●2026年4月12日(日)礼拝メッセージ要旨 

出エジプト記8:1~32からです。「かえる、ぶよ、あぶ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「神の指(19節)」…前章の7章では、ナイルの水が血に変わるというしるしが行われました。それが第一のしるしと見立てると、この章では第二、第三、第四のしるしが行われます。まず第二の「かえる」のしるしです。主に命じられモーセとアロンがパロの所に行ってイスラエル人を出て行かせなければ「かえる」をもってエジプト全土を打つと言います。アロンがエジプトの水の上に手を差し伸ばすと、かえるがエジプト全土を覆います。このとき、エジプトの呪法師たちも秘術を使って同じようにしますが、パロはモーセとアロンを呼び寄せて「かえるを除くように主に祈れ。そうすれば民を行かせる。」と言います。モーセが「いつ祈ったらよいか」と言うと、パロは「明日」と言います。モーセが叫ぶと、かえるは死に絶えます。しかし、パロは息つく暇が出来て強情になります。次は第三のしるしです。今度は「ぶよ」がエジプト全土で人や獣にまとわりつきます。そのときエジプトの呪法師たちも秘術で同じようにしようとするのですが出来ず、彼らは「これは神の指です」と言います。詩篇8:3~4には「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」とあります。「神の指」とは一つの表現ですが、この世界は、正に創造主なる神の作品です。詩篇14:1には「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない。」とあります。愚か者になりませんように。

2.「区別して(23節)」…第四のしるしは「あぶ」です。このとき主はエジプトの家々だけあぶの群れが満ち、イスラエルの民がいるゴシェンの地は区別して害は及びません。今日、「~天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45b)」とありますように、天の主は全ての人を愛し、救いに与ることを望んでおられますが、ただ、イエス・キリストを信じ救いに与った聖徒に対しては特別に扱ってくださいます。詩篇4:3には「知れ。【主】は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、【主】は聞いてくださる。」とあります。またエレミヤ33:2~3には「地を造られた【主】、それを形造って確立させた【主】、その名は【主】である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」とあります。今の時代は終末の時であるとも言われています。イエス・キリストの再臨の時が近づいています。太陽が暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象が揺り動かされるとき、主が再臨され、多くの人は悲しみながらその時を迎えます。しかし、一方で、四方から選びの民が集められるのです。正に決定的な区別が行われるのです。

3.「パロの妥協案(25節))」…あぶに悩まされたパロはモーセとアロンを呼び寄せて、「さあ、(エジプト)国内でお前たちの神にいけにえをささげよ」と妥協案を提示します。それに対し、モーセはきっぱりと拒否します。あくまでもエジプトの地を出て三日の道のりを旅して、そこでいけにえをささげるのです。今日、クリスチャンは回りの人々と和睦して平和に暮らすべきです。但し、偶像礼拝など、主が忌み嫌われることに関しては妥協してはなりません。ダニエル書3章には、ネブカデネザル王が27メートルほどの高さの金の像を建て、人々に拝ませようとします。しかし、ユダヤ人であるシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは全能の主への信仰を証しし、像を拝みません。そのため三人は燃える火の炉に投げ込まれます。しかし、全能の主は彼らを救い、炉の外に出されると火の匂いもしませんでした。ネブカデネザル王は彼ら三人が信じる真の神、主を称え、三人をバビロン州で栄えさせます。

●2026年3月22日(日)礼拝メッセージ要旨    

出エジプト記7:1~25からです。「しるしと不思議の始まり」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「わたしの命じることをみな告げよ(1~7節)」…前章の6章で、モーセは主から「パロの所に行ってイスラエル人を出て行かせるように言え」という命令に対して「私は口下手です」と消極的な姿勢を崩しませんでした。しかし、この7章に入り、モーセは兄アロンと共にパロの所へ行って、主の命じられた通りに忠実に行動しています。このとき、モーセは80才、アロンは83才でした。モーセの生涯は40才まではエジプトの王女の息子として過ごしました。40才から80才まではミデヤンで羊飼いとして過ごしました。そして80才からは同胞イスラエル人の出エジプトのため、また神の山ホレブで十戒と律法を授けられます。ですから、主がモーセに用意していた本来の使命は80才からなのでした。つまり、モーセは80才までは、その準備段階だったとも言えるでしょう。それは、こんにちの私たちにも言えることではありませんか。一般的に多くの人々は60代で定年退職を迎えるものですが、神の選びの民にとっては70代、80代でも、まだまだこれからです。

2.「杖を取ってパロの前に投げよ(8~13節)」…パロの所へ行ったモーセとアロンですが、アロンが自分の杖をパロの前に投げると杖は蛇になりました。そこでパロは知恵ある者と呪術者を呼び寄せ、彼らもその秘術を使って同じことをしました。彼らがめいめい自分の杖を投げると蛇になりました。しかし、アロンの杖は彼らの杖を飲み込んでしまいました。この世の知恵や秘術を使っても全能の神、主に勝つことはできません。先日、筆者は、ジェネシスジャパン(創造科学の啓蒙活動)会長・宇佐神実氏の講演会に参加しました。この世は無神論、進化論一辺倒で、聖書の創造論は多くの人々に無視されています。ここでは、宇佐神氏の講演から一話だけ紹介します。ある家庭の食事時に、お母さんが料理をし、それをテーブルにきれいに並べました。家族がテーブルを囲んで、さあ食べようとしたとき、お父さんが「この料理は自然に偶然にこのテーブルに置かれたのだよ」と言ったとしたら、お母さんは何て思うでしょうか。無神論、進化論というのは、それと同じことをしているのです。全知全能の創造主がおられて、その方によって全ての被造物は創造されているのに、その方を無視することは実に愚かなことです。ローマ1:20には「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」とあります。また、イザヤ55:9には「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とあります。私たち人間は創造主である真の神を恐れ、この方の前にへりくだるべきです。

3.「ナイルの水は血に変わる(14~25節))」…次に、モーセとアロンはナイル川の岸に出てきたパロを迎え、アロンの杖でナイルの水を打つと、ことごとく水は血に変わり、エジプト人は水を飲むことが出来ません。このしるしと不思議を初めとして、最後はエジプト人の初子が打たれたとき、イスラエル人の家の柱とかもいには羊の血が塗ってあり、神の怒りが過ぎ越すというしるしと不思議が起こります。これは過ぎ越しの祭りの原型となり、イエス・キリストの十字架による救いの予表でもあります。また、ナイルの水が血に変わる不思議はⅠヨハネ5:6の「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。」のみことばと関連するかもしれません。つまり、水は人に命を与える存在(源)であり、血は与えられた命そのものです。イエス・キリストは人に命を与える神ご自身であり、その命を与えられた人と同じ姿で世に来られ、十字架の死と復活によって救いを成し遂げられ、その後、御霊によって信じる者に内住されました。

●2026年3月15日(日)礼拝メッセージ要旨 

出エジプト記6:1~30からです。次の7章から、モーセとアロンはパロのところに行き、本格的な「出エジプト」の戦いが始まります。この6章は、その準備段階の最後の章とも言えそうです。今回もポイント3つ上げていきます。

1.「わたしの契約を思い起こした(5節)」…ここで、そもそも主がイスラエル人をエジプトからカナンの地へ上らせることになった経緯(いきさつ)が改めて記されています。それは、主が、エジプトで苦役を強いられているイスラエル人の苦しみ嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブに対して「カナンの地を与える」という契約を思い起こしたのです。先日の3月11日は2011年に発生した東日本大震災に関連する催しが各地で行われました。個人的なことですが、筆者はその当時のことを改めて思い起こしました。2011年3月11日、教会兼住宅の建物は津波によって跡形も無くなりました。次の3月12日の夜、ローマ8:28のみことばで励ましを受けました。13日夜はヨハネ16:33のみことばでさらに強められました。14日の日中、人からお借りした聖書を何気なく開いたとき「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。(イザヤ54:2)」というみことばが目に飛び込んできました。それはキリストのからだなる教会と、建物としての教会再建のみことばとして受けとめ、大きな力となりました。主がモーセとアロンを出エジプトのために遣わされたように、こんにち、私たちにも主が働いて用いようとされておられるのではないでしょうか。

2.「モーセの思い(9節)」…この少し前、モーセとアロンがパロの所に行ってイスラエルをエジプトから去らせるように直談判したのですが、それが却ってイスラエル人を苦しめることになったので、イスラエル人はモーセの言うことを聞きません。それでモーセはすっかり意気消沈して、主からの出エジプトのための指示に対して素直に応じることが出来ません。先日3月13日未明、教会員のWさんが召天されました。Wさんは持病を抱えておられ、ご自分が何時どうなるか分からないという覚悟を普段から持っておられました。言うまでもありませんが、人が亡くなるということは悲しみがあり、寂しさがあります。しかし、本人がイエス・キリストを信じ、永遠の希望を持っておられるのならば、悲しみの中にも勝利があり、大きな希望があります。モーセの場合ですが、目に見えるところは八方ふさがりの状態でした。しかし、主はイスラエル人の出エジプト、すなわち、エジプトからの脱出と解放をしっかりと備えておられたのです。Ⅱコリント5:7です。「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」

3.「モーセとアロンに与えられた使命(26節))」…14~24節までは、ルベン、シメオン、そしてレビの各部族の子孫について言及しています。特にレビは祭司職を受け持つ部族でした。民数記3~4章では、レビの子孫ゲルション、ケハテ、メラリが神の幕屋での奉仕を受け持ち、そのうちケハテの氏族は契約の箱などに関する奉仕を受け持ちます。モーセとアロンはそのケハテの子アムラムの子たちですが、彼ら二人はイスラエル人を率いて出エジプト、すなわちエジプトから脱出させるための特別な使命を与えられました。同じケハテの子イツハルの子にコラがいます。後にコラは民数記16章でモーセに逆らい、割れた地に飲み込まれてしまうという惨事に遭います。つまり、それぞれ主から与えられた使命、役割があるのです。それを誤解して妬んだり羨んだりすべきではありません。Ⅰペテロ4:10です。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」

●2026年3月8日(日)礼拝メッセージ要旨        

今回は、いつもの出エジプト記から離れて新約聖書・ヨハネの福音書10:1~18から「わたしは羊の門です」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「わたしは羊の門です(7節)」…この章でキリストは、羊とか門とか牧者などと言っています。羊は神の国の民のこと、門は神の国の入口、牧者は神の国の民を導く指導者のことです。まず、「門」です。キリストはご自身を神の国に入るための門であると言われました。しかし、そのイエス様の門を通らないで入って来ようとする者は、盗人で強盗であると言われ、また、「盗人が来るのはただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。」とも言われました。ロシアとウクライナによる戦争はもう4年になります。そして、つい最近はアメリカとイスラエルがイランを攻撃して難しい状況になっています。それぞれの立場の言い分もあるでしょうが、箴言20:3には「争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。」とあります。双方とも争いを避ける選択をするならば決して戦争は起こらないでしょう。このヨハネ10:9でキリストは「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」と言っておられます。イエス様は神の国への入口であり、それは永遠の平和への入口でもあります。何か遠い所にあるのではありません。神の国の門は、すぐそばにあります。キリストの福音を信じ、「イエス・キリストの名」を呼び求める、そこに天の御国の門があるのです。

2.「わたしは良い牧者です(11節)」…12~13節で、キリストは「牧者ではなく羊の所有者でない雇人は狼が来ると逃げて行き、彼は羊のことを心にかけていない」と言っておられます。この世界の創造主であり、救い主イエス・キリスト様は、私たち一人ひとりのことを24時間、休むことなく気にかけておられます。詩篇139:1~2には「 【主】よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。」とある通りです。そして良い牧者は「羊のためにいのちを捨てます」とあるように、キリストは、全知全能の神の権威の下に、信じる者の罪のために十字架でいのちをお捨てになられました。

3.「わたしには他の羊があります(16節))」…16節でキリストは、「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」と言われました。ここで「他の羊」とは、ユダヤ人ではない異邦人の神の民であろうと思われます。この後、イエス・キリストの十字架と復活による福音がまず、ユダヤ人たちに宣べ伝えられ、そして、最初は、キリスト者を迫害していたパウロが回心すると、パウロによって世界宣教が本格化します。当時は、現在のトルコ、ギリシャ、イタリヤなどに留まっていましたが、今日(こんにち)、全世界に福音が届けられ、確かに、イエス・キリストを大牧者とする一つの群れとなっています。もう一つの「他の羊」です。それは、既にキリスト者となっている人にとっては、自分だけの救いに満足していてはなりません。回りの方々に福音を届ける、証しするという大切な使命があります。

●2026年3月1日(日)礼拝メッセージ要旨 

出エジプト記5:1~23から「モーセとアロン、パロの所へ」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「モーセとアロン、パロの所へ(1~5節)」…4章の最後の箇所で、モーセとアロンはイスラエルの長老たちに、それまでの経緯を伝え、理解を得、彼らから支持を受けた形となります。そして、いよいよパロ王の所へ行きます。モーセとアロンはパロに、「主はこう仰せられます『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ』」と言います。パロは当然のように拒否します。それは、最初から主がモーセに「わたしはパロの心をかたくなにする」と言われていた通りになります。ここで5節について、新改訳聖書第三版では「見よ。今や彼らは、この地の人々より多くなっている~」とありますが、2017年訳聖書では「見よ。今やこの地の民は多い~」となっていて、いわゆる意訳をせず、原語をそのまま訳しています。確かに、第三版訳ですと、「イスラエル人がエジプト人よりも多くなっている」ことになりますから、それはないでしょう。ですからここは、「自分たちイスラエル人が多くなってきたので、その勢いで労役を止めさせようとしている」という意味であるとしたほうがよいかもしれません。ここでは、モーセとアロンによるパロ王との折衝(交渉)は始まったばかりで、そのスタートラインに着いたと言えます。ここから長期間の忍耐が必要になってきます。ヤコブ1:3~4aです。「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。~」

2.「パロの反撃(6~18節)」…パロはモーセらの訴えに対して拒否しただけではなく、実効性のある反撃をします。それは、「レンガに混ぜ込むワラを与えず、イスラエル人自らワラを用意し、しかも、これまで通り仕上げるレンガの数を減らしてはならない」ということです。その背後には、全能の主が働いてパロの心をかたくなにしていると思われるのですが、ここで、一般的な私たち人間の行動のあり方について考えてみましょう。よく「知情意」と言われています。知性、感情、意志の三つが働いて我々人間の行動となって現れるとされています。イエス・キリストの父なる神を信じ、この方を恐れて行動するクリスチャンは「知情意」に「主のみこころ」、または聖書のみことばが加わるでしょう。よく言われるのは、「感情に負けて自分を見失わないように」ということですが、感情とか感性の部分が何でも悪いというものでもありません。それも神様が人間に与えてくださっているもので、それはそれで認めつつ、その上で、どうあるべきかということでしょう。基本的に私たちは、毎日の生活を喜び、楽しみながら許される限り平穏に、そして主と共に過ごしていきたいものです。

3.「人夫がしらたちの抗議(19~21節)」…イスラエル人たちにとっては、これまでも十分に苦役を課せられていたところに、モーセとアロンがパロに要望を突き付けたことにより、自分たちに課せられた苦役がさらに厳しいものになっていきます。人夫がしらたちがパロに抗議しに行き、そこを出たときに彼らはモーセとアロンに出会い、二人を責めます。そのあとモーセは主のもとに戻り、「主よ。なぜあなたは、この民に害をお与えになるのですか。何のために私を遣わされたのですか。」と訴えます。モーセとアロンの立場は正に、パロとイスラエル人の間に立つ仲介者です。それは、今日(こんにち)、神と人との間に立って執り成すクリスチャンの姿でもあり、その原点はイエス・キリストの十字架の贖いに見られるものです。Ⅰテモテ2:1~5です。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」

●2026年2月22日(日)礼拝メッセージ要旨 

出エジプト記4:18~31から「モーセ再びエジプトへ」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「わたしは彼(パロ)の心をかたくなにする(18~23節)」…まずモーセは、しゅうとのイテロに「エジプトに帰って親類の安否を尋ねさせてください」と言います。正直に言うなら、親類の安否確認ではなく、主から命じられた使命のためであったのですが、ここでモーセは知恵を用いてイテロが心配しないような言い方をしたと思われます。さて、主はモーセに改めてエジプトに行くように仰せられますが、「わたしは彼(パロ)の心をかたくなにする」と一見、不可解なことを付け加えておられます。結果として、モーセとアロンは、杖が蛇になるしるしの他に十のしるしを行なうことになります。これは何を意味するのでしょう。それは、神、主のわざが多くなることによって、それを見た人々が主を恐れ、主を崇め、主の栄光が現われるということです。「地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。彼らに【主】の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。(詩篇148:11~13)」

2.「あなたは血の花婿です(24~26節)」…いよいよモーセは、妻と息子たちを伴いエジプトに向かって旅立ちます。ところが、一夜を明かす場所で主はモーセに会われ、彼を殺そうとします。そのとき、妻のチッポラは息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけて「まことにあなたは私にとって血の花婿です」と言います。この記事は第一のポイントに続いて、さらに解釈が難しいところです。筆者の推測になりますが、ミデヤンで平穏に暮らしていたモーセの家族がいきなりエジプトに出かけて行き、イスラエル人の救出のために行動しなくてはならない、ということはモーセの妻チッポラの立場からすれば、簡単に「はい。行きます。」というわけにはいきません。夫のモーセと何らかの軋轢(あつれき)があったのではないかと思われます。しかし、ここで夫が死ぬかもしれないという状況に立たされたチッポラは、夫の命のためには自分の立場など問題では無くなったのではないでしょうか。Ⅰコリント10:12~13です。「 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

3.「アロンとともに(27~31節)」…主は、既にエジプトからアロンを呼び寄せておられ、モーセとアロンは神の山ホレブで再会を果たします。モーセはアロンに、主が自分に語られたことを伝えます。そしてエジプトに行き、イスラエル人の長老たちを集め、主がモーセに語られたことをアロンが伝え、しるしを行ないます。すると、長老たちは信じ、ひざまずいて主を礼拝するのです。エジプトで苦役を強いられているイスラエル人にとって、全知全能の主の権威の下でモーセとアロンが伝えてくれた神のご計画は、どれほど大きな慰めと希望をもたらしてくれたことでしょう。それは今日(こんにち)、私たちに与えられているイエス・キリストの十字架の救いによる福音と重なります。パウロはダマスコへの途上、イエス様から「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。(使徒26:18)」と言われました。

●2026年2月15日(日)礼拝メッセージ要旨 

出エジプト記4:1~17から「あなたの手にあるそれは何か」という題で、ポイント2つで見て行きましょう。

1.「それ(杖)を地に投げよ(1~9節)」…モーセはエジプトで苦しみを受けているイスラエル人を連れ出して救う、という実に大掛かりな働きをしようとしている人です。結果的にはそれを成し遂げた偉大な人物とも言えます。しかし、彼は驚くほど慎重派であり心配性な人物でもあったようです。主がモーセに「エジプトに行ってイスラエルの民を連れ出しなさい」と命じているのですが、モーセは3章では11節、13節、4章では1節、10節、13節の計5回も不安を訴えています。この4章1節では、モーセは「『主はあなたに現われなかった』と言われるでしょう」と、自分には霊的な権威が無いという不安を訴えます。そこで主はモーセに、持っている杖を投げよと言われます。すると杖は蛇になります。尾を掴めと言われ、その通りにすると再び杖になります。それだけではなく、結果的にモーセはエジプトで杖のしるし以外に10のしるしを行ないます。さて、ここで気になるのはモーセよりも、この聖書の記事を読んでいる私たちです。最初から聖書を受け入れない人にとっては「杖が蛇になるなんて?!」と、聖書を否定する根拠にするでしょう。「クリスチャンである」と自他ともに認める人々の中にも、こういった聖書に記されている奇跡を素直に受け入れない人々もいるようです。例えば、聖書を素直に信じる人々は、地球の年齢を約6000年としています。一方、無神論、進化論者は46億年としています。一般的には何となく後者が支持されています。それは無神論の立場から宇宙や地球の存在、そして私たち人間の存在を説明するためには、とてつもなく長ーい年月を要すると考えるからです。クリスチャンと言われる人々の中にも、聖書よりもこの世の46億年を支持して自分たちを知識人であると勘違いしている人々もいます。しかし、アイザック・ニュートン、ヨハネス・ケプラーなどは地球の年齢を約6000年としています。よく考えてください。この世界を創造した真の神が杖を蛇に変えても、また元通りにしても何の不思議はありません。聖書は、創造主である全き神のことばです。聖書のことばを素直に信じ受け入れることによって真のいのちを得るのです。ピリピ2:16です。「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」

2.「私はことばの人ではありません(10~17節)」…モーセは、今度は「私はことばの人ではありません」と言います。すると主は「だれが人に口をつけたのか。わたし主ではないか」と仰せられます。それでもモーセは「ああ主よ。どうか他の人を遣わしてください。」と、くいさがります。主はモーセの願いを受け入れ、兄のアロンと一緒に行動するようにと言われます。アロンが語り、モーセは杖を手に取ってしるしを行なうというわけです。モーセとしては結果的に兄と二人で行動出来て心強かったかもしれません。私たちはどうでしょう。モーセのように杖は持っていないかと思いますが、天の神様から多くのものを与えられているのではないでしょうか。よく考えてみれば、それぞれ、その人にだけ与えられている独特な賜物もいただいているものです。最後はⅠペテロ4:7~11です。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」

●2026年2月8日(日)礼拝メッセージ要旨         

 出エジプト記3:1~22から「わたしは『わたしはある』という者である」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「主がモーセに現われる(1~10節)」…モーセはミデヤンの地にすっかり定住し、羊の群れを引き連れて、荒野の西側、神の山ホレブにやって来たときのことです。柴が燃えているのに焼け尽きないのを見て、不思議に思い、近づいて行くと、主が「モーセ、モーセ」と仰せられました。彼は「はい。ここにおります。」と言うと、主は「ここに近づくな。足の靴を脱げ。あなたの立っている所は聖なる地である。」と言われると、モーセは恐れて顔を隠します。そして主はモーセに「わたしはイスラエル人の叫びを聞いた。わたしは彼らをカナンの地へ上らせるために下って来た。わたしはあなたをパロのもとに遣わす。今行け。イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」と言われました。新約聖書においてイエス・キリストは弟子たちに「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16:15)」と言われました。また、パウロはローマ人の手紙10:15で「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」と言っています。主がモーセに言われたと同じように、こんにちの私たちに対しても宣教者として、また主の証人として遣わそうとしておられます。

2.「モーセの問いかけ(11~15節)」…主から「エジプトに今行け」と言われたモーセは「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行って、イスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」と言います。すると主は「わたしはあなたと共にいる」と言われます。そこでモーセは「今、私はイスラエル人のところへ行きます」と応答しますが、彼には懸念することがありました。それは、「父祖の神が私を遣わされたと言っても、彼らは『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。何と答えたらよいでしょうか」と尋ねます。すると主は「わたしは『わたしはある』という者である。」(אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה←読み方向【Ehyeh Asher Ehyeh】)と答えられます。英語では(I AM WHO I AM.)です。つまり、過去、現在、未来において永遠に存在する者であるという意味であろうと言われています。また、新改訳聖書では太文字でとされている(יהוה)YHWH と関連するのではないかとも言われています。いずれにしましても、天地万物を創造し、それを統べ治めておられる絶対的で恐れ多い方であることは間違いありません。しかし、この方は、ただ恐ろしいだけではありません。Ⅱ歴代誌30:9bには「~あなたがたの神、【主】は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません。」とあります。

3.「主の補足説明(16~22節)」…主がモーセに対しては、ただ「行きなさい」だけではなく、行ってどのようにすべきか、また、そのとき相手の反応(イスラエル人の反応、そしてパロの反応まで言及しています。)はどうか、ということにまで細かく説明しています。聖書が示している全知全能の神は、ご自身のみこころを懇切丁寧に私たちのために示しておられます。旧約39巻、新約27巻、合計66巻、新改訳聖書第三版では旧約1568ページ、新約503ページ、合計2071ページに渡ってそのみこころを示しておられます。私たちは、この聖書を読み、神のみこころに従順に聞き従わねばなりません。最後はイザヤ書55:6~9です。「【主】を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。『わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──【主】の御告げ──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。』」

●2026年2月1日(日)礼拝メッセージ要旨   

 出エジプト記2:1~25から「その子をモーセと名付けた」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「モーセの幼少期(1~10節)」…モーセの三歳上に兄のアロンがいます。そして、モーセが生まれた頃には、すでに分別のある姉(ミリヤム)がいます。当時、イスラエル人は生まれたとき「男の子ならナイル川に投げ込まなければならない」という命令がエジプト王から下されていました。モーセはかわいい子で、三か月の間、隠されていましたが、もう限界ということで、ナイルの岸の葦の茂みの中に置かれました。そのときパロ王の娘が水浴びに来て、パピルス製のかごに入れられた乳児を発見しました。それを遠くで見張っていたその子の姉がパロの娘に「その子に乳を飲ませるために乳母を連れて来ましょうか」と言うと、パロの娘はあっさりと同意します。そして、その子の母が連れて来られ、パロの娘から賃金を貰って、その乳児を育てることになりました。そして、その子が大きくなったときに母親は、その子をパロの娘のもとに連れて行きました。その子はモーセ(引き出すの意)と名付けられ、王女の息子として育つことになりました。当・つばめさわ教会は、15年前、シーサイドバイブルチャペルという名で海辺にありました。しかし、3.11東日本大震災で、そこから「引き出されて」、今、この宮城野区燕沢2丁目にあります。その原点を忘れないように、公文書上の正式名称とは別に、通名として「Seaside Bible Churchつばめさわキリスト教会」としています。

2.「モーセの青年期(11~15節)」…モーセが大人になったとき、彼は同胞の所へ出て行き、その苦役を見ました。一人のヘブル人をエジプト人が打っているのを見ました。モーセはそれを見て、誰も見ていないのを確認してから、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に隠しました。次の日、二人のヘブル人が争っているので、悪い方に「なぜ自分の仲間を打つのか」と言うと、その男は「誰があなたを私たちの裁きつかさにしたのか。昨日のように私も殺すのか」と言うと、モーセは恐れました。エジプト王女の息子として育てられたのに、モーセの権力地盤は軟弱のようです。それにモーセは、正義感に燃える人物でしたが、怒りに任せた性急なやり方では理解を得られません。しかし、その後、40年を経て、それ以降の40年間(80才から120才)にモーセはイスラエル人の出エジプトで大きな貢献をし、主から十戒や律法を授けられ、「旧約のモーセ」、「新約のイエス・キリスト」と言われるほどになります。モーセを通して確立された律法がイエス・キリストによって成就されたのです。キリストは「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)」と言われました。

3.「モーセ、ミデヤンに行く(16~25節)」…パロ王はモーセがしたことを聞いて、モーセを殺そうとします。しかし、モーセはそこから逃れ、ミデヤンに行きます。そして、水汲み場でミデヤンの祭司の娘たちを助けたことがきっかけで、その娘のうちのチッポラと結婚し、ミデヤンで暮らすことになります。しかし、その一方で、エジプトでのイスラエル人は引き続き労役のために呻き、喚いていました。このときエジプトで奴隷になっているイスラエル人は、今日(こんにち)、暗やみの世界の支配者たちの配下に置かれ、死の恐怖におののいている人々の姿を表しているのではないでしょうか。私たちは、この天地の創造主のもとから遣わされたイエス・キリストの十字架と復活による救いを受け入れ、永遠のいのちの希望と安心感の中で、キリストのからだなる教会に属し、イエス様にしっかり連なり、多くの実を結ばせていただきましょう。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)」

●2026年1月25日(日)礼拝メッセージ要旨    

 出エジプト記に入りました。1:1~22から「エジプトでの圧制」という題で今回はポイント2つ上げます。

1.「苦役を強いられる(1~14節)」…あの七年の豊作と七年の飢饉のとき、エジプトはヨセフのゆえに大いに富を増し加えました。そのヨセフが生きていた頃は、エジプト人もイスラエル人に対しては何も出来なかったでしょう。しかし、ヨセフが死に、ヨセフのことを知らないエジプト王が立てられると状況は変わって来ました。しかもイスラエル人は多産であり、人口が増えてくると、元々の住民であるエジプト人たちにとっては脅威に感じたことでしょう。例えば、日本のプロスポーツの世界もそうですが、外国人枠という制度を設けて対策をしています。それでも、大相撲などでは外国人力士の活躍が際立っています。さて、エジプトです。イスラエル人の勢いを抑えるため、エジプト王はイスラエル人に対して苦役を課します。しかし、12節には「苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がった」とあります。結果的にイスラエル民族がエジプトに寄留していたのは約400年ですが、たぶん、最初の100年間ほどはヨセフのゆえに安泰だったでしょうが、その後の約300年間(推定)は奴隷状態でした。それは、「神の選びの民としての試練の時」となったと思われます。ハミガキで有名なライオンの創業者・小林富次郎氏(1852~1910)は36才のときにクリスチャンとしての洗礼を受けました。才覚に恵まれた人で、石鹸やマッチなどの会社を立ち上げました。マッチの材料である丸太を宮城県石巻で積み上げて置いていたところ、大雨で北上川が氾濫し、丸太が流れ、それが家々に損壊を及ぼしました。小林氏は自分の財産を失い、自然災害で致し方ないことなのですが責任を感じて極度に苦しんでいました。そのとき、牧師さんからもらっていた葉書のみことばヘブル12:11「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」を思い出し、そこから、もう一度やり直そうと決意して39才のときに東京に戻り、そこから始まって今のライオン株式会社があるとのことです。

2.「神を恐れた助産婦(15~22節)」…エジプト王は、次の手を打ちます。それはイスラエル人の子が生まれるとき、「男の子なら殺し、女の子なら殺せ」という、とんでもない命令を発しました。しかしヘブル人の助産婦、シフラとプアは、その命令に従うことはありませんでした。王が彼女たちに問い詰めると「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」と答えます。しかし、神はこの助産婦たちに良くしてやり、彼女たちの家を栄えさせます。そこでパロ王は22節で「生まれた男の子はみなナイル川に投げ込まなければならない」と命じます。次の出エジプト2章でモーセが登場します。モーセは生まれてから3か月間隠されていましたが、パピルス製のかごに乗せられナイル川の岸辺に置かれたところ、パロの娘がそれを見つけて引き取ったのです。それゆえ、王家の子として育てられます。ローマ人への手紙11章33節には「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」とあります。それらの背後に天地を創造した全能の神の御手があることは間違いありません。イエス・キリストの名によって、同じ全能の神を信じる今日のクリスチャンにとっても、不思議な神の導きの中にあり、日々、様々な霊的、信仰的な戦いの中に置かれていると言えるでしょう。Ⅱコリント10:4には「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」とあります。クリスチャンには「祈りとみことば(聖書)」があります。いつも、主に心を向け、謙虚に誠実に歩み、主を待ち望みつつ、日々を過ごしてまいりましょう。「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。(ホセア12:6)」