対して憎しみを抱くことでしょう。大抵はそこで終わります。しかし、カインは怒りをアベルに向け、彼を野に誘い出して殺してしまいます。結局、カインは人類史上最初の殺人者となり、さすらい人とされます。カインは自分に会う人が自分に危害を加えることを恐れ、神に保護を求めてそれが受け入れられ、一つのしるしが与えられます。その後、カインの六代目の子孫にレメクが生れます。なんと、レメクも一人の若者を殺害したようです。このカインの家系を見るとき、神への徹底した悔い改めが見られません。ただ、自分の命の保護を求めるだけで、真の神を自分の生活の中に受け入れ、神に従って行こうという姿勢が見られません。

3.「主の名によって祈ることを始めた」…この後、アダムとエバからセツが生れます。今日、地球上には約80億人が生存しています。その全員はセツの子孫です。セツに男の子、エノシュが生れたとき、人々はの名によって祈ることを始めました。直訳では「の御名を呼ぶことを始めた」です。カインのように神をないがしろにして生きるのではなく、を求め、を生活の第一に据えて生きるのです。先日某クリスチャンユーチューバーがジャッキー・ロビンソンのことを紹介していました。アメリカのMLBにはジャッキー・ロビンソンデーという日があります。なぜかしら、メジャーリーガー全員が42番の背番号のユニホーム着てプレーしています。ジャッキー・ロビンソン選手は1940~50年頃、黒人メジャーリーガーの先駆者となりました。彼がドジャースに入団するとき、オーナーのブランチ・リッキーと「やられてもやり返さない」という約束を交わしました。当時は人種差別が根強い時代で、黒人選手に対する仕打ちに対してロビンソン選手が仕返しをして、黒人選手がプレー出来なくならないようにするためです。オーナーのブランチ・リッキーもジャッキー・ロビンソンも共にクリスチャンで、彼らは聖書の教えに基づいて行動を始めたのです。今では、MLBには黒人選手が各チームの半数以上を占めているようにも見受けられます。そして、ロビンソン選手の功績を称え、2004年から毎年4月15日をジャッキー・ロビンソンデーとしています。イエス・キリストの父なる神を信じ、何をするにも主の名によって祈ることから始めてまいりましょう。

●2024年11月10日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記3:1~24からです。この創世記3章は、聖書の中でも最も重要な章の一つと言えます。ポイントを4つ上げていきます。

1.「蛇が一番狡猾であった」…創世記2:17で、神はアダムに善悪の知識の木から取って食べるならば「必ず死ぬ」と言われています。ところが、悪魔の化身と見られる蛇がエバに対して「園のどんな木からも食べてはならないと神が本当に言われたのですか」と誘導尋問的に言います。エバはその質問に惑わされ「園の中央の木から、それを食べて死ぬといけないから」と答えます。すると蛇は「あなたがたは決して死にません」と、真っ赤な嘘を言います。ヨハネ8:44には「~彼(悪魔)が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」とあります。私たちは、悪魔の常套手段である偽りを捨て、むしろ御霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22~23)」、ここでは特に「誠実」を追い求めましょう。

2.「あなたはどこにいるのか」…アダムとエバは、正に「愛、喜び、平安」の世界に安心して暮らしていたのですが、食べてはいけない木の実を食べると、彼らの視界は一気に暗く不安で恐ろしい世界に支配されてしまいます。神は彼らに現われ「あなたはどこにいるのか」と問いかけます。もちろん、神は彼らがどこにいるのかはお見通しです。その「どこ」ではなく、神の近くにいるのか、それとも遠くにいるのか、ということです。私たち人間は何が幸いでしょう。全知全能の神の近くに、神と共に生きることです。そのために必要なことは、神と人との仲介者となられ、隔ての壁を打ち壊してくださったイエス・キリストを信じ受け入れることです。エペソ2:13には「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」とあります。いつもイエス様の名を呼び求め、キリストと共に歩んでまいりましょう。

3.「彼は、お前の頭を踏み砕き」…神がアダムに「あなたは食べてはならないと命じておいた木から食べたのか」と言われると、アダムは「この女が私にくれたのです。」と答えます。次に、神がエバに問われると、エバは「蛇が私を惑わしたのです」と答えます。そして神は三者に対して裁定を下されます。蛇には、のろいと腹ばいの姿を、女には産みの苦しみと夫の支配、アダムには労働の苦しみを、それぞれに定めます。その中で15節では、メシヤ預言と解されている「彼(キリスト)はお前(サタン)の頭を踏み砕き、お前は彼のかかとにかみつく」と言われます。それは、イエス・キリストが十字架に架けられたのはサタンのしわざであり、一時的に勝利したつもりのサタンは、そのキリストの十字架と復活により、サタンに完全なダメージを与えたのです。ローマ16:20には「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」とあります。「あなたがたの足で」となっています。ここにイエス・キリストを信じる者の「信仰」が問われているのではありませんか。信仰の「信」は「人+言」です。信仰は告白でもあります。イエス・キリストにある信仰の告白によって勝利があるのです。

4.「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」…アダムとエバがエデンの園を追い出されたあと、園の東にケルビムと輪を描いて回る炎の剣が置かれました。これは何を意味するのでしょう。24節に「いのちの木への道を守るために」と言われています。黙示録22:2には「いのちの木」が出てきます。アダムとエバはもうエデンの園に戻ることは出来ませんが、今日、イエス・キリストの十字架の救いによって、天の御国に入ることができる道が備えられています。キリストはヨハネ10:9で「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」と言われました。今は恵みの時、救いの日です。やがて、その門が閉じられる前に私たちは、イエス様を通して真のいのち、永遠のいのちに属する者とならせていただきましょう。

●2024年11月3日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記2:1~25からです。1章の後半では、人間は他の生き物とは違い、特別に神に似せて造られたということが記されています。その神に似せて造られた者としてどのように生きるべきなのでしょうか。そのことがこの2章に総論的に述べられているのではないかと思います。ポイント3つ上げていきます。

1.「この日を聖であるとされた」…全能の神が天地を6日で創造され、7日目にその完成を告げられ、この日を聖であるとされました。このずっと後のモーセの時代になり、神はモーセに十戒を授けます。その第4戒、出エジプト20:8には「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」とあります。また、さらに同章11節には「それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」とあり、その関連性が述べられています。なお、十戒には十の戒めのうち八つの戒めで「○○してはならない」とあり、二つの戒めで「○○せよ」とあります。その二つの戒めの第4戒が「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」であり、第5戒が「あなたの父と母を敬え。」です。十戒を全て守るには「○○してはならない」の戒めは、それをしなければよいのですから、「○○せよ」の二つの戒めに目を留め、これを重点的に守ることです。クリスチャン向けに分かりやすく言うとすれば、日曜日は教会の礼拝に参席し、人間関係の初めである父母を敬い、また全ての人との良好な人間関係を築いていく。それが祝福された人生の土台となるでしょう。

2.「いのちの木と善悪の知識の木」…8節で「神である主は東の方エデンに園を設け」とあります。「東」というのはどこから見て東なのでしょう。このとき、まだ認識されていないはずのエルサレムから見たのでしょうか。一つの川が分かれて四つの源になっていたとのことですが、現在、ティグリス、ユーフラテスは有名ですが他の二つの川はその後枯れてしまったのかもしれません。世界史的には、このあたりは世界最古のメソポタミヤ(複数の川の間の意)文明発祥の地です。さて、このエデンの園に善悪の知識の木が置かれます。この木から食べると「必ず死ぬ」とされます。ここで疑問です。聖なる神は、なぜそんな恐ろしい木を園に置かれたのでしょう。これは、人間が、神の存在を常に意識し、神を恐れて生きるべきであるということを示されたということではないでしょうか。伝道者の書12:13には「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」とあります。

3.「父母を離れ、妻と結び合い」…全知全能の神様には出来ないことなどは何もないのですから、アダムとエバをそれぞれ別々にお造りになってもよいはずですが、神はアダムに深い眠りを下され、彼のあばら骨の一つを取り、その一つからエバを造られました。なぜ神は、アダムの一つの骨からエバを造られたのでしょうか。それは、定められた男女二人が夫婦として一体となるためではないでしょうか。時々、男女平等が叫ばれています。確かに世界的に見ても、弱い立場にある女性が軽んじられる傾向にあります。Ⅰコリント11:12には「女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。」とあります。聖書のことばに従い、互いに尊敬し合い、労り合って暮らしていけたらと思います。もう一点、男は妻と結ばれ「父母を離れ」とありますが、この世に存在する人間関係で最も深い絆で結ばれていなくてはならないのが夫婦関係です。真の神様は、私たち人間をこの地に住まわせ、幸せに祝福されて生きることを願っておられます。そのために、安息日を聖として守り、また神を恐れて過ごし、既婚、未婚を問わず、まず身近な人を大切にし、尊敬し合って生きることを望んでおられます。そして、この地上を去る時が来ても、イエス・キリストの十字架の救いによって義とせられ、永遠のいのちに入るために備え、真に豊かな人生を過ごさせていただきましょう。

●2024年10月27日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記1:1~31からです。「初めに神が天と地を」という題でポイント4つ上げていきます。

1.初めに神が天と地を創造した…1章1節のみことばは、あまりにも有名で、同志社大学を創立した新島譲氏は18歳のとき、漢文の聖書の創世記1章1節を読み、大きな感化を受けたということです。その後、新島氏は21歳のとき、幕末の時代背景の中、密出国の形ながら船に乗り込み、アメリカに渡りました。アメリカでは札幌農学校で教えたクラーク博士から教えを受け、また、当時の外交官のような立場の森有礼氏(後の初代文部大臣)に出会い、留学免許状とパスポートを受けています。その後、日本から派遣された岩倉具視使節団一行に出会い、彼らに雇われて通訳者としてヨーロッパに同行したようです。さて、この「初めに神が天と地を創造した」というみことばは、この創世記1章全体の案内文のような意味合いがあると思います。2節では、地は茫漠としていて、やみが大水(水分)の上にあり、神の霊が水の上を動いていたとあります。その状態で3節から、六日間で行われる天地創造のわざが始まっていくのでしょう。

2.創造の六日間…ある聖書の解説書で指摘していたのですが、下の図のように、第1日と第4日、第2日と第5日、第3日と第6日というふうに、横との関連性を考えると興味深いし、覚えやすいのではないでしょうか。

第1日…光と闇第4日…太陽と月、星
第2日…海と空第5日…魚類と鳥類
第3日…地と植物第6日…生き物と人

3.「さあ、人を造ろう」…ここで神は「われわれのかたちとして、われわれに似せて人を造ろう」と言っています。「われわれ」とは「父・子・聖霊」の三位一体の神のことではないかという説が有力視されています。さて、「神のかたち、神に似せて」とはどういうことでしょう。一般的に言われている進化論の考え方では、人間は他の生物や動物と同じ進化の延長線上にあるとしています。しかし、聖書はそうではありません。神は、特別な存在として人間を創造しました。むしろ、人間のために他の全ての被造物を創造した、と言っても過言ではありません。人間は、聖なる神のあり方、そのご人格(ご神格)に似せて造られたのですが、この後の創世記3章に出て来るアダムとエバが罪を犯し、人間に罪と死が入り、神の祝福を失ってしまいます。しかし、救い主イエス・キリストが来られ、十字架と復活による救いのゆえに再び回復の機会が与えられているのです。エペソ3:23~24には「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」とあります。私たちはイエス・キリストを信じ受け入れ、バプテスマを受けてキリストをその身に着る(ガラテヤ3:27)のです。そして、聖霊の助けをいただきながら、食べるにも飲むにも、何をするにも神の栄光を現わす(Ⅰコリント10:31)ことを求めましょう。

4.「それは非常によかった」…六日間の創造のわざを終えて、神はそれを見られます。それは非常に良かったのです。ヨハネ1:29で、バプテスマのヨハネは自分のほうに来られるイエス様を見て「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と言います。今日(こんにち)、悔い改めてイエス・キリストを信じ受け入れるならば、その人の罪は取り除かれるのです。現在の世界人口は約80億人です。もし、仮にその80億人全員が、イエス・キリストを心底信じているなら、この世界はどうなるのでしょう。戦争がない、世界中が潤っていて砂漠も無い、互いに助け合い、平和で喜びに満ちているでしょう。主がそれを見て「それは非常に良い」と言われるでしょう。現実的には、それは不可能でしょうが、まず、私たちそれぞれがイエス・キリストにあって歩むことです。最後にエペソ4:30~32です。「 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

●2024年10月20日(日)礼拝メッセージ要旨 

黙示録22:1~21からです。今年4月28日(日)から黙示録に入り、この10月20日(日)で最後の黙示録となりました。何かあっという間でした。振り返ってみると、黙示録は意外に、黙示録以外の聖書の他の箇所との関連も少なくなかったと思います。今回もポイント3つ上げていきます。

1.いのちの木…黙示録21章では、天の都の大きさ、また、その素材と言いましょうか、この今の世においては宝石とされている鉱物などで出来上がっているようです。それだけを見ますと、何か無機質な感じもします。しかし、22章に入りますと、都の大通りの中央に、水晶のように光るいのちの水の川が流れ、その両岸にはいのちの木があって、12種の実が成り、毎月実が成るというのです。さらにその木の葉は民をいやした、とありますから、決して無機質ということはありません。そして、3節では「もはや、のろわれるものは何もない」とあります。先日、私は教会の建物回りの草刈りをしました。草刈り機を物置から出し、準備をしていると、いつものように蚊が襲ってきます。肌の出ている耳元などを狙ってきます。また、今年は温暖化の故でしょうか、これまで西日本方面にしか見られなかった緑色のカメムシを時々見ます。蚊もカメムシも、好きだという人は聞いたことがありません。想像に過ぎませんが、天の都では蚊もカメムシも存在しないでしょう。もし、見つけたとしても人に刺さないし、強烈な悪臭も放たないでしょう。つまり、のろわれたものは何もない世界が天の都です。暗闇、夜もありません。死も、悲しみ、叫び、苦しみもありません。イエス・キリストの十字架の救いを信じる信仰によって、そこに入らせていただくとすれば何という祝福、何という幸いでしょう。

2.この書の預言のことばを堅く守る…6節で御使いがヨハネに「これらのことばは信ずべきものであり、真実なのです。」と言っています。今日、私たちには、聖書が与えられています。その聖書が調達されるために、全知全能の真の神様の御手があったことは言うまでもありませんが、多くの先人たちの管理や写本、翻訳その他諸々の尽力によって私たちの手元に貴重な聖書が届けられています。現在、旧約39巻、新約27巻、合計66巻が聖典とされています。当教会教義では、この正典とされている66巻を「天地万物の創造主である神の霊感による全き神のことばであると信じる」と、しています。もう一点、大切なことは、聖書のことばの受け止め方です。「リベラル」という言葉があります。自由主義という意味です。政治的なリベラルというと、穏健で寛容な立場とみられていますが、神学的なリベラルということは、自由主義神学、つまり、聖書の記事の中で、人間の常識から見て理屈に合わないことは受け入れないという立場です。聖書に書いてあることをありのまま信じ受け入れる立場を根本主義、聖書信仰と言っています。その点に関して18~19節では、ヨハネのことばとして「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」とあります。ですから、やはり、聖書のことばに対して、私たちは、付け加えたり、取り除いたりせず、そのままを素直に信じ、受け入れることです。14節には「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。」とあります。「自分の着物を洗う」とは、悔い改めイエス・キリストの十字架の救いを受け入れることです。

3・「すぐに来る」 「来てください」…当時ヨハネは、ローマ帝国による迫害により、パトモス島に島流しにされ、その所で、この黙示録を記しました。ある解説書ではAD90年頃だろうとありました。「すぐに来る」と言われているのに、それから1934年を経過しています。尤も、永遠の神の視点から見れば、1934年も一瞬のことかもしれません。しかし、今現在は、正に終末時代と言えるのではないでしょうか。ロシアとウクライナの戦争で、世界の注目が両国に向けられました。ところが、昨年10月7日のハマスによるイスラエルへの突然の残虐な侵攻により1200人の殺害と251人の連れ去りから始まり、直後のヒズボラからのイスラエルへのミサイル攻撃もあり、イスラエルはハマスの拠点のガザだけではなく、ヒズボラの拠点のあるレバノンへの反撃もしています。日本のニュースはいつものことですが、先に攻撃を仕掛けた側ではなく、反撃に出たイスラエルだけを非難しています(ニュースの供給元が反イスラエルメディアによる)。また、その背後にあって、反イスラエルの国々は結束を固めています。今後、世界はどうなるのでしょうか。色々な説があるのですが、Ⅱテサロニケ2:3には「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」とありますように、ダニエル書9:27で言われている「荒らす忌むべき者」の出現を注視する必要があります。その者はユダヤ教(恐らく)の神殿に自分の座を設け、「自分こそ神だ」と宣言します。ですから、そのユダヤ教の第三神殿が存在しないとそれも出来ませんが、ある情報では、その神殿を一晩で完成してしまうことができる準備がされているとのことです。そうなりますと、主の再臨は「すぐに来る」のです。それに対して、私たちは、必要以上にこの地上に浸っているのではなく、むしろ「主よ。来てください。」とキリストの再臨を待ち望む者でありたいと思います。最後はヘブル9:28です。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」

●2024年10月13日(日)礼拝メッセージ要旨 

黙示録21:1~27からです。「新しい天と地」という題でポイント3つ上げていきます。

1.もはや死もなく…前週は黙示録20章から千年王国について話しましたが、「死」については何も言いませんでした。イザヤ65:20には「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。」とあり、この節が千年王国のことを言っているとすれば、「死」はあるということになります。一方、本日取り上げている黙示録21章4節では「もはや死もなく」と明確に語っています。逆に「死」があるということは、「罪」がそこにあるからです。最近のニュースで、日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞したとのことです。過去にはイスラエルとパレスチナが平和的な合意を結んだときに、それぞれの代表がノーベル平和賞を受賞しました。やはり、そこには授与する側のメッセージが込められていると思います。しかし、現実的には、戦争は無くなることはありません。それは、人間が潜在的に持っている「罪」と空中の権威を持つ暗闇の支配者である「悪魔」が平和を妨げているのです。私たちは、新しく整えられた永遠の御国に入らせていただくために、自らが新しくされなければなりません。Ⅱコリント5:17には「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。イエス・キリストを信じ、従い、キリストと共に毎日を過ごすことです。

2.勝利を得る者…最近の卓球のアジア大会では女子団体で日本が中国を決勝で破り、50年ぶりの快挙を成し遂げたとのことです。スポーツのことですが、それでも勝てば大喜びするし、負ければ落ち込みます。やはり、勝つと負けるとでは大きな違いがあります。私たちの人生、そして信仰生活においても勝利を取っていきたいものです。勝利の秘訣は聖書にあります。Ⅰヨハネ5:5には「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」とあります。「世に勝つ」とは何に勝つことでしょうか。人生最大の問題は「死」です。その「死」に対して明確な勝利の道を示しているのは聖書です。精神科医で作家でもあり、ユーチューバーの和田秀樹さんという方がおられます。その方が「死の壁」という本を出され、YouTubeで自らその本の紹介をしていました。「人間は必ず死ぬ。だから、死ぬまでにどう生きるか二つの考え方がある。一つは長生きを目指して生きる。もう一つは充実した生き方をする。」と、大方、そういったことを言っておられました。それですと、最も肝心な「死そのものに対しての解決」はありません。ローマ8:37「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」とあります。イエス・キリストが十字架で、私たちの罪をその身に負われ、死んで葬られ、三日目に死を打ち破って復活されました。そのイエス・キリストを信じる信仰によって私たちは死でさえも打ち破る圧倒的な勝利が与えられるのです。黙示録21:7にあるように、勝利を得る者がこれらのもの(新しい天と地)を相続するのです。

3.太陽も月もいらない…天の都の様式です。大きさは1万2千スタディオン(2220㎞)四方で、城壁の厚さは、高さと幅が144ペーキュス(64.8m)、また一例として、「都の大通りは透き通ったガラスのような純金」とありますから、もう、金の価値がどうのこうのという世界ではありません。「12の門、12の土台」というふうに、12の数字が使われています。聖書で「12」は「選び」という意味を持っているようです。つまり、新しい天と地には選ばれた人がそこに入るのです。そして、太陽も月も無いというのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからです。Ⅰテモテ6:16には「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」と言われている真の神が、私たちと共に住んでくださるのです。なんという大きな恵みでしょう。永遠の視点からすれば、今のこの世はほんの一時的な場所に過ぎません。ピリピ3:20には「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」とあり、キリストにある者の本籍地は新しい天と地であり、その人はそこからこの地上に遣わされているのです。

●2024年10月6日(日)礼拝メッセージ要旨 

黙示録20:1~15からです。「いのちの書に名が記される」という題でポイント3つ上げていきます。

1.千年王国…この章は、いわゆる千年王国と言われている事について聖書の中で最も詳しく記されています。1~6節では、大まかに2つのことを言っています。一つは、悪魔とかサタンと言われている存在が縛られ、底知れぬ所に投げ込まれて、千年間閉じ込められます。黙示録12:9には「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。」とあり、エペソ2:2には「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」とありますから、その悪魔が支配しない世界ですから、どれほど解放された素晴らしい世界となることでしょう。もう一つは、偶像を拝まず関わらず、イエス・キリストを信じる信仰を忍耐して証しし続ける者たち(ある人たちは殉教する)が第一の復活に与り、キリストと共に千年の間王となるということです。第一の復活に与るということは、復活の体に変えられるということですから、年齢的な問題はありません。要は、その第一の復活に与らせていただくということです。そのためには何が必要でしょうか。日々、悔い改め、祈り、聖霊の助けをいただきながら信仰を守り通していくことです。

2.千年の終わり…千年王国については、聖書が中心的に取り上げている事ではありません。それに「キリストと共に千年の間王となる」とありますが、何か、すんなりと理解しがたいところも正直あるのではないでしょうか。そして、それに加えて、千年の終わりに悪魔が解き放されるというのですから、益々分からなくなります。例えば、キリストの12弟子の一人、イスカリオテ・ユダはキリストを裏切りました。このことも理解に苦しみます。私たちは「完璧なリーダーであるイエス様をなぜ裏切ったのか」と思います。もちろん、キリストに非はありません。悪いのは裏切ったイスカリオテ・ユダです。千年王国の話に戻りましょう。千年王国は完成された世界です。しかし、千年の終わりに悪魔が解放され、ゴグとマゴグを惑わし、彼らは大集団となって聖徒たちに戦いを挑むのです。もちろん、一瞬にして悪魔の陣営は滅ぼされます。これは何を意味しているのでしょう。ここからは筆者の想像になりますが、千年王国においても油断せず、緊張感を保ちながら生活しなければならない、ということを示唆しているのではないかと思います。主の再臨についてもそうですが、再臨の日が誰にも知らされていないのは、神が私たちに良い意味で緊張感を保たせるためではないかと思います。ローマ8:30には「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」とあります。「さらに」が三回言われています。主は、私たちが霊的、信仰的に成長して整えられていくことを望んでおられるのです。

3.いのちの書…千年の時が終わって、最後の審判の時を迎えます。大きな白い御座があって、その御座の前で数々の書物が開かれ、死んだ人々がその書物に書き記されているところに従って、その人の行ないに応じて裁かれます。しかし、そういう中にあって「いのちの書」に名が記されているならば第二の死である火の池に投げ込まれることはありません。ルカ10章で、キリストが70人を遣わし、彼らが良い働きをして喜んで帰って来ると、キリストは彼らに「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。(ルカ10:20)」と言われました。イエス・キリストを信じる信仰によって私たちそれぞれの名が、いのちの書に記されていることを第一に喜びましょう。そして、日々、キリストの側(そば)から離れることなく、キリストに従ってまいりましょう。

●2024年9月29日(日)礼拝メッセージ要旨 

黙示録19:1~21からです。黙示録17~18章では、大淫婦とか大バビロンの存在と、それらに対する裁きについて記されていました。この19章では、天での光景、獣と偽預言者などについて、ポイント3つ上げていきます。

1.小羊の婚宴…6節で「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。」とあり、続いて7~8節では「小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」とあります。つまり、正しい行ないをしてきた聖徒たちがきよい麻布を着ることを許され、小羊の花嫁とされるということです。そうすると、聖徒たちであるはずのイエス・キリストを信じる信仰を持っているクリスチャンは「自分はきよい麻布を着ることを許されるのだろうか?」という思いを持つのではないでしょうか。マタイ19章で、裕福なひとりの青年がイエス様に「先生、永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたらよいのでしょうか。」と質問します。すると主は「なぜ良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はひとりだけです。」と言われます。「良い方はひとりだけ」とはどういう意味でしょうか。人間はどんなに頑張って良いことをしようとしても、所詮、罪の性質を持って生れてきた罪人です。自分の行ないにおいて義と認められようとするのではなく、自分が罪人であることを認め、小羊となって世に来られた救い主イエス・キリストの十字架の救いによって義とされるのです。

2.王の王、主の主…続いて、ヨハネは開かれた天を見ると、白い馬に乗った方がいて、その方は「忠実また真実」と呼ばれ、その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、その方は血に染まった衣を着ています。そして、その名は「神のことば」と呼ばれました。さらに、この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていて、この方は、鉄の杖をもって彼らを牧され、また、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれます。そして、その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれています。第一のポイントでも取り上げたように、6節で「われらの神である主は王となられた」と言われているとおり、小羊であるイエス・キリストが王の王、主の主となられる時が近づいているのです。さて、この地上のことです。9月27日(金)、日本の事実上総理大臣となる自民党総裁に石破茂さんが決まりました。決選投票の前の演説で石破さんは「ルールを守る自民党、正面から語る自由民主党、勇気と真心をもって真実を語る自由民主党」ということを語りました。「ルールを守る、真実を語る」ということ、こういうことは当たり前のことですが、その当たり前がこれまでの政権では欠けていたのではないかというのが正直なところです。今後、どうなるか。Ⅰテモテ2:1には「すべての人のために、また、王と高い地位にある人たちのために願い祈り、とりなし」とあります。新しい政権のためにお祈りしましょう。

3.獣と偽預言者…20節で硫黄の燃えている火の池に「ふたり」が生きたまま投げ込まれます。そのふたりとは、獣と偽預言者です。特に偽預言者は、獣の像を拝ませようと人々を惑わします。こういう記事を読むと、私たちは「自分は大丈夫、惑わされない」と思うものです。そこで、例えば、現在、「イスラエルがレバノンのヒズボラの拠点を攻撃し、最高指導者ナスララ氏を殺害した」というニュースを聞きますと「なんてイスラエルはひどいことをする」と思うかもしれません。しかし、その前にヒズボラからイスラエル北部に向けて数千発のミサイルが発射されているのです。ある情報によると、2100発中、1400発が迎撃されたものの700発は着弾して被害が及んでいるとのことです。NHKはイラン、カタール、クウェート、ヨルダンといったイスラム圏の国々から情報を得ているので、必然的に反イスラエルという偏ったものになるのです。元々、イスラエルは平和を求めています。しかし、近隣から攻撃されるので、致し方なく反撃しているのです。私たちはまず聖書のみことばをよく読み、その上で、流されているニュース、情報をしっかりと分析し、真実を見極めなければなりません。惑わされて滅ぼされないためにです。

●2024年9月22日(日)礼拝メッセージ要旨 

黙示録18:1~24からです。大淫婦、大バビロンの滅亡についてポイント3つ上げていきます。

1.この女から離れなさい…もうひとりの強い御使いが、「倒れた。大バビロンが倒れた。~」と力強い声で言います。そして、4節では「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」と言います。「この女から離れなさい」とは黙示録的な表現と言えます。「罪を犯してはなりません」という意味でしょう。6節では「あなたがたは、彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行いに応じて二倍にして戻しなさい。」とあります。正確な意味は分かりかねますが、罪の清算のことを言っているのでしょうか。ルカ19章で、取税人のザアカイは、イエス・キリストを自宅に迎えて、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。(ルカ19:8節)」と言います。すると、キリストは、「きょう、救いがこの家に来ました。(ルカ19:9)」と言われました。「この女から離れなさい」とは、罪との関係を断ち切るということです。

2.一瞬のうちに来た…先日は仙台市泉区松森と将監で落雷がありました。また、東京都ではゴルフボール大の雹が降ってきたとのことです。黙示録16:21では、「一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。」とあります。1タラントは35㎏ほどですから、こんな大きなものが天から降ってきたら大変です。大自然は、全知全能の真の神様が統べ治めておられます。全能の神様は、ノアの大洪水(創世記6~8章)が起きたときのように、正に突然に、一瞬のうちに事を行なうことがお出来になります。さて、大バビロンがなぜ一瞬のうちに倒れるのかというと、5節で「なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。」とあるように、神の忍耐が限界点に達したからです。Ⅱペテロ3:9には「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とあります。見えるところ、どんなに栄華を極め、権勢を誇っていたとしても、真の神の前に不正を積み重ねて行けば、一瞬のうちに倒されてしまいます。しかし、「今は恵みの時、今は救いの日です。(Ⅱコリント6:2)」私たちが、真の神に立ち返るなら、神はいつでも一瞬のうちに、その人を赦し、神の民として受け入れてくださいます。キリストと共に十字架につけられていた二人の強盗のうちの一人は「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」というと、キリストは「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われました。

3.この都のことで喜びなさい…20節で「おお、天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都のことで喜びなさい。神は、あなたがたのために、この都にさばきを宣告されたからです。」と言われています。これは御使いの言ったことばでしょう。聖徒たち、使徒たち、預言者たち、すなわちイエス・キリストを信じる信仰者たちは、大バビロンが倒れたことを「喜べ」と言われています。つまり、キリスト者は真の神の側に立ち続けるべきであるということです。23節には「ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術(Ⅱテサロニケ2:9~10参照)にだまされていたからだ。」とあります。「魔術にだまされていた」とありますが、最後のときは、偽物が滅び、本物が勝ち残るのです。勝ち残るのはイエス・キリストの父なる神様です。恰好とかパフォーマンスとかの外側の見てくれだけで判断せず、本物を見分ける目を持ち続けましょう。そのためには、聖書のみことばを毎日コツコツと読み続け、みことばを内に蓄えることです。