●2025年12月21日(日)礼拝メッセージ要旨    

クリスマス礼拝ということで、キリスト降誕時の状況を最も詳しく記してあるルカ2:1~20から、「きょうダビデの町で」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ダビデの町(ベツレヘム)で生まれた」…ダビデの父はエッサイで、彼はベツレヘム人(Ⅰサムエル記16:1)と記されています。つまり、ダビデはベツレヘムの出です。ダビデはそののちイスラエルの王、名君となり、ベツレヘムはダビデの町とも呼ばれるようになりました。ダビデの時代から約1000年が経過して、主がダビデに約束されていた「彼の王国を確立させるダビデの身から出る世継ぎの子(Ⅱサムエル7:12)」としてイエス・キリストがこの地上に人としてお生まれになりました。父ヨセフと母マリヤは共に、アダムからダビデまでの家系図は同じです。ヨセフはダビデの子ソロモンの系統、マリヤはダビデの子ナタンの系統です。その時マリヤは未婚の処女で、聖霊によって身籠っていたのです。当時、ヨセフとマリヤはナザレに暮らしていました。通常ならマリヤはナザレで出産するところでしたが、ローマ皇帝アウグストが「自分の町に行って住民登録をせよ」という勅令を出し、計らずも彼らはダビデの町(ベツレヘム)へ行って、結果的にそこでの出産となります。昔も今も、この世界に住む人々は政治や世の動きに翻弄されて生きています。でも、その背後に全知全能の神に御手があるのです。

2.「飼葉おけに寝ておられた永遠の主」…全知全能の神のひとり子ですから、どんなことでもいとも簡単にお出来になるのですが、なんと、イエス様は生まれて飼い葉おけに寝かされていました。それは神の愛の表れと言えるでしょう。こののち、イエス様は、およそ33年後、罪の無い方なのに十字架に架けられ、殺されます。それは多くの人の罪をその身に負い、罪の赦しと永遠のいのちをお与えになるためでした。つまり、イエス様が飼い葉おけに寝ておられたのは、そののち十字架に架けられ、多くの人の罪をその身に負われるという神の愛を現わす始まりだったと言えるでしょう。ピリピ2:6~8には「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」とあります。この世の王たちは、その権力をふるい、人々を支配しようとします。しかし真の神は愛の神、人々を救うために貧しくなられ、十字架で苦しみを受けられ、死なれました。もちろん、イエス・キリストは死から復活し、今も生きて私たちを執り成してくださっています。

3.「喜びの知らせを聞いた羊飼いたち」…羊飼いたちが野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていたとき、突然、主の使いが彼らのところに現われ、主の栄光が回りを照らしました。羊飼いたちは恐れました。主の使いは彼らに「恐れることはありません。この民全体のすばらしい喜びを知らせにきたのです。」と言いました。そして、さらに、「きょうダビデの町で救い主が生まれた。そのしるしとして、そのみどり子は飼い葉おけに寝ておられる」と言うのです。すると天の軍勢が現われ、先の御使いとともに神を賛美するのです。なんと物凄い光景だったことでしょう。羊飼いたちは互いに「ベツレヘムに行って見て来よう」と言い、飼い葉おけに寝ておられるイエス様を探し当てたのです。そして、今起こったことを話すと、聞いていた人たちは驚きました。聖書は「 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:17~18)」と言っています。今日、イエス・キリストを信じる者は救いを受けます。やがて、この地上を去る時が来ても、あの羊飼いたちが見た物凄い光景(天の軍勢の賛美)を永遠の天の御国で見ることになるでしょう。

●2025年12月14日(日)礼拝メッセージ要旨   

 クリスマスシーズンに因み、ヨハネの福音書1:1~14からです。「ことばは人となって」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「全てのものはこの方によって造られた」…四つの福音書のうち、キリスト降誕についてマタイとルカの福音書は取り上げています。マルコとヨハネの福音書は降誕の記事はありません。ヨハネの福音書1章では、キリストが天地創造に関わったことが記されています。その1節では「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。その「ことば」はギリシャ語ではロゴス(λόγος)、単なる「ことば」ではなく、神のひとり子イエス・キリストの代名詞として用いられています。そして、2~3節では、「この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」、つまり、キリストは初めに神とともにおられ、全てのものは、イエス・キリストによって造られ、キリストによらずに出来たものは一つもない、と言っています。それは、聖書の他の箇所でも言っていることです。コロサイ1:16には「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」とあるとおりです。そのほか、箴言8:22~31も同じことを語っています。

2.「光は闇の中に輝いている」…生れながらの人間の心の中は闇の中にあると言えます。筆者である私・内藤は1976年4月26日の夕方、救い主イエス・キリトを信じ受け入れました。その直後、私の心は大きな喜びと安心感に満たされました。もちろん、物理的に光りが差し込んだわけではないのですが、正に闇の中にあった心の中に光が入ってきた感覚でした。ヨハネ8:12には「イエスは彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」とあります。6~8節には、ここでバプテスマのヨハネのことが記されています。当時の人々は、バプテスマのヨハネが神から遣わされた預言者であると認めていました。そのヨハネはイエス・キリストについて「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と紹介しました。そこにどんなにすばらしい救い主がいたとしても、その方が誰であるのかを知らなければ救い主として信じることはできません。今日も、イエス・キリストの福音を伝える人の働きは非常に大切です。ローマ10:14~15には「~聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

3.「この方を受け入れた人々」…ヨハネ1:10~11には「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」とあります。イエス・キリスト様は、この世界をお造りになった創造主であり、この世界と宇宙のオーナーであるとも言えます。例えば、ある大会社のCEO(最高経営責任者)が自分の会社に入ってきたとき、その会社の社員が彼を知らないと言ったり、拒否したなら、そのCEOはどんな思いをするでしょう。イエス・キリストを無視することは、それを遥かに超えるとんでもない赦されざる暴挙とも言えてしまうのです。しかし、この方を信じ受け入れるならば神の子どもとされる特権が与えられるのです。

●2025年12月7日(日)礼拝メッセージ要旨          

12月に入りました。クリスマスシーズンに因み、イザヤ9:1~7から「ひとりのみどりごが」という題で3つのポイントを上げていきます。

1.「預言者イザヤ」…イザヤは、ユダの王・ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に主の預言者として用いられました。時代は紀元前(BC)700年頃のことです。当時のイスラエルは北イスラエルと南ユダの二つの国に分裂していました。1節に出て来るゼブルン部族とナフタリ部族は北イスラエルに属していました。元々は神の民であるのに北イスラエルは神から遠く離れていました。そのために、BC721年、アッシリヤに滅ぼされてしまいました。しかし、同じ1節には「異邦人のガリラヤは光栄を受けた」とあります。滅亡して異邦人の国と化してしまったところに神からの光栄が及んだのです。箴言18:12には「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」とあります。この世界を創造された真の神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを授けてくださいます。今から約2025年前、神のひとり子イエス・キリストはベツレヘムで産声を上げられましたが、その後はガリラヤ湖から遠くないナザレで過ごされ、およそ30才からは公に人々の前に現われ、ガリラヤ湖のほとりカペナウムを宣教の拠点とされました。今日、ガリラヤは世界中のクリスチャンが聖地旅行で訪れる正に光栄を受けた場所となっています。

2.「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる」…「みどりご」は「緑児」、「新芽のように若々しい」という意味のようで、たいていの日本語聖書では「みどりご」です。この、ひとりのみどりごは「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるようになるのです。つまり、その赤ちゃんは天地を創造した真の神ご自身だったのです。正にありえないことが起こりました。私たちの日常生活においても小さな奇跡と言えるようなことが時々起こるのではないでしょうか。また、その前に、私たち一人ひとりがこの世に生きていることそのものが奇跡であるとも言えます。さて、その方(イエス様)の不思議はさらに続きます。その方はおよそ30歳で公生涯を始められ、全く罪の無い方であるのに十字架に架けられ、殺されます。それは、多くの人の罪の身代わりに苦しみを受け、死なれたのでした。そして墓に葬られ、三日目に復活し、今も生きて信じる私たちを執り成してくださっているのです。この方は「私たちのために生まれ、私たちに与えられる(6節)」とある通り、聖霊によっていつも共にいてくださるのです。「~見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20b)」

3.「万軍の主の熱心が」…その方の主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め~とありますが、イエス・キリストは、再びこの地上に来られ、やがてご自身が統治される世を治められる。その背後には万軍の主の熱心がそれを成し遂げるのです。イザヤ37:32には「エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の【主】の熱心がこれをする。」とあります。これは最後まで神に忠実に従った者たちが神ご自身の熱心によって支えられたという意味かと思われます。それは、今日のキリスト者においても同じです。聖霊様の助けをいただき、心燃やされて主に仕えてまいりましょう。

●2025年11月23日(日)礼拝メッセージ要旨       

創世記47:1~31からです。エジプトに移住してきたヤコブ一族は、ゴシェンの地に定住します。今回の題は「エジプト定住とその後」です。ヨセフの父と兄弟たちがパロと面会、ヨセフの仕事ぶり、死期が近づいたヤコブ、この3つの記事をそのまま3つのポイントとして上げていきます。

1.「ヨセフの仲介でパロ王に謁見」…ヨセフは自分の親族たちがカナンの地から移住のために来たことをパロに伝えます。まず、兄弟たち5人をパロに引き合わせます。それで、正式にエジプトの最も良い地ゴシェンに住むことが確定します。次にヨセフは130才のヤコブをパロの前に連れてきます。ここでヤコブはパロに「あいさつした」と新改訳聖書第三版では訳していますが、2017年訳では「祝福した」です口語訳聖書や共同訳聖書でも「祝福した」です。飢饉のため移住してきた130才の老人が、当時の超大国エジプト王を祝福したのです。ヤコブは、天地を創造した全知全能の神が、選び祝福したアブラハムの孫です。アブラハムからイサク、イサクからヤコブにその祝福が受け継がれてきました。天地を統べ治めておられる神の視点から見るとき、ヤコブは神の器であり、超大国の王様を祝福するのに何の不足もありません。今日、イエス・キリストをまともに信じるクリスチャンも同じです。イエス・キリストにあってアブラハムへの祝福を受けている(ガラテヤ3:13~14)のです。また、その祝福を人々に与えるために召されている(Ⅰペテロ3:9)のです。

2.「飢饉が続く中でのヨセフの仕事ぶり」…エジプト国内においても飢饉は続きます。ヨセフは、内外から集まった銀をパロの家に納めます。次に、エジプト人に穀物を買う銀が無くなると家畜と引き換えに穀物を売ります。さらに、その家畜も無くなると今度は土地と引き換えにします。さらに、その土地が無くなると土地を貸与し、その収穫の5分の1を納めるようにします。日本の江戸時代の農民の年貢米などと比べると良心的な割合と言えるでしょう。最近、日本では長い間課税されてきたガソリンの暫定税率が廃止されることが決定し、既に段階的な事実上の実行に移されています。そういった国民のためになる良い政治を今後も期待するところです。ローマ14:7~8には「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」とありますように、私たちはすべて自分のために生きているのではなく、主のために生きることを求められています。

3.「ヤコブ、ヨセフに誓いを求める」…ヤコブがエジプトに来たときは130才、それから17年が過ぎて147才、彼は自分の死期が近づいていることを覚えました。そこでヤコブは、ヨセフに自分が死んだらカナンの地の先祖の墓に葬って欲しいと言います。そして、そのことをヨセフに誓わせます。それは、神がアブラハムにカナンの地を与えてくださるという約束を、アブラハムの孫のヤコブ自身も信じているということを証しするためのことだったのでしょう。基本的に私たちは死後、何処に埋葬されるかということはそれほど重要ではありません。なぜなら伝道者の書12:7には「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」とあるから、神のもとに帰った魂が、永遠の滅びの刑罰を受けることを免れ、永遠の天の御国に入るということが最も重要なことです。そのために、私たちは十字架で救いを完成され、今も生きて私たちを執り成してくださっている主イエス・キリストを信じ、この方の救いの福音を宣べ伝えるのです。

●2025年11月16日(日)礼拝メッセージ要旨       

 創世記46:1~34からです。ヤコブ一族、後のイスラエル民族は、いよいよエジプトに移住します。「エジプトへ移住」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ヤコブ一族エジプトへ」…まだ飢饉は5年も続くし、エジプトには穀物が十分あり、その管理をしているのは死んだと思っていた最愛の息子ヨセフです。生きてエジプトの支配者になっているヨセフに会うだけでもエジプトに行く理由があります。しかし、ヤコブの心の奥底には「本当にエジプトに行っても良いのだろうか」という不安があったことでしょう。なぜなら、ヤコブは祖父アブラハムが与えられた「わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。(創世記17:8)」という主のみ旨を父イサクから伝え聞いていたことでしょう。ヤコブはベエル・シェバで主にいけにえをささげた夜、幻の中で、主のみ声を聞きます。それは「エジプトに下ることを恐れるな。あなたを大いなる国民とし、あなたを再び導き上る」です。今日の私たちも、これと同じような立場に遭遇することがあります。大勢(たいせい)は決まっている、しかし、本当にその道を進んで良いのだろうか?そんなとき、クリスチャンには祈りがあります。もちろん、何か奇跡的なしるしが与えられることもあるでしょう。でも、お祈りし、主からの平安をいただいて主に従っていくのです。

2.「皆で66人であった」…ここでエジプトに移住するヤコブ一族の名前と人数が記されています。まず、ヤコブの妻レアが生んだルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンの6人の子とその孫たちも含めて計33人。そして、レアの女奴隷ジルパが生んだガドとアシェルとその孫たちを含めて16人。次に、ラケルが生んだヨセフとベニヤミンとその孫たちを含めて14人。最後はラケルの女奴隷ビルハが生んだダンとナフタリとその孫たち7人、全合計で70人です。66人というのは、既にエジプト在住のヨセフと二人の息子の3人とヤコブを加えて4人を除いた数でしょう。もちろん、それぞれの妻たちも加えられていません。第一ポイントにあるように「大いなる国民となる」ためです。その後、イスラエルはヨセフの影響力が消えた時代になってからエジプトで奴隷となり、苦しみの中を通りましたが、それは却って民族を強くしたのでしょう。約400年後エジプトを出るときには男だけで約60万人となっています。ヤコブ1:3~4には「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」とあります。

3.「ゴシェンの地へ」…ヨセフは、ヤコブと涙の再会を果たした後、兄弟たちにゴシェンの地に住むための助言をします。パロ王に面会したとき、職業を聞かれたら羊飼いであると答えるように勧めています。それは、エジプト人にとっては羊を飼う者たちは忌み嫌う者とされていて、それゆえにゴシェンの地に隔離されるような形で住むことができるということです。すなわち、結果的に、イスラエルはエジプト人と同化することなく民族としての独自性を保つことができるということです。それは、近年のユダヤ人のゲットーを彷彿とさせます。また、同時に、今日、イエス・キリストを心底信じるクリスチャンは、この世の中に生活していても、霊的には分離していなければなりません。この世の罪と欲、偶像礼拝、そういったものから分離し、きよめられることを求めていきましょう。また、近頃、多くの教会では地獄(永遠の滅びの刑罰)が語られなくなったと言われています。地獄を語ると、人受けしないからです。地獄の存在があるから、十字架の救いが必要なのです。

●2025年11月9日(日)礼拝メッセージ要旨            

  創世記45:1~28からです。この章で、ヨセフは兄弟たちに初めて自分のことを明かします。「ヨセフと兄たちとの和解」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「ヨセフは兄弟たちに自分のことを明かす」…前章の創世記44章で、ヨセフの兄弟たちは、エジプトで穀物を買い、カナンの地に帰ろうとしますが、ベニヤミンの荷物の中にヨセフ専用の銀杯が見つかったことを理由に、ベニヤミン一人を監禁し、あとの者は帰って良いということになってしまいます。そこでユダが、「ベニヤミンが帰らなければ父ヤコブは死んでしまうでしょう。私はあの子の保証をしています。代わりに私が奴隷となります。」と言います。それを聞いていたヨセフは、感極まり、側近のエジプト人たちを外に出し、兄弟たちに自分がヨセフであることを明かします。兄弟たちは、驚きのあまり声が出ません。それもそのはずです。かつて兄たちはヨセフをエジプトに奴隷として売り渡しました。そのヨセフがエジプトの支配者となり、兄たちはその支配者がヨセフであることを知らず、彼の前にひれ伏していたのです。詩篇138:6には「まことに、【主】は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。」とあります。私たちは、たとい成功して高い地位に就いたとしても、神の前にも人の前にも謙虚さを失わないようにしましょう。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。(箴言18:12)」

2.「私をここに遣わしたのは神です」…驚いている兄たちを慮り、ヨセフは兄たちに対して「今、私をここに売ったことに対して心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神は命を救うため、あなたがたより先に私を遣わしてくださったのです。」と言います。そして、今後どうすべきかを語ります。飢饉はあと5年続くので、父をカナンからエジプトに連れて来て皆で一緒にエジプトで暮らしましょうと言います。そして、ベニヤミンを始めとして、兄弟たち一人一人と涙の抱擁をします。詩篇133:1には「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」とあります。現在の世界人口は80億人を超えています。元々はアダムとエバの子孫です。本来なら互いに助け合い、愛し合って平和で豊かな世界を築いていてもよいはずです。しかし、現実は、あちらこちらで戦争や睨み合いが起きています。終わりの日が訪れ、千年王国時代になってからそれが成就することでしょうが、その神の国の雛型として、今、この地上にイエス・キリストを救い主、主として崇める教会が建てられています。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:23)」

3.「エジプトの車」…ヨセフの兄弟たちが来たという知らせがパロ王に届き、パロはヨセフに「兄弟たちに伝えなさい。全家族を連れて来て、エジプトの最良の地に住みなさい。エジプトの車を持って行き、それに父を乗せて来なさい」と言います。兄弟たちは父ヤコブの元に帰り、ヨセフが生きていてエジプトの支配者になっていることなどを父に話すのですが、ヤコブは何が何だか理解が出来ず、ぼんやりとしています。しかし、父ヤコブは自分を乗せるために送ってくれたエジプトの車を見ると、瞬時に理解し、元気づいたのです。この45章28節には「イスラエルは言った。『それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。』」とあります。27節までは「父ヤコブ」となっていますが、この28節では「父イスラエル」です。人間的に落ち込んでいたヤコブが希望に満ちたイスラエルに変貌したのです。今日、キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰のゆえに永遠の天の御国の希望を持っています。父イスラエルがヨセフに会いに行こうと元気づいた以上の大きな希望を持っているのです。

●2025年11月2日(日)礼拝メッセージ要旨   

 今回は創世記を一旦離れ、ヨハネの福音書6章41~59からです。「いのちのパン」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「食べ物のパン」…ヨハネ6章の最初の記事は、イエス・キリストが山で、5000人にパンを分け与えられ、余ったパン切れを集めると、12のかごにいっぱいにあったというものです。人間は、食べないと生きていけません。パン、食べ物は大事です。日本の食料自給率は38%ほどであると聞いています。昨年から今年にかけて米が不足する事態が起き、前政権時代は米の増産に舵を切りましたが、新政権になって再び元の方針に戻すと言われています。異常気象、飢饉など、今後何が起きるか予測不能です。全世界的な飢饉が起こると、輸入も当てにできません。3.11大震災の直後は、流通がストップし、コンビニの食べ物が無くなってしまう事態が起きました。食べ物があるのが当たり前と思わず、「主の祈り」にもあるように、日々の糧のために祈り、また与えられた食物を感謝していただきましょう。

2.「いのちのパン、キリスト」…ヨハネ6:47~48でキリストは「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。」と言われました。ここで言う「いのちのパン」とは、永遠のいのちのことです。香港から来られた宣教師・ラリー&ステラ夫妻のステラさんは、幼稚園と中学校は仏教学校だったそうです。中学生のとき、仏教に帰依し、自分を仏教徒だと自認していました。高校生の時、お姉さんに誘われて教会のキャンプに参加しました。その後、教会にも行くようになりましたが、仏教から離れてはいませんでした。あるとき、一人のクリスチャン女性がステラさんに「あなたの信じている仏陀様はあなたと関係は?」と聞かれ、「私と仏陀(シャカ)様と何の関係があるのかしら?」と自問し、それで「ハッと」気づいて、イエス・キリスト様を信じる決心をしたとのことです。キリストは父なる神と共に、この世界を創造されました。この方によって、空気、水、食べ物などが与えられ、私たちはこの方によって生かされているのです。キリストは、この世に人として来られ、多くの人の罪を贖うために十字架で死なれ、葬られ、三日目に復活し、今も生きて、天の父なる神の右の座に着き、私たちのために執り成しておられるのです。

3.「永遠のいのちに至る食物」…2025年3~9月にNHK朝の連続ドラマは「あんぱん」が放映されていました。あの「それいけアンパンマン」の作者・やなせたかしさんと妻の小松暢(のぶ)さんをモデルにしたドラマです。やなせさんは、戦争に行き、厳しい飢えを体験し、パン・食べ物には特別な思いがあったとのことです。戦後は、他の仕事をしながら漫画家を目指していました。なかなかマンガがヒットしなかったのですが、妻の暢さんが何かと励ましていたそうです。その暢さんは「正義は逆転することがある。逆転しない正義とは何か。飢えて死にそうな人がいれば一切れのパンを上げることだ。」と言ったということです。「正義」について分かりやすい定義と言えそうですが、聖書は変わることのない真理のみことばです。Ⅰペテロ1:24~25aには「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあります。真理はただ一つ、それは永遠に変わることないものです。ヨハネ6:53には「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」とあります。つまり、聖書のみことばを信じて読むことです。私たちは、毎日聖書を読み、できれば通読すべきではないでしょうか。それによって成長し、救いを得、いのちにあふれていきたいと思います。

●2025年10月26日(日)礼拝メッセージ要旨         

創世記44:1~34からです。ヨセフの兄たちは、二度目のエジプト行きを順調に進めます。穀物を買い、監禁されていたシメオンと一番下の弟ベニヤミンも伴い、父イスラエルの元へ帰るだけです。しかし、ヨセフは一つの仕掛けを施し、彼らをエジプトに戻らせます。ここから、ヨセフ、ヤコブ、ユダの三人の名を上げて、三つのポイントとします。

1.「ヨセフの思惑と仕掛け」…兄たちとしては、穀物を買い、シメオンとベニヤミンを伴い、あとは父イスラエルの喜ぶ顔を見るだけです。しかし、ヨセフとしては「はい、それまで。」というわけにはいきません。かつて、異母兄弟である兄たちには殺されそうになり、穴に投げ込まれ、そして奴隷として売られ、あるときまでエジプトで奴隷として人に仕えてきました。もちろん、ヨセフはただ単に復讐心で行動していたのではないでしょう。兄たちの心を知り、真の意味での和解を求めていたと思われます。ですから、自分と同じ母から生まれたベニヤミンを監禁したならば、兄たちがどういう反応をするのかを確かめたかったのでしょう。そのために、ベニヤミンの袋にヨセフ専用の銀の器を入れて、監禁するための仕掛けをしたのです。兄たちは、エジプトから故郷のカナンに向かい、晴れ晴れとした思いに浸っていたことでしょうが、再びエジプトに戻され、一時の解放感は消え、困難は続きます。ヤコブ1:12には「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」とあります。

2.「ヤコブ(イスラエル)の願い」…ヤコブ(イスラエル)は、そもそもラケルと結婚したのですが、初夜の翌朝、隣にいるのはラケルの姉のレアでした。それは義父ラバンの計略によるものでした。そのためもあり、ヤコブは結果的に四人の妻と12人の息子たちを持つことになりました。気持ちの中では、「妻はラケル」という思いを持ち続けたのでしょう。ラケルはヤコブにとっての11番目の子ヨセフを産み、12番目の子ベニヤミンを産んだ直後に亡くなりました。ですから、ヤコブとしては、ラケルが生んだ二人の子のうちヨセフはいなくなり、残るはベニヤミン一人で、彼に対する思いは特別なものがあったのでしょう。そうは言っても、ヤコブは四人の妻を持ち、息子たちは12人であることに変わりはありません。そして、この12人の息子たちが族長となり、やがてイスラエル民族が形成されます。ローマ8:28には「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。確かに、ヤコブの義父ラバンの「計略」は素直に受容し難いものがありますが、神は全てのことを働かせて益としてくださったのです。

3.「仲介者ユダ」…ユダは、父イスラエルとエジプトのヨセフの間に立って、双方の相矛盾する要望を自らが犠牲となって受けとめ、解決を図っています。ですから、この後に父イスラエルが創世記49:10で「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない」と預言していますが、正にその通りになって行きます。今日(こんにち)私たちキリスト者も、その仲介者としての役割を担っています。Ⅰテモテ2:4~5には「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」とあります。キリストは、神と人との間に立ち、十字架による罪と死からの救いにより、神に対して、また人に対して、仲介者の務めを果たされました。キリスト者は、このイエス・キリストを信じ、この方の救いの福音を人々に証しすることによって仲介者としての役割を担うのです。

●2025年10月19日(日)礼拝メッセージ要旨         

創世記43:1~34からです。ヤコブの家族、後のイスラエル民族はエジプトに移住して、そこで約400年滞在します。そこに向かっていく途中経過の一幕です。「兄たち再びエジプトへ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「私(ユダ)に責任を負わせてください」…穀物が底をつき、父ヤコブは息子たちに再びエジプトへ行って穀物を買ってきてくれ、と言います。ユダは弟のベニヤミンを連れて行かなければそれは出来ない、と言いますが、ヤコブはベニヤミンだけは手放したくありません。そこで、ユダが「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください」と言います。ヨセフ物語は言うまでもなくヨセフが主役ですが、このユダの犠牲的、献身的な言動は随所に見られ、ユダが影の主役であるとも言えるでしょう。1940年7~8月、リトアニアの領事館に赴任していた杉原千畝氏は人道的立場からユダヤ人に2139枚のビザを発給し、約6000人のユダヤ人を助けました。また現在、アメリカ大統領のトランプさんは、何はともあれイスラエル対ハマスの戦争終結に尽力しました。そしてロシア対ウクライナの戦争終結のためにも行動しています。自己の保身とか欲得のためではなく、世のため人のために自分を犠牲にして行動する姿は、まさしく、救い主イエス・キリストのうちに見られるものです。

2.「父イスラエルの決断」…ユダが「私に責任を負わせてください」と言ったことにより、父イスラエルは心を動かされたのでしょう。カナンの地の名産品を携え、前回、袋に入っていた銀を返し、ベニヤミンとシメオンを連れて帰ってきなさいと、急に人が変わったような発言をするようになります。創世記43:14では「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。~私も失うときには、失うのだ。」と言っています。ここでちょっと興味深いのは、創世記42章では「父ヤコブ」と記されているのですが、この43章では「父イスラエル」となっています。ヤコブは「押しのける者」、イスラエルは「神は戦う」の意味です。つまり、人間的な肉の考えに縛られて行動するのではなく、全知全能の神の力に委ねて神のみこころに従って行動するという生き方が求められているということです。使徒の働き20章で、パウロは小アジアのミレトでエペソの長老たちを呼んで最後のメッセージをしています。その中で「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒20:24)」と語っています。

3.「兄たち、ヨセフの家に行く」…イスラエルの息子たちは一番下の弟ベニヤミンを伴い再びエジプトに行きます。彼らはヨセフの家に連れて行かれるので、恐れますが、ヨセフの家の管理者は、安心するようにと言い、先の銀もちゃんと受け取ったと言います。そしてヨセフと共に少し離れて別々の食事が提供されます。ここでヨセフと兄たちの心境を探ってみましょう。兄たちとしては穀物をしっかりと購入し、ベニヤミンとシメオンを連れて無事に父の元に帰ることが出来ればそれで十分です。一方、ヨセフとしては、そうはいきません。今やエジプトの権力者になっているものの、兄たちには酷く苦しめられました。それを簡単に過去のものとして水に流して終わりにするなどということは出来なかったのでしょう。ヘブル2:10には「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」とあります。今日(こんにち)、私たちはイエス・キリストの救いの中にあるなら、既に地上的な栄光の中にありますが、さらに永遠の天的な栄光の中に入れられます。それはキリストの十字架の救い、すなわち多くの苦しみを通して完成されたものであって、私たちはそのことを決してないがしろにすべきではありません。

●2025年10月12日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記42:1~38からです。エジプトのヨセフのもとに、カナンの地から兄たちが穀物を買いに来ます。そして、いよいよ因縁の再会となりますが、すんなりとは行きません。今回もポイント三つ上げていきます。

1.「兄たちと気づくヨセフ」…当時、世界中が飢饉の中、エジプトはヨセフの指揮の下に、穀物を「海の砂のように」と表現するほど蓄えていました。そういう中で、カナンの地からヨセフの兄たちが穀物を求めてやってきたのです。ヨセフは兄たちに応対して、彼らが自分の兄たちであることは分かりましたが、兄たちにはヨセフだと分かりませんでした。ヨセフは自分の前にひれ伏している兄たちを見て、かつて父の家で見た夢を思い出しました。正に人生の逆転劇です。ここでヨセフは、簡単に自分が弟のヨセフであるということを明かすことはせず、兄たちに対して「あなたがたは間者(スパイ)だ」と言います。このヨセフの対応について、どうなのでしょう。これは、かつて殺されそうになり、穴に投げ込まれて奴隷として自分を売った兄たちに対する報復なのか、それとも兄たちに悔い改めを促すためにしたのか不明です。ローマ12:17には「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」とありますが、ヨセフの対応は必ずしも報復とは言えず、兄たちのためを思ってのことだったのかもしれません。今日(こんにち)の私たちも様々な局面に立たされることがあるでしょうが、まず、聖書のみことばに従い、聖霊の導きを仰ぎつつ歩んで行きたいと思います。

2.「末の弟を連れて来なさい」…ヨセフは兄たちを三日間監禁したあと彼らに対して「一人を監禁しておいて、あとの9人は穀物を運び、そのあとで末の弟(ベニヤミン)を連れてくればあなたがたを信用し、エジプトを自由に出入りできる」と言います。兄たちはそれに従うことになります。そのとき彼らは、「かつてヨセフに対して酷いことをした報いを今受けているのだ」ということを話していると、そのことがヨセフの耳に入り、ヨセフは席を外して泣きます。この涙は何でしょう。奴隷として売られて苦しんだ自分のことを思い出したのか?それとも兄たちの心情に感極まったのか?結局シメオンがとられて監禁されます。上からルベン、シメオン、レビ、ユダのうち、ルベンとユダはヨセフを殺すことには強く反対しています。創世記34章でシメオンとレビは、割礼直後で苦しんでいるシェケムの人々を襲い略奪するという凶行の過去があります。ですから、たぶん、ヨセフは兄たちの内で最も横暴なシメオンを選んで監禁したのでしょう。

3.「父ヤコブのもとに戻る」…シメオンを除く9人の兄たちは、カナンに向かいます。途中、一人が宿泊所でロバに飼料を与えようとして袋を開けると、自分の銀が戻っているので、皆は心配し身を震わせました。そして、カナンの父の元に帰り、袋を開けると全員の袋の中に、銀が戻っているので益々恐れることになりました。これは、ヨセフが兄たちに対して本当に正直者かどうかをテストした側面もあったのかもしれませんが、親族の彼らからはお金は受け取らなかったということでしょう。本来ならば、兄たちは何も恐れることなく、ヨセフの恩情に感謝し、喜んでいればよいところなのですが、過去の経緯(いきさつ)もあり、ヨセフとしても全てをすぐに明らかにしなかったのです。ヨハネ8:23には「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とありますが、逆に真理に背いて罪と悪の道を歩めば、不自由と恐怖に捕らえられるでしょう。今日、私たちはいつでも真理である聖書のみことばに従い、霊的自由と喜びのうちを歩んでまいりましょう。