●2025年8月31日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記37:1~36からです。この章から、ほぼヤコブの子ヨセフの動向が中心となっていきます。それゆえに、ヨセフ物語とも言われています。本日は「ヨセフ物語の始まり」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「兄たちに憎まれるヨセフ」…ヨセフはイスラエル(ヤコブ)の年寄り子で彼の最愛の子で、特別の服を作ってもらっていました。またヨセフは、兄たちの悪い噂を父に告げていました。その上にヨセフは畑での束の夢と太陽と月と11の星の夢を見て、それを兄たちに話しました。その夢の内容は、自分が兄たちに拝まれるというものです。太陽と月と星の夢は、父母もヨセフを拝むというもので、さすがにこの時は父イスラエルもヨセフを叱りました。このときヨセフは17才で、人間的にはまだまだ未熟だったと言えます。これは何もヨセフに限ったことではなく、私たちもそれに近いような経験があったのではないでしょうか。行動すべき時に行動する。言うべき時に言う。しかし一方で静まるべき時に静まる。黙るべき時に黙る。そういう時もあるでしょう。私たちの救い主イエス・キリストは、多くの人を救うために、罪の無い神のひとり子であるのに、十字架で死なれました。比べようもないほどの圧倒的な力を持ちながら、その力を封印し父なる神のみこころに従い、多くの人の救いのために御自身をささげられました。

2.「エジプトへ売られるヨセフ」…兄たちがシェケムで羊を飼うために出かけたあと、イスラエルはヨセフに「兄さんたちの様子を見に行って、無事かどうか知らせてほしい」と言います。ヨセフは快く返事をし、出かけます。ベエル・シェバ(たぶん)からシェケムまで約100km以上あります。ヨセフがシェケムに到着すると、兄たちがいません。そこの人に尋ねると、ドタンに行ったようです。ドタンに行くと、兄たちはヨセフが来るのを見て「ヨセフを殺し、あれの夢がどうなるかを見よう」と言います。しかし、ルベンは反対し「あの子の命を打ってはならない」と言います。その時、イシュマエル人の隊商が通りかかります。(※この隊商がイシュマエル人ともミデヤン人とも記されています。他説もありますが、彼らは共にアブラハムの子孫でアカバ湾近辺に住み、この商売のために一緒に行動したのでしょう。)ユダが兄弟たちの空気をまとめたのでしょうか。「弟を殺したとて何の益になろう。ヨセフをイシュマエル人に売ろう」と言いますと、他の兄弟たちが聞き入れ、ヨセフを奴隷として売ることになりました。ルベンとユダは、共にヨセフに危害を加えることに反対しています。創世記49章にはイスラエルが、子たち12人に対して預言しています。ルベンに関しては芳しい預言はしていません。しかし、ユダに対しては「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。(創世記49:10)」と、最大限の賛辞とも言える預言をしています。もちろんユダにも落ち度はありましたが、他の兄弟たちとは違って積極的に献身的な行動をしています。

3.「銀20枚と赤く染まった長服」…このときヨセフは兄たちに奴隷として銀20枚で売られます。キリストはイスカリオテ・ユダに銀30枚(マタイ27:3)で売られます。また、ヨセフの長服は、兄たちが屠(ほふ)ったヤギの血に浸され、赤く染まりました。一方、キリストは、何の罪も過ちも無いのに、十字架刑を受け、御血を流され、死なれ、葬られました。(もちろん、三日目に復活し、今も生きておられ、弱い私たちを執り成しておられます)つまり、ヨセフはキリストの救いの予表と言えます。ヨセフの犠牲のゆえに、そののち、イスラエル一族はエジプトへ逃れ、生き延びました。75人でエジプトへ行き、出エジプト時は男だけで60万人になりました。このイスラエル人から出たダビデ王の家系を通して聖霊によって世に来られたイエス・キリストの十字架の救いが完成し、今日に至るまで、多くの人々がキリストを信じる信仰によって永遠のいのちの救いに与っているのです。さてヨセフはエジプトに連れて行かれ、侍従長ポティファルの下で仕えることになります。ヨセフは神と共にあり、何をしても栄えます。伝道者の書12:13です。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」

●2025年8月24日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記36:1~43からです。この章はエサウ(エドム)についての系図などが記されています。旧約聖書はイスラエルに焦点を当てた記事となっていますが、主がどのような意図をもってこの章を挿入されたのかを探っていきましょう。「エサウ(エドム)の歴史」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「アダムからエサウ」…人類最初の人アダムから10代目はノアの箱舟のノアです。ノアにはセム、ハム、ヤペテの三人の息子がいました。そのうちのセムから10代目がアブラハムです。すなわち、アダムから20代目がアブラハムです。アブラハムからイサクが生まれ、イサクからエサウとヤコブが生まれました。アブラハムから始まった神からの特別な長子の特権の祝福はイサクに継承されました。エサウは長男でしたが、その長子の特権はイサクからヤコブに受け継がれました。エサウとしては自分の立場に複雑なものを感じていたでしょう。一方、ヤコブもエサウの存在に対して無視できないものもあったことでしょう。箴言18:19(新改訳改訂第3版)では「 反抗する兄弟は堅固な城よりも近寄りにくい。敵意は宮殿のかんぬきのようだ。」となっていますが、口語訳聖書による箴言18:19では「助けあう兄弟は堅固な城のようだ、しかし争いは、やぐらの貫の木のようだ。」です。本来、兄弟は助け合って生きるのがベストです。ところが、ヤコブとエサウの場合は、互いにぬぐい切れない疑心暗鬼のようなものがあり、主ご自身も彼らを遠ざけて住むようにされたのでしょう。

2.「エサウの権勢」…エサウはイサクとリベから生まれた双子の長男です。確かに霊的な祝福が伴う長子の特権は弟ヤコブに行きましたが、人間的な能力としては優れたものがあったと思われます。エサウの三人の妻から生まれた子らから、14人の首長が出ています。また、先住民のホリ人と民族的同化をし、ホリ人セイルから7首長が出て、合計21人の首長が立てられています。ヤコブがハランからカナンに帰る途中のペヌエル付近でヤコブとエサウは再会していますが、その時すでにエサウは400人(たぶん精鋭)を引き連れて来ています。つまり、エサウはリーダーシップや管理能力に優れていたことがうかがえます。高校野球、夏の甲子園大会が沖縄尚学の優勝で幕を閉じました。その優勝校にタイブレークの末敗れた仙台育英の須江監督語録が話題になっています。今回、暑さ対策で導入された夜の試合に対して須江監督は「人生最高の夜更かしですよ」と言ったとのこと。また、「うまくなるだけの野球って薄っぺらい」とも言ったとのこと。正にご尤もです。野球よりもっと大事なことはあるはずです。エサウについてもそうですが、世の権力よりもっと大事なことがあります。天地を創造した真の神を恐れること。その神が与えてくださる永遠のいのちに与ることです。

3.「永遠(主なる神)の視点」…エサウ一族の首長は14人、先住民ホリ人の首長は7人、合計21人の首長がいました。また、エサウ(エドム人)の子孫か否かは定かではありませんが、イスラエル人の王が治める以前、エドムの地には七人の王の名が出ています。また、キリスト降誕時、ローマ帝国の配下にあってユダヤの王として君臨していたのはヘロデ大王です。ヘロデの出自は明確にされてはいませんが、通説ではエドム人の子孫であろうとされています。ヤコブの子孫、ダビデの子孫として世に来られたイエス・キリストは多くの人々の救いのために十字架にお架かりになり、葬られ、三日目に復活され、今も生きておられます。一方、キリストがベツレヘムでお生まれになることを東方の博士たちから聞いたヘロデ大王はベツレヘムとその近辺の二歳以下の男児を殺害するという暴挙に出ています。正に天と地の大きな違いです。Ⅰコリント13:13には「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。私たちは、永遠の神の視点で物事を見ていきましょう。キリストを信じる信仰、キリストによって与えられる希望、キリストの愛に支えられながら、日々を過ごしてまいりましょう。

●2025年8月17日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記35:1~29からです。この章ではヤコブがシェケムからベテルへ行きます。そしてベテルからエフラテに行き、また父イサクのいるヘブロンのマムレに行きます。「ベテルへ、そしてエフラテへ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ヤコブ一族、ベテルへ」…シェケムに滞在していたヤコブ一族ですが、シメオンとレビの復讐行為によって、その地域にいられなくなりました。逃げたとしても近隣住民が追ってくるかもしれません。そこで神が介入され、ヤコブに現れて「ベテルに上り、そこに住み、神のために祭壇を築きなさい」と言われます。ヤコブは家族と一緒にいる者たちを集め「異国の神々(偶像)を捨てて身をきよめ、ベテルに行こう」と言います。それを聞いた人々は偶像と耳輪をヤコブのところに持って来ます。その上で、彼らが旅立つと「神からの恐怖」が回りの街々に下ったので、彼らはヤコブのあとを追うことはしませんでした。言うまでもなく、ヤコブの祖父はアブラハム、父はイサクです。アブラハムが受けた神からの特別な祝福がイサクに、そしてヤコブにも受け継がれています。ガラテヤ3:13~14によると、今日、そのアブラハムへの祝福が、イエス・キリストを信じる信仰によってクリスチャンにも受け継がれているのです。クリスチャンは偶像礼拝をしてはなりません。8月15日は終戦記念日で、国会議員の内の何人かの方々が靖国神社を参拝します。「靖国神社は明治維新及びそれ以後の国事に殉じた戦死者246万余の霊を合祀している」としています。「霊を合祀する」という言葉をよく吟味しましょう。伝道者の書12:7には「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」とあります。人は死ぬと、その霊は創造主である神の元に帰ります(※神の元に帰った霊が天国か地獄か、それはまた別問題です)。それを被造物に過ぎない人間が、その霊を集めたり、移動させたりすることはできません。つまり、246万余の霊がそこに存在しているということは聖書的視点から見て、決してありえないことです。クリスチャンは、空しい偶像礼拝をしている人々のために祈り、宣教しなければなりません。

2.「主が再び彼に現われ、祝福された」…ベテルに来て主のために祭壇を築いたヤコブに、主が現われ、「あなたの名はヤコブと呼んではならない。イスラエルでなければならない。生めよ。ふえよ。王たちがあなたの腰から出る。あなたにアブラハムとイサクに与えた地を与える。」と言われます。振り返ってみますと、ヤコブはシェケムから逃げるようにしてベテルに来ました。しかし、そこで神がヤコブに現われ、彼を祝福したのです。ヤコブはどれだけそれを心強く思ったことでしょう。エレミヤ10:16には「ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の【主】である。」とあります。ヤコブも、そして今日のクリスチャンが受ける分け前は「こんなものではない」、つまり、天地の創造主、万軍の主が与えてくださる祝福は正に筆舌に尽くしがたいものとなるのです。

3.「ベテルを旅立ってエフラテへ」…ここで突然、ヤコブ一族はベテルを旅立ってエフラテへ向かいます。1節では、神はヤコブに「ベテルに上り、そこに住みなさい」と言われました。しかし、聖書の記事を見る限りにおいては「エフラテに行きなさい」とは記されていません。もちろん、記事にないだけで、「行きなさい」と言われたかもしれません。また逆に、神のみ旨に反して、行くべきではないのに勝手に行ったのかもしれません。この後、エフラテ(ベツレヘム)への途上で最愛の妻ラケルがベニヤミンを出産するものの死んでしまいます。ここで話は飛躍しますが、エフラテはベツレヘムのこと、救い主イエス・キリストが降誕した地です。しかし、現在のベツレヘムはパレスチナ自治区内にあり、ユダヤ教徒のイスラエル人(ユダヤ人)にとってキリストは救い主ではありません。それはローマ人への手紙11:25~26にある通り、今は異邦人の時だからです。異邦人の完成のなる時が来て、イスラエルはみな救われるのです。

●2025年8月10日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記34:1~31からです。この章はメッセージのテキストとして用いるには正直難しいと思います。しかし、私たちは聖書全体から偏ることなく学ばなくてはなりません。なるべく肯定的なタイトルにしたいと思いましたが「ヤコブの娘ディナの事件」という題になってしまいました。ポイント2つ上げていきます。

1.「ディナが辱められる」…この時点で、ヤコブには四人の妻から11人の男子と一人の女子(聖書の記事で判断する限り)、計12人の子がありました。ディナはレアから生まれた七番目の子です。ですから、兄弟姉妹の中で正に紅一点ですから、余計に愛らしく思われていたと想像できます。そのディナが、土地の族長ハモルの子シェケムに辱められたのですから、ヤコブもヤコブの子らも心を痛めない筈はありません。日本の夏の風物詩とも言える高校野球夏の甲子園大会が行われています。今回、広島県代表となったチームが一回戦勝利したものの、今年初め頃、部員の暴力事件があり、SNSを通して、「処分が甘いのではないか。今大会に出場すべきではない。」といったような批判が多数見受けられました(※その後、二回戦出場辞退)。悪事を行なうと、その代償は決して小さくありません。それは置いておくとして、今大会では静岡県代表で聖隷クリストファー高校が初出場を果たしました。一回戦を勝利し、校歌が歌われましたが、何と賛美歌393番が流れました。歌詞は「神の光は 世の小路の 暗き隅にも 光り輝く 神を称えて 為す務めに 高き低きの 隔てあらじ」です。聖隷グループは静岡県浜松市にある医療、福祉、教育など幅広く社会貢献をしている団体で「キリスト教精神に基づく隣人愛」を基本理念としています。ガラテヤ6:2には「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」とあります。全ての人は罪人です。イエス・キリストの十字架による救いを受け、キリストの力によって少しでも隣人愛を実行できればと思います。

2.「互いに悪巧み」…ハモルとその子シェケムはヤコブの所に来て、ヤコブの娘ディナのことで「シェケムの嫁にもらえないか、そして、互いに結婚の縁を結び、一緒に暮らしましょう。」と言います。それに対してヤコブの息子たちは、一つの条件を提示します。それは、「自分たちと同じように割礼を受けるならば、同意する。そうでなければディナはやれない。」と言います。ハモルとシェケムは即答でその条件を受け入れます。そして、彼ら二人は町の人々を集め、彼らに割礼を受けさせるために二つのことを言います。「①あの人たちは私たちの友だちである。②彼らを受け入れて一緒に住んでいればあの人たちが持っている財産が私たちのものになる。」です。聖書の記事では、ハモルが事の発端となったシェケムの過ちについて言及したということは記していません。②については、人々を説得するためにその利点を強調したのでしょう。さて、その後、ヤコブの子らであるシメオンとレビは、ハモルとその民らが割礼を受けて三日目、彼らの傷が最も痛んでいる時を見計らって彼らを襲い、女子供と財産を略奪します。元はと言えば、ハモルの子シェケムがヤコブの娘ディナを辱めたことから始まっています。それは決して小さな問題ではありません。しかし、その事件を発端にして、シメオンとレビによる殺人と略奪というもっとひどいことが起こりました。イスラエルは神の選びの民です。聖書はその選びの民であるイスラエル人について記してあるのに、何も忖度せず、事実をありのまま表現しています。聖書の神は真実で正しい方です。私たちは聖書の真実な神を信頼し、その神に従って行きたいと願います。しかし、全ての人は罪人で不完全です。だからこそ、日々、自らを省み、悔い改めて生きるのです。最後に箴言28:13です。「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」

●2025年8月3日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記33:1~20からです。「ヤコブとエサウの抱擁」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ヤコブとエサウ、再会の抱擁」…ヤコブは前章32章で、ペヌエルの経験をしています。つまり、ヤコブは一晩中、神の人と格闘し、もものつがいを打たれて、足を引きずるようになったものの、祝福を受け、それまで自分の中に持っていた何か余分な力が抜けたのではないかと思われます。しかし、現実的には、エサウが400人の者たちを引き連れて自分たちの方へ向かって来ています。やはりヤコブは万が一のことを考えて、列の順番などを配備し、今度は自分が先頭に立って進みます。そして、エサウが近づくまでに七回も地に伏しておじぎします。そして、エサウは走り寄ってヤコブを抱き、口づけし、二人は泣きます。めでたし、めでたしと言いたいところですが、普通の兄弟関係ならば、一方が400人を引き連れて来ることはないでしょう。また、弟とは言えども兄に対して七回も地に伏しておじぎはしないでしょう。それだけヤコブにとってエサウは何をするのか分からない人物、言うなれば「信頼できない相手」だったことは間違いないところでしょう。かつてエサウは、ヤコブに対して長子の特権を売ったはずですが、そんなことは全く無かったことにしています。また、イサクからの祝福をヤコブに奪われたときは、「ヤコブを殺そう」と言っています。ガラテヤ書5:22~23には、御霊の実は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とあります。クリスチャンは、人に対しても神に対しても信頼される人でありたいものです。そのためにも、この9つの御霊の実を結ぶ人とならせていただきましょう。

2.「贈り物」…ヤコブと抱擁したあと、エサウは家畜の一団を見て「これはどういうものなのか?」と尋ねます。するとヤコブは、エサウへの贈り物であると言います。創世記32:13~15によると、それは、雌ヤギ200頭、雄ヤギ20頭、雌羊200頭、雄羊20頭、乳ラクダ30頭とその子ラクダ、雌牛40頭、雄牛10頭、雌ロバ20頭、雄ロバ10頭、合計頭数はなんと500頭(以上)です。これは、ヤコブの持ち物の一部であって、それでも物凄い頭数です。ここでちょっと面白いのは、エサウが引き連れてきた400人があながち無駄ではなかったのかもしれません。500頭を連れていくのに400人も多すぎるかもしれませんが、それでも家畜のほうが100頭多いのですから、400人の仕事があって体裁は良かったとも言えます。先日、大崎地方で水不足、鳴子ダムの水位が0%というニュースがありました。日照も雨も空気も食べ物も、天の神様が恵みをもって与えてくださっています。そして、この世界の創造主である真の神は、最高の贈りものとして、私たち人間の罪の代価を支払うための救い、すなわち、神のひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。

3.「スコテからシェケムへ」…この後、エサウがヤコブと一緒に行こうとしますが、ヤコブはやんわりとそれを断り、一旦、スコテ(ヨルダン川東岸)に家や小屋を建てて住みます。その後、ヨルダン川を渡り、シェケムで宿営します。シェケムは祖父アブラハムが最初に祭壇を築いた場所(創世記12:5~7)です。そして、この後、ヤコブとエサウは、父イサクが死んだとき、その埋葬のために出会っています。彼ら二人を長い目で追ってみますと、ヤコブは言うまでもなくイスラエル人の先祖で、神の御子イエス・キリストは、ヤコブの子孫であるダビデ王家の家系を通して世に来られました。エサウはエドム人の先祖、キリスト降誕時のユダヤを支配していたヘロデ王家の先祖です。ヘロデ大王はユダヤ人懐柔策の一環としてヘロデ神殿(第二神殿拡大建て替え)を建設しましたが、キリスト降誕時にベツレヘムと近辺の二歳以下の男の子を皆殺しにしています。オバデヤ書はエドム人に対する預言書です。同1:10には「あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。」とあり、エサウの肉的な性質は末代まで受け継がれたということなのでしょう。ヤコブはエサウとは違い、祖父アブラハムに倣って、シェケムで祭壇を築き、そこで礼拝をささげています。

●2025年7月27日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記32:1~32からです。「ヤコブとエサウの再会へ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ここは神の陣営だ」…これまでヤコブは、ベエル・シェバからハランに行く途中のベテルで、石の枕をして寝ている時に、夢で天から地に向けて立てられたはしごを上り下りしている主の使いを見ます。そして、ハランからヨルダン川東岸あたりに来て、今度は夢ではなく、現実的に複数の主の使いを見ます。それでヤコブは「ここは神の陣営だ」と言い、そのところをマハナイムと呼びます。ベテルの時は、未知のハランに行くと言う不安があったでしょう。マハナイムでは、双子の兄であるエサウに再会することへの大きな不安があったでしょう。Ⅱ列王記6章で預言者エリシャがいる町をアラムの軍隊が包囲したとき、エリシャの回りに天からの火の馬と戦車が取り巻き、守っていました。イザヤ41:10には「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」とありますが、主はヤコブに対して、度々御自身を現わし、「恐れるな。わたしが共にいる。あなたを守る。」と、そうヤコブに宣言しておられるのではないでしょうか。それは、今日、クリスチャンに対しても同じです。イエス・キリストの御名によって、「恐れるな。わたしが共にいる。あなたを守る。」と、主が言っておられるのです。

2.「ヤコブは非常に恐れ」…ヤコブはセイルの地、エドムの野にいるエサウに使いを贈り、ご機嫌伺いとも言える伝言を委ねます。すると、その使いが戻ってきて「エサウは400人を引き連れてやって来る」と言います。それを聞いてヤコブは非常に恐れ、心配します。それで、宿営を二つに分けたり、エサウへの贈りものを選んだり、群れと群れの間を開けたりとあらん限りの工作を施します。ここを読んで私たちは、ヤコブはなんという臆病者か、また人間的な工作ばかりを施すのか、エサウに対してもなんて卑屈で、へつらっているのか、と思うのではないでしょうか。確かにそういう一面も否定できません。しかし、次章の33:4でヤコブとエサウは再会を果たし、互いに抱擁し合い、万感こみ上げたのでしょう。互いに泣いているのです。結果を見ると、「これで良かったのでは」とも言えます。ローマ12:2には「 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。自分以外の回りを変えようとするよりも、まず大事なことは、神のみこころを求め、そこに自分を合わせていくことです。

3.「私を祝福してくださらなければ」…ヤコブはヤボクの渡しを渡ってから、一人だけあとに残り、ある人(神の人?)と格闘しました。その人はヤコブに勝てないので、ヤコブのもものつがいを打ちます。その人は「わたしを去らせよ」と言いますが、ヤコブは「私を祝福してくださらなければ去らせません」と言います。すると、その人はヤコブの名を聞き、「あなたはもうヤコブと呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い勝ったからだ」と言われ、ヤコブを祝福します。この箇所から、今日のクリスチャンが神の祝福を勝ち取るために格闘しながら夜を徹して祈る、その雛型として捉えるとするとすれば、それも間違いとは言えないでしょう。否、むしろ、私たちもヤコブに倣い、祝福を求めて切に神に祈り求めるべきです。人と人との関係においては、ぎとぎと、ねちねちしていたら、嫌がられるでしょう。しかし、全能の主は、あっさり、サッパリよりも、執拗に、熱心に求める人を喜ばれるのです。

●2025年7月20日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記31:1~55からです。「ヤコブ故郷へ向かう」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ヤコブと妻たちはカナンへ向かう」…元々、ヤコブは故郷カナンで、その地を受け継ぐという前提のもとに、ハランの地に来ていました。ヤコブはハランで20年間を過ごし、前章(30章)でラバンに「故郷に帰らせてください」と言っています。それに加え、ラバンの息子たちが「ヤコブは父ラバンの物をみな取った」と言っているのを耳にしました。さらにラバンもヤコブに対しての態度が以前のようではありません。そして、決定的なことは、3節で、主がヤコブに「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる」と言われました。筆者は、1983年11月に結婚と同時に愛知県から仙台に来ました。最初は福住町、次に福田町、そして蒲生、一時福室、次に新田、そして今、教会は燕沢です。筆者の場合は、ヤコブとは違い、愛知県に帰るという選択肢はありません。現在の本籍地は蒲生四丁目です。この地上における本籍地も大事ですが、もっと大事な本籍地があります。ピリピ3:20には「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」とあります。さて、ヤコブは、主が命じられた通り、妻たちの理解を得て、カナンの地に向かいます。

2.「ラバンが追いかけて来た」…ヤコブ一行がハランを出て三日目に、ラバンはそのことを知ることになります。彼は身内の者たちを伴いヤコブを追いかけます。そして七日目、ヤコブが出発して10日目にギルアデの山地で一行に追いつきます。ラバンとしてはカンカンになってヤコブを追いかけたと思われます。しかし、追い着く前夜になって、全能の主が夢でラバンに現われ「あなたはヤコブと事の善悪を論じないように気を付けなさい。」と言われます。もし、ラバンに神が介入されなかったら、ヤコブとラバンは大げんかになっていたかもしれません。そうでなくても二人はそれなりの言い合いになっているのですから。ここで、ラバンはラケルがこっそり持ち出したテラフィムについて「なぜ私の神々を盗んだのか」と言っています。結局、ラケルが隠し通して、この件については不問とされますが、今日、偶像礼拝から一線を引くクリスチャンにとっては、なぜラケルはそんな忌み嫌うべきものを持ち出したのか?と思うことでしょう。確かなことは不明ですが、唯一の金目の物だったからなのかもしれません。出エジプト記20:4~6には偶像礼拝する者は全能の主を憎む者とされ、咎の報いを受けなくてはなりません。しかし、偶像を捨てる者は千代の恵みが施されます。

3.「契約を結ぶ」…ラバンはヤコブに対して、娘たちに別れの挨拶をさせてもらえなかったことなどを語り、テラフィムのことを取り上げます。ヤコブ一行の中にはそのテラフィムが見つからないということで、ヤコブも言い返し、これまで誠実にラバンに仕えてきたことなどを訴えます。しかし、ラバンもヤコブの持ち物は全て自分から出たものである、とヤコブの弁を一蹴します。続けて、ラバンは「さあ、契約を結ぼう」と言います。ヤコブもすぐに反応し、自分の一族に石を集めさせ、石塚を作ります。そしてガルエデ(あかしの塚)と名付けます。また、それはミツパ(見張りをする)とも呼ばれます。今日、この世は、様々な契約や約束の上に成り立っていると言えるでしょう。その中で、クリスチャンにとって最も大事な契約はイエス・キリストによる新しい契約です。キリストは最後の晩餐のとき弟子たちに向かって「この杯は、あなた方のために流される新しい契約です。(ルカ22:20)」と言われました。全ての人は聖なる神の前に罪人です。やがて、神の前に出て審判を受けなくてはなりません。しかし、イエス・キリストが十字架で御血を流し、私たちの罪をその身に負ってくださいました。このキリストが示してくださった新しい契約を受け入れた者は罪赦され、神の子とされ、永遠のいのちに入るのです。

●2025年7月13日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記30:1~43からです。この章はラケルとレアが、夫のヤコブの子が生まれることを巡っての競い合いと、ヤコブが自分の故郷に帰りたい旨をラバンに伝え、その後の展開が記されています。ポイント3つ上げていきます。

1.「姉を嫉妬したラケル」…姉のレアに4人の男子が生まれ、主を称えている様子に、面白くないのは妹のラケルです。元々、ヤコブが結婚したかったのはラケルです。そこでラケルは彼女の女奴隷のビルハをヤコブに妻として与え、ダンとナフタリが生まれます。それでラケルは一定の満足感を得ます。すると今度はレアが面白くありません。レアも自分の女奴隷ジルパをヤコブに妻として与え、ガドとアシェルが生まれ、それを喜びます。そして、レアの長男ルベンが野で恋なすびをレアのところに持って来ると、ラケルがそれを譲ってくれと言います。レアは拒否するものの、ラケルが恋なすびと引き換えに「今夜、あの人があなたと寝ればいいでしょう」と言います。それで、レアはイッサカルとゼブルン、さらに女の子のディナが生まれます。ここで、第一のポイントをまとめます。聖書は、事実をありのまま忖度なしに記しています。もちろん、四人の妻を持つことを肯定しているのではありません。むしろ、家庭内に嫉妬や対抗心、そのほか複雑な感情が入り乱れることでしょう。それでも、そこに神のあわれみがあり、後のイスラエル12部族が完成されようとしています。

2.「神はラケルを覚えておられた」…この時点で、ヤコブの四人の妻うち、三人のレア、ビルハ、ジルパが合わせて10人の男子と一人の女子が生まれています。ラケルだけは子が生まれていません。しかし、神はラケルを覚えておられ、彼女の願いを聞き入れて、ヨセフが生まれます。その後、創世記35:18でラケルはベニヤミンを産んだときに死んでしまいます。さらにその後のことですが、ヤコブはヨセフを溺愛するので、兄たちはヨセフを憎みます。ヨセフもまだ少年で、自分が崇められるというような夢をみて、そのまま兄たちに話し、さらに憎しみを増幅させます。そのためヨセフは兄たちによって、エジプトへ向かう隊商に奴隷として売られます。しかし、この創世記の終盤では、ヨセフはエジプトで総理大臣のような立場に就き、創世記の最後はヨセフの死をもって幕を閉じます。そして、時代が進み、ダビデ王、ソロモン王時代のあと、イスラエルは国が南北に分裂します。本家本元のダビデ王家が属するユダ部族とベニヤミン部族の二部族の南ユダ王国と、その他10部族で成る北イスラエル王国です。愛されなかったレアには男子6人と女子1人が生まれ、子が生まれなかったラケルにもようやくヨセフが生まれ、ヨセフはこの世的には大成功者となります。その一方で、神はベニヤミンを覚えておられ、ダビデ王家が出るレアから生まれたユダのユダ族と連帯を組むのは、ラケルから生まれたベニヤミンのベニヤミン族です。詩篇103:8には「【主】は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」とあります。主の深い見計らいを感じます。

3.「私の故郷の地へ帰らせてください」…ラケルにヨセフが生まれたとき、ヤコブとしては次のステージに進む足場が整ったような感覚になったのかと思われます。義父ラバンに「私を故郷の地へ帰らせてください」と言います。ラバンは、ヤコブが来てから、自分の家畜が格段に増え、ヤコブのゆえに祝福を受けたことを知っていました。ですから、ヤコブの申し出を聞いて複雑な思いがしたことでしょう。ラバンはヤコブに「報酬を支払うので言ってくれ」と言います。ヤコブは、後々明確にさせるため、山羊の中でぶち毛とまだら毛のもの全部、羊の中で黒色のもの全部を報酬として求めます。そしてヤコブは、自分の群が強くて増えるような工作を施し、結果的に彼は大いに富み、男女の奴隷、およびラクダとロバを持つようになりました。もちろん、ヤコブはアブラハムの祝福をイサク経由で受けていますから、何をしても栄えたことでしょう。ガラテヤ3:7には「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。」とあります。今日、イエス・キリストを信じるクリスチャンはアブラハムの祝福を受けています。信仰の人として信仰の告白をもって歩んでまいりましょう。  

●2025年7月6日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記29:1~35からです。いよいよヤコブがハランに到着し、ラケルに、そしてラバンに出会い、結婚もします。「ヤコブとラバンの娘たち」という題で、ポイント3つ上げます。

1.「神の不思議(摂理)」…ベエル・シェバからハランまで地図上の直線距離は約700kmです。仮に1日の移動距離が70kmとすれば、徒歩で10日ほどは要するでしょう。ヤコブはハランの井戸の側にいると、そこへラバンの娘ラケルが羊の群れを連れてやってきました。この場面は、アブラハムがその僕を遣わしたとき、やはり井戸の側で待っていると、そこにリベカがやってきたことと重なります。遠くから来て、井戸の側で佇んでいると、そこにいきなり当事者が来るのですから、正に神の不思議であり、神の摂理とも言えます。先月6月には、筆者の自宅に二組の方々に宿泊していただきました。現在の自宅建物が出来て今年で10年目になりますが、以前一度音楽アーティストの方に泊まっていただいたくらいで、ひと月の間(10日の間隔で)に二組、しかもその二組共、筆者の母教会のメンバーだった方々です。神の不思議を思います。さて、ラケルに会ったヤコブは声を上げて泣き、自分がリベカの子であることをラケルに告げると、すぐラバンが来て、ヤコブを家に迎え入れます。ルカ12:6には「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。」とあります。マタイ10:29では「二羽1アサリオン」です。つまり、五羽の場合は一羽おまけということのようです。そんな一羽の雀さえも全能の主の前に忘れられてはいないのです。

2.「朝になってみるとレアだった」…ラケルと結婚し、祝宴の翌朝、なんと隣にいたのはラケルではなく、姉のレアでした。ヤコブはラバンに抗議すると、「我々のところでは長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしない」と返ってきました。そしてラバンは「婚礼の週を過ごせば、あの娘もあなたにあげよう。その代わり、あなたはもう七年間私に仕えなければならない」と付け加えます。ヤコブはまんまとラバンの計略にはまってしまいました。と同時にヤコブは、かつて兄エサウに変装してイサクからの長子の特権の祝福を横取りしたことを思い出したのではないでしょうか。ガラテヤ6:7には「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とあります。良い種を蒔けば良い実を収穫し、悪い種を蒔けば悪い実を収穫するでしょう。またローマ12:17には「 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」とあります。誰かを憎んだり恨んだり、仕返ししたりされたりするような肉的な世界観から抜け出し、どこまでも善に生きる者であり続けたいと思います。

3.「ルベン、シメオン、レビ、ユダ」…そののちヤコブは、結果的に四人の妻を持つことになります。まずレアからルベン、シメオン、レビ、ユダが生まれます。次にラケルの女奴隷ビルハからダン、ナフタリ。そして次にレアの女奴隷ジルパからガド、アシェル。再びレアからイッサカル、ゼブルン。ラケルからヨセフ、ベニヤミン、計12人の息子が生まれ、後のイスラエル12部族となります。また、創世記を最後まで読むと、この中ではラケルの子ヨセフが奴隷として売られるものの、パロ王の前で夢を解き明かし、パロ王の次の位に一気に上り詰めます。しかし、聖書全体から見ると、ダビデ王とイエス・キリストの系図の祖先となったのはレアの子ユダです。エジプトでヨセフが「ベニヤミンを人質として置いていけ」と言ったとき、ユダは父ヤコブを悲しませないために、それを止め、自分が身代わりになると言いました。Ⅱコリント4:18には「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」とあります。私たちは、この世の見えるものに対して必要以上に執着せず、見えないもの、永遠に続くものにこそ目を留め続けていきましょう。

●2025年6月22日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記28:1~22からです。ヤコブがハランに旅立った記事です。「ここは天の門だ」という題でポイント三つ上げていきます。

1.「ヤコブはパダン・アラムのハランへ」…前回の27章で、母リベカの計略で、ヤコブはイサクからの長子の特権の祝福を兄エサウから横取りします。エサウとしては、ヤコブに対して恨みを持つことになります。そんな背景を察して、イサクはヤコブに対して、パダン・アラムのハランに行き、リベカの兄ラバンの娘たちの中から妻をめとるようにと告げます。それを知ったエサウは、カナン人の二人の妻の他にイシュマエルの娘マハラテをめとり、両親の目を自分に向けさせようとしたのでしょう。しかし、イサクからヤコブに継承された祝福は、もう動かしがたいものです。エサウはそれを受け入れられず、どこまでも引きずっているようです。ローマ12:3には「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあります。エサウが真に賢い人であるなら、サッと切り替えをして、ヤコブに対する恨みを捨て、むしろ弟を応援するでしょう。それならきっと、エサウの生涯は最高に輝いたのではないでしょうか。

2.「石の枕に天のはしご」…ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと向かいます。途中、あるところで陽が沈んだので野宿します。石の枕で寝ていると夢を見ました。天から地に向けて梯子(普通、梯子は下から上に立てられる)が立てられていて、神の使いたちが上り下りしています。ヤコブとしては、イサクから祝福を受け、今、正に、自分と全知全能の神様が繋がっているということを感じたことでしょう。この夢は昔のヤコブだけではなく、今日イエス・キリストにあるクリスチャンにとっても、通ずるところです。キリストはヨハネ10:9で「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」と言われました。イエス様は天国に入る門です。最近は、戦争、地震、地球温暖化現象、米騒動、パンデミック等々により、キリストの再臨が近づいているということをクリスチャンの多くが感じ始めています。YouTubeでも何人かの牧師さんたちが「空中携挙」のことを話題にしています。Ⅰテサロニケ4:16~17、マタイ24:40~42などには、キリストの空中再臨の時には、そこに二人がいると、一人が上げられ、一人が残される。そういう時が来るということが記されています。大事なことは、私たちは、私たちの罪をその身に負ってくださったイエス・キリストを信じ、このイエス様によって聖霊様を心に宿し、主と共に日々を歩んでいることです。

3.「ここは神の家、天の門だ」…ヤコブは、天のはしごの夢を見て「この場所はなんと恐れ多いことだろう。こここそ神の家に他ならない。ここは天の門だ。」と言い、そこをベテル(神の家)と呼びました。主は、夢の中でヤコブに、「わたしはアブラハム、イサクの神である。この地をあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫はちりのように多くなり、東西南北に広がる。地上の全ての民族はあなたとあなたの子孫によって祝福される。わたしはあなたと共にあり、あなたを守る。決してあなたを捨てない。(要約)」と言われました。ヤコブもそれに応答し、「神が私と共におられ、この旅路を守り、パンと着物を与え、無事に父の家に帰らせてくださるなら、全てあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。(要約)」と応答しています。主は、今日の私たちのためにもイエス・キリストを通して一方的に大きな恵みを示して下さっています。私たちも、その主に応答して、礼拝、みことばと祈り、そして主のみこころを行なっていきましょう。