創世記37:1~36からです。この章から、ほぼヤコブの子ヨセフの動向が中心となっていきます。それゆえに、ヨセフ物語とも言われています。本日は「ヨセフ物語の始まり」という題でポイント3つ上げていきます。
1.「兄たちに憎まれるヨセフ」…ヨセフはイスラエル(ヤコブ)の年寄り子で彼の最愛の子で、特別の服を作ってもらっていました。またヨセフは、兄たちの悪い噂を父に告げていました。その上にヨセフは畑での束の夢と太陽と月と11の星の夢を見て、それを兄たちに話しました。その夢の内容は、自分が兄たちに拝まれるというものです。太陽と月と星の夢は、父母もヨセフを拝むというもので、さすがにこの時は父イスラエルもヨセフを叱りました。このときヨセフは17才で、人間的にはまだまだ未熟だったと言えます。これは何もヨセフに限ったことではなく、私たちもそれに近いような経験があったのではないでしょうか。行動すべき時に行動する。言うべき時に言う。しかし一方で静まるべき時に静まる。黙るべき時に黙る。そういう時もあるでしょう。私たちの救い主イエス・キリストは、多くの人を救うために、罪の無い神のひとり子であるのに、十字架で死なれました。比べようもないほどの圧倒的な力を持ちながら、その力を封印し父なる神のみこころに従い、多くの人の救いのために御自身をささげられました。
2.「エジプトへ売られるヨセフ」…兄たちがシェケムで羊を飼うために出かけたあと、イスラエルはヨセフに「兄さんたちの様子を見に行って、無事かどうか知らせてほしい」と言います。ヨセフは快く返事をし、出かけます。ベエル・シェバ(たぶん)からシェケムまで約100km以上あります。ヨセフがシェケムに到着すると、兄たちがいません。そこの人に尋ねると、ドタンに行ったようです。ドタンに行くと、兄たちはヨセフが来るのを見て「ヨセフを殺し、あれの夢がどうなるかを見よう」と言います。しかし、ルベンは反対し「あの子の命を打ってはならない」と言います。その時、イシュマエル人の隊商が通りかかります。(※この隊商がイシュマエル人ともミデヤン人とも記されています。他説もありますが、彼らは共にアブラハムの子孫でアカバ湾近辺に住み、この商売のために一緒に行動したのでしょう。)ユダが兄弟たちの空気をまとめたのでしょうか。「弟を殺したとて何の益になろう。ヨセフをイシュマエル人に売ろう」と言いますと、他の兄弟たちが聞き入れ、ヨセフを奴隷として売ることになりました。ルベンとユダは、共にヨセフに危害を加えることに反対しています。創世記49章にはイスラエルが、子たち12人に対して預言しています。ルベンに関しては芳しい預言はしていません。しかし、ユダに対しては「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。(創世記49:10)」と、最大限の賛辞とも言える預言をしています。もちろんユダにも落ち度はありましたが、他の兄弟たちとは違って積極的に献身的な行動をしています。
3.「銀20枚と赤く染まった長服」…このときヨセフは兄たちに奴隷として銀20枚で売られます。キリストはイスカリオテ・ユダに銀30枚(マタイ27:3)で売られます。また、ヨセフの長服は、兄たちが屠(ほふ)ったヤギの血に浸され、赤く染まりました。一方、キリストは、何の罪も過ちも無いのに、十字架刑を受け、御血を流され、死なれ、葬られました。(もちろん、三日目に復活し、今も生きておられ、弱い私たちを執り成しておられます)つまり、ヨセフはキリストの救いの予表と言えます。ヨセフの犠牲のゆえに、そののち、イスラエル一族はエジプトへ逃れ、生き延びました。75人でエジプトへ行き、出エジプト時は男だけで60万人になりました。このイスラエル人から出たダビデ王の家系を通して聖霊によって世に来られたイエス・キリストの十字架の救いが完成し、今日に至るまで、多くの人々がキリストを信じる信仰によって永遠のいのちの救いに与っているのです。さてヨセフはエジプトに連れて行かれ、侍従長ポティファルの下で仕えることになります。ヨセフは神と共にあり、何をしても栄えます。伝道者の書12:13です。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」