●2026年3月1日(日)礼拝メッセージ要旨 

出エジプト記5:1~23から「モーセとアロン、パロの所へ」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「モーセとアロン、パロの所へ(1~5節)」…4章の最後の箇所で、モーセとアロンはイスラエルの長老たちに、それまでの経緯を伝え、理解を得、彼らから支持を受けた形となります。そして、いよいよパロ王の所へ行きます。モーセとアロンはパロに、「主はこう仰せられます『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ』」と言います。パロは当然のように拒否します。それは、最初から主がモーセに「わたしはパロの心をかたくなにする」と言われていた通りになります。ここで5節について、新改訳聖書第三版では「見よ。今や彼らは、この地の人々より多くなっている~」とありますが、2017年訳聖書では「見よ。今やこの地の民は多い~」となっていて、いわゆる意訳をせず、原語をそのまま訳しています。確かに、第三版訳ですと、「イスラエル人がエジプト人よりも多くなっている」ことになりますから、それはないでしょう。ですからここは、「自分たちイスラエル人が多くなってきたので、その勢いで労役を止めさせようとしている」という意味であるとしたほうがよいかもしれません。ここでは、モーセとアロンによるパロ王との折衝(交渉)は始まったばかりで、そのスタートラインに着いたと言えます。ここから長期間の忍耐が必要になってきます。ヤコブ1:3~4aです。「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。~」

2.「パロの反撃(6~18節)」…パロはモーセらの訴えに対して拒否しただけではなく、実効性のある反撃をします。それは、「レンガに混ぜ込むワラを与えず、イスラエル人自らワラを用意し、しかも、これまで通り仕上げるレンガの数を減らしてはならない」ということです。その背後には、全能の主が働いてパロの心をかたくなにしていると思われるのですが、ここで、一般的な私たち人間の行動のあり方について考えてみましょう。よく「知情意」と言われています。知性、感情、意志の三つが働いて我々人間の行動となって現れるとされています。イエス・キリストの父なる神を信じ、この方を恐れて行動するクリスチャンは「知情意」に「主のみこころ」、または聖書のみことばが加わるでしょう。よく言われるのは、「感情に負けて自分を見失わないように」ということですが、感情とか感性の部分が何でも悪いというものでもありません。それも神様が人間に与えてくださっているもので、それはそれで認めつつ、その上で、どうあるべきかということでしょう。基本的に私たちは、毎日の生活を喜び、楽しみながら許される限り平穏に、そして主と共に過ごしていきたいものです。

3.「人夫がしらたちの抗議(19~21節)」…イスラエル人たちにとっては、これまでも十分に苦役を課せられていたところに、モーセとアロンがパロに要望を突き付けたことにより、自分たちに課せられた苦役がさらに厳しいものになっていきます。人夫がしらたちがパロに抗議しに行き、そこを出たときに彼らはモーセとアロンに出会い、二人を責めます。そのあとモーセは主のもとに戻り、「主よ。なぜあなたは、この民に害をお与えになるのですか。何のために私を遣わされたのですか。」と訴えます。モーセとアロンの立場は正に、パロとイスラエル人の間に立つ仲介者です。それは、今日(こんにち)、神と人との間に立って執り成すクリスチャンの姿でもあり、その原点はイエス・キリストの十字架の贖いに見られるものです。Ⅰテモテ2:1~5です。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」

●2026年2月22日(日)礼拝メッセージ要旨 

出エジプト記4:18~31から「モーセ再びエジプトへ」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「わたしは彼(パロ)の心をかたくなにする(18~23節)」…まずモーセは、しゅうとのイテロに「エジプトに帰って親類の安否を尋ねさせてください」と言います。正直に言うなら、親類の安否確認ではなく、主から命じられた使命のためであったのですが、ここでモーセは知恵を用いてイテロが心配しないような言い方をしたと思われます。さて、主はモーセに改めてエジプトに行くように仰せられますが、「わたしは彼(パロ)の心をかたくなにする」と一見、不可解なことを付け加えておられます。結果として、モーセとアロンは、杖が蛇になるしるしの他に十のしるしを行なうことになります。これは何を意味するのでしょう。それは、神、主のわざが多くなることによって、それを見た人々が主を恐れ、主を崇め、主の栄光が現われるということです。「地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。彼らに【主】の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。(詩篇148:11~13)」

2.「あなたは血の花婿です(24~26節)」…いよいよモーセは、妻と息子たちを伴いエジプトに向かって旅立ちます。ところが、一夜を明かす場所で主はモーセに会われ、彼を殺そうとします。そのとき、妻のチッポラは息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけて「まことにあなたは私にとって血の花婿です」と言います。この記事は第一のポイントに続いて、さらに解釈が難しいところです。筆者の推測になりますが、ミデヤンで平穏に暮らしていたモーセの家族がいきなりエジプトに出かけて行き、イスラエル人の救出のために行動しなくてはならない、ということはモーセの妻チッポラの立場からすれば、簡単に「はい。行きます。」というわけにはいきません。夫のモーセと何らかの軋轢(あつれき)があったのではないかと思われます。しかし、ここで夫が死ぬかもしれないという状況に立たされたチッポラは、夫の命のためには自分の立場など問題では無くなったのではないでしょうか。Ⅰコリント10:12~13です。「 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

3.「アロンとともに(27~31節)」…主は、既にエジプトからアロンを呼び寄せておられ、モーセとアロンは神の山ホレブで再会を果たします。モーセはアロンに、主が自分に語られたことを伝えます。そしてエジプトに行き、イスラエル人の長老たちを集め、主がモーセに語られたことをアロンが伝え、しるしを行ないます。すると、長老たちは信じ、ひざまずいて主を礼拝するのです。エジプトで苦役を強いられているイスラエル人にとって、全知全能の主の権威の下でモーセとアロンが伝えてくれた神のご計画は、どれほど大きな慰めと希望をもたらしてくれたことでしょう。それは今日(こんにち)、私たちに与えられているイエス・キリストの十字架の救いによる福音と重なります。パウロはダマスコへの途上、イエス様から「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。(使徒26:18)」と言われました。

●2026年2月15日(日)礼拝メッセージ要旨 

出エジプト記4:1~17から「あなたの手にあるそれは何か」という題で、ポイント2つで見て行きましょう。

1.「それ(杖)を地に投げよ(1~9節)」…モーセはエジプトで苦しみを受けているイスラエル人を連れ出して救う、という実に大掛かりな働きをしようとしている人です。結果的にはそれを成し遂げた偉大な人物とも言えます。しかし、彼は驚くほど慎重派であり心配性な人物でもあったようです。主がモーセに「エジプトに行ってイスラエルの民を連れ出しなさい」と命じているのですが、モーセは3章では11節、13節、4章では1節、10節、13節の計5回も不安を訴えています。この4章1節では、モーセは「『主はあなたに現われなかった』と言われるでしょう」と、自分には霊的な権威が無いという不安を訴えます。そこで主はモーセに、持っている杖を投げよと言われます。すると杖は蛇になります。尾を掴めと言われ、その通りにすると再び杖になります。それだけではなく、結果的にモーセはエジプトで杖のしるし以外に10のしるしを行ないます。さて、ここで気になるのはモーセよりも、この聖書の記事を読んでいる私たちです。最初から聖書を受け入れない人にとっては「杖が蛇になるなんて?!」と、聖書を否定する根拠にするでしょう。「クリスチャンである」と自他ともに認める人々の中にも、こういった聖書に記されている奇跡を素直に受け入れない人々もいるようです。例えば、聖書を素直に信じる人々は、地球の年齢を約6000年としています。一方、無神論、進化論者は46億年としています。一般的には何となく後者が支持されています。それは無神論の立場から宇宙や地球の存在、そして私たち人間の存在を説明するためには、とてつもなく長ーい年月を要すると考えるからです。クリスチャンと言われる人々の中にも、聖書よりもこの世の46億年を支持して自分たちを知識人であると勘違いしている人々もいます。しかし、アイザック・ニュートン、ヨハネス・ケプラーなどは地球の年齢を約6000年としています。よく考えてください。この世界を創造した真の神が杖を蛇に変えても、また元通りにしても何の不思議はありません。聖書は、創造主である全き神のことばです。聖書のことばを素直に信じ受け入れることによって真のいのちを得るのです。ピリピ2:16です。「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」

2.「私はことばの人ではありません(10~17節)」…モーセは、今度は「私はことばの人ではありません」と言います。すると主は「だれが人に口をつけたのか。わたし主ではないか」と仰せられます。それでもモーセは「ああ主よ。どうか他の人を遣わしてください。」と、くいさがります。主はモーセの願いを受け入れ、兄のアロンと一緒に行動するようにと言われます。アロンが語り、モーセは杖を手に取ってしるしを行なうというわけです。モーセとしては結果的に兄と二人で行動出来て心強かったかもしれません。私たちはどうでしょう。モーセのように杖は持っていないかと思いますが、天の神様から多くのものを与えられているのではないでしょうか。よく考えてみれば、それぞれ、その人にだけ与えられている独特な賜物もいただいているものです。最後はⅠペテロ4:7~11です。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」

●2026年2月8日(日)礼拝メッセージ要旨         

 出エジプト記3:1~22から「わたしは『わたしはある』という者である」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「主がモーセに現われる(1~10節)」…モーセはミデヤンの地にすっかり定住し、羊の群れを引き連れて、荒野の西側、神の山ホレブにやって来たときのことです。柴が燃えているのに焼け尽きないのを見て、不思議に思い、近づいて行くと、主が「モーセ、モーセ」と仰せられました。彼は「はい。ここにおります。」と言うと、主は「ここに近づくな。足の靴を脱げ。あなたの立っている所は聖なる地である。」と言われると、モーセは恐れて顔を隠します。そして主はモーセに「わたしはイスラエル人の叫びを聞いた。わたしは彼らをカナンの地へ上らせるために下って来た。わたしはあなたをパロのもとに遣わす。今行け。イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」と言われました。新約聖書においてイエス・キリストは弟子たちに「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16:15)」と言われました。また、パウロはローマ人の手紙10:15で「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」と言っています。主がモーセに言われたと同じように、こんにちの私たちに対しても宣教者として、また主の証人として遣わそうとしておられます。

2.「モーセの問いかけ(11~15節)」…主から「エジプトに今行け」と言われたモーセは「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行って、イスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」と言います。すると主は「わたしはあなたと共にいる」と言われます。そこでモーセは「今、私はイスラエル人のところへ行きます」と応答しますが、彼には懸念することがありました。それは、「父祖の神が私を遣わされたと言っても、彼らは『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。何と答えたらよいでしょうか」と尋ねます。すると主は「わたしは『わたしはある』という者である。」(אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה←読み方向【Ehyeh Asher Ehyeh】)と答えられます。英語では(I AM WHO I AM.)です。つまり、過去、現在、未来において永遠に存在する者であるという意味であろうと言われています。また、新改訳聖書では太文字でとされている(יהוה)YHWH と関連するのではないかとも言われています。いずれにしましても、天地万物を創造し、それを統べ治めておられる絶対的で恐れ多い方であることは間違いありません。しかし、この方は、ただ恐ろしいだけではありません。Ⅱ歴代誌30:9bには「~あなたがたの神、【主】は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません。」とあります。

3.「主の補足説明(16~22節)」…主がモーセに対しては、ただ「行きなさい」だけではなく、行ってどのようにすべきか、また、そのとき相手の反応(イスラエル人の反応、そしてパロの反応まで言及しています。)はどうか、ということにまで細かく説明しています。聖書が示している全知全能の神は、ご自身のみこころを懇切丁寧に私たちのために示しておられます。旧約39巻、新約27巻、合計66巻、新改訳聖書第三版では旧約1568ページ、新約503ページ、合計2071ページに渡ってそのみこころを示しておられます。私たちは、この聖書を読み、神のみこころに従順に聞き従わねばなりません。最後はイザヤ書55:6~9です。「【主】を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。『わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──【主】の御告げ──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。』」

●2026年2月1日(日)礼拝メッセージ要旨   

 出エジプト記2:1~25から「その子をモーセと名付けた」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「モーセの幼少期(1~10節)」…モーセの三歳上に兄のアロンがいます。そして、モーセが生まれた頃には、すでに分別のある姉(ミリヤム)がいます。当時、イスラエル人は生まれたとき「男の子ならナイル川に投げ込まなければならない」という命令がエジプト王から下されていました。モーセはかわいい子で、三か月の間、隠されていましたが、もう限界ということで、ナイルの岸の葦の茂みの中に置かれました。そのときパロ王の娘が水浴びに来て、パピルス製のかごに入れられた乳児を発見しました。それを遠くで見張っていたその子の姉がパロの娘に「その子に乳を飲ませるために乳母を連れて来ましょうか」と言うと、パロの娘はあっさりと同意します。そして、その子の母が連れて来られ、パロの娘から賃金を貰って、その乳児を育てることになりました。そして、その子が大きくなったときに母親は、その子をパロの娘のもとに連れて行きました。その子はモーセ(引き出すの意)と名付けられ、王女の息子として育つことになりました。当・つばめさわ教会は、15年前、シーサイドバイブルチャペルという名で海辺にありました。しかし、3.11東日本大震災で、そこから「引き出されて」、今、この宮城野区燕沢2丁目にあります。その原点を忘れないように、公文書上の正式名称とは別に、通名として「Seaside Bible Churchつばめさわキリスト教会」としています。

2.「モーセの青年期(11~15節)」…モーセが大人になったとき、彼は同胞の所へ出て行き、その苦役を見ました。一人のヘブル人をエジプト人が打っているのを見ました。モーセはそれを見て、誰も見ていないのを確認してから、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に隠しました。次の日、二人のヘブル人が争っているので、悪い方に「なぜ自分の仲間を打つのか」と言うと、その男は「誰があなたを私たちの裁きつかさにしたのか。昨日のように私も殺すのか」と言うと、モーセは恐れました。エジプト王女の息子として育てられたのに、モーセの権力地盤は軟弱のようです。それにモーセは、正義感に燃える人物でしたが、怒りに任せた性急なやり方では理解を得られません。しかし、その後、40年を経て、それ以降の40年間(80才から120才)にモーセはイスラエル人の出エジプトで大きな貢献をし、主から十戒や律法を授けられ、「旧約のモーセ」、「新約のイエス・キリスト」と言われるほどになります。モーセを通して確立された律法がイエス・キリストによって成就されたのです。キリストは「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)」と言われました。

3.「モーセ、ミデヤンに行く(16~25節)」…パロ王はモーセがしたことを聞いて、モーセを殺そうとします。しかし、モーセはそこから逃れ、ミデヤンに行きます。そして、水汲み場でミデヤンの祭司の娘たちを助けたことがきっかけで、その娘のうちのチッポラと結婚し、ミデヤンで暮らすことになります。しかし、その一方で、エジプトでのイスラエル人は引き続き労役のために呻き、喚いていました。このときエジプトで奴隷になっているイスラエル人は、今日(こんにち)、暗やみの世界の支配者たちの配下に置かれ、死の恐怖におののいている人々の姿を表しているのではないでしょうか。私たちは、この天地の創造主のもとから遣わされたイエス・キリストの十字架と復活による救いを受け入れ、永遠のいのちの希望と安心感の中で、キリストのからだなる教会に属し、イエス様にしっかり連なり、多くの実を結ばせていただきましょう。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)」

●2026年1月25日(日)礼拝メッセージ要旨    

 出エジプト記に入りました。1:1~22から「エジプトでの圧制」という題で今回はポイント2つ上げます。

1.「苦役を強いられる(1~14節)」…あの七年の豊作と七年の飢饉のとき、エジプトはヨセフのゆえに大いに富を増し加えました。そのヨセフが生きていた頃は、エジプト人もイスラエル人に対しては何も出来なかったでしょう。しかし、ヨセフが死に、ヨセフのことを知らないエジプト王が立てられると状況は変わって来ました。しかもイスラエル人は多産であり、人口が増えてくると、元々の住民であるエジプト人たちにとっては脅威に感じたことでしょう。例えば、日本のプロスポーツの世界もそうですが、外国人枠という制度を設けて対策をしています。それでも、大相撲などでは外国人力士の活躍が際立っています。さて、エジプトです。イスラエル人の勢いを抑えるため、エジプト王はイスラエル人に対して苦役を課します。しかし、12節には「苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がった」とあります。結果的にイスラエル民族がエジプトに寄留していたのは約400年ですが、たぶん、最初の100年間ほどはヨセフのゆえに安泰だったでしょうが、その後の約300年間(推定)は奴隷状態でした。それは、「神の選びの民としての試練の時」となったと思われます。ハミガキで有名なライオンの創業者・小林富次郎氏(1852~1910)は36才のときにクリスチャンとしての洗礼を受けました。才覚に恵まれた人で、石鹸やマッチなどの会社を立ち上げました。マッチの材料である丸太を宮城県石巻で積み上げて置いていたところ、大雨で北上川が氾濫し、丸太が流れ、それが家々に損壊を及ぼしました。小林氏は自分の財産を失い、自然災害で致し方ないことなのですが責任を感じて極度に苦しんでいました。そのとき、牧師さんからもらっていた葉書のみことばヘブル12:11「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」を思い出し、そこから、もう一度やり直そうと決意して39才のときに東京に戻り、そこから始まって今のライオン株式会社があるとのことです。

2.「神を恐れた助産婦(15~22節)」…エジプト王は、次の手を打ちます。それはイスラエル人の子が生まれるとき、「男の子なら殺し、女の子なら殺せ」という、とんでもない命令を発しました。しかしヘブル人の助産婦、シフラとプアは、その命令に従うことはありませんでした。王が彼女たちに問い詰めると「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」と答えます。しかし、神はこの助産婦たちに良くしてやり、彼女たちの家を栄えさせます。そこでパロ王は22節で「生まれた男の子はみなナイル川に投げ込まなければならない」と命じます。次の出エジプト2章でモーセが登場します。モーセは生まれてから3か月間隠されていましたが、パピルス製のかごに乗せられナイル川の岸辺に置かれたところ、パロの娘がそれを見つけて引き取ったのです。それゆえ、王家の子として育てられます。ローマ人への手紙11章33節には「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」とあります。それらの背後に天地を創造した全能の神の御手があることは間違いありません。イエス・キリストの名によって、同じ全能の神を信じる今日のクリスチャンにとっても、不思議な神の導きの中にあり、日々、様々な霊的、信仰的な戦いの中に置かれていると言えるでしょう。Ⅱコリント10:4には「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」とあります。クリスチャンには「祈りとみことば(聖書)」があります。いつも、主に心を向け、謙虚に誠実に歩み、主を待ち望みつつ、日々を過ごしてまいりましょう。「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。(ホセア12:6)」

●2026年1月18日(日)礼拝メッセージ要旨              

創世記の章、50章1~26節からです。ヤコブの葬儀が行われ、その後、ヨセフも死にます。「ヤコブの葬儀」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ヤコブの葬儀(1~14節)」…ヤコブが死に、ヨセフは生前の父の要望通り、遺体を先祖と同じカナンの地に埋葬します。喪主であるヨセフは、まずパロ王の承諾を得てから、エジプトの家臣やパロの家の長老たちを伴い、さらにエジプトの戦車と騎兵も同行します。それを見たカナンの住民は「これはエジプトの荘厳な葬儀だ」と言っています。現代の日本では、数年前まで葬儀というと、人が多く集まるというイメージがありましたが、新型コロナウィルスの騒動以後、「家族葬」とか「小さなお葬式」、または葬式をしないでいきなり火葬するケースもよく聞くようになりました。却って、コロナ騒動の影響で形よりも実質を重んじるようになったとも言えます。最近は「終活」という言葉をよく聞きます。確かに、自分が死んだあとのことを整えるということも疎かにできませんが、クリスチャンはイエス・キリストの救いによる永遠の希望が与えられているのですから、むしろ、この永遠の希望を証しすることに心を向けるべきでしょう。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)」

2.「仕返しの心配(15~21節)」…父ヤコブが死んでいなくなり、兄たちはヨセフが自分たちに仕返しをするのではないかと心配になりました。彼らはヨセフの所に行き、父ヤコブが生前「ヨセフに対して兄たちは悪いことをしたが赦してやってほしい」と言っていたという言葉を伝えて、改めて、かつてヨセフを奴隷として売り飛ばした悪事に対しての赦しを乞いました。ヨセフは「恐れることはありません。あなたがたは私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとされました」と彼らを赦しています。詩篇84:6には「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」とあります。誰の人生においても「涙の谷」があることでしょう。でも、神はそれを泉のわく所としてくださることを信じる信仰を持ちましょう。また、人を赦すと自分も神に赦され、赦さないと、自分も神に赦されません(マタイ6:14~15参照)。人を赦し、人を祝福し、それによって、自分も赦され、祝福を受けるのです。

3.「ヨセフの死(22~26節)」…ヤコブは147才で死に、ヨセフは110才で死にます。単純計算ですが、ヨセフは30才でパロに次ぐエジプトの支配者になり、9年目にヤコブ一族がエジプトに移住した時は39才です。その17年後に父ヤコブが死んだ時は56才、父の死後54年生きて、110才で亡くなった計算です。晩年も穏やかに幸せに過ごしたことがうかがえます。ただ、ここで興味深いことは、ヨセフ自身の葬儀のことは記されてはいません。ヨセフも自分の遺体をカナンの地に葬ってほしいと兄弟たちに言っていますが、実際にヨセフの遺骨がカナンの地に埋葬されるのは、その400年ほど後のことになります。ヨシュア記24:32には「イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。」とあるとおりです。つまり、ヨセフは自分の権力と財をもって父ヤコブの荘厳な葬儀をしたものの、自分が死ぬと、急激に彼の権勢はその影響力を失ったのではないかと思われます。世の権力や栄華はほんの一瞬です。私たちは救い主イエス・キリストの永遠の希望に目を留めてまいりましょう。「 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。(ダニエル書12:2~3)」

●2026年1月11日(日)礼拝メッセージ要旨 

 創世記49章1~33節からです。臨終を直前にしたヤコブが12人の子たちを集めて預言的祝福(祝福とは言えない内容も含め)を語ります。「ヤコブ、12部族を祝福」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「ルベンからユダまで(1~12節)」…長男ルベンは「水のように奔放」だったと言われています。それは「父の床に上った」からです。つまり、節操が無かったということです。次男、三男のシメオンとレビは、シェケムで虐殺事件を起こしています。それゆえにカナン定着後には両部族とも散らされています。但し、レビ族は祭司職という理由で土地の割り当てがありません。またモーセが出ています。ユダ族は「王権はユダを離れず」と言われ、12部族中で断トツに祝福のことばを受けています。ユダは若いときには芳しくない道を行きましたが、特に、エジプトに二回目の穀物購入に行ったときです。ベニヤミン一人が監禁されかけたとき、ユダが「自分がベニヤミンの身代わりになる」と言っています。そのときエジプトの支配者として応対したヨセフは感極まって自分の素性を明かし、その後、ヤコブ一族は皆でエジプトに移住しています。人の一生を見るとき、子ども時代はもちろん、若い時も欠けが多いものです。もちろん、年を取っても欠けだらけです。それでも、私たちは、聖書のことばに教えられて、祈りつつ、成熟を目ざしていきたいと思います。

2.「ゼブルンからナフタリまで(13~21節)」…ダンとナフタリを取り上げましょう。彼らはラケルの女奴隷ビルハの子です。士師記13~16章でダン族出身の怪力サムソンが出てきます。彼はナジル人(聖別された者の意)として髪を切らずに伸ばしていました。それが怪力の秘訣でした。しかし彼は女性関係にだらしなく、デリラという女性に自分の秘密を打ち明け、とうとうペリシテ人に捕らえられます。最後は、ペリシテ3000人が入った建物の柱に縛り付けられますが、再び髪の毛が伸び、彼の怪力で自分と建物内の3000人と共に死にます。また、ダン族は士師記17章で正義とは言えない行動をしています。一方、ナフタリは21節で「ナフタリは放たれた雌鹿で、美しい小鹿を産む」と言われ、申命記33:23でモーセのことばとして「ナフタリは恵みに満ち足り、【主】の祝福に満たされている。西と南を所有せよ。」と言われています。カナン定着後はガリラヤ湖の西側、キリスト時代のイエス様の宣教の拠点となった地域を得ます。さて、この創世記49:18には前後の脈絡に関係なくポツンと「 【主】よ。私はあなたの救いを待ち望む。」とあります。何はともあれ、私たちは創造主によって形づくられ生かされている被造物に過ぎません。「主の救いを待ち望む」ことは人間にとって最も必要な「持つべき姿勢」と言えます。

3.「ヨセフ、ベニヤミンとヤコブ召天(22~33節)」…ヨセフに対する祝福は恵みに溢れています。この時点でヨセフは既にエジプト第二位の支配者であって、地位においても経済力においても他の兄弟たちとは比べ物にならないほどでした。しかし、ユダが受けたような崇高な次元の祝福ではありません。ベニヤミンは「かみ裂く狼」と言われています。士師記19~21章で、ベニヤミン族はイスラエル民族内での争いを起こしています。イスラエル初代王サウルはベニヤミン族の出です。ダビデが台頭してくると、サウル王はダビデの命を狙います。一方で、サウルの息子ヨナタンはダビデの味方をし、彼ら二人は篤い友情で結ばれていました。それゆえ、サウルとヨナタン亡き後、ダビデはサウル家の人々を粗末に扱いませんでした。12部族に対する預言的祝福を終えて、ヤコブは息を引き取りました。ヤコブ(イスラエル)ほど波瀾に富んだ生涯を送った人は中々いないでしょう。ヤコブのゆえにイスラエル民族があり、そのイスラエル民族を通して救い主イエス・キリストがこの世に来られ、唯一の救いの道を開いてくれました。

●2026年1月4日(日)礼拝メッセージ要旨                

1月1日の元旦礼拝では、箴言18:20~21から「信仰的告白」という題でした。新年最初のこの聖日礼拝も、それと共通する内容になります。ヨシュア記6:1~21から「エリコの城の攻略」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「1×6+7=13」…出エジプト後、モーセが召され、ヨシュアがイスラエルの民を導くようになりました。ヨルダン川東岸から西岸に移動し、ギルガルに宿営して、いよいよカナンの地の最初の町エリコでの戦いに臨もうとしていました。そのとき神は、ヨシュアにエリコの城壁の回りを一日一度回り、それを六日間続け、七日目には七度回るようにと言われました。正に、人間の常識では考えられない戦い方です。でも、ヨシュアは従います。5章13~15節で、ヨシュアの前に主の軍の将が現われ、ヨシュアは主に全面的服従することを確認させられています。時代はBC(紀元前)1400年頃のこと、今から約3400年前のこと、しかも戦争の方法です。しかし、今日、私たちには霊的な戦いがあります。敵は人間でも国でもありません。悪魔とかサタンとか悪霊と呼ばれている存在です。エペソ6:12には「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とある通りです。次の13節には「神のすべての武具をとりなさい」とあります。そして、14~18節にその七つの神の武具が記されています。①真理の帯、②正義の胸当て、③平和の福音の備え、④信仰の大盾、⑤救いのかぶと、⑥神のことば、そして⑦祈りです。

2.「戦士たちの列の間に七人の祭司たちと契約の箱が」…城壁の回りを合計13度回るのは戦士たちだけではありません。雄羊の角笛を持った七人と祭司と契約の箱が戦士たちの列の間に入って一日一度を六日間、七日目に七度合計で13度回ります。つまり、神の臨在の象徴である契約の箱と神に仕える祭司たちを真ん中にしているのです。今日(こんにち)、この世の一般的な考えでは「この世界は偶然に出来た」と考え、人間の存在目的についても答えを持っていません。しかし、Ⅰコリント8:6には「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」と記されていて、この世界の存在の原因と人間の存在の目的を明確にしています。ですから、私たちは創造主なる真の神と救い主イエス・キリストを信じ受け入れ、神を第一にして歩んでまいりましょう。

3.「城壁が崩れ落ちた」…ヨシュアはヨシュア記6:17で、城壁の回りをまわり終えて、ときの声を上げて城壁が崩れ落ちたとき、まず「遊女ラハブとその家族を生かしておかなければならない」と命じています。それは、ラハブがイスラエルの斥候二人を追手から匿い、また彼女自身がイスラエルの神を信じ恐れていたからです。それゆえに、マタイ1章のキリストの系図にはラハブの名が記され、あのルツ記のボアズの母となり、ボアズの子オベデ、オベデの子エッサイ、エッサイの子はダビデとなっています。さて、神がヨシュアに告げた通り、合計13度城壁の回りをまわって、祭司の角笛が吹き鳴らされ、民がときの声を上げると、城壁は崩れ落ちました。イエス・キリストはマタイ21:21で「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。」と言われました。昔も今も、主のみこころなら、主の許しの下に奇跡は起きるでしょう。私たちは、全能の主を信じ、期待して祈り、主の時を待ち望みましょう。

●2025年12月28日(日)礼拝メッセージ要旨           

 しばらくクリスマス関連の聖書箇所からでしたが、久々に創世記に戻り、創世記48:1~22から「私(ヤコブ)は彼らを祝福しよう」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「カナンの地ルズ(ベテル)で」…ヤコブの召天の日が近づき、その上で病気の知らせがヨセフに届き、ヨセフは二人の子を連れて父が臥せっている所に行きます。ヤコブはヨセフが来たことを聞いて、力をふり絞って床の上に座ります。そしてヤコブはルズ(ベテル)で、主が彼に現われ語られたことをヨセフに語ります。それは、祖父アブラハム、父イサクから受け継いだ主からの約束です。一つは、イスラエル民族は増え一つの国民となること。もう一つはカナンの地が自分たちに与えられるということです。イスラエルの民はエジプトで約400年滞在し、出エジプト時に男だけで60万人となっています。その後、様々な変遷と捕囚や迫害を経て、現在ユダヤ人は1400万人、そのうちイスラエル在住は630万人、アメリカ(USA)には570万人、あとの200万人はフランス、カナダイギリスなどに在住しているとのことです。つまり、全能の主がアブラハムに、そしてヤコブに語られた通りになっています。主が語られたみことばは必ず実現するのです(イザヤ55:10~11参照)。

2.「ヨセフの二人の子」…5節でヤコブは、現代の一般的な感覚からすると、不思議なことを言っています。それは「ヨセフの二人の子エフライムとマナセはルベンとシメオンと同じように、私(ヤコブ)の子とする」というものです。それはヤコブの人間的な思惑ではなく、主のみこころに従ってのことでしょう。出エジプト後、イスラエル人がカナンの地に定着していくとき、ヨセフと祭司職のレビの名は消え、マナセとエフライムが代わりに加わっています。この後、ヤコブは弟エフライムに右手を置いて祈っていますが、後の時代になって、エフライム部族から、モーセの後継者ヨシュアが出ています。そしてイスラエル初代王サウルと二代目王ダビデに油を注いだ預言者サムエルもエフライム部族の出です。但し、ソロモン王のあと、イスラエルは二つの国に分裂しますが、ユダ族の対抗勢力となったのはエフライム部族のヤロブアムでした。ヤロブアムから始まった北イスラエル王国は真の神から離れ偶像礼拝に進み、南ユダ王国より135年も早く、アッシリヤ帝国によってBC721年に滅ぼされました。確かに、エフライム族はリーダー的な存在ではあったのですが、最も肝心な真の神への信仰は失われていったのです。

3.「右手をエフライムの上に」…マナセは「忘れる、忘却」という意味があります。父ヨセフとしては、兄たちからひどい仕打ちを受け、エジプトでは奴隷生活から始まっています。その後、結婚して子が与えられ、過去の嫌なことは忘れようとしたのでしょう。エフライムは「二倍に増える、実り多い」という意味があり、ヨセフは二人目の子に対して二倍の喜びを味わったのでしょう。その子らの祖父であるヤコブは、彼らに祝福の祈りをするとき両手を交差させ、左側に立っているエフライムに対して右手(イザヤ41:10参照)を置き、右側に立っているマナセに対しては左手を置きました。ヤコブ自身、双子の兄であるエサウから長子の特権の祝福を(母リベカの計らいもあり)横取りしたことも思い出していたでしょう。確かにその祈りの通り、後年、ヨシュアやサムエルなどの優れた霊的指導者がエフライム族から出ましたが、その後は芳しくありません。それは真の神から離れ、偶像礼拝に陥ったからです。きょうは、2025年最後の礼拝。つい先日はクリスマス、元日になると今度は多くの人が初詣に行きます。しかし、全知全能で唯一の創造主が最も忌み嫌うことは、偶像礼拝です。使徒の働き17:24には「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。」とあるように、私たち人間の存在の原因であり、目的でもある真の主、イエス・キリストの父なる神に立ち返るべきであります。