出エジプト記17:1~16からです。この章では、また、水のことでイスラエルの民はモーセに不満をぶつけます。そのあと、アマレクとの戦いがあります。今回もポイント3つ上げていきます。
1.「マサとメリバ」…イスラエル人はシンの荒野からレフィディムに来て宿営します。そこで飲み水がないので、民はモーセと争い「私たちに飲む水をください」と言います。モーセは民に「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか」と言い、そのあと、主に叫び「私はこの民をどうすればよいのでしょう~」と言うと、主は「ホレブの岩を打てば水が出る」と言われます。モーセはそのとおりにし、その所の名をマサ(試み)、またはメリバ(争い)と名付けます。出エジプト後、イスラエルの民がモーセにつぶやくのはこれで4回目(出エジプト記14:11、同15:23、同16:2~3、同17:2)です。しかも今回は、もう少しでモーセを石で打ち殺しそうになりました。それはモーセに対してというよりも、実は、主を試みているということなのです。イエス様が、マタイ4章で悪魔の試みを受けられました。悪魔はイエス様を神殿の頂に立たせて「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」と言いますと、主は「あなたの神である主を試みてはならない」と言われました。今日、私たちは、主を試みるようなことに心を向けてはなりません。それよりも、主が喜ばれることを行なってまいりましょう。
2.「アマレクとの戦い」…ここで突然、アマレクが来てイスラエルに戦いを挑みます。モーセは、戦いをヨシュアに託し、アロンとフルを伴い、神の杖を持って丘の頂に立ちます。モーセが手を上げているときはイスラエルが優勢になり、手を降ろしているときはアマレクが優勢になります。そこでアロンとフルはモーセを石の上に座らせ、左右からモーセの手を日が沈むまで支えます。結果、ヨシュア率いるイスラエルはアマレクを打ち破ります。16節に「主は世々にわたってアマレクと戦われる」とありますが、このアマレクというのは敵である悪魔のことを象徴的に表現しているのでしょう。Ⅰテモテ2:8には「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」とあります。モーセが神の臨在の象徴である神の杖を持って丘に上ったように、今日、私たちは、救い主イエス・キリストの御名によって悪魔に立ち向かい、祈り、勝利を得ましょう。
3.「アドナイ・ニシ」…モーセは祭壇を築き、それを「アドナイ・ニシ(主は我が旗)」と呼び(15節)ました。それは、ヨシュアが率いるイスラエルとアマレクの戦況を丘の上で見守り、自分は手を上げて(祈り)、結果、主によって勝利したということを目の当たりにしたからでしょう。つまり、主なる神様は自分たち(イスラエル)を団結させて、勝利へと導く神の旗というわけです。今からおよそ40~50年前に、韓国から申賢均という牧師さんが日本に来られて筆者の母教会や各地の聖会において講演をしておられました。新聖歌では338番「山行くも海行くも」の曲に申牧師が歌詞を日本のリバイバルを願って作詞されました。それは「日が昇る日本に聖霊のみしるし、主の使命果たすため命がけ祈ろう、我が望み我が望み日本に始まる、エホバ・ニシ(ハレルヤ)叫びつつ、主の国を建てよう」です。原歌詞では「ハレルヤ」が「エホバ・ニシ」になっていましたが、いつしかハレルヤが定着しました。正に「アドナイ・ニシ」、この出エジプト記17:15からです。主は我が旗、「主の旗の下に祈ろう」ということなのです。Ⅰペテロ5:8~9aには「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。~」とあります。