●2021年8月1日(日)礼拝メッセージ要旨「見えないものにこそ目を留める」 

第二コリント4:12~18からです。本日もポイントを三つ上げていきます

①「いのちはあなたがたのうちに働く」…12節には「こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。」とあります。少々、分かりにくい表現ですが、どういうことでしょう。8~10節で、パウロは、福音を伝えるがゆえに迫害を受け、四方八方から苦しめられ、死を意識する、そういうことがあったということを語っています。しかし、迫害を受けるから福音宣教を止めるのではなく、たとい、命の危険があっても福音宣教はしなければならず、それゆえ、「死は、福音を伝える自分に。いのちは、福音を聞いた人々に。」ということを言っているのです。岡山県に、河野進という牧師さんがおられました。この方は50年にわたって、ご自分の教会での礼拝を終えられると、ハンセン氏病療養所に慰問伝道に通われたとのこと。詩人でもあり、「ぞうきんのように、報いを受けずとも仕える人になりたい」と、そういった内容の詩を著わしています。こういう人こそ、真に尊敬に値する人ではないでしょうか。

②「内なる人は日々新たにされる」…16節の頭の部分、新改訳聖書第三版では「勇気を失いません」となっているところ、同2017年訳では「落胆しません」となっています。より原語に近づいたと言えるでしょうが、第三版の訳も悪くはないと思います。さて、同節の「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされる」という部分の「外なる人は衰える」ということは肉体が年齢と共に弱くなるということはよく分かります。ところで、「内なる人が日々新たにされる」とはどういうことでしょうか。コロサイ3:10には「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」とあり、イザヤ40:31には「しかし、を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」とあります。つまり、イエス・キリストを信じ、バプテスマを受けた者は新しい人を着せられ、みことばと祈りに励むことによって、ますます新しくされるのです。英語でbreakfast(ブレークファスト)とは朝食のことですが、「断食を破る」という原意があります。そうです。クリスチャンは、朝起きたら、朝食前に、まず、みことばと祈りに励み、新しい一日を始めるのです。

③「見えないものにこそ目を留める」…東京五輪たけなわです。陸上競技が始まるとさらにオリンピックらしくなってきました。一方で、当初から心配されていたコロナ感染者が急激に増えてきました。感染拡大が最小限に食い止められるように祈るばかりです。さて、日本のお家芸である柔道では男女全14階級のうち男子5階級、女子4階級、合計9階級で金メダルを獲得しました。金メダル獲得率64%という破竹の勢いとも言えるものでした。しかし、次に行われた男女混合国別団体戦では、決勝でフランスに敗れ、銀メダルでした。団体戦に出場した日本選手はほとんどゴールドメダリストでしたが、ゴールドメダリストという称号が勝利を保証するわけではありません。つまり、五輪のゴールドメダリスト、それは永続的なものではなく、一時的なものであるということです。第一コリント9:25には「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」とあります。イエス・キリストにある者にとっては、目には見えないけれども朽ちない冠が用意されているのです。私たちは、永遠に朽ちることのない神の栄冠に目を留め、そこを目指して、日々、神の栄光を現わしつつ、希望をもって歩みましょう。

●2021年7月25日(日)礼拝メッセージ要旨「土の器」 

第二コリント4:1~11からです。この章では、クリスチャンのあるべき姿が記されていると思います。本日もポイントを三つ上げていきます

①「この世の神のしわざ」…パウロは、使徒の務めを神から任じられ、人々に、神のことばを曲げず真理を明らかにしてきたと言っています。またそれだけではなく、自分自身の生き方も、恥じることのない証しの生活をしていたのです。ある意味、完璧な形での伝道活動をしていたのです。しかし、どんなに完璧な伝道をしたとしても、その伝えられた福音を受け入れてもらえない場合が多いのです。その原因は何か。それは「この世の神が不信者の思いをくらませている」のです。エペソ2:2には、その「この世の神」のことを「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」と表現しています。また、ヨハネ8:44では「悪魔は初めから人殺しであり、偽りの父である」としています。先日、私は「地球の年齢は若い」という題で行なわれた講演会に参加してきました。ここで詳しいことは話しませんが、月と地球の距離、月に堆積した塵、地球の磁場、海水の塩分濃度、それらが年々推移するデータを基に計算すると、一般的に言われている地球の年齢45~46億年説では矛盾が生じ、結局、聖書の記述通り、地球の年齢は6000年ほどと見るほうが合理的なのです。マタイ7:13には「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」とあります。多くの支持を集めていることが真実とは限りません。真実であるのに多くの人々に否定されていることもあるのです。それは、悪魔がこの世を支配下に置いているからです。この世の神に惑わされてはなりません。

②「自分ではなく、キリストを宣べ伝える」…とうとう東京五輪が始まってしまいました。コロナ渦ではありますが、やはり、選手は試合が始まれば、そこに集中します。勝てば喜び、負ければ落胆します。メダル獲得となれば五輪メダリストの称号を受けます。一方、キリスト者が福音を伝えても、誰かに褒められるわけでありません。場合によっては、迫害されることもあるでしょう。しかし、福音宣教は、主が望んでおられることです。マルコ16:15で、キリストは、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」と言っておられます。第二テモテ4:2でパウロは「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」と言っています。イザヤ52:7には「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。」あります。キリスト者は福音を伝えることによって喜びを感じ、魂の充足感を覚えます。それは、その人のうちにおられる聖霊様が喜び、満足しているからです。そして、福音を伝えるとき、自分ではなく、キリストを宣べ伝えるのです。祈りつつ、聖霊の助けを受け(使徒1:8)ながら、それぞれ、自分の使命を果たしてまいりましょう。

③「この宝を土の器に入れている」…6節に「『光が、やみの中から輝き出よ』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」とあります。筆者は、45年前、正に、この6節のみことばのように、イエス・キリストを信じる決断をしたとき、心を光で照らされたような体験をしました。しかし、肉体は弱く、土の器のようなものです。但し、土の器でもイエス様の名によって聖霊様が宿るなら、聖霊の宮となり(第一コリント6:19)、神はその人を特別に扱われるのです(詩篇4:3)。この「特別に扱われる」とは、ただ単に、その人に良い思いをさせるということではありません。神に近づかせるのです。神を愛し、神に従うように導いてくださるのです。イエス・キリストの父なる神に従い、神と共に歩むことほど幸いなことはありません。

●2021年7月18日(日)礼拝メッセージ「主は御霊です」 

第二コリント3:1~18からです。この章では、イエス・キリストの十字架の救いによる新しい契約に仕える者が主の栄光を現わして行くということが記されています。本日もポイントを三つ上げていきます

①「推薦状…神からの資格」…今日、教会の働きは、基本的に既成の教会が元になり、そこから召された人々が遣わされ、新しい教会が生み出されます。また、法的には、教会は宗教の範疇に属し、文部科学省の管轄下に置かれています。もちろん、そういった組織とか、法も大切ですが、実際的には、聖霊なる神が人々を遣わし、教会を建て上げているのです。分かりやすく言いますと、例えば、一つの家族、Aさんの家族があるとします。Aさんの家で生まれた子供は必然的にAさんの家族の一員となります。同じようにB教会で救いを受けた人は、B教会のメンバーとなります。それは聖霊なる神が宣教者を遣わし、また聖霊の働きによって、救われる人が起こされるのです。実際のところ、その背後にあって、全てに聖霊様が関わっておられるのです。

②「御霊の務め…義とする務め」…6節に、「新しい契約に仕える者。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者」とありますが、これはいったいどういうことでしょう。イエス・キリスト以前はモーセの律法によって、罪の規定に力点が置かれていましたが、キリスト以後は、罪の赦しの福音によって義とする務めに力点が置かれるようになったのです。クリスチャンは、キリストの福音を自分のものとし、そして、他の人々にも、この福音を伝える使命を負っています。実際的には、この福音を上手に伝えることは簡単ではありません。しかし、この福音を自分のものにしていることだけでも非常に大きなことです。また、6節の最後には「御霊は生かす(the Spirit gives life)」とあります。ヨハネの福音書14:16には「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」とあり、御霊のことを助け主と言っています。助け主はギリシャ語でパラクレートスと言い、その意味は「力強い味方、肩を持ってくれる者、同情をもって弁明してくれる人、弁護人、執り成し者」です。クリスチャンには力強い味方である聖霊様がイエス様の名によって、いつも共におられるのですから、何でもはばかることなくお祈りしましょう。そして、聖霊に助けていただきながら、義とする務め、福音を伝えましょう。

③「栄光から栄光へ」…13節に、昔、モーセの顔におおいを掛けたことが記されています。出エジプト記34章で、モーセが主から石の板二枚を持って、シナイ山から降りて来た時、顔が光を放っていました。アロンらは恐れましたが、モーセは彼らに主のことばを告げました。そして、そのあとで、モーセの顔におおいを掛けたのです。しかし、今は、キリストによる恵みの時代です。私たちは、イエスの御名によって、直接、聖霊と交わることができるのです。新生宣教団から送られた読み物に、映画「炎のランナー」、主人公のモデルになったエリック・ヘンリー・リデルの記事がありました。1924年のパリ五輪で100メートル走の選手だったエリックは予選が日曜日だったため、出場を拒否しました。そのため、祖国の新聞はエリックを「スコットランドスポーツ界の裏切り者」と書きました。しかし、日曜日ではない200メートル走には出場し3位でした。そして、慣れない400メートル走に出場しました。なんと、47.6秒の世界新記録で優勝しました。マスコミは、今度は「スコットランドの英雄」としました。その後、エリックは、彼の両親と同じように中国へ宣教師として赴き、そこで収容所に入れられるなどの苦難を味わい、1945年、43歳で召天しました。エリックの人生は、ひたすら神の栄光を求めました。私たちも、神の栄光を現わすという意味で、聖霊によって、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられますように。

●2021年7月11日(日)礼拝メッセージ「キリストによる勝利の行列」 

第二コリント2:1~17からです。コリント人への手紙第一と第二の間に、パウロはコリント教会を訪問し、また別の手紙を書いているようです。その訪問も手紙も厳しいものとなり、それゆえ、この2章においては、それをフォローする内容となっていると言えます。本日もポイントを三つ上げていきます

①「罪に対する処罰と赦し」…コリント第一の手紙5:1には、コリント教会には「異邦人の中にもないほどの不品行がある」ということが記されています。このコリント第二の手紙2:5には「悲しみの元になった人」と表現されていますが、誰を指しているのか、また、その人がどんな罪を犯していたのかは明らかではありません。いずれにしろ、パウロは、その人に対して厳しい対処をしたようです。また、コリント教会全体も、その人に対して何らかの処罰を課したようです。でも、ここでパウロは、コリント教会の人々に対し、その人を赦し、その人に対する愛を確認するようにと勧めています。誰であれ、人間は毎日のように失敗し、罪を犯すものです。それなのに、他人の罪に対しては厳しく、自分には甘くなる傾向があるものです。11節には「サタンの策略」とありますが、罪を犯した人をただ責めるだけで終わるなら、その人は立ち直れないし、責め続けた人も裁かれることになり、正にサタンの策略にはまってしまいます。親がその子を思って愛情を注ぐように、私たちは、人の祝福と幸いを願い、そこに照準を置いて行動するべきでしょう。

②「キリストによる勝利の行列」…12~13節で、パウロはトロアスに行ったけれども、テトスに会うことが出来ず、心に安らぎが無かったのですが、しかし、そのあとの14節で「神はいつでもキリストによる勝利の行列に加えて下さる」と言っています。創世記16章には、アブラムとその妻サライ、女奴隷ハガルが登場します。アブラムは創世記15章で、自分の子孫が空の星のようになることを主から言われました。しかし、なかなか子どもが与えられません。そこで、妻サライが自分の女奴隷ハガルをアブラムに与え、子が生まれれば、自分がその子の母となれると思いました。ハガルがアブラムによって身ごもると、ハガルはサライを見下げるようになりました。そこでサライはアブラムにそのことを訴え、ハガルをいじめます。するとハガルはそこを逃げ出します。ハガルが荒野の泉のほとりにいると、主の使いが彼女に「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして彼女のもとで身を低くしなさい。」と言います。その後、ハガルはイシュマエルを生み、イシュマエルは一つの民族となります。つまり、女主人から逃げた女奴隷のハガルに対して、神は見捨てることなく、目を留め、導いておられるのです。詩篇34:5aには「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。」とあります。天の神、主は、私たちが失敗して落ち込んでいるとしても、主を仰ぎ見ることにより、いつでもキリストによる勝利の行列に加えようとしておられます。

③「かぐわしいキリストの香り」…ここで言っている「香り」とは、信仰的、霊的な香りのことです。ヨハネの福音書12:1~3でラザロの姉妹であるマリヤはイエス様の御足に300gの純粋なナルドの香油を注ぎ、髪の毛で拭います。すると香油の香りが部屋いっぱいに放たれます。それを見ていたイスカリオテ・ユダは「なぜ、それを売って、貧しい人に施さなかったのか。」と責めます。しかし、キリストは、「マリヤは、わたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしたのです。」と言われます。またマルコ14:9では「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」と言われ、そのことば通り、今日、マリヤの行為は世界中の教会で称賛されています。マリヤは実際的に香りを放ち、信仰的、霊的にもかぐわしい香りを放ったのです。マリヤは誰かに褒められようとして、それをしたのではありません。そのとき、自分が出来ること、すべきことをしたのです。

●2021年7月4日(日)礼拝メッセージ「この方には『しかり』だけがある」 

第二コリント1:12~24からです。パウロは、コリント教会への訪問日程が変更になったことで、批判を受けたようです。それに対してパウロがここで弁明しています。ポイントを三つ上げていきます

①「聖さと神から来る誠実さ」…使徒18:11によると、パウロはコリントに行き、そこで1年半、腰を据えて宣教活動をしました。その結果、コリント教会が建て上げられたのです。それは正に、聖さと神から来る誠実さを持って実行したのです。ところが今、パウロの働きの実であるコリント教会から、訪問計画の変更のことで、批判を受けています。パウロとしては心苦しかったに違いありません。今日の私たちも、何も悪いことをしていない、むしろ真面目にやっているのに、思いがけず非難を受けることがあったりします。そんなとき、どうしたらよいでしょう。ヘブル4:15には「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」とあります。イエス様は何一つ罪のないお方なのに、十字架に架けられて殺されてしまいます。ですから、キリストは、そういった苦しみを誰よりもご存じです。創世記でエジプトへ奴隷として売られたヨセフは、濡れ衣を着せられ牢獄に入れられてしまいます。その試練のあと、ヨセフはパロ王の夢を解き明かし、いきなりエジプトの総理大臣になってしまいます。かつて何の罪もないヨセフを訴えたポティファルの妻は、このときどんな心境だったでしょう。キリスト者は、どんなときも、主にあって誠実であり続けたいと思います。

②「この方には『しかり』だけがある」…この1章の記事だけでは把握できませんが、パウロはコリント訪問計画を二度ほど変えています。それは、決して自分の気まぐれからではなく、神の導きに従って行なっている、そういうことを言っています。キリストには「しかり」だけがあるのですから、神の導きに従っているのなら、「しかり」です。先日、筆者は息子から、あるデータをメールで送ってほしいと頼まれました。送信すると、「まだ届いてない」と言われました。ですから「いや。確かに送信した」と伝えると、「ああ。来た、来た。迷惑メールボックスに入っていた」と言いました。これまで何回もやり取りしているはずなのに、どうしたことでしょう。コンピュータの処理が間違って迷惑メールになっても、父親である筆者の送信したメールであることに変わりはありません。つまり、イエス様はいつも真実な方であるということです。20節に「この方によって『アーメン』と言い、神に栄光を帰する」とあるように、私たちは、聖書のみことばを聞いたら「アーメン」と言い、神に栄光を帰すると同時に、その信じたみことば通りになるのです。

③「あなた方の喜びのために働く協力者」…例えば、お医者さんは、患者さんの容態を診察し、そこから処方を考え、その患者さんに相応しい治療をします。筆者自身も二十数年前でしたが、風邪をこじらせたとき、お医者さんの適切な処置によって、回復しました。でも、基本的には、お医者さんが患者さんの全てを治すのではなく、聖書的には、人間を生かしておられる創造主である真の神様(一般論的な解釈では、人間の体の自然治癒力)が治すのであって、お医者さんは、その協力者と言えます。このことは、当時のパウロやテモテなどの教会の牧師や伝道者の働きにも当てはまります。国や会社、そして教会もですが、どんな組織でも、規律と自由とのバランスが大事です。規律面が強すぎると不自由になり、自由が過ぎると規律が失われます。筆者自身、牧会者の立場にいますが、人々の信仰の喜びの協力者でありたいと願います。また、たとい牧会者の立場でなくても互いのために何か協力できることがあれば、祈り合い、支え合いましょう。

●2021年6月27日(日)第一礼拝メッセージ「主が、私たちに望んでおられること」 

第一テサロニケ5:16~18から、ポイントを三つ上げていきます

①「いつも喜んでいなさい」…私たちは、仕事で成功したとか、学校で良い成績を取ることができたりすると嬉しいし、喜ぶものです。でも、ここで「喜びなさい」と言っているのは、そういう種類の喜びではありません。ピリピ4:4には「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」とあります。「主にあって喜ぶ」とは、イエス・キリストの救いを受けて喜ぶということです。人間は生まれながらにして、罪の性質を持ち、神の怒りの下にあります。しかし、聖なる神のひとり子イエス・キリストが、この世に来られ、十字架によって救いを完成されました。キリストを信じ受け入れる者は、義と認められ、神と和解したのです。そのことを喜ぶのです。そして、それは単発的に終わるものではなく、持続していかねばなりません。神は真の礼拝者を求めておられます(ヨハネ4:23)。可能な限り、安定的に礼拝に参加し、神との関係を深めることが喜びとなるのです。

②「絶えず祈りなさい」…第一のポイントで話したように、キリストを信じ、神と和解することによって、魂の安らぎを得ることができます。確かに、心の奥底では救いの勝利を持っているのですが、現実生活の中で、不安とか思い煩いとか様々なものが押し寄せて来ます。逆説的に言うならば、それは、神様が「祈りなさい」というサインを示しているとも言えます。ピリピ4:6~7には「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とあります。祈っていると、不思議と心落ち着くようになるのです。また、祈りを通して、神は私たちに行くべき道を示してくれたり、グッドアイデアを与えてくれたりもします。祈ることによって与えられるものは計り知れないでしょう。

③「すべてのことについて感謝しなさい」…第二のポイントは「祈りなさい」ということで、確かに祈ることによって、必要が満たされたり、問題が解決されたりするものです。しかし、何でもかんでも祈りが常にきかれるわけではありません。むしろ、思い通りにいかないことのほうが多いかもしれません。そんなとき、どうしたらよいでしょう。ここは、案外、重要なポイントです。「すべてのことについて感謝する」、つまり、祈りがきかれたら、もちろん感謝する。たとい、祈りはきかれなくても感謝するのです。それは、どんなときも全知全能の神様の主権の下にあるということを忘れないでいるということです。当・つばめさわ教会の建物が今、建っているのですが、そこに至るまでは、そう簡単ではありませんでした。3.11大震災後、多くの方々から支援を受けましたが、さて、土地を得て、そこに教会の建物を建てるというのは、容易なことではありません。でも、そのこと一点に集中するのではなく、その都度、目の前に置かれたことを一つ一つ実行し、あとは、神が働いてくださるときを待ち望むしかありませんでした。そういう中で、2013年の秋、大きな動きがありました。クリスチャンの某団体から、土地と基礎工事以外の建物部分を無償提供するというプロジェクトが舞い込んだのです。もちろん、お受けしました。但し、その後の土地探し、それから設計士さん、工事業者さんの選定など、スムースに行ったことはありません。でも、主権は聖なる神様が握っておられますから、すべてに感謝しつつ、時を待ちました。結局、2016年2月23日、つばめさわ教会の建物が完成しました。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝しましょう。それは、主が私たちに望んでおられることですから。

●2021年6月20日(日)礼拝メッセージ「神に、より頼む者となる」 

第二コリント1:1~11からです。第一の手紙の最後では、テモテをコリントに派遣すると言っていますが、この時は、そのテモテはパウロと共にいます。パウロ自身も第一の手紙のあとコリントに行っているようです。第二の手紙全体からすると、コリント教会の様々な問題はすんなり解決しなかったようですし、また、解決したように見える記事もあります。いずれにしろ、これらの手紙が今の時代を生きる教会のための指針となっています。今回もポイント三つ上げます。

①「慰めてくださる神」…私たち人間は、毎日人と関わりながら生きています。その中で、関わる人の優しさに触れ、それによって慰めを受け、それが生きる力になっていると思います。逆に、人間関係が厳しい環境に置かれている人は、心が病んでしまう場合もあるようです。そういった人との関係も大きなウェートを占めますが、一番は、慰めて下さる神様、イエス・キリストの父なる神様に出会い、この神様とともに生きることです。詩篇23:4には「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」とあります。羊のような私たちと共に羊飼いのような主がおられ、日々、私たちを正しい道に導いてくださり、たとい死の間際にあっても勝利を与えてくださるのです。

②「神に、より頼む者となる」…パウロは使徒の働き14章で、石で打たれ、一旦死んだと思われた経験があります。たぶん、そのことに対してでしょう。9節で「これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」と言っています。「神に、より頼む者となる」、これはクリスチャンにとっては非常に大事なことです。私たち人間は創造主である真の神によって生かされているのに、自分の力で生きていると思っていませんか。そして、自分自身を誇り、自分はあれをした、これをしたと言って自慢するものです。しかし、パウロは第二コリント12:5で「自分の弱さ以外に誇らない」と言っています。そして、ガラテヤ6:14では「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」と言っています。実際に、使徒の働きでパウロは機会あるごとに自分の救いの体験を証ししています。かつてパウロは、クリスチャンを迫害する側にいて、そのためにエルサレムからダマスコへ行く途上で聖霊なるイエス・キリストにお会いしています。それは自分の知恵や努力によるものではありません。ただ、神のあわれみのゆえです。今日の私たちも神のあわれみのゆえに救いを受けました。私たちを救ってくれた主は、これからも助けて下さいます。ですから、私たちは、益々自分ではなく、助けてくださる神により頼む者となりましょう。

③「望みを神に置いている」…パウロは、最後はローマで殉教したようですが、そこに至るまでは、神が彼を何度も救い出しました。第二コリント11:24~25によると、39度のムチを5度、それ以外のムチを3度、石打1度、難船3度など、苦難の中で、その都度、救い出されました。誰も、パウロほどの試練を経験したことはないでしょう。もちろん、筆者もありません。ただ、開拓伝道からこれまでを振り返る時、最初は宮城野区福住町、次に福田町、その次は蒲生、そして3.11大震災のあとは新田、現在は燕沢です。それぞれ導かれ、あるときは文字通り救い出されもしました。そうです。これからも神は助け、御手を差し伸べて下さるでしょう。主にある皆さんも、それぞれ、これまでの導きを感謝し、これからもさらに神に期待しましょう。互いに祈り、支え合って、主イエス・キリストの栄光が現れることを求めてまいりましょう。

●2021年6月13日(日)礼拝メッセージ「主よ、来てください。(マラナ・タ)」 

第一コリント16:1~24から、コリント人への手紙第一の最後の章です。この章では、この手紙が書かれた背景などを知ることができます。このときパウロはエペソにいたようです。コリントからステパナたち三人がパウロのもとに来て、コリント教会の現状などを訴えたのでしょう。それに対し、パウロは手紙を書き、それをステパナたちが携えてコリントに戻るようです。その際、テモテも同行するのでしょう。ここから、ポイント3つ上げていきます。

①「広い門と反対者」…パウロはアンテオケ教会を拠点にして、小アジア、マケドニヤ、アカヤなどの地域に福音を宣べ伝え、次々と教会が設立されていきました。また、パウロは異邦人のための宣教師としての自覚を持っていました。しかしパウロは、イエス・キリストの福音がエルサレムで始まり、エルサレム教会が原点になっていることを忘れていませんでした。それで、これまでの働きの実である各教会から献金を集め、エルサレム教会にささげようとしていました。そのために選ばれた人が、エルサレムに献金を携えて行くとき、よければ自分も同行すると言っています。しかし、今しばらくは、エペソで福音宣教のための広い門が開かれており、反対者も大勢いるから、と言っています。この言い方はパウロらしい表現かと思います。他の人であるなら、「門が開かれているが、反対者が多いので止めます」と言ってもおかしくありません。しかし、パウロは反対者までも、肯定的に受け止めています。それは、かつてパウロ自身がクリスチャンを迫害した反対者の代表のような人物だったからでしょう。かつての自分のような人も救われてほしいと願っていたからなのでしょう。

②「いっさいのことを愛をもって行ないなさい」…10~11節でテモテのことが記されています。テモテは評判の良い人で、パウロはテモテのことを気に入っていたようです。ただ、テモテはいくらか気の弱い面もあったようで、テモテがコリントの教会へ行ったなら、彼に気を配るように、軽んじないようにと勧めています。またアポロにも同行を促していますが、彼は行かないとのことです。アポロはパウロと張り合うほど雄弁であり、その点、気弱なテモテをカバーできると考えたのかもしれません。ですから、13~14節で、突然、「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行いなさい。」と勧めているのは、テモテのことを思ってのことかもしれません。特に「愛をもって行ないなさい」ということを言いたかったのではないかと思われます。細やかな気配りをしているのはパウロ自身である、とも言えます。

③「主よ、来てください。(マラナ・タ)」…15節で、ステパナの家族はアカヤの初穂であって、聖徒たちのために熱心に奉仕したと言っています。今日、主にあるどこの教会にも、このステパナの家族のような人たちがいて、彼らのような人たちによって教会が支えられているのです。パウロ自身もステパナ、ボルトナト、アカイコがパウロに会いに来た時、喜び、コリント教会の足りない分を補ってくれた、と言っています。このような人々こそ評価すべきでしょう。そして、22節では「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください(マラナ・タ)。」と言っています。昔、ノアの時代に、地は水によって滅びました。今、地球上に生きている人々は全員、ノアの子孫です。そして、やがて、この世界は火によって滅ぼされる時が近づいています。第二ペテロ3:12には「そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。」とあります。「その日の来るのを早める」というのは、主を愛し、福音宣教が満たされることによって実現すると思われます。どうぞ、主にあるクリスチャン一人一人に聖霊が臨み、主を愛する思いであふれ、福音宣教が力強く前進しますように。

●2021年6月6日(日)礼拝メッセージ「天上のからだ」 

第一コリント15:35~58から「天上のからだ」という題でポイント3つ上げていきます。

①「天上のからだと地上のからだ」…35節で「ある人はこう言うでしょう。『死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。』」と、パウロは復活を疑う人が口にしそうな言葉を取り上げています。確かに、当時にしても、今日の私たちにおいても、そういった思いが過(よぎ)ることがあっても無理ないかもしれません。しかし、パウロはそういった疑問に対して36節で「愚かな人だ」と一蹴(いっしゅう)しています。わずか数ミリの小さな種を地に蒔くと、立派な植物に成長し、花を咲かせ、実を成らせます。また、創造主である神は人のために食物を与え、昼は太陽、夜は月と星々を備えられました。正に、神にとって不可能なことは一つもありません。この地上に創造された様々なもの、それらを細かく調べれば調べるほど創造主の不思議と偉大さを覚えます。その創造主である神が我々人間のために天上のからだを用意されているのです。それを疑ったら、損になることはあっても何の得もありません。

②「第一の人と第二の人」…第一の人とは最初の人、アダムのことであり、第二の人とは最後のアダムであるイエス・キリストです。そして、アダムは「生きた者」となりましたが、キリストは「生かす御霊」となりました。「生かす御霊」は英語の聖書ではa life-giving spiritで、life-givingは「元気づける」、「生気を与える」という意味です。元々、私たちは皆、「生きた者(a living being.)」に過ぎませんでしたが、聖なる神の前に悔い改め、イエス・キリストを信じるとき、「生かす御霊(a life-giving spirit.)」を受けて、目的ある人生に変えられました。第一コリント10:31には「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」とあります。永遠の天の御国を目指しつつ、この地上においては神の栄光となるような生き方を求めてまいりましょう。

③「世の終わりのラッパ」…四つの福音書の中で、マタイ24章、マルコ13章、ルカ21章には、世の終わり、終末の時代に何が起こるのかということが記されています。戦争、民族対立、地震、疫病、飢饉、天変地異、そして不法の人(滅びの子)の出現です。これらのことが起こりつつあるとき、終わりのラッパが鳴り響き(どの時点で終わりのラッパが鳴り響くのかは聖書で明確にされてはいません)、イエス・キリストが再臨するのです。そのとき、不死を着た人は、雲の中に一挙に引き上げられて主と出会い、その人はいつまでも主とともにいることになるのです。ですから、大事なことは、イエス・キリストを信じてバプテスマを受け、不死を着て、堅く立ち、動かされることなく、いつも主のわざに励む生活をすることです。昔、アメリカ合衆国の一時期のこと、多くの人は大西洋側に住んでいました。あるときアメリカ政府は、太平洋側のある地域に金(きん)が出るので、誰でも行って杭打ちすれば、自分の土地になると移住を促しました。多くの人が全財産を持って家族と共に幌馬車でそこに向かって行きました。その中に、ある牧師の家族がいました。この家族は、月曜日から土曜日にかけて行動し、土曜日の夕方からは馬を休ませ馬車を整備し、日曜日は家族で礼拝し、神に感謝をささげ、ゆっくりと休みました。そして月曜日になると再び目的地に向かって行ったのです。すると、その家族が一番早くその場所に到着したとのことです。私たちは、やがて世の終わりのラッパが鳴り響く時に備え、日々、神のみこころを求め、忠実に主と共に歩んでまいりましょう。

●2021年5月30日(日)礼拝メッセージ「死者の復活」 

第一コリント15:12~34から「死者の復活」という題でポイント3つ上げていきます。

①「もし復活がなかったら」…そもそもクリスチャンは、最初の時点で、イエス・キリストの十字架と復活を信じて洗礼を受けます。ところが、当時のコリント教会の人々の中に、「死者の復活はない」という人がいたようです。この際、「死者の復活」というのは「キリストの復活」というよりも、「キリストを信じる者の復活」のことを言っているようです。それに対してパウロは、もし、死者の復活がなければ「私たちの宣教は実質のないものとなる」、「神について偽証した者となる」、「あなたがたの信仰は空しく、今も自分の罪の中にいる」、「この地上においてのみキリストに望みをおいているなら、すべての人の中で一番哀れな者となる」と、そう言っています。もちろん、今日も、実際的に「死者の復活」ということがないなら、世界中のキリスト教会は輝きを失ってしまうし、それ以前に、キリスト教会は存在すらしていないでしょう。

②「しかし、キリストは復活した」…ここでパウロは、改めて、キリストが初穂として復活したということを宣言しています。「初穂」ということは、キリストを信じる者もキリストのように復活するということです。アダムによって罪と死が全ての人に及びましたが、キリストによって信じる全ての人が生かされ復活するのです。この度、筆者は「逆転満塁サヨナラホームラン」という手製トラクトを作りました。今から57年前、筆者が小学6年生の時のソフトボール大会の決勝で、最終回の7回裏、6対3で敗北濃厚な筆者の所属するA小学校は、ツーアウト満塁の場面から、逆転満塁サヨナラホームランが飛び出し、絵に画いたような土壇場での逆転勝利をしたのです。キリストが十字架に架けられていたとき、二人の強盗たちも共に十字架刑を受けていました。しかし、その二人のうちの一人の強盗は、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときは、私を思い出してください。」と言いました。するとキリストは「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます。」と言われました。正に、その強盗は、土壇場で復活のいのちに与り、人生の大逆転勝利を得たのです。

③「死者のゆえのバプテスマ」…この29節の「死者のゆえのバプテスマ」という表現は、昔から問題とされた箇所のようですが、文脈と教理面から見て、「死者」というのは「この世に対して死ぬ」という意味で使われていると思います。ローマ6:4には「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」とあります。私たちは、キリストと共に死んで、キリストと共に生きる生き方を求めていきましょう。パウロ自身もキリストと共に生きる生き方を求めたゆえに、迫害を受け、死に直面するようなことが度々ありました。33節には「友達が悪ければ、良い習慣が損なわれます」とあります。ビルマ(ミャンマー)への宣教師となったアドニラム・ジャドソンの回心の物語です。アドニラムは牧師の家に生まれ、優秀で大学は首席で卒業したほどです。しかし、大学時代に出会った無神論者の友人の影響で、信仰を失ってしまいました。卒業後のある日、旅先で泊まった宿の隣の部屋から死を直前にした若者のうめき声が聞こえてきました。翌朝、宿の主人から、その青年が死んだことと、彼の名前を聞いて驚きました。なんとその青年はアドニラムに無神論思想を植え付けた人物だったのです。アドニラムは、これは偶然のことではないと悟り、悔い改め、イエス・キリストに立ち返ったのです。この世にはびこる無神論思想や享楽主義には十分に気を付けましょう。霊の目を覚まし、復活の主と共に歩みましょう。