●2026年6月14日礼拝メッセージ要旨

出エジプト記13:1~22から「雲の柱と火の柱」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「種を入れないパンの祭り」…1~2節で、主がモーセに対して「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子は、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。」と言われます。3~10節で、モーセはイスラエルの民に対して、まず「種を入れないパンの祭り(過ぎ越しの祭り)」のことを語っています。それは、イスラエル人がカナンの地に着いたとき、種を入れないパンの祭り(過ぎ越しの祭り)を行ない、エジプトから連れ出されたこと、すなわち奴隷から解放されたことを忘れないように、また、そのことを子々孫々に伝えるように、と語ります。その約1500年後、神のひとり子イエス・キリストが世に来られ、十字架の救いを成し遂げられました。使徒の働き26:18で、イエス様はパウロに「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」と語っておられます。今日、私たちはイエス・キリストを信じ受け入れて、サタンの支配から解放され、罪の赦しを得て、聖なる者とされ、天の御国を受け継ぐ者とされましょう。

2.「初子を主にささげる」…次にモーセは11~16節で、イスラエル人が守るべきおきてとして、これは過越しの祭りと関連しているのですが、「初子を主にささげる」ことについて語ります。イエス様がこの世に人としてお生まれになったとき、ヨセフとマリヤは、きよめの期間が満ちてからエルサレムに行って幼子を主にささげました。ルカの福音書2:23~24には「──それは、主の律法に『母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない』と書いてあるとおりであった──また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。」とあります。今日のクリスチャンには不要なしきたりですが、イエス・キリストを信じ受け入れた者は主への献身者です。ローマ人への手紙12:1には「 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とあります。またⅠペテロ2:5には「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」とあります。イエス・キリストの父なる神様に、自分自身をおささげし、主の器として用いていただきましょう。

3.「雲の柱と火の柱」…17~22節です。主がイスラエルの民をエジプトから連れ出されたとき、地中海沿岸のルートではなく、シナイ半島方面の葦の海沿岸のルートに導かれました。そして主は、昼は雲の柱、夜は火の柱によって民を先導されたのです。私たちの教会のことを振り返ってみましょう。まず、1983年12月1日から福住町で開拓伝道が始まりました。次に福田町、そして蒲生、3.11東日本大震災後は新田、そして現在の燕沢に会堂が完成したのが2016年2月23日でした。大きな決断を迫られたのは、海岸線から約700メートルの蒲生の地に移るときでした。2005年10月のことですから、まだ3.11東日本大震災発生前ですが、やはり、津波に対する危惧はありました。その上で蒲生に行くことを決めました。大震災直後は確かに苦しみと戸惑いがありましたが、これまで、主が一つ一つを導いて下さったと受け止めております。これから先も主の導きに従っていきたいと思います。ルカ9:23です。「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」

●2026年6月7日礼拝メッセージ要旨      

出エジプト記12:29~51から「エジプトからの解放」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「私(パロ)の民の中から出て行け」…この記事では、第10番目の災いが起こり、それゆえにイスラエル人はエジプトから出て行くことになります。これまでの第1から9までの災いが起こったあと、パロは心頑なにして、イスラエル人を解放することはありませんでした。しかし、今度は逆に「出て行け」と言っているのです。それはもちろん、過ぎ越しの祭りの基となる一連の出来事の故であり、背後で全能の主なる神様が働いておられるのです。主は不思議をなさるお方です。例えば、アモス書8:11には「見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことのききんである。」とあります。今の日本の現状を考えてみましょう。主のことば、すなわち聖書のことばに対して、切に求めて聞こうという人は稀です。しかし、主が許されるなら、そのような時が来るのではないでしょうか。

2.「寝ずの番」…イスラエルの民は、ヤコブ(イスラエル)やヨセフの時代、エジプトでゴシェン(ラメセス)の地に住むことになりました。それから430年が経過し、ラメセスからスコテへ、スコテからエタムへと移動します。42節では「この夜、【主】は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。この夜こそ、イスラエル人はすべて、代々にわたり、【主】のために寝ずの番をするのである。」とあります。主がイスラエル人のために「寝ずの番」をされたのです。それは、今日、イエス・キリストの救いに与った異邦人である私たちも同じです。詩篇4:3には「知れ。【主】は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、【主】は聞いてくださる。」とあり、また、イエス様はマタイ28:20後半で「見よ。わたしは世の終わりまでいつも、あなたがたとともにいます。」と言われました。すなわち、キリストが私たちといつも共にいて、特別に扱ってくださり、祈りを聞いて下さるのです。さて、もう一つの「寝ずの番」は、イスラエル人が主のために寝ずの番をするのです。イザヤ62:6には「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。【主】に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。」とあります。今日のキリスト者にとってエルサレムとは、キリストの体である教会(建物ではなく)と見立てても間違いではないと思います。キリストにある一人一人がキリストに似た者とされる。また、そのために互いに支え合い、祈り合うのです。

3.「エジプトから連れ出された」…主がモーセとアロンに43節から、過ぎ越しのいけにえに関するおきてについて語っておられます。外国人などの場合は、男子は割礼を受けなければ食べてはならない、ということです。「割礼」はイスラエル人(ユダヤ人)におけるアブラハムの時代からの決まり事なのですが、今日、異邦人クリスチャンにとって割礼は不要です。但し、洗礼があります。マルコ16:16には「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」と。ガラテヤ3:27には「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」とあります。バプテスマ(洗礼)は、イエス様の命令(マタイ28:19)でもあり、キリストをその身に着て、自分はクリスチャンであるという旗印を掲げることでもあります。ガラテヤ5:1には「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」とありますが、イスラエル人が奴隷から解放されてエジプトから連れ出されたように、今日、私たちは、イエス・キリストの十字架の救いを信じて、悪魔の奴隷から解放されて、霊的な自由の中にあるのです。

●2026年5月31日礼拝メッセージ要旨     

出エジプト記12:1~28から「過越しの祭りの制定」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「過越しの血」…エジプト全土に神の裁きが臨むとき、エジプトの、人から家畜に至るまでの初子が死ぬという痛ましい事が起きます。しかし、イスラエル人にはそれから免れるために、傷のない一歳の雄羊か山羊を屠り、その血を家々の二本の門柱とかもいにつけるようにと、主がモーセとアロンに仰せられます。そのとき、その実行する月を最初の月とせよと言われます。太陽暦では3~4月で、過ぎ越しの祭り(ペサハ)の行われる第一の月ニサン。因みに、太陽暦で5~6月の七週の祭り(シャブオット)の行われるのは第三の月シワン。太陽暦で9~10月の仮庵の祭り(スコット)が行われるのは第七の月チスリ。ここで、その時から1500年ほど経過した時代に移行します。バプテスマのヨハネが自分の方に来られるイエス・キリスト様を見て「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。(ヨハネ1:29)」と言いました。ヨハネは、屠られた小羊のように十字架で血による贖いを成し遂げられようとされるイエス様を見て、預言的なことばを語るのです。ヘブル人の記者は「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(ヘブル9:14)」と言っています。新聖歌235番の歌詞です。「罪重荷を除くは血の力、主の血は。悪魔の業をこぼつ奇しき力なれ。力ある主イェスの血、受けよ受けよ。力ある主イェスの血、受けよ今受けよ。」

2.「過越しの食事」…小羊の血をヒソプで二本の門柱とかもいに付けた後、その肉を焼いて食すように言われます。そのとき、種を入れないパンと苦菜も食します。現代の食事と比較してみても栄養バランスが取れていると思われます。種を入れたパンは日持ちしません。しかし種なしパンは腐敗しにくいということで、霊的な腐敗という意味で新約聖書で取り上げられています。Ⅰコリント5:6には「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。」とあります。この当時、コリントの教会は道徳的に問題がありました。今日の教会には聖餐式があります。Ⅰコリント11:28には「ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」とあります。また同11:31には「 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。」とあります。私たちは聖餐式を行ない、自分自身を吟味する。そして、自分自身をさばくことによって罪の清算をして守られていきましょう。

3.「過越しの儀式」…主から過越しの祭りについて教えられたモーセは、イスラエルの長老たちを集めて、この過越しの行事について語ります。まず、「ためらうことなく羊を過ぎ越しのいけにえとして屠りなさい」と言い、そして「その羊の血を二本の門柱とかもいに付けた後、朝まで誰も戸口から出てはならない」と言います。そして、「子孫の掟として永遠に守りなさい。約束の地に入って、この儀式を守りなさい」と言っています。この約1500年後、21世紀の現在から見ればおよそ2000年前、聖なる神のひとり子イエス・キリストが世に来られ、十字架で救いを成し遂げられました。つまり、過ぎ越しの祭りはキリストの十字架の救いで完成されるということです。ヘブル9:25~26には「それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」とあります。「ただ一度」です。この完成されたイエス・キリストの十字架による永遠の救いこそ、私たちが子々孫々だけではなく全世界のすべての人に宣べ伝えなければならない福音です。

●2026年5月24日(日)礼拝メッセージ要旨   

2026年のイースターは4月5日、その日から数えて50日目の5月24日が五旬節、ペンテコステ記念日です。そのペンテコステ記念日に因んで使徒の働き1:1~14から「聖霊が臨まれるとき」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「水のバプテスマと聖霊のバプテスマ」…ある一人の方がクリスチャンになった場合を考えてみましょう。その人は、まず教会に来て、聖書のことばを聞き、やがてイエス・キリストを救い主として信じ、水のバプテスマを受けます。次にその人は聖霊のバプテスマ(聖霊体験)を受けます。これは一つの典型的な例と言えるでしょう。ペテロの場合はどうでしょう。彼は、イエス様に対し「あなたは生ける神の御子キリストです(マタイ16:16)」と言いました。その後、ペテロは使徒の働き2章の、あの五旬節の出来事で正に聖霊のバプテスマを受けました。その直後、ペテロは集まって来た人々に「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(使徒2:38)」と語りました。一方、サウロ(パウロ)の場合です。サウロは当時、ユダヤ教に熱心でキリスト者を捕らえるためにエルサレムからダマスコへ行く途上、イエス様(聖霊様)がサウロに臨み、まばゆい光のために目が見えなくなりました。そのとき主が、ダマスコ在住のアナニヤをサウロの所に遣わしました。アナニヤがサウロのために祈るとサウロの目が見えるようになり、そのあと水のバプテスマを受けました。つまり、サウロ(パウロ)は、まず聖霊体験をしてそのあとで水のバプテスマを受けました。人それぞれ、その聖霊の体験は独特でとてもひとくくりにはできないかと思います。

2.「聖霊の賜物」…聖霊の賜物についてはⅠコリント12章に詳しく記されています。その章の3節には「聖霊によるのでなければだれも『イエスは主です』ということができません」とあり、そもそもイエス様を信じる告白をすること自体が聖霊の働きによるものであると言っています。創世記の1:2には「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」とあるように、天地創造の初めから今日まで聖霊の働きによって全てが成っていったということでしょう。Ⅰコリント12:8~11には御霊の賜物が9つ記されています。「①知恵のことば②知識のことば③信仰④いやし⑤奇跡を行なう力⑥預言⑦霊を見分ける力⑧異言⑨異言を解き明かす力」です。この章でパウロは結論として、「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい(31節)」と言っています。また同14章では、特に異言の賜物に対する健全なあり方が懇切丁寧に説明されています。

3.「御霊の実」…使徒の働き1:8には「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」とあります。聖霊が与えられる目的です。それは、イエス・キリストの証人となるためです。また、ガラテヤ5:22~23には「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」とあります。クリスチャンは主の証人であり、「愛、喜び、平安…」などの御霊の実によってキリストの香りを放っていきたいものです。そのためにも私たちは、聖霊充満されることを求めてまいりましょう。かつてキリスト者に対する迫害に熱心だったパウロ(サウロ)は、自らがキリスト者になり、今度は誰よりも熱心に宣教活動に献身しました。そして新約聖書中13巻の手紙を書きました。キリスト者として非の打ち所の無いと思えるようなパウロが「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。(ピリピ3:12)」と言っています。私たちも「求める者にどうして聖霊を下さらないことがありましょう(マタイ11:13)」と言われた主に向かって、聖霊を熱心に求めてまいりましょう。

●2026年5月10日(日)礼拝メッセージ要旨  

出エジプト11:1~10からです。「10番目の警告」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「なお一つのわざわいを下す(1節)」…7章から10章まで9度のしるしと不思議(わざわい)が記されていました。そして、いよいよ最後の10番目のしるしが起ころうとしています。それは12章に記されていて、この11章では、その予告的な記事となります。モーセがパロに、その10番目のわざわいを語ります。すなわち、真夜中ごろ、主がエジプトの中に出て行き、王家から奴隷に至るまでの初子が死ぬという災いが起きるということ。そして、イスラエル人は区別されて何事も起こりません。但し、12章ではイスラエル人が区別されるためには、過ぎ越しの祭りの原点となる一つの行ないをしなければなりませんでした。それは傷のない一歳の雄の小羊(山羊)を屠り、その血を家々の二本の門柱とかもいにつけるということです。それが、後の過ぎ越しの祭りの原点となり、この約1500年後にイエス・キリストの十字架の救いへとつながっていくのです。さらに今日、主キリストの再臨の日が近づきつつあります。その再臨の日こそ、正に区別の時となります。マタイ24:30~31を見ますと、再臨の日、それは一方では「悲しみの日」であり、もう一方では「選びの民として集められる日」なのです。

2.「モーセもエジプトで尊敬されていた(3節)」…イスラエル人が出エジプトするとき、食料、金銀、着物などが必要となりました。ここで主は、それらの必要のために、エジプト人がイスラエル人に対して好意を持つように仕向けられます。また、モーセはパロの家臣とエジプト人に非常に尊敬されていたとのことです。21世紀の現代に当てはめてみましょう。今日、クリスチャンは回りの人々にどう思われているでしょうか。もし、好感をもたれ、尊敬されていたら、それはそれで喜ばしいことであると言えるでしょう。しかし、どう思われようが大事なことは、クリスチャンは聖書のみことばに忠実に歩んでいなければなりません。その歩み方の基礎となるのは十戒でしょう。その十戒の要約です。「1.あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。2.偶像を造ってはならない。3.主の御名をみだりに唱えてはならない。4.安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。5.あなたの父と母を敬え。6.殺してはならない。7.姦淫してはならない。8.盗んではならない。9.偽りの証言をしてはならない。10.あなたの隣人の家を欲しがってはならない。」、10の戒めのうち8つが「してはならない」で2つが「せよ」です。つまり、「してはならない」は何もせずにいて守れます。「せよ」の第4戒めと第5戒めを行なえば十戒全部を順守することになるわけです。2026年5月10日は母の日ですが、今日、まず、イエス様を信じて罪赦された者とされ、聖日の礼拝を守り、父母を敬って生きる(基本的には全ての関わる人々を敬愛する)ことによって、クリスチャンとして良い歩み方ができるのではないでしょうか。

3.「パロはモーセの言うことを聞き入れない(9節)」…モーセがパロに第10番目のわざわいの警告をしましたが、パロは相変わらずモーセの言うことを聞きません。それでモーセは怒りに燃えてパロの所から出て行きます。それは、エジプトで主の不思議が多くなるためであったのですが、結局、最後は主の実力行使、エジプト人にとっては非常に厳しいわざわいが襲います。主のみこころは、主ご自身が崇められ、主の栄光が現われることではないでしょうか。今日、私たちは、イエス・キリストによる救いを信じ受け入れ、キリストを通して、日々の生活の中で、主の御名が崇められることを求めてまいりましょう。

●2026年5月3日(日)礼拝メッセージ要旨         

 マタイ16:13~28からです。「自分の十字架を負い」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「わたしを誰だと言いますか(13節)」…ピリポ・カイザリヤに行かれたとき、イエス様は弟子たちに「人々は人の子を誰だと言いますか」と問いかけます。すると弟子たちは「バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人だと言っています」と答えます。そこでイエス様は「あなたがたはわたしを誰だと言いますか」と言われると、シモン・ペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです」と答えます。それに対して主は「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは、天にいますわたしの父です」と言われました。イエス・キリストの父なる神、全知全能の主は、不思議なお方で、私たち一人一人に目を留め、救いの御手を差し伸べておられます。そういう中で、イエス・キリストを信じ、救いに与ったのであれば、正にそれは神の恵みです。エペソ1:3~4です。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」

2.「この岩の上にわたしの教会を建てます(18節)」…18節でイエス様はペテロに「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロ(ペトロス)です。わたしはこの岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」と言われます。「この岩の上」とは何でしょう。イエス・キリストご自身とキリストを信じる信仰告白と言えるでしょうが、今日、その信仰の基となる聖書のみことばのことでもあるでしょう(エペソ2:20参照)。19節では、主はペテロに「天の御国のカギを上げます」と言われました。それは、ペテロだけではなく、全てのキリスト者に与えられている特権です。天の御国のカギとはイエス様を心から信じてお祈りすることでしょう。マタイ18:18~19です。「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」

3.「十字架を負う(24節)」…さて、その後、イエス様はエルサレムに行って苦しみを受け、殺され、三日目に復活するということを話されます。するとペテロが「そんなことがあなたに起こるはずはありません」と言いますが、主はペテロに「下がれサタン。あなたはわたしの邪魔をする者だ~」と言われます。今日、イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しを得させる悔い改めの福音が世界中で宣べ伝えられています。イエス様を信じた人々の集まりである教会は正しい人の集まりではありません。罪人の集まりです。もっと正確に表現すると「教会は、聖なる神の前に自分が罪人であるということを自覚した人々の集まり」ということです。そして、この教会に集う人々、すなわちクリスチャンは「自分を捨て、自分の十字架を負い、イエス様について行く者である」ことが求められています。「自分の十字架」です。人それぞれ、その人だけが持つ賜物、才能があるものです。裏を返せば、それは、その人に与えられた賜物、才能を用いて、その人の使命に生きるということです。26節には「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」とあります。人よりも上に立つことや優れた者になるということを目的とするような人生ではなく、むしろ、誰かの救いのために用いていただくような生き方でありたいと願います。

●2026年4月26日(日)礼拝メッセージ要旨        

出エジプト記10:1~29からです。「いなごの大群と三日間の暗闇」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「しるしを行なう目的(1~2節)」…ここで主がモーセに、しるしと不思議を行なう目的について言及しています。それは、第一に「主がしるしをエジプトの中に行なうため」、第二に「主が行なったしるしを息子や孫に聞かせるため」、第三に「わたしが【主】であることを、あなたがたが知るため」であると言っておられます。このことは、今日の神の民であるキリスト者についても同じことが言えます。もう既に、主は聖書を通してご自身のことを証ししておられますが、地震などの自然界の動きを通してもご自身の存在を示しておられると思われます。4月20日は岩手県沖を震源とする大きめの地震が発生しました。P波と呼ばれる初期微動を察知して、S波と呼ばれる次の揺れが起こる数秒前に各人の携帯電話への緊急地震速報が通知されます。そこまで出来る今の科学技術も驚きですが、但し、実質的な地震予知ということは未だ出来ておりません。黙示録16:18には「すると、稲妻と声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。」とあり、私たち人間は、創造主であり全知全能の主の前に、無力な存在であるということを悟るべきでしょう。私たちは、主の前にひれ伏し、救い主イエス・キリスト様を信じ、救いを受けて、イエス様の再臨に備えていなければなりません。

2.「いなごの大群(12節~)」…モーセとアロンはパロの所へ行って主のメッセージを伝えます。「民を行かせないならいなごの大群をエジプト全土に送る」と。パロは「壮年だけ」と言いますが、モーセは「全員と家畜も」と言い、結局、主は東風によっていなごの大群を送ります。ここで「いなご」についての聖書の記事に目を留めましょう。マタイ3:4には「このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。」とあるように、バプテスマのヨハネはいなごを食していました。確かにレビ記11:22で「いなご」が食用として認められています。その一方で、黙示録9:3(第7の封印、第5のラッパ)には「その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。」とあり、この節の次に、このいなごが人間を襲います。但し、襲われるのは額に神の印の押されていない人間だけです。黙示録7:4~には「額に神の印の押されていない人間」とはイスラエル12部族の144,000人のことであるようですが、これはイスラエル人を指すのか、それともキリスト者のことを言っているのかは不明です。しかし、いずれにせよ、救い主イエス・キリストにあるならば恐れることはありません。

3.「三日間の暗闇(22節~)」…「いなごの大群」は第8番目のしるしで、第9番目のしるしは「三日間の暗闇」です。主はモーセに「あなたの手を天に向けて差し伸べ、闇にさわれるほどにせよ。」と言われ、モーセがそのとおりにすると、エジプト全土に三日間の暗闇が襲います。この「暗闇」についても終末と再臨に関連があります。ゼパニヤ書1:14~15には「【主】の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。【主】の日を。勇士も激しく叫ぶ。その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、」と、「暗黒の日」、「雲と暗やみの日」とあります。使徒の働き26:18には「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」とパウロが証しの中でイエス様の語られたことばを話しています。今年の4月26日(今日)は、筆者にとって信仰決心50周年の記念すべき日です。50年前の4月26日、筆者はイエス・キリストを信じ受け入れ、その心の中が暗闇から光に、大きな喜びと安心感に満たされたのです。

●2026年4月19日(日)礼拝メッセージ要旨  

 出エジプト記9:1~35からです。「主は正しいお方だ」と言ったパロの言葉をタイトルにして、第5、第6、第7、の三つのしるしと不思議を3つのポイントとして上げていきます。

1.「家畜の疫病(1~7節)」…これまで7~8章で、第1から第4のしるしと不思議を見てきました。この章では第5~第7の三つのしるしと不思議を取り上げます。さて、第5のしるしと不思議は「家畜の疫病」です。エジプトの家畜は疫病によってことごとく死に、イスラエル人の家畜は1頭も死んでいません。しかし、パロは強情で民を行かせません。主がパロの心をかたくなにさせているとは言え、やはり、誰でも、主の前に従順であるべきです。イザヤ57:15です。「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』」

2.「うみの出る腫物(8~12節)」…次に主はモーセとアロンに仰せられ、「あなたがたは、かまどのススを両手いっぱいにとって、パロの前で天に向けて撒き散らせ」と言います。言われた通りにすると、エジプト全土に細かいほこりとなって人と家畜について膿の出る腫物となります。このとき呪法師たちは腫物のためにモーセたちの前に出て来られません。私たち人間は弱いもので、健康なときもあれば、そういったできものに悩まされたり、風邪をひくときもあります。それぞれ健康管理をしてなるべく元気で過ごしたいものですが、私たちの命を握っているのは全知全能の主です。使徒の働き17:28aには「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。~」とあります。健康管理の中で一番は心の健康を保つことです。そのためにも、主なる真の神を第一にして、みことばと祈り、そしてキリストのからだなる教会に集まり、礼拝をささげ、主のみこころを求めてまいりましょう。

3.「雷と雹(13~35節))」…第7番目のしるしと不思議です。モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走っていました。それはエジプト建国以来の激しいものでした。そこでパロはモーセとアロンを呼び出し、27~28節で「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ。【主】に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを行かせよう。おまえたちはもう、とどまってはならない。」と言います。モーセはパロの心の中を見抜いていましたが、たとい上辺だけとしても、パロにここまで言わせるのですから、少なくとも進展はあったとも言えるでしょう。3月8日、つばめさわ教会にクリスチャンアーティストの神山みささんが来て演奏をしてくださいました。神山さんの夫はサルーキーの千代延(ちよのぶ)大介さんです。その千代延さんの証しが「よろこびの泉」という読み物に紹介されていました。彼のお父さんは歯科医で彼もその後を継ぐはずでしたが、自分に音楽の才能があることを感じて、音楽の道に進みます。地方から東京に出て、あるライブハウスで出演の準備をしているとき、後に妻となる神山さんも同じ出演者の一人でした。会場はギラギラ、千代延さんの髪の毛も金髪にしてギラギラ、そんな中、神山さんはいたって普通で自然体だったのが驚いたのだそうです。後に教会の礼拝に参席し、神山さんのお父さん(牧師)のメッセージを聞きました。メッセージはⅠコリント13:13「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」でした。千代延さんは、宗教だから「信仰が一番と言うだろう」と思っていたそうですが、「愛」が一番と言っているので、彼の「心に来るものがあった」と言っています。やがて千代延さんは洗礼を受け、神山さんと結婚をし、現在、独特なクリスチャンバンド・サルーキーのメンバーとして活動しています。

●2026年4月12日(日)礼拝メッセージ要旨 

出エジプト記8:1~32からです。「かえる、ぶよ、あぶ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「神の指(19節)」…前章の7章では、ナイルの水が血に変わるというしるしが行われました。それが第一のしるしと見立てると、この章では第二、第三、第四のしるしが行われます。まず第二の「かえる」のしるしです。主に命じられモーセとアロンがパロの所に行ってイスラエル人を出て行かせなければ「かえる」をもってエジプト全土を打つと言います。アロンがエジプトの水の上に手を差し伸ばすと、かえるがエジプト全土を覆います。このとき、エジプトの呪法師たちも秘術を使って同じようにしますが、パロはモーセとアロンを呼び寄せて「かえるを除くように主に祈れ。そうすれば民を行かせる。」と言います。モーセが「いつ祈ったらよいか」と言うと、パロは「明日」と言います。モーセが叫ぶと、かえるは死に絶えます。しかし、パロは息つく暇が出来て強情になります。次は第三のしるしです。今度は「ぶよ」がエジプト全土で人や獣にまとわりつきます。そのときエジプトの呪法師たちも秘術で同じようにしようとするのですが出来ず、彼らは「これは神の指です」と言います。詩篇8:3~4には「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」とあります。「神の指」とは一つの表現ですが、この世界は、正に創造主なる神の作品です。詩篇14:1には「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない。」とあります。愚か者になりませんように。

2.「区別して(23節)」…第四のしるしは「あぶ」です。このとき主はエジプトの家々だけあぶの群れが満ち、イスラエルの民がいるゴシェンの地は区別して害は及びません。今日、「~天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45b)」とありますように、天の主は全ての人を愛し、救いに与ることを望んでおられますが、ただ、イエス・キリストを信じ救いに与った聖徒に対しては特別に扱ってくださいます。詩篇4:3には「知れ。【主】は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、【主】は聞いてくださる。」とあります。またエレミヤ33:2~3には「地を造られた【主】、それを形造って確立させた【主】、その名は【主】である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」とあります。今の時代は終末の時であるとも言われています。イエス・キリストの再臨の時が近づいています。太陽が暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象が揺り動かされるとき、主が再臨され、多くの人は悲しみながらその時を迎えます。しかし、一方で、四方から選びの民が集められるのです。正に決定的な区別が行われるのです。

3.「パロの妥協案(25節))」…あぶに悩まされたパロはモーセとアロンを呼び寄せて、「さあ、(エジプト)国内でお前たちの神にいけにえをささげよ」と妥協案を提示します。それに対し、モーセはきっぱりと拒否します。あくまでもエジプトの地を出て三日の道のりを旅して、そこでいけにえをささげるのです。今日、クリスチャンは回りの人々と和睦して平和に暮らすべきです。但し、偶像礼拝など、主が忌み嫌われることに関しては妥協してはなりません。ダニエル書3章には、ネブカデネザル王が27メートルほどの高さの金の像を建て、人々に拝ませようとします。しかし、ユダヤ人であるシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは全能の主への信仰を証しし、像を拝みません。そのため三人は燃える火の炉に投げ込まれます。しかし、全能の主は彼らを救い、炉の外に出されると火の匂いもしませんでした。ネブカデネザル王は彼ら三人が信じる真の神、主を称え、三人をバビロン州で栄えさせます。

●2026年3月22日(日)礼拝メッセージ要旨    

出エジプト記7:1~25からです。「しるしと不思議の始まり」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「わたしの命じることをみな告げよ(1~7節)」…前章の6章で、モーセは主から「パロの所に行ってイスラエル人を出て行かせるように言え」という命令に対して「私は口下手です」と消極的な姿勢を崩しませんでした。しかし、この7章に入り、モーセは兄アロンと共にパロの所へ行って、主の命じられた通りに忠実に行動しています。このとき、モーセは80才、アロンは83才でした。モーセの生涯は40才まではエジプトの王女の息子として過ごしました。40才から80才まではミデヤンで羊飼いとして過ごしました。そして80才からは同胞イスラエル人の出エジプトのため、また神の山ホレブで十戒と律法を授けられます。ですから、主がモーセに用意していた本来の使命は80才からなのでした。つまり、モーセは80才までは、その準備段階だったとも言えるでしょう。それは、こんにちの私たちにも言えることではありませんか。一般的に多くの人々は60代で定年退職を迎えるものですが、神の選びの民にとっては70代、80代でも、まだまだこれからです。

2.「杖を取ってパロの前に投げよ(8~13節)」…パロの所へ行ったモーセとアロンですが、アロンが自分の杖をパロの前に投げると杖は蛇になりました。そこでパロは知恵ある者と呪術者を呼び寄せ、彼らもその秘術を使って同じことをしました。彼らがめいめい自分の杖を投げると蛇になりました。しかし、アロンの杖は彼らの杖を飲み込んでしまいました。この世の知恵や秘術を使っても全能の神、主に勝つことはできません。先日、筆者は、ジェネシスジャパン(創造科学の啓蒙活動)会長・宇佐神実氏の講演会に参加しました。この世は無神論、進化論一辺倒で、聖書の創造論は多くの人々に無視されています。ここでは、宇佐神氏の講演から一話だけ紹介します。ある家庭の食事時に、お母さんが料理をし、それをテーブルにきれいに並べました。家族がテーブルを囲んで、さあ食べようとしたとき、お父さんが「この料理は自然に偶然にこのテーブルに置かれたのだよ」と言ったとしたら、お母さんは何て思うでしょうか。無神論、進化論というのは、それと同じことをしているのです。全知全能の創造主がおられて、その方によって全ての被造物は創造されているのに、その方を無視することは実に愚かなことです。ローマ1:20には「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」とあります。また、イザヤ55:9には「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とあります。私たち人間は創造主である真の神を恐れ、この方の前にへりくだるべきです。

3.「ナイルの水は血に変わる(14~25節))」…次に、モーセとアロンはナイル川の岸に出てきたパロを迎え、アロンの杖でナイルの水を打つと、ことごとく水は血に変わり、エジプト人は水を飲むことが出来ません。このしるしと不思議を初めとして、最後はエジプト人の初子が打たれたとき、イスラエル人の家の柱とかもいには羊の血が塗ってあり、神の怒りが過ぎ越すというしるしと不思議が起こります。これは過ぎ越しの祭りの原型となり、イエス・キリストの十字架による救いの予表でもあります。また、ナイルの水が血に変わる不思議はⅠヨハネ5:6の「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。」のみことばと関連するかもしれません。つまり、水は人に命を与える存在(源)であり、血は与えられた命そのものです。イエス・キリストは人に命を与える神ご自身であり、その命を与えられた人と同じ姿で世に来られ、十字架の死と復活によって救いを成し遂げられ、その後、御霊によって信じる者に内住されました。