●2023年3月19日(日)礼拝メッセージ要旨  

テトス3:1~15からです。「なくてはならないもののために」という題でポイント3つ上げていきます。

1.以前は愚か者であり…教会では、おもに、三つのことを毎週のように教えています。それは第一に、この世界を創造し、そこに私たち人間を住まわせている聖なる真の神様がおられるということ。第二に、私たち人間は、その神の前に罪人であるということ。最初の人であるアダムとエバがエデンの園で食べてはいけない木の実を食べてしまい、それ以来、全人類に罪が入ってしまいました。全ての人は聖なる神の前に罪人であり、神の裁きを免れることはできないということです。第三に、救いの道が開かれているということです。神は私たち人間を愛し、ひとり子イエス・キリストを世に遣わし、十字架による救いの道を開いてくださいした(ヨハネ3:16参照)。3節に「以前は愚か者であり」と言っているように、神を知らず、神を無視して生きてきた私たちは、自らの愚かさ、罪深さを悟り、「イエス様が私の罪の身代わりに十字架に架けられ、死なれ、葬られ、三日目に復活した」ということを信じ、そして従順で、すべての良いわざを進んでする者となり、柔和で、誰にも優しい人とならせていただきましょう。

2.聖霊による新生と更新…イエス・キリストを信じると、永遠のいのちを受けます。それは、死んでから始まるのではなく、信じたその時点から始まっているのです。それは、キリストの名によって与えられる助け主なる聖霊が共におられ、信じる私たちを新しくし、喜びと平安を与えてくださり、聖霊の満たしと、あらゆる祝福を与えてくださるからです。旧約聖書にあるように、イスラエル民族はエジプトで奴隷になっていました。しかし、神はモーセを遣わし、エジプトの奴隷から解放し、荒野を通って、乳と蜜の流れるカナンの地へと導かれました。それは、今日、悪魔の奴隷となっていた私たちが、イエス・キリストを信じて、罪赦され、悪魔から解放されて、神の子とされ、永遠のいのちの祝福の中に入らせていただくことの雛型(ひながた)となっています。もちろん、クリスチャンになっても時に試練はあります。でも、神の民とされた者には「祈り」があります。悔い改めとともに、切に、主の御名を呼び求めるならば、主がその祈りを聞いてくださいます。

3.なくてはならないもののために…今、世界野球・WBCが行われ、日本チームは順当に勝ち上がり、メキシコと準決勝を戦おうとしています。そのメキシコに準々決勝で敗れたプエルトリコですが、その前のドミニカとの試合で、エドウィン・ディアス投手が9回を三者三振で封じ込めて勝利に貢献しました。しかし、その直後、勝利を喜んで、皆で飛び跳ねているとき、ディアス投手は右ひざを怪我し、WBCのみならず、今シーズンはプレーできない状態になってしまいました。まだ優勝したわけでもないのに、ちょっと油断したため、思わぬ事態を招いてしまいました。これは、野球のことですが、私たちは、この地上でそれぞれに与えられている使命、すなわち、なくてはならないもののために、正しい仕事に励まなくてはなりません。私たち人間の基本的な生き方、それは「神と人とを愛して生きる」ことです。キリストは、マタイ22:36~40で、律法の専門家の質問に答え、大切な戒めは、第一に「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と言われ、第二に「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」と二つのことを言われました。別の言い方をしますと、イエス様を信じて従い、私たちが関わる全ての隣人(となりびと)の祝福を祈り、聖霊に導かれつつ神のみこころを行なっていきましょう。

●2023年3月12日(日)礼拝メッセージ要旨 

テトス1:2~15からです。老人や若い人などに対する教えで、内容的には第一テモテ5章と似ています。ここから、「良いわざに熱心なご自分の民」という題でポイントを3つ上げていきます。

1.健全な教え…2節には「老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。」とあります。次に、老婦人は「悪口を言わず」、若い人々は「思慮深く」、奴隷は「すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず」と言っています。現在では「奴隷」というのは人権的に問題ですから、部下と上司に重ね合わせればよいでしょう。今、WBC世界野球が行われています。大谷選手が注目を浴びていますが、日系選手のヌートバー選手も話題を集めています。特にヒットを放ったときのペッパーミルポーズが話題となっています。「身を粉にして働く」と言う意味であのポーズを行なっているとのこと。日本では「ゴマすり」という言葉があります。こちらは自分の利益のために他人にへつらうことで、良い意味で使われてはいません。そうです。私たちは、神の栄光のために身を粉にして、神と人とに仕えて行きたいと思います。

2.すべての人を救う神の恵み…11節に「すべての人を救う神の恵みが現われ」とあります。ここで改めて「救い」とは何かを考えてみましょう。使徒の働き26:18には「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」とあり、聖書が言っている「救い」ということを、深く、的確に、この1節をもってで表現していると言えます。正に、闇の力がこの世を支配し、この日本においては巨大新興宗教が跋扈し、偶像礼拝が蔓延しています。そういう中で、霊の目が開かれ、キリストの十字架による救いを受けた人々は極わずかです。確かに、「神は全ての人が救われて真理を知るようになるのを望んでおられます(第一テモテ2:4)。」とありますので、キリスト者も、そのことを願い行動すべきです。しかし、最終的な責任は、福音を聞いた個々人の決断にかかっています。つまり、キリスト者に課せられた責任は福音を伝えるということです。マタイ24:14には「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」とあります。キリスト者は、この世にあって敬虔に生活し、イエス・キリストを証し、福音を宣べ伝えることです。

3.良いわざに熱心なご自分の民…今、私たちは、主の再臨が近づいている終末の時代を迎えつつあると言ってよいでしょう。「主の再臨」、それは神の救いとさばきの時です。そのとき、私たちはどうあるべきでしょうか。14節には「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」とあり、おもに、二つのことを言っています。「熱心」と「きよめ」です。黙示録3:15には「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」とあります。冷たくて良いはずがありません。やはり、心を熱くしていなければなりません。そして、ヘブル12:14には「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とあります。信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストをいつも見上げつつ心熱くし、そして聖い生き方を求め、神に仕えてまいりましょう。

●2023年3月5日(日)礼拝メッセージ要旨  

テトス1:1~16からです。テトスへの手紙はテモテへの手紙に似たところがあります。長老や監督の任命と、その職の条件などに言及しています。また、偽りの教えなどにも注意を促しています。ここから、ポイントを3つ上げていきます。

1.この宣教を委ねられた…パウロは使徒として神に召され、「私は、この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、ゆだねられたのです。」と言っています。ここで、「宣教」ということについて改めて考察したいと思います。旧約聖書のヨナ書で、ヨナは、全能の神から、当時、イスラエルを脅かしていたアッシリヤの首都ニネベに行って神の指針のことばを伝えるように命じられます。ヨナは、一旦は拒むものの、結局、ニネベに行き、「もう40日もすると、ニネベは滅ぼされる」と叫びます。すると、ニネベの人々は身分の低い者から王様まで悔い改めます。今日、イエス・キリストが救い主として世に来られて十字架で救いを完成されて以来、世界中で福音が宣べ伝えられています。全ての人は聖なる神の前に罪人です。その罪ゆえの裁きを免れるためには悔い改め、イエス・キリストを信じ受け入れるしかありません。そのことを伝えるのが宣教であります。ある意味、単純で、「救いか滅びか、信じるか拒むか」です。第一コリント1:21には「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」とあり、救いは人間の知恵に基づくものではなく、神の知恵、神のわざによるのです。ですから私たちは、人を滅びから救い出すキリストの十字架の福音に基づいて、人々に明確な宣教のことばを語るべきなのです。

2.みことばをしっかり守る…5~9節では、長老、監督になるための条件などが記されています。9節では、「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。」と、他の人々を教えるためには、自らがみことばによって整えられていなければなりません。イギリスで孤児院を開設して多くの孤児たちを救済したジョージ・ミュラーは、若い時は非行少年だったようです。二十歳の頃改心してクリスチャンになり、92歳で召天するまで、聖書を100回通読したということです。彼は、晩年には日本にも来て、石井十次(孤児救済)や山室軍平(救世軍)にも感化を与え、新島襄の招きで同志社でも講演をしています。聖書をよく読むことによって、聖書の真理を悟り、そのみことばに基づいた行動に進むことが出来ます。私たちも今以上に聖書に親しみ、神の人として整えられましょう。

3.きよい人々にはすべてのものがきよい…クレテは、ユダヤ教に影響された偽教師や不健全な人々が多い傾向があったようです。そこで、パウロは「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。」と言っています。例えば、暗やみに光があるとイメージしましょう。光の方に向かえば光に照らされます。しかし、光に背を向け、闇に向かって行くなら益々暗くなります。ヨハネ8:12で、キリストは「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われました。イエス様を信じ、イエス様を求め、光の中を歩んでいきましょう。

●2023年2月26日(日)礼拝メッセージ要旨  

第二テモテ4:1~22からです。この第二テモテは、パウロの書いた最後の手紙と言われています。しかも、その最後の4章ですから、正に最後の最後ということになります。「みことばを宣べ伝えなさい」という題で、ポイントを3つ上げていきましょう。

1.みことばを宣べ伝えなさい…1節では「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。」 とあります。パウロは、彼自身、厳粛な思いをもって、テモテに大事なことを伝えようとしています。それが「みことばを宣べ伝えなさい」ということです。キリストご自身も、マルコ16:15で「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」と言われ、キリスト昇天後、初代教会が誕生した後は、ペテロ、そしてパウロにより世界宣教が行われてきました。ウィクリフ聖書翻訳協会2022年の状況によりますと、世界の言語は7388言語もあるとのことで、聖書全巻訳は724言語、新約聖書のみは1617言語、分冊のみは1248言語となっています。現在2846言語が翻訳中で、まだまだ聖書翻訳が求められているとのことです。この第一のポイントのまとめとして、5節で、パウロはテモテに「あなたはどのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」と言っています。

2.走るべき道のりを走り終え…パウロはAD64年頃、ローマ皇帝ネロによって殉教したと言われています。暴君ネロの登場により、パウロは自分の殉教の日が近いことを感じていたことでしょう。しかし、パウロは7節で「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と言っています。私たちも、パウロのように、自分の信仰を最後の最後まで守り通したいものです。その際、大事なことは、自分の人間的な力によるのではなく、神の力に支えられるということが大切です。今年の3月11日で東日本大震災から12年です。筆者は、震災直後の二日目から、つまり3月12日、13日、14日と、三日連続で、聖書のことばによって励ましを受けました。そのうちの3月13日には「世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33b)」のみことばによって励ましを受けました。キリストもマタイ28:20bで「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言っておられます。聖霊様はクリスチャンの心の中におられ(第一コリント6:19)、またクリスチャンの外側にも着せられている(ガラテヤ3:27)のです。そして、義の栄冠がパウロに用意されていたように、主の現われを慕っている者には、誰にでも授けてくださるのです。

3.上着を持って来てください…9~22節では、パウロと関わった人々の名前が出てきます。ある人はパウロを見捨て、また、ある人はパウロを助けました。やはりパウロは、自分を助け、協力した人に対して祝福のことばを述べています。さて、ここで、パウロはテモテに「上着を持って来てください」と言っています。パウロは本当に上着が必要だったかもしれませんが、殉教を前にして、愛弟子であるテモテに出会って励ましを受けたかったのではないでしょうか。パウロでさえ、そうであったように、私たちも弱い者で、物心両面の助けが必要です。言うまでもありませんが、主イエス・キリストの信仰を全うしていくために、私たちも互いに祈り合い、支え合い、助け合っていこうではありませんか。

    

●2023年2月19日(日)礼拝メッセージ要旨  

第二テモテ2:1~17から「聖書はすべて神の霊感による」という題でポイント3つ上げていきます。

1.終わりの日には困難な時代が…この2~5節では、終わりの日には「自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり…」などと、実に17項目について記されています。イエス・キリストがマタイ24:12で「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」と言っておられ、やはり終わりの時代には、そういった混沌とした、愛の冷える傾向に進むようです。現在は終わりの日を迎えつつあると言えるでしょうが、昨今の様々なニュースなどから、確かにそう言えるかと思います。しかし、キリストの救いに加えられた私たちは、5節にありますように「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」などには決してならず、むしろ、世の光、地の塩として、先週の2章で学んだように「若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求める(Ⅱテモテ2:22参照)」者でありたいと願います。

2.敬虔に生きようと願う者は…11節で、パウロは、現在のトルコ、当時の小アジアのアンテオケ、イコニウム、ルステラで迫害や困難に遭遇したと言っています。使徒16章では、パウロはルステラでテモテに出会ったようです。テモテはパウロに従順に仕え、やはり、同じように迫害や困難を経験したようです。(※注釈…アンテオケという地名は聖書では2か所に出てくる。パウロが宣教の拠点にしていたのはシリヤのアンテオケで小アジアのアンテオケは別の所。なお、シリヤのアンテオケは最近の地震のニュースではアンタキヤ(アンティオキア)という名称で紹介されている。)、現在、トルコはイスラム教一色に覆われているようですが、最近、当教会に届いたメールによりますと、やはり、トルコにも福音的な教会が現存しているようで、信頼できる某団体を通して、日本から、そこに支援しようとの呼びかけが来ています。さて、12節では「敬虔に生きようと願う者はみな迫害を受ける」とあります。イエス・キリストを信じる信仰は、何にも代えがたいものです。確かに迫害や困難は歓迎出来ませんが、それによって信仰姿勢を変えるようでは、神の民としてふさわしくありません。但し、主の祈りの中には「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)」とありますから、すべての悪から守られるように謙虚に祈ることはよいことです。イエス・キリストは、私たちの罪をその身に負われて、贖いを成し遂げただけではなく、今も生きて、私たちを執り成してくださっています。

3.聖書はすべて神の霊感による…1445年、グーデンベルクが活版印刷技術を考案して以来、今日、誰もが簡単に(政治体制的な問題がなければ)聖書を持つことが出来ます。聖書が語っている天地を創造した真の神様がいらっしゃるなら、ご自分のメッセージを残し、それをまとめて、私たち人間がそれを理解することが出来るように形にして残されることでしょう。実際に聖書はBC1500年からAD100年くらいまでの1600年の間にかけて、40人ほどの執筆者によって、統一されたものとして、今日に残されています。そのことがイザヤ34:16に「の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。」と記されています。聖書は、私たちに救いを受けさせ、教えと戒めと義の訓練に有益で、神の働き人として整えてくださいます。すべてが聖なる神の霊感によって書かれていますから、何を読むよりも遥かに有益なもので、これを読まないということは大きな損失でもあります。私たちは、これまで以上に益々聖書のみことばを慕い求めてまいりましょう。

●2023年2月12日(日)礼拝メッセージ要旨  

第二テモテ2:14~26から「真理のみことば」という題でポイント3つ上げていきます。

1.真理のみことば…15節で、パウロはテモテに対して「あなたは熟練した者、すなわち真理のみことばをまっすぐに解き明かす、恥じることのない働き人として自分を神にささげるよう、務め励みなさい。」と言っています。「真理のみことばをまっすぐに解き明かす」という箇所が大事です。真理とか真実、あるいは事実というのは一つだけです。人間は大昔のことを知ることはできません。ただ、想像することはできます。しかし、まことの神は初めからおられ、昔も今も未来のことさえもご存じで、そのことが聖書に記されています。創世記1:1には「初めに神が天と地を創造した」とあります。正に、聖書は事実起こったことを淡々と伝えています。そして、次にアダムとエバが形造られ、彼らは罪を犯し、全人類に罪が及びます。罪を持っていると神の裁きが待っています。しかし、神は御子イエス・キリストを世に送り、救いの道を開きます。キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14:6)」と言われました。真理のみことばは聖書にあり、聖書はキリストについて書いてあります。パウロは、その真理であるイエス・キリストに出会い、キリストをまっすぐに解き明かす福音の宣教者として用いられました。

2.聖められたもの…ある宗教の方たちは、滝の下に行って、水に打たれる滝行を行ないます。水の勢いで雑念を思う余裕などなく(それに夏でも寒すぎるでしょう)、精神統一に役立つとのことです。もう一つは、私たち人間が潜在的に心の中に持っている負い目と言いましょうか、心の汚れのようなものをきよめようという思惑もあるのではないでしょうか。確かに、お風呂に入れば外側の汚れは取り除くことはできますが、心の汚れは水によって清めることはできません。ヘブル9:22には「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とあります。聖なる神の御子イエス・キリストが、私たちの罪をその身に負ってくださいました。私たちがキリストを信じ受け入れることによって、罪赦され、聖くされるのです。但し、そうかと言って、罪の性質が完全に無くなるわけではありません。この世に生きている限り、十字架を見上げ続けていかねばなりません。聖なる神と御子イエス・キリストを求めることは、きよさを求めることでもあります。昨今「自分に正直に生きよう」などと聞くことがありますが、人間は自分の欲望のまま生きて行けば、却って後悔することになるでしょう。きよい生き方こそ真に生き甲斐のある人生となるのです。

  

3.柔和な心…昨今は、健康寿命などという言葉をよく聞きます。健康ではつらつとした状態を保ちつつ長生きするということです。適度な運動、バランスの取れた食事、睡眠、そして、その人の心の状態も大いに健康に関連してくると思います。笑うことは健康に良いということが医学的にも裏付けられているようです。心の状態を健全に保つためには、基本的に柔和に生きるということではないでしょうか。当教会の礼拝に長く来ておられたWさんは、104才で召天されましたが、キリストを信じ、明るく柔和な方でした。聖路加国際病院の院長をしておられた日野原重明さんは、105才まで長生きされた方ですが、やはり、クリスチャンで、柔和な方でした。日野原さんの転機となったのは、1970年に起こった「よど号ハイジャック事件」だということです。たまたま、日野原さんは、その飛行機に乗っていて、人質となり、北朝鮮に行くところを、韓国の金浦空港で解放されたとのこと。それ以後、日野原さんは自分の生涯を社会貢献のために尽くそうとされたとのことです。主のしもべである私たちも、人と争わず、誰に対しても優しく、柔和な心でキリストを証しし、福音を伝えましょう。            

●2023年2月5日(日)礼拝メッセージ要旨  

第二テモテ2:1~13から、「よみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい」という題で、ポイントを3つ上げていきます。

①キリストの立派な兵士となりなさい…「兵士」というと、ウクライナとロシア間で行なわれている戦争を思います。一刻も早く終戦となることを願います。それと共に、戦争にならないように知恵深い外交手段を講じるべきです。現在、日本は防衛力強化を打ち出していますが、アメリカ一辺倒ではなく、韓国はもちろん、政治体制の異なる中国、北朝鮮、ロシアに対しても、緊張感を和らげるような外交交渉を施すべきです。さて、聖書に戻ります。キリストの兵士は、キリストのために役立つ者であらねばなりません。良い農夫は沢山の作物を収穫します。良い漁夫は沢山の魚を捕らえるでしょう。陸上競技の選手は競技の規定に従って栄冠を目指します。私たちは、キリストの兵士として、まず礼拝を重んじ、聖書をよく読み、よく祈り、そしてキリストのからだなる教会から遣わされて福音を伝えましょう。誰も働くことのできない夜が来る前に(ヨハネ9:4参照)、今のうちに、キリストを証ししましょう。

②よみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい…今から45年ほど前のことです。筆者は母教会で行われた日曜日の夜の集会に参加しました。その日は、確か、スウェーデンから日本に来られて長く伝道しておられた宣教師さんが午前の礼拝に続いてメッセージをされました。その時のメッセージの聖書箇所が、この第二テモテ2:8の「死から復活したイエス・キリストをいつも思っていなさい」というメッセージでした。イエス様は今も生きて働いてくださいます。また、たとい、マイナスと思えるようなことがあっても、復活の主を信じる者にとってはプラスとなるのです。何度も話すことですが、筆者は3.11東日本大震災で、教会と住居を兼ねていた建物を大津波で失いました。当日の11日の夜は、太白区役所にお世話になりました。翌日の12日の夜は、子供らが卒業した小学校の教室で過ごしました。色々な思いが駆け巡り、非常に苦しい気持ちに支配されました。しかし、そのとき、ローマ8:28「すべてのことが益となる」というみことばに大きな力を得ました。その後、実際に、マイナスがプラスとなり、ただ、主の恵みによって今日があります。引き続き、復活の主をいつも見上げて行こうと思っています。

③主は常に真実である…11節には、「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。」とあります。つまり、私たちが自分の我欲を捨てて、自分に与えられた使命に生きるなら、キリストは私たちと共に生きて働いてくださるのです。そして、13節には、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」とあります。イエス・キリストは、真実な方であり、キリストについて記している聖書も真実な書です。今週2月11日は「建国記念の日」です。当初、この記念日を制定するにあたり、推進派は「建国記念日」としようと考えていました。しかし、反対派の人々は、「それは神話に基づいたものであり、学問的な史実に基づいていない。しかし、建国されているのは事実であるので『建国記念の日』というふうに、『の』が入るなら良い」ということで、決まったとのことです。昭和天皇の末弟・三笠宮殿下は、旧約聖書の研究家で、ヘブル語に通じた方でした。この方は、ある著書によりますと「私は戦時中に敵を知ろうと、キリスト教を調べ、聖書に出会いました。初めは文明を誇る白人がどうしてこのようなものを、と笑いましたが、聖書が歴史的事実だと知ったとき、聖書から離れられなくなりました」と言っておられます。最後に詩篇18:30~32です。「神、その道は完全。のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。まことに、のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。」

●2023年1月29日(日)礼拝メッセージ要旨  

本日からテモテ第二の手紙(第二テモテ1:1~18)に入ります。第一の手紙はマケドニヤから書かれていますが、第二の手紙はローマの獄中からであり、パウロの書いた最後の手紙と言われていて、所々に重い内容が見られます。この1章は、内容豊かでポイントが5~6ほど上げられるのですが、ポイント3つで、まとめていきたいと思います。

 

①純粋な信仰 …テモテの純粋な信仰は、祖母ロイスと母ユニケから受け継がれているようです。親から子へ、子から孫へ、というふうにイエス・キリストを信じる純粋な信仰が受け継がれていくとすれば、幸いなことです。さて、純粋な信仰とはどういったものでしょうか。筆者は、立場的に他教派(健全な普通のキリスト教会)の牧師さんたちと会合などで出会う機会があります。そのとき感じることは、どこの教派に属する牧師さんであろうが、皆さん、自分の所属する教派に誇りを持っていて、「自分たちが最も純粋な信仰を持っている」と、口にこそ出して言うことはありませんが、そのように感じる空気感はあります。それはそれで、理解できることであると言えますが、あえて、「純粋な信仰の基準」を設けるとすれば、それは「聖書のことばを神のことばとして位置付けているかどうか」ということではないでしょうか。第二テモテ3:16には「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」とあり、やはり、聖書のことばを神のことばと受け入れることから、純粋な信仰は始まり、そこが土台となっていくのです。

②力と愛と慎みとの霊 …パウロはテモテに、かつて按手して与えられた聖霊の賜物を再び燃え立たせるようにと勧めています。遠く離れていても、パウロは祈りの中でテモテの心の内を感知していたのでしょう。そして、7節で「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」と言い、8節では、「ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。」と言っています。この章の15節では、フゲロとヘルモゲネという人たちが、パウロから離れていったことが記されています。しかし、その一方で、オネシポロの家族はパウロを捜し出して会いにきたのです。人を恐れるのではなく、神を恐れ、神の力によって行動しましょう。先日1月25日は、この地域にも寒波が押し寄せ、雪が降りました。マイナス6~7度くらいでした。雪の多い他地域に比べればわずかですが、それでも天候をも支配している真の神の偉大な力を覚える時となりました。私たちは、その神から、それぞれの使命に生きるための力をいただき、神の愛と謙遜を併せ持ちながら、主を証しさせていただきましょう。

 

③確信している…パウロは、「イエス・キリストの救いを受けるということは、永遠の昔からご計画されている(9節参照)」ということを言っています。そしてパウロは、その救いの福音の宣教者、使徒、教師として神に立てられたのです。そして、12節で「そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」と言っています。「私のお任せしたもの」とは何でしょう。それは、最後の最後まで信仰を守り抜き、永遠の天の御国に凱旋するということではないかと思います。そのことをパウロは、イエス・キリストのゆえに確信していたのです。

●2023年1月22日(日)礼拝メッセージ要旨  

第一テモテ6:11~21から、「神の人よ」という題でポイントを3つ上げていきます。

「神の人よ」…11節で、神の人は「正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和」を熱心に求めなさい、と言っています。この世は進化論を前提とした世界観が幅をきかせていて、何でも競争し、勝ち残った者を称賛するという傾向があります。同じ仙台市内で、創造論伝道師として用いられているT牧師は「共生(きょうせい)こそ創造主のご計画です。創造主の作品には優劣はない。共生するように創造されている」と言っています。他人(ひと)を押しのけ、他人よりも上に立ち、利得だけを目的とするような世界観ではなく、人を助け、人と共生していく世界観を教えているのが聖書です。そして12節では「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」とあります。私たちは、この世に生きている限り、楽なことばかりではありません。ローマ5:4には「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」とあります。忍耐しなければならないことがありますが、それは、次の祝福への道となると信じましょう。

「神は祝福に満ちた唯一の主権者」…14節では「私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。」とあります。キリストの現われの時とは再臨のことです。再臨の前提となるのは、不法の人、滅びの子と言われる人物が現れた後のことになるでしょう。今は、まだその人物は現われていませんが、ウクライナ戦争や異常気象など、世界が混沌としている状況は、その舞台が整いつつあると言えます。実際に不法の人が現われたら、一気に再臨が現実味を帯びてくるでしょう。創世記5章で登場するエノクは、65歳で、メトシェラ(「彼が死ぬとき、それが始まった」の意…メトシェラはノアの大洪水の年に死んだ)が生まれ、その後300年間、神と共に歩み、死を見ることなく生きたままで天に上げられました。私たちもキリストの再臨を待ち望み、エノクのように空中携挙に与る者とされましょう。神は私たちを祝福しようとしておられます。ヘブル11:6には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあります。神に喜んでいただけるような信仰の人でありたいと思います。

「神に望みを置くように」…世の富や財産を所有しているとすれば、それは無いよりはあるほうが良いと言えますが、無ければ失う心配はありません。必要な時に間に合う程度に持っているのがベストかもしれませんね。17節では、「頼りにならない富に望みを置かないようにしなさい」と言っています。それよりも、全てのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置いて過ごしましょう。そして、18節にありますように、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与える者になりましょう。そして、19節のように、未来に備え、良い基礎を自分自身のために築き上げるようにしましょう。20節では「霊知」ということばが使われていますが、2017年訳では「知識」です。英語の聖書ではknowledgeで、やはり、「知識」の訳で良いと思います。この世の知識において、科学的に証明されているもの、学問的にきちんと裏付けられた知識なら別ですが、そうではない推定や仮説などによる知識を、科学や正当な学問と混同すべきではないでしょう。私たちは、聖書のみことばに、信仰の土台を据えて、そこに立ち続け、何より、神の恵み、キリストの十字架の救いによる恵みから外れることがないようにしましょう。

●2023年1月15日(日)礼拝メッセージ要旨  

第一テモテ6:1~10から、「満ち足りる心を伴う敬虔」という題でポイントを3つ上げていきます。

「奴隷と主人」…創世記39章で、ヨセフは兄たちによって、エジプトに奴隷として売られ、ポティファルという人に仕えることになりました。主がヨセフとともにおられ、ヨセフは何をしても成功し、主人は自分の財産全部をヨセフに管理させるほどになりました。奴隷制度については大いに問題がありますが、今日、クリスチャンがその勤める職場において、上司や経営者などを尊敬し、従順に仕え、その職場に貢献することで、神の栄光が現われます。また、上司が自分と同じクリスチャンの場合は、ますます上司を尊敬し、仕えていくことです。ところで、クリスチャンは従業員の立場のみならず、自ら会社を起こして成功して、不景気と言われるこの世にあって、雇用を促進して、神の栄光を現わす人が現われても良いと思います。

「満ち足りる心を伴う敬虔」…この当時「敬虔を利得の手段」とする人がいたようです。それは、偽教師のような人たちのことです。目的がどこにあるかということが非常に重要なことです。例えば、日本の国会議員さんの歳費と言われるお給金は世界第三位とのことで、しかも新幹線がタダなど大変な優遇を受けています。そうなりますと、国民の年収も世界第三位になってもよさそうですが、ここ数年、こちらのほうの世界ランキングは下がりっぱなしのようです。そうなりますと、国会議員としての役割よりも、頂ける高額なお給金を目当てにする人がいても不思議ではありませんね。聖書に戻ります。6節には「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」とあります。敬虔、それは信仰的な充足感とか、霊的な満たし、そういったものを目標にした信仰生活こそ、その人を結果的に幸いに導くのです。利得を目的にした信仰生活ではなく、まず、敬虔に生きることを目標とした信仰生活が望まれます。

「衣食があれば満足すべし」…7節には「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。」とあります。確かに私たちは何も持たずに生まれ、何も持たずに世を去っていきます。ですから、そのあとで、「衣食があれば、それで満足すべきです。」とあります。もちろん、私たちは衣食のみならず、実に沢山の物を所有しているのではないでしょうか。クリスチャンが模範とすべき方であるイエス・キリストは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(マタイ8:20)」と言われました。キリストは家畜小屋でお生まれになり、人々の前にお姿を現わされたときは、決まった住居さえありませんでした。それでも、乏しいということはなく、山で群衆が集まったときは、5つのパンと2匹の魚から、5千人の人々を満腹にさせ、余ったパン切れを集めると12のかごがいっぱいになりました。ローマ8:20には「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」とあります。主にあるクリスチャンは、当時のキリストと同じように天からこの世に遣わされているのです。天の御国は莫大な富で満ち溢れている場所です。この世の滅びて行く富に執着すべきではありません。マルコ10:29~30でキリストは「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」と言われました。キリストのために、福音のために捧げた者には、後の世で永遠のいのちを受けるに止まらず、この世において百倍の報いを受けるのです。もちろん、第二のポイントで学んだように、この世の報いである利得を目的にしたら、本末転倒です。まず、敬虔を求めるのです。