●2021年1月24日(日)第一礼拝メッセージ「みことば、祈り、従順」 

 本日は、今年の当教会の前進目標「1.みことばに根差す。2,祈りに励む。3・従順に主に仕える。」から、ポイント3つ上げていきます。

①「みことばに根差す」…キリストが荒野で悪魔の試みを受けたとき、悪魔はキリストに「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」と言いました。するとキリストは「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と言われました。本来、人間は、天地を創造した真の神様のことばに従って生きるべき存在です。また、逆に聖書のことば無しに生きるということは、悪魔が支配するこの世にあって、暗やみの中を歩くようなものです。詩篇119:105には「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」とあります。聖書を読み、神のことばに聞き従う生き方は、行く道を光に照らされて歩く賢い人と同じです。また、第二テモテ3:16には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」とあります。みことばは、その人を成長させ、神の人として整えるのです。

②「祈りに励む」…人間は誰でも、教えられなくても「祈る」という本性を潜在的持っているのかと思います。例えば、その人が思わぬ窮地に立たされたとき、その祈る対象は間違っていたとしても、切に何かに向かって祈るかと思います。しかし、ヨエル書2:30~32aには「わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。血と火と煙の柱である。の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、の名を呼ぶ者はみな救われる。」とあります。世の終わり、恐るべき日が来たとき、「の御名」を知らないでいたら、どこに助けを求めてよいか分からずじまいです。この世界と万物を創造した真の神、そして、その方の元から来られた神の御子である救い主イエス・キリストの御名を呼び求めることによって誰でも救いを受けます。平穏な普段から、私たちは、主の御名を呼び求めること、すなわち祈りの習慣をしっかりと身に着けるべきです。ヨハネ14:14には「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」とありますので、イエス・キリストの御名によって祈りましょう。また、第一テサロニケ5:17には「 絶えず祈りなさい。」とあります。私たちは、毎日毎日、そして毎時毎分、祈り心をもって過ごしましょう。自分のためにはもちろん、家族のため、友のため、また、為政者のためにも祈り続けましょう。

③「従順に主に仕える」…みことばと祈りに励む、その二つだけでも十分と言えそうですが、今年の前進目標には、もう一つ、「従順」ということが加わっています。詩篇95:7~8には「主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」とあります。モーセを筆頭にして、エジプトから脱出したイスラエル人の多くは、約束の地カナンに着く前に、荒野において、「水がない」「食べ物がない」などと言って、神とモーセにつぶやきました。今日のクリスチャンは、かつて、悪魔の奴隷であって、イエス様の十字架による救いによって解放されました。ところが、そのことを忘れて、もう一度エジプトの奴隷生活に帰ろうとする当時のイスラエル人のようであってはなりません。ヨハネ15:5には「天の父は、私たちが実を結ぶために刈り込みをされる」とありますが、試練の時とか、祈りがきかれないときなどは、案外、次の祝福が用意されているものです。私たちは、それを忍耐して待ち望む従順の人、また信仰の人となりましょう。

●2021年1月17日(日)礼拝メッセージ「どうしたら主に喜ばれるか」 

 クリスマスと年末年始で、順番に学んでいる聖書の個所から離れていましたが、昨年12月13日の続き、第一コリント7:17~40から「どうしたら主に喜ばれるか」という題で、ポイント三つあげていきます。

①「召されたときの状態にとどまっていなさい」…この章では全体的に「結婚」ということをテーマにしているのですが、部分的に、割礼のことを取り上げています。召されたとき、すなわちキリストを信じ受け入れたとき、割礼を受けていてもいなくても、そのままにしておきなさい、と言っています。また、召されたとき、奴隷であっても気にすることはない、と言っています。また、結婚について、現在の危急のときは、既婚者も独身者のようであれ、と言っています。但し、結婚してはいけないということではない、とも言っています。パウロ自身は独身者だったので、そのような味気ない表現になったという見方もありますが、ここで、私たちは、人の一生のことを考えてみましょう。まず、この世に生まれ、成長し、学校へ行き、卒業したら就職し、ある人は結婚し、またその中のある人は子が与えられ、やがて孫も与えられ、人によっては多くの財産を持つこともあります。しかし、年齢が積み重なり、この世を去る時が来ます。その人がもし、イエス・キリストの救いを知らず、あるいは受け入れないで一生を終えるとすれば、たといこの世で子宝や富に恵まれていても、寂しく、空しい人生だったということになるでしょう。今年、私は、N教会のT牧師から年賀状をいただきました。実に、一般的な年賀状らしくない500文字ほどの証しと勧めが書かれていました。T牧師は今年77歳になられるとのこと。17歳でキリストを信じ、信仰歴は60年。その間、27歳で大学の研究者となり、47歳で牧師に召されたとのこと。そして最後に、「私たちの目標は、永遠に変わらない神の愛を日々味わい、笑顔で創造主の愛を伝えることです。」と結んでいました。第一コリント7:19には「大事なのは神の命令を守ること」とありますが、私たちの身の回りの環境などは、二の次のこと、もっと大事なことに目を留めることです。

②「どうしたら主に喜ばれるか」…32~34節には、既婚者は、夫あるいは妻を喜ばせようと、世のことに心を配るが、独身者は主のことに心を配り、心が分かれる、と言っています。もちろん、総体的に、ということでしょう。誰であれ、要は、主に喜ばれることに心を向けることです。ところで、「主に喜ばれること」とは何でしょう。ピリピ2:21には「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」とあります。主に喜ばれることとは、キリスト・イエスのことを求めるということです。昨年春頃から新型コロナウィルスのニュースを聞かない日はありません。私たちは、早く収束するようにと祈り続けていますが、収束の兆候はまだ見えていません。しかし、必ず、収束はするでしょう。第二歴代誌7:13~14で、主がソロモンに言ったように、神の民は、自らへりくだり、祈りをささげ、主の御顔を慕い求め、悪い道から立ち返るなら、主がその祈りに目を留められるのです。コロナ収束はクリスチャンの祈りにかかっていると言っても過言ではありません。コロナの問題は、私たちが主を慕い求める機会となり、結果的にそのことを主が喜んでおられることでしょう。

③「秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕する」…パウロが、この「結婚」ということについて、どちらかと言えば否定的に発言しているのは、私たちの利益のためです。私たち人間は、どうしても、この世のことに心を向けてしまうものです。知らず知らずのうちに、焦点がずれた考えや行動をしてしまうものです。ヘブル12:2には「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」とあります。私たちは、キリストを見上げ、天に宝を積むことを第一にした歩み方をすべきです。でも、そういう歩み方こそ、その人を真に幸いな生涯へと導いていくのです。

●2021年1月10日(日)礼拝メッセージ「新しく造られた者」 

  第二コリント5:17(5:14~21)から、「新しく造られた者」という題で、ポイントを3つ上げていきます。

①「キリストのうちにあるなら」…第二コリント5:14には「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」とあります。「すべての人が死んだ」とは、「霊的な意味で死んだ」ということです。アダムの子孫として、全ての人は罪を犯し、霊的に死んだ状態にあります。日本では、毎年、新年を迎えると多くの人が神社などに初詣に出掛けます。全ての人を形造り、命の息を与えて、生かしておられる真の神は、そういった偶像礼拝する人々をどんな思いで見ておられるのでしょう。但し、今年はコロナ渦で、例年に比べて極端に初詣客が減少したようなので、その点、良かったと言えるでしょうが、霊的に死んだ状態を真の神は喜ばれません。そのために、神の御子イエス・キリストが、この世に来られ、罪の赦しと救いの道を示されました。5:20には「神の和解を受け入れなさい」とあります。誰であれ、神が示してくださった和解を受け入れる、すなわち、イエス・キリストを信じ受け入れるなら、神の子どもとしての特権が与えられ、キリストのうちにある者とされるのです。

②「新しく造られた者」…コロサイ3:10には「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」とあります。人間は礼拝する対象、信奉する対象に似ていくのです。詩篇102:18には「新しく造られる民が主を賛美しますように」とあります。造り主を賛美し、礼拝する者は、その造り主に似た者とされます。ですから、私たちは、新しく造られた者として、天地の主である真の神を益々賛美し、礼拝をささげましょう。そして、キリストのからだなる教会を愛し、仕えましょう。また、18節にあるように、「和解の務め」、すなわち、キリストを証ししましょう。

③「すべてが新しくなった」…今年の暫定的前進目標が週報のうしろの方にあります。1.みことばに根付く、2.祈りに励む、3.従順に主に仕える、以上3点です。言うまでもありませんが、聖書を読むということは、非常に大切なことで、それぞれ、少しずつでよいですから、毎日コツコツと読む習慣をしっかりと身につけましょう。また、祈りに励むことも大切です。特に朝の時間に十分な祈りをささげてから、一日をスタートするようにしましょう。祈ることによって平安と喜びに満たされ、主が共にいて下さることを確信するのです。また、どんなときでも、臨機応変に祈ることもよいでしょう。第一ヨハネ5:14には「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」とあります。祈って、その祈りが叶えられ、神の栄光が現れることを期待しましょう。次に、従順に主に仕えるということですが、別のことばで言い換えるなら、聖霊のみ声に聞き従うということです。この、3番目の暫定前進目標「従順に主につかえる」と本日の第三のポイント「すべてが新しくなった」とは大いに関連があります。クリスチャン生活も長くなって、その経験に頼ったり、自分のやり方に固執してしまって、結果的、主に対して不従順ということがないように注意しましょう。「すべてが新しくなった」とは、一度だけで終わるのではなく、日々、毎日毎日、新しくされる、つまり、主のみ声を聞いて、従順に従っていくのです。 ※補足…「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(第二コリント4:16)

●2021年1月3日(日)礼拝メッセージ「実を結ぶ一年となるために」 

 2021年を迎えました。これまでも、当教会では「実を結ぶ」という目標は掲げてきましたが、「実を結ぶためにこうしよう」という部分が弱かったと思います。そこで、一年の初めにあたり、ヨハネ15:1~15から、「実を結ぶ一年となるために」という題で学びましょう。

まず、ヨハネ15章1節と2節と5節をまとめますと、イエス様はまことのぶどうの木であり、天の父が農夫です。そして、そのぶどうの木に連なる枝がイエス様を信じた一人一人です。その枝が実を結ぶためには、①そのまことのぶどうの木にしっかりととどまること。②そして、農夫である父の刈り込みを受け入れること、その2点です。

①まことのぶどうの木にとどまるとは…9~10節を見ますと、「イエス様の愛の中にとどまる」、また、愛の中にとどまるとは「イエス様の戒めを守る」ということです。「戒めを守る」というと、堅く感じますが、マタイ11:30でイエス様は「わたしのくびきは負いやすい」と言っておられます。結局「イエス様にとどまる」とは、キリストのからだなる教会に連なり、みことばと祈りに励み、みこころを行なって生きるということでしょう。

②次に、天の父の刈り込みを受け入れるとは…6節には、イエス様にとどまっていないと、枝のように投げ捨てられ、枯れて燃やされてしまう、とあります。つまり、それは、刈り込みに嫌気がさして、枝が木から離れた結果であると思われます。刈り込みというのは、聖霊様の御声を聞いて従い、整えられるということでしょう。詩篇95:7~8には「主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」とあります。大事なことは、主の声、聖霊様に聞き従うということです。

パウロは、ピリピ3:12で「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」と言っています。パウロのように完成された人が不完全というのなら、私たちはどうなるのでしょう。確かに、私たちは不完全で、整えられる余地があります。「なくて七癖」とはよく言ったものです。他人から見ると顰蹙(ひんしゅく)を買うような、自分ではなかなか気づかない欠点があるものです。もちろん、主は、そのままの私たちを愛してくださっていますが、霊的に成長しなくてよいということはありません。ローマ12:2には「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。主の喜ばれることを行ない、喜ばれないことを止める、ということです。

そして、主は、私たちが、実を結ぶことを願っておられます。7~8節によると、私たちが祈り、その祈りがかなえられることによって、天の父は栄光を受けられるのです。ヤコブ5:16には「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」とあり、また、ヘブル12:14には「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とあります。私たちが聖められ、義人とされて(もちろん、完全にされているのではなく、イエス・キリストの十字架の救いと執り成しの故にです。)祈るとき、その祈りがかなえられるということです。その結果、霊的な実を結ぶということです。

●12月27日(日)礼拝メッセージ「聖霊と火とのバプテスマ…主を知ることを切に追い求めよう」 

「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:11~12)

 2020年を振り返るとすれば、誰もが「新型コロナウィルスの年だった」と口をそろえて言うにちがいありません。この問題が連日報道されるようになり、深刻さの度が増してくると、教会の牧師さんたちは、この問題をキリストのからだなる教会としてどのように受け止めたらよいのかを考えるようになりました。なぜなら、感染拡大防止と、それまで集まることを奨励してきた教会の立場は逆行するからです。例えばマタイ18:20には「 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とあり、ヘブル10:25にも「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とあって、このウィルスの問題と教会の働きに対し、どのように折り合いをつけるべきか、考えないわけにはいきませんでした。ですから、これまで、多くの牧師さんから、この問題に対するメッセージが発信され、私も多少なりとも、この問題に対して語ってきました。

そういう中で、最近、BFPアメリカ事務局のNW氏のメッセージが日本の広報誌に載っていて、私も注目しました。題は「打ち場(脱穀場)の恵み」です。その記事の最初のあたりで、創世記のヨセフがエジプトで大臣となり、父ヤコブの死後、ヨセフを恐れる兄たちに「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。(創世記50:20)」と語ったことばを紹介し、そのあと、ヨセフのそれまでの試練や苦難を「打ち場(脱穀場)の体験」と言っています。打ち場では脱穀がされ、善と悪、真理と偽物、有益なものと無益なものを分ける象徴と言えるとのことです。そのほか、ダビデが人口調査したとき試みを受けたあとアラウナの打ち場(第二サムエル24:16)でそれが止んでいます。ボアズとルツの記事のクライマックスも打ち場(ルツ3:6)でした。

そして、冒頭のマタイ3章のみことばに戻りますが、バプテスマのヨハネのことばです。打ち場には裁きの場という側面がある一方、イエス様による聖霊と火とのバプテスマという祝福もあるのです。また、ルカ22:31~32では、イエス様がペテロに「22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われ、打ち場でふるわれて信仰を失わないように、とも言っています。

そして、NW氏は、次のようにまとめています。「私たちが実際の打ち場を体験する時代にいるのであれば、それは後に起こるさらに偉大な事柄への準備のためです。つぼを新しい油で満たし、神の打ち場に入るため、精神的、霊的に準備をしなくてはなりません。そこで『買戻しの権利のある親類』に出会い、交わるのです。この打ち場の体験は、神が私たちに備えてくださった素晴らしい祝福とあがないの時となるでしょう。」、最後に私から、このメッセージの理解を助けるためにホセア書6:1~3も読まれることをお勧めします。

●12月20日(日)クリスマス礼拝メッセージ要旨(マタイ1:18~25)

 クリスマス礼拝ということで、マタイ1:18~25からクリスマスメッセージです。「私たちとともにおられる神」という題で、ポイント3つ上げいきます。

 ①「ヨセフは正しい人だった」(19節)…マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書の中で、イエス・キリストの降誕を取り上げているのは、このマタイの福音書とルカの福音書の二つです。ルカの福音書ではマリヤに焦点が当てられていますが、マタイの福音書はヨセフに焦点が当てられています。系図が両書とも出てきますが、ルカの福音書はマリヤの系図、マタイの福音書はヨセフの系図です。アダムからダビデまでは同じですが、ダビデ以降が異なります。さて、ヨセフとマリヤの婚約中、ヨセフはマリヤが身重になったことを知りました。ヨセフの心中はどれほど動揺したでしょうか。しかし、そこで、ヨセフは、マリヤを気遣い、このことを内密に去らせようとしました。(もちろん、このとき、主の使いが夢でヨセフに現われ、その胎に宿っているのは聖霊によるということを伝えます)ヨセフに関する記事はイエス様12歳のときで終わっていますが、ヨセフは信仰者であり、人格者だったことがうかがえます。彼は、自分のことよりも、マリヤに対してどうするのが一番良いか、というところに視点が向いています。

②「その名をイエスと付けなさい」(21節)…「イエス」という呼び方はギリシャ語式です。ヘブル語式では旧約聖書に出てくる「ヨシュア」と同じです。神の御名が「ヤハウェ」と発音するとするなら、「ヤハウェは救い」という意味です。イエス様は、信じる全ての人の罪をその身に負い、十字架で死なれ、墓に葬られ、三日目に復活されました。今日、誰でもこの方を信じ受け入れるなら、罪の赦しと御国を受け継ぐのです。これは神からの賜物、正に、これ以上は望むことのできない天からの贈りものです。無償ですが、自分のものにするには、心を開き、信じ受け入れなければなりません。

③ 「インマヌエルと呼ばれる」(23節)…インマヌエルの意味は「神は私たちとともにおられる」です。インマヌの部分が「私たちとともにおられる」で、エルが「神」です。第2ポイントの「イエス」は名前です。「インマヌエル」は、そう呼ばれるということ。イエス様は、私たちとともにいてくださる神です。マタイ28:20で復活後、まだこの地上におられたとき、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言われました。今日、イエス・キリストを信じる私たちは、ともにいてくださる神であるイエス様、すなわち、聖霊様の御声を聞いて過ごしましょう。私たちは、生活の中で様々な岐路に立たされます。そのとき、自分の思いではなく、聖霊様の御声を聞いて従うことです。

ルカの福音書2章に記されているヨセフとマリヤにとっては、正にそういった状況、苦難の連続でした。皇帝アウグストによる住民登録のためヨセフは身重のマリヤとともにナザレからベツレヘムの旅をしなければなりませんでした。ベツレヘムに到着すると宿はなく、産気づいたマリヤは家畜小屋のような場所で出産しなければなりませんでした。こういった状況の中でヨセフとマリヤはどんな思いで過ごしたのでしょうか。「なんということか」という思いはあったでしょうが、彼ら二人は、神に信頼しつつ、一歩一歩前に向かって行ったことでしょう。結果的には、飼い葉おけに寝ておられるみどり子イエス様は、その知らせを聞いてやって来た羊飼いたちのしるしとなりました。また、救い主がベツレヘムで生まれることは預言の成就でもあり、神の栄光が現れることになりました。今日の私たちも、インマヌエル(神は私たちとともにおられれる)と呼ばれるイエス様を信じ、そして、聖霊様の御声を聞いて、従いつつ、一歩一歩進んでまいりましょう。

●12月13日(日)礼拝メッセージ要旨(第一コリント7:1~16)

この7章では、当時、不品行などの問題があったコリント教会に向けて「結婚」ということをテーマにして語られています。ですから、まず聖書の基本的な結婚観を振り返ることが必要と考えます。その上で、この7章1~16節からポイント3つ上げて学んでいきましょう。

①「聖書の基本的結婚観」…「結婚」の原点は創世記2章に見ることができます。神はアダムに「人が、ひとりでいるのは良くない。」と言われ、彼のあばら骨から一人の女性を造り上げ、彼の妻として与えました。そして、創世記2:24では「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と言われ、そのみことばがマタイ19:5で引用され、さらにマタイ19:6では「それで、もはや二人ではなく、一人なのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」とあり、今日の教会においても、受け継がれています。そして、その夫婦が一体であるがためにエペソ5章では夫婦関係をキリストと教会になぞらえています。エペソ5:24~25には「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」とあります。妻と夫がその通りに出来るか出来ないかはともかく、これが聖書で教えている夫婦のあるべき姿です。

 ②「パウロによる補足的結婚観」…第一のポイントで述べた聖書の基本的結婚観は、言うなれば理想的な結婚観です。それに対し、当時のコリント教会、そして、今の時代もそうですが、やはり、現実問題というものがあります。パウロは、それまで聖書では述べられていなかった様々な結婚の形態に対して、自分の見解として語らざるを得なかったということでしょう。それで、聖書の基本的結婚観においては、結婚の良い点が強調されているのに対し、パウロの見解では、結婚において伴う義務とかマイナス面が強調されているようです。独身者の場合、そのままでいるのがベストであるけれども、情が燃えるのならば結婚するのが良い、と言っています。また、既婚者については、別れてはいけない、もし、別れたら元のさやに収まるか、再婚するな、と言っています。また、一方がクリスチャンでない夫婦の場合、未信者は信者によってきよめられている、と言っています。興味深い表現だと思いますが、その意味は救われているということではなく、「聖別されている」ということ、神が特別に目を掛けていてくださっているという解釈でよいと思います。今日も、パウロのここでの記事による見解以外にも色々なケースがあることでしょうが、要は、誰であれ、今ある状態を否定することはできません。そこから、主にあって、どうあるべきか、というところに視点を向けていくことです。

 ③「すべての人が私(パウロ)のようであることです」(7節)…ここでパウロの生涯を簡単に振り返ってみましょう。まず、パウロは生涯独身を貫きました。元々は熱心なユダヤ教のパリサイ派、ステパノ殉教のときは、石打ちをする人たちの着物の番をしていました。また、大祭司から権限を得て、エルサレムからダマスコに行き、クリスチャンをひっ捕らえてくる予定で向かった途上で聖霊なるイエス・キリストに出会い、人生が180度転換したのです。それから、今度はだれよりも熱心なクリスチャンとなって、正に命がけで福音を伝え、第一次、二次、三次伝道旅行で、今のシリアからトルコ、ギリシャ、ローマへと駆け巡りました。第二コリント11章によると、39のムチを五度受け、普通のムチを三度、難船三度、一昼夜海上をさまようこと一度、その他様々な難を受け、労し苦しみ、最後はローマで殉教した(聖書にその直接的な記事はない)と言われています。確かに、これでは結婚してないほうが良かったと言えます。そんなパウロが「すべての人が私のようであることです」と言っています。もちろん、今日、私たちがパウロと同じようにはできませんが、ただ、パウロの心、その精神を少しでも受け継ぐことはできるでしょう。つまり、今、私たちに与えられている環境や賜物、そこから、神に喜んでいただける生涯となるように、祈りつつ、一歩一歩進んで行く、ということです。

●12月6日(日)礼拝メッセージ要旨(第一コリント6:1~20)

 この6章では、5章に引き続き、当時のコリント教会の不品行の問題に加え、教会内の争いの問題を取り上げています。「主と交われば一つ霊となる」という題で、ポイントを4つあげます。

 ①「不正も甘んじて受ける」(7節)…当時のコリント教会は、クリスチャン同士で争いをし、それを同じクリスチャンの誰かに相談することなく、一般の裁判所に訴えるということをしていたようです。パウロは、それに対し、「そもそも互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北だ」と言っています。そして、「むしろ、不正をも甘んじて受けよ。だまされていなさい。」と言っています。第二テモテ2:24~25には「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。とあります。聖なる神に仕えるクリスチャンは、最低限、言うべきことは言いつつも、相手を罵倒したり、ののしったりということはせず、それ以上は主の御手に委ねるべきです。

 ②「キリスト者自由」(12節)…12~13節では、要約すると「私にはすべてのことが赦されています。私はどんなことにも支配されはしません。からだは主のためです。」と言っています。この言葉は、宗教改革者マルチン・ルターが提唱した「キリスト者の自由」と重なるところがあります。つまり、キリスト者は自由であり、何物にも隷属しない。けれども、一方で、キリスト者は自分が関わる全ての人に対して、魂に対する責任としての義務を負っています。この世に来られ、人として歩まれたキリストは、当時の王もローマ総督も恐れませんでした。その一方で、社会から見下されたような人には近づいて行って、彼らを立ち上がらせました。クリスチャンには霊的な自由と解放が与えられていますが、主のために生きると言う義務もあるのです。

③「主と交われば一つ霊となる」(17節)…第一ヨハネ5:16~17では、「死に至る罪」ということばが使われています。この第一コリント6:9~10では不品行、偶像礼拝、姦淫、男娼、男色などの罪が列挙され、こういったことをしている者は神の国を相続できないと言っています。遊女と交われば霊的な死に至り、主と交われば神の国を相続するのです。先日のハイナイトというビデオ集会のメッセージで、「神に服従するとは、神にくっついて離れないことだ」と、面白い表現をされていました。確かに、第二列王記2章で、エリシャはエリヤが天に携え挙げられるとき、くっついて離れませんでした。それゆえ、エリシャはエリヤの二倍の霊を受けました。

 ④「代価を払って買い取られた」(20節)…詩篇49:17には「人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。」とあります。莫大な財産を所有していたとしても、死ぬときは、それが何の役にも立たないし、あの世に持っていくことも出来ません。また、同、詩篇49:8には「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」とあり、世にあるすべての金銀を持っていたとして、それを差し出しても、魂の贖い代として遠く及ばないのです。しかし、第一ペテロ1:18~19には「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。2000年ほど前、聖なる神のひとり子イエス・キリストが十字架によって、尊い代価を支払ってくださったのです。このイエス様を信じ受け入れて、罪の赦しと永遠のいのちを自分のものとして受けとり、神の栄光のために生きましょう。

●11月29日(日)礼拝メッセージ要旨(第一コリント5:1~13)

 この章は、当時のコリント教会の不品行の問題を取り上げています。でも、ポジティブにとらえて、「純粋で真実な生き方」という題でポイントを3つあげます。

 ①「不品行」(1節)…父の妻を妻にする、そんなことは普通考えられませんが、たぶん、父親の再婚相手、または、妾のような人と通じたのでしょう。実際、創世記35:22では、ヤコブの子ルベンがビルハと通じ、父の寝床を汚した(第一歴代誌5:1)のです。私たち人間には良心があって、ある程度の道徳基準を持っているものですが、やはり、聖書の基準に立ち、真に正しい基準に合わせなければなりません。鎖国前の日本で、イエズス会から派遣されたザビエルが日本人について、「優れた民族であるが、男色(同性愛)がある」と派遣元に報告をしたそうです。創世記19章で、ソドムとゴモラの町に天から硫黄の火が降ってきて神のさばきを受けました。それは、性的な罪の乱れ、同性愛も蔓延していたのです。レビ記18:22には「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。」とあります。「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです。(ヘブル13:4)」

 ②「古いパン種を取り除く」(6節)…ここで言われているパン種(イース菌)とは、パンを膨らませるように、不品行によって、教会内に罪を蔓延させないように、という意味で使われています。最近、一般のニュースで、学校の教職員が児童生徒に対して性的な罪を犯す事例が多々あることを聞きます。その場合、その教職員は一旦解雇されるのですが、数年して復職し、また同じ過ちを犯してしまうケースが多いとのことです。そういう人は復職すべきではないでしょう。それは、教会外のことですが、教会が内部に不品行の罪を抱えていたら、しっかりと取り除き、全体に影響を及ぼすことがないようにしなければなりません。もちろん、教会の使命は裁くだけではなく、その人が悔い改め、回復し、正しい道を進むことです。また、私たち個人個人が、自分自身の内側の汚れに支配されないように注意しましょう。コロサイ3:5には「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とあります。まともなクリスチャンは偶像礼拝をしないでしょう。但し「むさぼり」も偶像礼拝となるのですから、気を付けましょう。

 ③「純粋で真実な生き方」(8節)…私たちは個々に長所、短所、また強さ、弱さを合わせ持っています。決して、完全な人、完璧な人はいません。キリスト教史上最も優れた人と言っても過言ではないパウロは「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。(ピリピ3:12)」と言っています。つまり、私たちは、「あれしてはいけない、これもやってはいけない」と、下を見るのではなく、上にあるものを求めて生きる(コロサイ3:1)ということです。最近、あるニュースの記事で、アメリカの信頼のおける民間統計会社・ギャラップ社が「日本のクリスチャン人口は4%」であるということを発表したようです。確かに、礼拝出席人数から割り出すと、1%も厳しいでしょうが、「自分はイエス・キリストを信じている」という人なら、そのくらいはいるかもしれません。もちろん、4%で満足していてはなりません。神のみこころは「全ての人が救われて真理を知るようになること」です。クリスマスシーズンに入りました。クリスチャンにとって、ここしばらくは最も福音を伝えやすい時です。私たちは、そういうところに目を向けていきましょう。

●11月22日(日)第一礼拝メッセージ要旨(ヨハネの福音書12:44~50)

 「大声で大切なことを語られたイエス様」という題で、1+4つポイントを上げます。

 ※「大声で」(44節)…最近はコロナ渦で、大声を上げるのははばかられます。しかし、創造主である真の神のみもとから来られた神の御子イエス・キリスト様が大声を上げられたとき、それはたいてい、大事なときに大声を上げられています。十字架上でエリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)と、やはり十字架上で息を引き取られるとき、仮庵の祭りの時には「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来てのみなさい~」と言われました。また、墓に入っているラザロを生き返らせたときも大声を出されました。そして、このヨハネ12:44で、大声を出され、50節まで語られているのですから、この部分は大切な内容であると考えて間違いないでしょう。

 ①「神のもとから来られたキリスト」(44~45節)…キリストは「わたしを信じる者は、わたしを遣わした方を信じるのであり、わたしを見る者はわたしを遣わした方を見る」と言っています。つまり、キリストは、自分こそ、天の神、唯一の創造主のもとから、この世に来た真の神の御ひとり子であると、宣言しているのです。阪神タイガーズで活躍したマートン選手はクリスチャンで、現在、メジャーリーグのカブスの職員として働いています。彼が、ある記事で次のように言っています。「イエスを知るシンプルな方法の一つは、自分を取り巻く状況や、もろもろの事柄を注意深く観察してみることです。子どもの誕生であろうと、宇宙や地球の仕組みであろうと、神が私たち人間のために、あらゆることを行ない、与えて下さったことに気づくはずです。海の上でも、木の上でも昆虫でも、神は細部に至るまで十分に気を配って造られました。ですから、創造そのものが神の存在を示し、イエスがだれであるかを示しています。それに気づけば、イエスが私たちに永遠のいのちを与えるために十字架の死を選ばれたことを理解できるようになるのです。」

 ②「世の光として来られたキリスト」(46節)…次にキリストは、「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」と言っています。このことばとほぼ同じことをヨハネ8:12でも語られました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と。キリストを信じるとはキリストに従うということです。

 ③「さばくためではなく、救うためにて来られたキリスト」(47~48節)…イエス様に従って生きることはベストであって理想でもありますが、人間、誰でも完ぺきではありません。従えないことも度々あります。ですから、キリストは、ここで「大丈夫」と言っているのです。しかし、キリストを拒み、受け入れない人はさばかれます。私たちは、キリストを受け入れ、キリストに日々、顔を向けて歩むことです。

 ④「父の命令は永遠のいのち」(49~50節)…この最後のところでキリストは、自分は何を話すべきか、父の命令は何か、ということを言っています。そうです。父の命令は永遠のいのちである、と言っているのです。第一ヨハネ5:20には「イエス・キリストこそ真の神であり、永遠のいのちである」ということが記されています。私たちはこのイエス様を信じて永遠のいのちを受け取り、光の中を歩みましょう。そして、周りの人々に永遠のいのちであるイエス・キリストを証しし、人々の救いのために神に仕えていきましょう。