●2024年9月15日(日)礼拝メッセージ要旨 

黙示録17:1~18からです。17~18章では、大淫婦、大バビロンの現状とさばきについて記されています。今回もポイント3つ上げていきます。

1.大淫婦について…この大淫婦は、ある特定の一人の婦人を指しているのではなく、この世を支配している何か影のような存在、「罪」と言ってもよいかもしれません。この大淫婦は世の富の象徴である金と宝石で身を飾り、自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていました。つまり、富と欲望です。それは多くの人々、否、全ての人が潜在的に持っている願望とも言えるでしょう。この大淫婦のことを別名で大バビロンとも言っています。バビロン帝国はBC600年頃権勢を誇っていました。この黙示録が記されたのはローマ帝国の時代です。ですから、直接的な表現を避け、「大バビロン」と言い換えたのでしょう。それは、現代にまでも続き、現在の世界の主要な大都市も大バビロンと言えます。そこには富と欲望が集中しているからです。もちろん、富やお金は無いよりあったほうが良いでしょうが、私たちの救い主イエス・キリストは「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。(ルカ6:20)」と言われました。大事なことは永遠をどこで過ごすのか、ということです。富に目がくらんでその道を外し、永遠の滅びに向かうようなことがありませんように。

2.七つの頭と十本の角を持つ獣…第一のポイントで取り上げた大淫婦は、七つの頭と十本の角を持つ獣に乗っていたということです。さて、七つの頭とは七人の王たち、そして10本の角も10人の王たちということです。つまり、この世の支配者たちです。エペソ2:1~2には「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」とあります。空中の権威を持つ支配者である悪魔が、今、一時的に世を支配しています。それを許しておられるのは、この世界を創造し、全てのものを統べ治めておられる全知全能の真の神です。マタイ10:28には「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とあります。私たち人間が真に恐れなくてはならない方は、偶像の神々とか、この世の権威とか、その背後で操っている悪魔ではなく、私たちの魂をゲヘナに投げ込む権威を持つ方です。詩篇33:6~8には「【主】のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。主は海の水をせきのように集め、深い水を倉に収められる。全地よ。【主】を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。」とあります。恐れるべき方はただお一方、この天地を創造され、救い主であり、神のひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださった天の父なる神様だけです。

3.小羊は彼らに打ち勝つ…一般的には「キリスト教」と言われていますが、イエス・キリストによる福音宣教の歴史は迫害と共にあり、それは今も続いており、今後もありうるでしょう。ペンテコステ(五旬節)の時に使徒たち120人が祈っている所に聖霊が降り、初代教会が誕生しました。それ以来、福音宣教とともに、教会に対する迫害が常に起こり、まず、ステパノが殉教し、ヨハネの兄弟ヤコブが殉教しました。次にペテロが捕らえられますが、主の使いが遣わされ、ペテロは奇跡によって救出されます。教会は戦いもありますが、その一方で主にある勝利があるのです。14節には「この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」とあります。クリスチャンには、勝利者である小羊、すなわち救い主イエス・キリストがいつも共にいてくださいます。クリスチャンは召された者、選ばれた者(ヨハネ15:16)です。ですから、忠実に主に仕えてまいりましょう。主は、私たちが実を結ぶため、そしてイエス様の名によって祈り求めて、それが叶えられるために召され選ばれたのです。

●2024年9月8日(日)礼拝メッセージ要旨 

黙示録16:1~21からです。この章では七つの鉢が出てきます。ポイントを4(1+3)つ上げていきます。

1.七つのラッパと七つの鉢…黙示録8~9章、11章に七つのラッパが出てきます。一方、七つの鉢については、この16章に出てきます。筆者(私)が持っている(ニ、三冊の)聖書の解説書では七つのラッパと七つの鉢との関連について、ほぼ何も説明していません。黙示録を読んでいて混乱しない秘訣は「七つの封印と七つのラッパをベースとして位置づけ、それ以後の記事は補足説明として捉えること」ではないかと思っています。その捉え方の上に立って、七つ鉢について観察すると、七つのラッパと同一の事象を、ある別々の視点で表現しているのではないか、と受け止めます。その証拠として、第一から第七のラッパと鉢について、それぞれほぼ共通するキーワードがあります。第一のラッパと鉢=地、第二=海、第三=川、第四=天体、第五=苦痛、第六=軍勢、第七=成就、完成です。「ラッパ」と「鉢」、双方とも災いには違いありませんが、ラッパは音楽の楽器でもあります。勝利とか希望をイメージします。鉢は何かの入れ物がぶちまけられるということで、そこにあるのは破壊とさばきです。マタイ24:31には「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」とあり、選びの民にとってラッパは救いの時でもあります。私たちは神の怒りの鉢をぶちまけられる側ではなく、ラッパの音とともに選びの民として天に携え挙げられる者でありたいと願います。

2.正しいさばき…七つのラッパのときには第1~5のラッパ=第一のわざわい、第6のラッパ=第二のわざわい、第7のラッパ=第三のわざわい、と三つに分類していました。それに倣い、この第二のポイントでは、第1~5の鉢をまとめていきます。第一の鉢は地にぶちまけます。第二は海に、第三は川に、第四は太陽に、第五は獣の座にぶちまけます。第三の鉢のとき、7節で、祭壇が「~あなたのさばきは、真実な正しいさばきです。」と言います。この世においては、例えば、独裁国家などでは正しい者が悪いとされ、悪者が正しいとされることが多いでしょう。民主国家と言われる国においても、怪しいときがあるでしょう。しかし、全知全能の聖なる創造主においては、全く誤りはなく、真実で、完全な正しいさばきが行われるのです。それでも、第四と第五の鉢のとき、人々は悔い改めず、神に対して汚しごとを言います。

3.ハルマゲドン…筆者は何年か前、BFPJの招待でイスラエル旅行を体験させていただきました。テルアビブに到着後、二日目にカイザリヤ、そのあとカルメル山に行きました。そのカルメル山に展望台のような場所があり、そこでガイドさんが南東方面のなだらかな平野を指さし、「あちらに見えるのがメギドです」と、そのようなことを言われ、いわゆる世界最終戦争が起こるハルマゲドンであると認識しました。黙示録9:16では「騎兵の軍勢の数は二億であった」とあります。戦争には「補給」も必要です。実際的に二億人分の補給が可能とは思えません。しかし、この黙示録16:13~14を見ますと、「三つの汚れた霊どもが出て来る」とあり、その背後に悪魔的な異様な力が働いているのです。しかし、心配には及びません。15節には「──見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである──」とあります。キリスト者は、霊の目をさまし、イエス・キリストをその身に着て、きよく生きることを求めましょう。

4.事は成就した…第七の御使いが鉢を空中にぶちまけると、御座から出た大きな声が「事は成就した」と言います。そして、同時なのか、直後なのか、稲妻と声と雷鳴があって、かつてなかったほどの非常に大きな強い地震が起きます。大地震が起きたとき稲妻も発生することがありますが、その関連性について科学的な解明はされていないようです。最近は、南海トラフ地震に警戒するようにと言われています。大地震が起きたときのために、備えておくということは良いことであり、悪くはありません。しかし、想定をはるかに超えた大地震が起きたならば、人間はどうすることも出来ません。ですから、地震に対して必要以上に警戒して生活するのではなく、もっと大事なことに目を向けることです。それは、「魂の救い」という、万全な備えをするのです。すなわち、イエス・キリストを信じ、バプテスマを受け、霊の目をさまし、聖い生き方を求め、みことばと祈りに励むことです。

●2024年9月1日(日)礼拝メッセージ要旨 

 

黙示録15:1~8からです。「モーセの歌と小羊の歌」という題でポイント3つ上げていきます。

1.神の激しい怒り…次の16章で、「神の激しい怒りの七つの鉢」の実行が記されます。その前の章である15章1節で、「神の激しい怒りがここに極まるのである」と表現しています。神の怒り、これは地上的な最後の神の裁きでしょう。聖書の神はこの世界を創造し、この地球に私たち人間を住まわせ、全てを統べ治めておられます。「創造主などいない」「人間は突然変異によって進化してきた」などと言って、創造主である真の神の存在を全く認めようとしません。そういう人々に対し、真の神はいつまでも裁きをしないでおくことはありません。ですから、私たち人間は、全知全能の真の神の存在を認め、この方を恐れ、この方が遣わして下さった救い主イエス・キリストを信じて従うべきなのです。

2.モーセの歌と小羊の歌…「モーセの歌」とは、エジプトで奴隷となっていたイスラエル人が、神に遣わされたモーセによって解放されたものの、紅海を前にして、エジプトの軍隊が後ろから追っかけてきたときのことです。神がモーセに「杖を上げて、手を海の上に伸ばし、海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ」と命じます。モーセがそのとおりにすると、奇跡が起こり、イスラエル人は海を進んで行きました。しかし、エジプト軍も同じようにして追っかけてきます。再び神がモーセに命じ、モーセが海に手を差しのべると、イスラエル人は海を渡り終えますが、エジプト軍は海が元に戻って全滅するのです。そのとき民は「モーセの歌」を歌って主を称えます。次に「小羊の歌」です。これは黙示録5章で、唯一、小羊(イエス様)が封印を解くのにふさわしい方であるということで、5:12で多くの御使いたちが「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」と称えています。「ほふられた小羊」とあります。天の真の神様は、奇跡をもって、エジプト軍からイスラエルの民を救い、また、小羊イエス・キリストを世に遣わし、私たちのために十字架によって罪の贖いを成し遂げられ、至れり尽くせりを行なってくださるのです。世の多くの人々は何を基準にして生きていますか。皆が行くところに、自分も行って安心を得ようとします。真の安心は、そこにはありません。マタイ7:13には「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」とあります。正しく、真実な真の神の道は狭く見えますが、救い主イエス・キリストと共にあることが最高の安心です。

3.立ち上る煙で満たされ…天にあるあかしの幕屋の聖所が開き、その聖所から七つの災害を携えた七人の御使いが出てきました。そして四つの生き物の一つが、神の怒りの満ちた七つの金の鉢を七人の御使いに渡しました。そのとき、聖所は立ち上る煙で満たされ、七つの災害が終わるまで誰も聖所に入ることができませんでした。某県の某知事が部下にパワハラをしたということで、ニュースになっております。人間は元々欠けだらけの存在です。優秀だ、エリートだと言われ、ちやほやされて、自分が見えなくなり、やがて傲慢になって、謙虚さを忘れ、人としてあるべき姿からかけ離れてしまってはお粗末です。しかし、天の真の神様は同15:3に「あなたの道は正しく、真実です」とある通り、この正しく真実な方が激しくお怒りになると、その下に置かれた人間はどうすることもできません。ルカ23:34には「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」とあるように、キリストは、ご自分を十字架につけ、その着物をくじ引きしているローマ兵のために執り成し祈られました。まして、今日、キリストは私たちのためにも執り成しておられます。主の御名を呼び求める者は誰でも救われます(ローマ10:13より)。イエス様の御名をいつも呼び求め、この方と共に歩んでまいりましょう。

●2024年8月25日(日)礼拝メッセージ要旨 

黙示録14:1~20からです。黙示録13章では、悪魔とかサタンと言われている存在について記されていました。この14章では、その悪魔とは対極にある人々、神の近くで神を賛美する人々のことが取り上げられています。「神を恐れ、あがめよ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.神と小羊にささげられる初穂…1節で、子羊がシオンの山の上に立っていると、子羊とともに144000人の人たちがいます。その人たちの額には、子羊の名と小羊の父の名が記されていました。次に、彼らは2~3節では、御座の前で新しい歌を歌い、それが複数の立琴をかきならす大水のような、激しい雷鳴のような音であると記しています。この144000人、同じ黙示録7章4節~に出てきますが、同一の人々であるか、否かは不明です。はっきり言えることは、12000×12=144000、「12」はイスラエル12部族、キリストの弟子12使徒、神に選ばれた人々ということでしょう。もう一点は、4~5節にあるように、彼らは汚れなき人々で、小羊に従順に従い、その口に偽りのない、傷のない、神および小羊にささげられた初穂です。但し、5節では「人々の中から贖われた」とあります。「贖われた」、つまり、罪の赦しを受け、きよい者とされたのです。神と小羊にささげられる初穂とされたということは、特別な栄誉を与えられたということでしょう。「すべての人は、罪を犯した~(ローマ3:23)」とあります。大事なことは、悔い改めて主に従っていくことです。つまり、回心後、そして、今がどうであるかということです。

2.神を恐れ、神をあがめよ…6~7節で、もうひとりの御使いが中天を飛び「神を恐れ、神をあがめよ~」と大声で言います。そして、その後、8節で、第二の御使いが「大バビロンは倒れた」といいます。9~12節では、第三の別の御使いが、「獣とその像を拝み、自分の額か手に刻印を受けるなら、聖なる御使いたちと小羊の前で、火と硫黄とで苦しめられる。彼らの苦しみの煙は永遠にまで立ち上る。聖徒たちの忍耐はここにある。」と、要約すると、そういったことを言っています。要するに、世界の創造主と救い主イエス・キリストに立ち返り、悪魔の支配下にある世の権力に屈せず、偶像礼拝するな、ということです。パリ五輪が終わってしばらく経過します。YouTubeで「良いこともあったパリ五輪」というクリスチャン提供の番組がありました。女子砲丸投げで金メダルを獲得したドイツの選手は一投目で転倒して失敗しても賛美歌を歌い、次は「主よ、一緒に来てください」とお祈りして投じ、勝利しました。女子400mハードルで金メダルを獲得したアメリカの選手は「結果にかかわらず、神の栄光を現わすことが出来ますように」と祈り、世界新記録を出しての金メダルでした。女子スケボーで銅メダルだったブラジルの選手は滑走直前でカメラがアップになっているときに手話で「イエスは道であり、真理であり、いのちです(ヨハネ14:6より)」と動作をしました。彼女たちは、キリスト者として、オリンピックという与えられた機会を、神の栄光のため、福音のために行動したのです。

3.かまを入れて刈り取る…ここでの「刈り取り」は収穫の喜びではなく、神の激しい怒りによる「刈り取り」です。14節と16節では、白い雲が起こり、人の子(イエス様)がそれに乗って、手には鋭いかまを持っていました。キリストが雲に乗って来られるとき、マタイ24:30~31によりますと、ある人々にとっては悲しみと絶望のときであり、別の人々にとっては救いのときとなります。この刈り入れは穀物ではなく、ぶどうの刈り入れであり、20節では酒ぶねに入れられたぶどう液が血のように流れ出て、それが1600スタディオンに広がったのです。1600=40×40です。40という数字は聖書では「満ちる」という意味で用いられています。1スタディオンは185m、1600スタディオン296km、およそ仙台から東京までです。それほどまでに遠くに広がったのです。それは、神の激しい怒りを象徴的に表現しているのではないかと思います。今は、終末時代にさしかかっています。イエス様が雲に乗って来られたら、もう終りです。その前に、イエス様を信じ、神を恐れ、神をあがめて、第二ポイントで語ったクリスチャンのオリンピック選手のように、与えられた機会を用いて、神の栄光を現わしていきましょう。最後はエペソ5:15~16です。「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」

●2024年8月18日(日)礼拝メッセージ要旨 

黙示録13:1~18からです。先週の12章では、キリストの降誕、その降誕のバックグラウンドと言えるイスラエル、そして、それらに敵対する悪魔(サタン)の存在、そして、今日、キリスト者にとっては霊的な戦いの中にある、そういったことを話しました。それで、本日は、そのうちの悪魔とかサタンと言われている存在について、深堀と言いましょうか、その特徴などについて見て行きましょう。

1.海から上がってきた一匹の獣…この、海から上がってきた一匹の獣は10本の角と7つの頭があり、その角に10の冠があります。前章12章に出て来る大きな赤い竜は、やはり7つの頭と10本の角ですが、頭に7つの冠があります。微妙に異なりますが、その赤い竜が獣に自分の権威を与えていますので、別々の存在ではあるのですが、結局、その出所は同じです。同じ悪魔の陣営に属していることに変わりはありません。さて、この獣の頭の一つが撃ち殺されますが、傷が直り、回復するので全地が驚いて獣に従い、権威を与えた竜を拝みます。獣は、42カ月活動する権威を与えられ、真の神に対して汚しごとを言い、神の民をののしります。こういったことは、特定の動きというよりも、悪魔の行動パターンと言えます。日本は、偶像礼拝大国とも言えます。仏壇、神棚、神社、また、そのほか無数の神々(偶像)の存在があり、それらを拝礼することが良いことであるかのように多くの人は思っています。しかし、Ⅰコリント10:20には「いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。」とあり、偶像礼拝するということは、悪霊と交わるということであり、そうすることは、その人に幸いが及ぶのではなく、むしろ滅びに向かわせるということです。今の世は悪魔が支配しています。悪魔の配下にあって罪の道を歩むのではなく、そこから抜け出て、真の神の側に立ち、神のしもべとなって、むしろ悪魔に立ち向かう者となりましょう。

2.もう一匹の地から上がってきた獣…この、もう一匹の獣についてのキーワードは「小羊のような」です。小羊はイエス・キリストの代名詞でもあります。一見、キリストのように見えても「竜のようにものを言った」とありますから、所詮、中身は悪魔です。最初に出てきた獣よりも見分けがつきにくいということです。この小羊のような2本の角を持つ獣は、海から上がってきた最初の獣の権威を働かせたり、大きなしるしを行なったり、人々に獣の像を造らせ、その像を拝まない者を殺させたりしました。ヨハネ8:44bには「~悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」とあります。結局、悪魔は初めから人殺しであり、偽りの父であって、そこから始まりそこに行き着くのです。目に見えない悪の霊がこの世で暗躍しています。悪魔の決定的な特徴を知り、惑わされないように十分に警戒しましょう。

3.その数は666である…16~17節には、悪魔(獣)は、あらゆる人々の右の手か額に刻印を受けさせ、獣の数字を持っていない者には物を売買できないようにさせた、とあります。日本では2022年6月1日より、ペットにマイクロチップの埋め込み義務化の法が施行されました。動物にマイクロチップというだけでも違和感があります。また最近問題となっているマイナンバーカードや様々なカードを誰もが持つ時代となりました。それらのことを総合して感じることは、時代が益々、この聖書の記事に近づいているということです。さて、「666」です。あくまでも、私個人の見解で「参考までに」ということですが、666という数字はⅠ列王記10:14に「一年間にソロモンのところに入って来た金の重さは、金の目方で666タラントであった。」と出ています。1タラントを34㎏で計算しますと、666タラントは22トン644㎏になります。当時、ソロモン王国はその周辺諸国と比べ、圧倒的な国力と経済力を誇っていました。ここから想像されることは、666の数字を持つ人物がやがて現われ、世界と経済を支配するということです。マタイ24:15、Ⅱテサロニケ2:9~10、ダニエル9:27などを総合的にまとめますと、やがて不法の人、荒らす憎むべき者と言われる人物が現われ、悪魔的な力によって世界を統治するようになるでしょう。彼は最初、人々に歓迎され、期待されますが、やがて独裁的に振る舞い、人々を支配し拘束するようになるでしょう。私たちは、悪魔の支配から逃れ、信仰と聖霊に満たされ、真の神と救い主イエス・キリストの側に立ち続けましょう。

●2024年8月11日(日)礼拝メッセージ要旨 

黙示録は、6~11章の七つの封印と七つのラッパで語られていることが、黙示録の中心的な筋書きと言ってもよいでしょう。最後の七つ目のラッパが吹き鳴らされて、キリストが支配される世界となって、そこで完結を迎えるのですが、この12章からは、振り出しに戻ったような内容になります。それは、それまで言及していなかった部分に対する補足的説明が付け加えられるという捉え方をするのが正解だと思います。それで、この12章では、三つの場面に分けて、それを三つのポイントとして見て行きましょう。

1.「場面①…1~6節」…1節で「巨大なしるし」と言っています。非常に重要なしるしという意味であると思われます。キリスト降誕に関するしるしですから、正に重要なしるしです。「一人の女が太陽を着て~」とあります。創世記37:9で、ヨセフが「太陽と月と星」のことを語っています。それはヤコブと12人の息子たち、つまり、この一人の女とはイスラエル民族のことを言っていると思われます。キリストは乙女マリヤから人として降誕されましたが、ヨセフとマリヤはダビデの子孫で、大きな括りではイスラエル民族を背景として、キリストが世に現れたのです。もう一つのしるしはそのキリストの命を狙う大きな赤い竜=悪魔の存在です。人の目には見えないけれども、この世界を創造した真の神の存在すら認められない人にとって、悪魔の存在などは愚の骨頂となるでしょう。しかし、この霊的な背景を無視すると、正に、その悪魔に翻弄された人生となるでしょう。エペソ6:12には「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とあります。本当の敵は人間ではありません。背後に存在している悪魔です。

2.「場面②…7~12」…悪魔は「堕落した天使」とも言われています。4節とイザヤ14:12~13の記事を重ね合わせると、傲慢になった天使の三分の一が龍に引き寄せられ、それが悪魔となったということなのでしょう。その元天使たちが、天で戦いを挑むけれど、ミカエルとその使いたちによって退けられ、地上に投げ落とされます。そして、このとき、天で大きな声が聞こえます。10節で「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」と、二つのことを言っています。一つは「キリストの権威が現われたこと」と、もう一つは「サタンが投げ落とされたこと」です。この世は「一寸先は闇」とも言われています。今日、調子良くても、明日は分かりません。私たちは霊的な武装をして、悪魔的なものを見分け、いつも神の側に立ち、みことばに従って、勝利の道を進みましょう。そして、11節には「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」とあります。小羊の血とはキリストの十字架の救いです。あかしのことばとはキリストを信じる信仰の告白です。ローマ10:10には「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあります。信仰のことばを口で、つまり声を出して告白することが大事です。

3.「場面③…13~18」…キリストに対して何も出来ない竜は、それで終わりません。今度は男の子を生んだ女を追いかけます。第二次世界大戦中、ヒトラー率いるナチスドイツはユダヤ人撲滅を画策し、600万人のユダヤ人が犠牲となります。戦後1947年、国連でイスラエルとパレスチナ分割案が決議されます。イスラエルはそれを受け入れますが、パレスチナ側は、そもそもイスラエルの存在そのものを認めないのですから、いつまで経ってもイスラエルに平和が訪れることはありません。それに加え、一般のメディアも反イスラエル側に立った報道をしています。そういった歴史や現状の背後には目に見えない竜(悪魔)の力が働いているのでしょう。17節には、竜は、その女だけではなく、女の子孫の残りの者、すなわち神の戒めを守り、イエスの証しを保っている者たちにも戦いを挑みます。今日、キリスト者にとっては、まだまだ霊的戦いの最中にあると言えます。エペソ6:10には「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」とあります。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の大盾、救いのかぶと、御霊の剣である神のことば、そして祈りをもって、霊的な武装をしましょう。

●2024年8月4日(日)礼拝メッセージ要旨 

●2024年8月4日(日)礼拝メッセージ要旨 

本日は黙示録11:1~19から「第7の御使いがラッパを吹き鳴らした」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「杖のようなはかりざお」…七つ目のラッパが吹き鳴らされる前に「間」があります。その間というのは、天の神は一人でも滅びることを望まず、最後の最後まで、人々が悔い改め、主に立ち返ることを望んでおられるということです。前の章、10章でもそのことが記されていて、この黙示録の著者ヨハネもあらゆる民族、国々に対して預言するように、と言われています。そういった流れの中で、ヨハネに杖のような測りざおが与えられ、「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。」と言われます。杖で思い出すのはモーセです。モーセは杖を持って、エジプトのパロ王の前に立ち、イスラエル人をエジプトの奴隷から解放するように訴えます。そして、その杖をもって神の力により奇跡としるしを行ない、イスラエル人を救い出すのです。「神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ」とはどういうことでしょう。それは、一つの明確な基準を当てはめて、その基準に適合しているか否か、ということでしょう。つまり、神を礼拝している人々が、聖書のみことばの基準を満たしているかどうかということです。例えば、出エジプト記20:3には「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」とあります。偶像礼拝をしていたら、その人は聖書のみことばの規準から外れています。

2.「二人の証人」…3節で、主に立てられた二人の証人が現われ、1260日の間預言します。その前の2節では、「異邦人が聖なる都を42か月の間踏みにじる」となっています。1260日と42カ月は同じ3年半のことです。どうして、同じ期間なのに違う言い方をしているのでしょう。一方は「聖なる都を踏みにじり」、もう一方は神のみことばを預言しているからなのでしょう。悪と善、真逆のことを行なっているので、数字の表し方を別々にしたのであると思われます。ゼカリヤ4:14では「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」と言われています。つまり、この二人は聖霊に満たされた神の器ということです。この二人が預言している間は、彼らに害を加えようとする者から彼らは守られます。しかし、彼らが預言するのを終えると、底知れぬ所から上ってくる獣が、彼らを殺し、彼らの死体は三日半の間、大きな都の大通りにさらされ、多くの人々は彼らの死を喜びます。ところが、三日半の後、二人の証人は生き返り、雲に乗って天に上ります。すると人々は恐怖に満たされ、天の神を崇めるのです。このあたりの記事を読むと、熱心なクリスチャンでも、「そんなことが本当に起こるの?」と思ってしまいますが、聖書の記事(預言)はこれまでも成就してきました。それは必ず起こるのです。

3.「主は永遠に支配される」…14節で「第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。」とあります。ここで、「第一、第二、第三のわざわい」について整理しておきましょう。第七の封印が解かれたとき、七人の御使いが七つのラッパを吹き鳴らします。その七つのラッパを三つに区分けしているのです。

□第一のわざわい ラッパ1…地上の三分の一が焼かれる                                                                                         

         ラッパ2…海の三分の一が血となる

         ラッパ3…川の三分の一が苦くなる      

         ラッパ4…天体の三分の一が暗くなる

         ラッパ5…一つの星が天から落ちて穴ができる

□第二のわざわい ラッパ6…ハルマゲドンと二人の証人

□第三のわざわい ラッパ7…最後の救いと審判

 こうしてみますと、神は私たち人間に対して、いきなり裁きの鉄拳をふるうのではなく、少しづつ少しづつ、世の終わりが近いことを感じさせ、人々に悔い改めを促しているのではないでしょうか。Ⅱコリント6:2には「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」とあります。私たちは、なるべく早く、そうです、今のうちに主に立ち返りましょう。しかし、第七の御使いがラッパを吹き鳴らすと、もう終わりです。そのときには、神のしもべたちには報いが与えられ、神に敵対する者は滅ぼされるのです。ですから、既に主の元に立ち返った私たちは、聖く、敬虔に生きることを求めましょう。そして、新しい天と新しい地を待ち望みつつ、主の証人として歩んでまいりましょう。

●2024年7月28日(日)礼拝メッセージ要旨 

このところ、黙示録から学んでおりますが、本日はバプテスマ式と結婚式があり、それに関連してⅠコリント13章1~13節から「信仰、希望、愛」という題でこの題のまま、ポイント3つ上げていきます。Ⅰコリント12~14章の中心テーマは、御霊の賜物についてです。御霊によって、知恵のことば、いやしの賜物、奇跡を行なう力、預言、異言などが与えられると、「自分はなんてすごいのだろう」と、すっかり勘違いして、傲慢になり、歩むべき道を踏み外してしまうということもあるでしょう。そんなことが起こらないように12~14章の真ん中の13章で、大事な「愛」ということを説いています。また、その「愛」とともに「信仰」、「希望」についても語られます。

1.「信仰」…「信仰」のギリシャ語原語はピスティス(πίστις)です。日本でよく言われる「イワシのあたまも信心から」という言葉と違い、そのピスティスの意味は、「信頼するに足るものに対しての信仰、真実な確かなものを信じる信仰」ということです。かつて、私が生まれ育った実家はクリスチャンではなく、仏壇と神棚がある他の多くの一般家庭と同じでした。玄関脇にはイワシではなく、サンマの頭を串刺しにしたものを竹筒に入れてありました。イワシやサンマの頭を信仰してどうするのですか。この宇宙と世界を創造し、水、空気、食物、その他あらゆるものを恵み与えてくださり、それだけにとどまらず、そのひとり子イエス・キリストを世に送ってくださり、この方は、私たち全てのために、その罪をその身に負い、実に十字架の救いを完成されました。このイエス・キリストを信じる信仰によって、罪の赦しのみならず、どんなときも、神は最善を成してくださるということを期待することができるのです。

2.「希望」…7月21日の午後は、納骨(移転)式が行われました。左右二枚の石碑で十字架の空間を浮き立たせ、左側に「私たちの国籍は天にあります(ピリピ3:20)」と、右側に「この希望は失望に終わることはありません(ローマ5:5)」という聖書のことばが書き入れてあります。Ⅰコリント13:12には「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」とあります。案外、私たちは誤解しています。今、この現実世界がはっきりしていて、次の世界がぼんやりしていると思ってしまいますが、そうではなく、今がぼんやり、次の世界が顔と顔を合わせて見るようにはっきりとしていて、しかも、今は一部分しか知らされていませんが、その時には完全に知ることになるのです。私たちは、キリストの教会に連なり、イエス・キリストを信じる信仰によって、失望に終わらない希望を証しする者でありましょう。

3.「愛」…Ⅰコリント4~8節の「愛」をイエス・キリストに置き換えてみましょう。「愛(キリスト)は寛容であり、愛(キリスト)は親切です。また人をねたみません。愛(キリスト)は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛(キリスト)は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」となります。私たち人間は、不完全です。寛容でもなく、親切でもなく、人を妬み、自慢し、高慢になります。しかし、イエス様は、ここで語られている「愛」そのもののお方です。ですから私たちは、イエス様を信じて心に受け入れ、このイエス様の御名によって与えられる聖霊の力に助けていただきながら生きるのです。

●2024年7月21日(日)礼拝メッセージ要旨 

黙示録10:1~11からです。七つのラッパのうちの七つ目のラッパが吹き鳴らされるのは11章15節ですが、この10章では、七つ目のラッパが吹き鳴らされる直前になって、一つの「間」がここに描かれます。そこに天の神様のみこころと言いましょうか、メッセージが隠されていると思われます。本日は「口には甘いが腹には苦い」という題でポイント3つ上げていきます。

1.もうひとりの強い御使い…もうひとりの強い御使いが登場します。この御使いは、「雲に包まれて、天から降りて来て、頭上には虹があり、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようである」とされています。さらに開かれた小さな巻き物を持っているのです。黙示録1:13~16に記されているイエス・キリストの本来のお姿を彷彿とさせます。もちろん、御使いですから、キリストではありません。そして、この御使いは、右足は海の上に、左足は地の上に置いています。これはどういう意味でしょう。黙示録12:12には「それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」とあります。永遠の天に比べ、地と海は不安定な場所です。しかし、まだ救いのチャンスが残されています。この強い御使いが海と地に足を置いているということは、そこに思いがある、そこに残された人々の救いを願っているということなのではないでしょうか。キリストに似た強い御使いが遣わされたのは、そのためなのでしょう。

2.もはや時が延ばされることはない…第一のポイントで取り上げた強い御使いが右手を天に上げ、創造主である方に誓って「もはや時が延ばされることはない」と言います。逆の視点から言いますと「救いの門が閉じられる時がそこまで来ているので、もう時間がない。今のうちに悔い改めなさい。」ということでしょう。Ⅱペテロ3:9には「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とありますように、創造主である真の神は、これまで忍耐に忍耐を重ねて、救いの締め切りの時を遅らせてこられたのです。今、キリストの救いに与っている人々は、その神の忍耐のゆえであると言えます。しかし、その締切日が間近に迫っているのです。

3.口には甘いが、腹には苦い…天から声が聞こえ、ヨハネに対して「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」言います。ヨハネは、「その小さな巻き物をください」と言って御使いから受け取り、それを食べると、それは彼の口には蜜のように甘いのですが、食べてしまうと、腹は苦くなりました。その開かれた小さな巻き物とは今日、私たちに与えられている聖書のことであると思われます。聖書には福音が語られています。その福音には二つの大きな要素があります。一つは「救い=永遠のいのち」であり、もう一つは「さばき=滅び」です。例えば聖書全体のメッセージをこの一節で表わしていると言われているヨハネ3:16には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。そのみことばにも二つの要素が含まれています。救いや永遠のいのちは私たちの口には甘いでしょう。しかし、さばきや滅びは苦いという域に収まらず、もはや敗北と絶望です。ですから、私たちは、まず、自分自身の救いの達成に努めましょう(ピリピ2:12)。そして、そこだけに止まるのではなく、家族、親族、友人、知人、そして全ての人に福音を宣べ伝えるべきなのです。11節でヨハネが「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」と言われたのは、実に、そのためなのです。

●2024年7月14日(日)礼拝メッセージ要旨 

今日は黙示録9:1~21からです。先週8章では、七つ目の封印が解かれ、そこに七つのラッパを持つ七人の御使いがいました。そのうち、第1~4の御使いがラッパを吹き鳴らすと、陸地、海、川、天体に害や異変が起こりました。それは、終末における神から人間への警告であると思われます。さて、本日は第5~6のラッパが吹き鳴らされるところからです。第1~4のラッパのときと違い、もっとひどい苦難となるようです。「第5~6のラッパ」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.第5のラッパ…この第一のポイントでのキーワードは「底知れぬ穴」です。第5の御使いがラッパを吹き鳴らすと、一つの星が天から落ち、その星が底知れぬ穴を開きます。そして、穴から煙が立ち上り、空も太陽も暗くなります。その煙の中からイナゴが出てきます。そのイナゴにはサソリの持つ力が与えられ、額に神の印が押されてない人間にだけ5か月間、害を加えるように言い渡されます。それらのイナゴの司令元はアバドンとかアポリュオン(破壊者の意)と呼ばれている「御使い」なのですが、さて、御使いですから神の陣営に所属しているのか、破壊者ということは悪魔的な陣営からなのか、悩むところです。いずれにしても、額に神の印、つまり、イエス・キリストを信じ受け入れ、救いを受けていないとサソリの力を持つイナゴに5か月間苦しめられる可能性があります。ですから、誰でも、今のうちに真の神に立ち返りましょう。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(Ⅱコリント6:2より)」

2.第6のラッパ…第6の御使いがラッパを吹き鳴らすと、神の御前から「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き離せ」という声が聞こえます。「つながれている」という表現ですが、なぜつながれていたのか不明です。場所はユーフラテス川のほとりです。ユーフラテス川はアダムとエバがいたエデンの園があった近辺です。また、ノアの大洪水の後、バベルの塔があった場所の近辺でしょう。エデンの園ではアダムとエバが罪のためにそこを追い出されました。バベルの住民は塔を建て、「頂が天に届く塔を建て、名を上げよう」と言ったことにより、神によって全知に散らされました。言うなれば、そこは「罪の発祥の地」です。現在、世界人口は約81億人です。人類の三分の一を殺すために解き放された四人の御使いによって立てられた騎兵の軍勢は2億です。81億人の三分の一は27億人です。27億に対して2億ですから、力関係からして実際的とも言えるでしょう。ポイント1の第5のラッパでは、害を受けるのは未信者ですが、この第6のラッパで殺される人は、特定されていません。しかし、マタイ24:21~22には「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」とあります。やはり、選ばれた者のためには何らかの守りがあるのでしょう。

3.心かたくなな人々…第5~6のラッパが吹き鳴らされたあとにおいて、生き残った人々が、偶像礼拝、殺人、魔術、不品行、盗みを悔改めることをせず、神に立ち返ろうとしませんでした。詩篇95:7~8には「主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」とあります。私たちは、全能の神の御声に対して従順であることが求められています。詩篇51:17には「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。人と人との関係においても、自分が間違っていたら謝ることが先決です。聖なる神の前なら、なおさら、へりくだり、悔い改めましょう。神はそういう人に目を留め、大いに祝福してくださるのです。