●2025年10月5日(日)礼拝メッセージ要旨            

 創世記41:1~57からです。ヨセフ物語の中でも最も劇的な章とも言えます。「パロの夢を解き明かすヨセフ」という題でポイント三つ上げていきます。

1.「私ではありません。神が~」…パロが七頭の雌牛と七つの穂に関する二つの夢を見ます。パロは心騒ぎ、呪法師たちと知者たちを呼び集め、その夢の解き明かしを命じるのですが、誰一人解き明かすことができません。そのとき、2年前、監獄でヨセフと一緒だった献酌官長がヨセフのことを思い出し、パロに話します。そして、ヨセフはパロの前に立つことになります。パロはヨセフに「あなたは夢の解き明かしをするということだが」と言うと、ヨセフは「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」と言い、七年の大豊作と続く七年の飢饉があると解き明かしたあと、「このことが神によってさだめられ、神がすみやかにこれをなさるからです。」と言います。この世界は天地万物の創造主である真の神によって創造され、神がそれを統べ治めておられます。その中に住む私たち人間は正に「神の中に生き、動き、存在している(使徒17:28)」のです。しかし、この世の多くの人々はそう思ってはいません。人の手によって作られた偶像の神々を拝み、聖書が言っている天地創造の真の神を否定し、この世界は偶然によって成り立っていると思っています。サイコロを振って同じ数がたったの10回続くだけでも至難の業であるのに、この世界が偶然によって成り立つことなど決してありえません。愚かな偽りの教えに惑わされるべきではありません。

2.「その後の対応をも語るヨセフとパロ王の反応」…ヨセフはただ単に、パロの夢を解き明かしただけではなく、七年の大豊作と、その後に続く七年の飢饉に対してどのように対処すべきかも丁寧に語ります。そのヨセフの話を聞いて、パロと家臣たちは納得します。そして、パロはヨセフに自分の指にはめている指輪を取ってヨセフの指にはめさせます。そして、自分の第二の車にヨセフを乗せ、彼にエジプト全土を支配させます。さらにパロは、ヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻にします。ヨセフに家庭を持たせて、安定的に仕事をさせようとしたのだと思われます。ヨセフの能力も飛び抜けていますが、そのヨセフを即刻エジプトで一番の要職に就かせるパロの眼力も飛び抜けています。

3.「ヨセフの仕事ぶり」…ヨセフは30歳でパロ王に次ぐエジプトの支配者になり、早速、着々と仕事にかかります。まず、エジプト全土を巡り歩き、豊作の七年間に町々に食料を蓄えます。49節には「穀物を海の砂のように非常に多く蓄え、量りきれなくなったので量るのをやめた」とあるほどです。やがて、国内からも穀物を求める声が上がり、さらに国外からもエジプトに穀物を買いにやって来るようになります。元々、ヨセフは最初のポティファルの家で、さらに監獄でも優れた管理能力を発揮しています。そして、ようやく大国エジプトの管理を任され、いかんなくその能力を発揮しているのです。エペソ2:10には「 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」とあります。正にヨセフは、神の作品として世に現われ、色々な試練の中を通り、神がヨセフのためにあらかじめ備えておられた働きをしているのです。これは、今日の私たちも同じです。私たちも神が備えてくださっている道を歩んで行くのです。「神が造られた最高の私になる」という本がありますが、私たちは、誰かの真似をする必要はありません。自分自身を生きればよいのです。但し、「キリスト・イエスにあって造られた」とあるように、イエス・キリストの救い(罪の赦しと永遠のいのち)はしっかりと信じ受け入れて、このイエス様の名によって祈りつつ、自分に与えられた道を歩んで行くのです。

●2025年9月28日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記40:1~23からです。この章は夢の話です。あの寝ているときに見る夢です。「献酌官長と調理官長」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「夢を見て落ち着かない二人」…ヨセフは濡れ衣を着せられて監獄に入れられますが、主はヨセフと共におられ、彼は監獄内の囚人たちの管理者になります。それから、しばらくしてのことでしょう。パロ王に仕える献酌官と調理官がヨセフのいる監獄に入ってきます。ヨセフは彼ら二人の世話役になります。ある日、二人は同じ夜に夢を見ます。そして、その夢によって彼らはイライラしています。ヨセフが彼らに「あなた方の顔色が悪いのはなぜですか」と尋ねますと、二人は「私たちは夢を見たが解き明かす人がいない」と言います。ヨセフは「それを解き明かすことは神のなさることです。さあ、それを話してください」と言います。使徒の働き17:28aには「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。~」とあります。私たち人間は全知全能の創造主である真の神様によって形造られ、生かされて生きているのです。その方が時に、私たちに夢を見させ、何らかの指針を示すこともあるでしょう。ヨセフは、それを神様に教えられて解き明かすと言っているのです。

2.「夢の解き明かしをするヨセフ」…まず献酌官長が自分の見た夢を話します。ヨセフはそれを聞いて「3日のうちにパロはあなたを呼び出し、あなたを元の地位に戻すでしょう」と言います。それを聞いていた調理官長も良い解き明かしを期待して、ヨセフに夢の内容を話します。ヨセフは「3日のうちにパロはあなたを呼び出し、あなたを木に吊るすでしょう。」と言います。調理官長はパロ王に対してどんな罪を犯したのか不明ですが、気の毒ですね。それと同じような、夢を解き明かす記事が、ダニエル書2章にあります。バビロン王ネブカデネザルが夢を見ました。非常に気になる夢で、その意味を知りたいと思いました。そこで王は呪法師たちを呼び寄せ、自分の見た夢の解き明かしを命じます。呪法師たちは「まず見た夢をお話しください」と言うのですが、王は「自分が見た夢を言い当てることができるなら、解き明かしも出来るはずである」と答えます。そして王は怒り、「バビロンの知者を全て滅ぼせ」と命じます。それを聞いたダニエルはネブカデネザル王の所に行き、王にその解き明かしをするためにしばらくの時を与えてくれるように願います。それからダニエルは自分の家に帰り、三人の同僚たちと問題を分かち合って天の神のあわれみを請い、自分たちがバビロンの知者たちと共に滅ぼされることのないようにと願いました。すると夜の幻のうちにダニエルに王の見た夢とその解き明かしが示され、問題が解決されるのです。今日、私たちにはヨセフのような賜物は無いかと思います。しかし、何か問題があったとしてもイエス・キリストの御名によって祈ることによって問題が解決されるでしょう。クリスチャンには「祈り」という素晴らしい特権があるのです。

3.「パロの誕生日に」…ヨセフが二人の夢を解き明かした三日目がパロの誕生日で、パロは自分の家臣たちのために祝宴を張ります。そこで、例の献酌官長と調理官長が呼び出され、献酌官長は元の役職に戻され、調理官長は木に吊るされてしまいます。ヨセフは献酌官長が解放されて幸せになったら、自分が出られるように取り計らってくれるようお願いしていたのですが、すっかり彼はヨセフのことを忘れていました。Ⅰペテロ5:6に「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」とあります。ヨセフは、その2年後、パロの夢を解き明かし、ただ解放されるだけではなく、エジプト全土を治めるエジプト第二位の権力者となっていきます。神はヨセフのために着々と、その時を備えておられたのです。それと同じように、イエス・キリストの父なる神を信じる全ての人のためにも主は、時を備えておられるのです。

●2025年9月21日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記39:1~23からです。エジプトに連れて行かれたヨセフはその後どうなったのか。この章はその始まりです。「主はヨセフとともにおられ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ポティファルの家が祝福される」…ヨセフは、パロ王の廷臣で侍従長のポティファルの家の奴隷として仕えることになります。しかし、主がヨセフとともにおられ、彼の行ないが全て成功するのをポティファルは見ます。ポティファルはやがてヨセフに自分の家と全財産をヨセフに管理させるようになります。その時からです。主は、ヨセフのゆえにポティファルの家を祝福されます。今日、イエス・キリストを信じるクリスチャンは聖霊様を内に宿しています。つまり、創造主である全知全能の神が共におられます。クリスチャンのいる所、そこは祝福の場所となるでしょう。さらに、ヨセフを重用して祝福されたポティファル家のように、神が共にいるクリスチャンがこの日本の国に多く起こされ、様々な部門で用いられるなら、この国は大いに祝福されるでしょう。

2.「ポティファルの妻の悪事」…ヨセフは今風に言うとイケメンだったようです。それに加えて仕事も出来るし、人格的にも備わっていたことでしょう。そんなヨセフにポティファルの妻が言い寄ってきたのですが、ヨセフは「どうしてそのような悪事をして、私は神の前に罪を犯すことができましょう」と言います。しかし、彼女はあきらめません。あるとき、家の者が他に誰もいないとき、彼女はヨセフの上着を掴んで離しません。ヨセフはたまらず上着を残して外に逃げます。すると、ポティファルの妻は「ヨセフが自分にイタズラをした。その証拠にヨセフの上着がある」と言って、ヨセフを悪者に仕立てます。夫のポティファルにも同じように作り事を話すと、夫はそれを真に受け、怒ってヨセフを監獄に放り込むのです。この創世記を読み進めますと、ヨセフは監獄に入れられるものの、30歳でいきなりエジプト第二位の地位に就くことになります。聖書には記してないのですが、そのとき、ヨセフのことを聞いたポティファルと妻は人生最悪の日を迎えることになったのではないでしょうか。ローマ12:19には「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」とありますように、たぶん、ヨセフも、このみことば通り、ポティファル夫妻に対して復讐はしなかったことでしょう。しかし、彼らは生涯に渡って心休まることはなかったでしょう。創造主である全知全能の主は生きておられます。神は侮られるような方ではありません。必ず正しい裁きを下されます。私たちは、この方を恐れ、罪の赦しと救いを完成されたイエス・キリストを信じて従っていきましょう。

3.「監獄でも成功するヨセフ」…ヨセフは監獄に入れられますが、彼はそこでも監獄の長から気に入られ、なんと全囚人の管理を任されるのです。それは23節に「主が彼とともにおられ、彼が何をしても成功させてくださった」とある通り、全能の主が彼をそのようにされたのです。但し、ヨセフ自身の全能の主への信仰があったからこそではないでしょうか。言い換えますと、それはヨセフが持っている「成功の秘訣」とも言えます。箴言3:6には「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」とあります。「主は私とともにいてくださる。たとえどんな状況であっても主は私に最善を成してくださる」と、主を信頼するのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」

●2025年9月14日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記38:1~30からです。創世記37章からヨセフ物語が始まります。しかし、この38章ではユダの記事です。その内容的は芳しいものではありませんが、ヨセフから一旦、ユダの記事になっているのです。ヨセフ(エフライム)とユダは共に、この後のイスラエル民族の中ではリーダー的な存在で、ユダ族からは後にダビデ王が出、そのダビデの血統からイエス・キリストが降誕します。ですから、キーマンとしてのユダの記事がここに出てくるのでしょう。ここでは、「ユダとタマル」という題で三つの段落でまとめます。

1.「エル、オナン、シェラ」(1~11)1節で「その頃のことであった」と言っています。ユダにとって弟のヨセフがエジプトに奴隷として売られて行った頃のことです。ユダは他の兄弟たちから離れて、アドラム人ヒラの近くで天幕を張ります。そこで、カナン人の娘をみそめて結婚し、男子3人が生まれます。ユダは長子エルにタマルという妻を迎えますが、エルは主を怒らせていて死にます。ユダは次男オナンに「義弟としての務めを果たしなさい」と言い、オナンとタマルは結婚しますが、オナンは生まれる子が自分のものにならないことを知って、結果的に主を怒らせて死にます。そこでユダはタマルに、三男シェラが成人するまで自分の実家で待機するように言い、タマルもそれに従います。

2.「タマルの計略」(12~23)かなりの日が経過し、ユダの妻が死に、その喪が明けると、ユダは羊の毛を刈るためにティムナに行きます。実家にいたはずのタマルが、ユダの行動を聞き、ティムナへの道にあるエナイムの入口で、顔を覆い、遊女の装いをして待機していました。ユダは彼女が遊女だと思い、彼女と関係を持とうとします。彼女は見返りを求めると、ユダは「子ヤギを贈ろう」と言います。結局、彼女はユダから、その報酬のしるしとして、印形とヒモと杖を預かります。その後ユダは、預けたしるしを取り戻そうと、アドラム人の友人に託して、子ヤギを送るのですが、その女を見つけることができず、ユダも笑い種になるし、そのままにしておくことになりました。

3.「全てが明るみに出される」(24~30)それから3カ月ほどして「あなたの嫁のタマルが売春し、その上、売春によってみごもっている」という知らせがユダに届きます。するとユダは激しく怒り、「あの女を引き出して焼き殺せ」と言います。ユダからの使いがタマルの所に来ると、タマルは、例の印形とヒモと杖を出し「これらが誰のものかお調べください」と言います。ユダはそれを見定めて、「あの女は私よりも正しい」と自分の間違いを認めます。その後、タマルは出産のときになって、双子のパレス(ペレツ)とザラ(ゼラフ)が生まれます。マタイの福音書1章にはアブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図が出てきます。その1章3~6節には、ユダにタマルによってパレスが生まれ、その子エスロン、その子アラム、その子アミナダブ、その子ナアソン、その子サルモンと代々続き、サルモンと遊女ラハブによってボアズが生まれ、ボアズとモアブ人ルツによってオベデが生まれ、次にエッサイ、エッサイからダビデが生まれ、ダビデとウリヤの妻からソロモンが生まれます。こうして見るときに、聖書は人間のありのままの姿を坦々と記しています。もし、もっと体裁を良くしようとして事実を改ざんしたとしたら、聖書が聖書でなくなります。汚点と罪と弱さを持つ人間の世界に、キリストは、その全ての負い目をその身に受け、信じる者の罪の赦しと義と永遠のいのちを与えるために十字架の死による救いを成し遂げられたのです。Ⅱコリント5:17には「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。今、私たちが、イエス・キリストのうちにあるなら、古いものは過ぎ去り、全てが新しくされているのです。そして新しくされた者として上にあるものを求めてまいりましょう(コロサイ3:1~2参照)。

●2025年9月7日(日)礼拝メッセージ要旨 

今回は創世記を離れ、マルコ4:1~20からです。「百倍の実を結ぶ人」という題で学びましょう。

1.「キリストは、おびただしい群衆に種蒔く人のたとえ話をされる」①道端に落ちた種…鳥が来て食べてしまった。②岩地に落ちた種…すぐに芽を出したが、土が深くなかったので、日が上ると焼けて枯れてしまった。③いばらの中に落ちた種…いばらが伸びて、それをふさいでしまったので実を結ばなかった。④良い地に落ちた種は、芽生えて育って実を結び、30倍、60倍、百倍になった。

2.「たとえの説明を求めた12弟子とその他の人々」キリストだけになったとき、12弟子たちが、キリストにたとえの説明を求めました。すると、主は、イザヤ6:9~10を引用して、「それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」と言われ、弟子たちには「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。」と厳しく言われました。

3.「たとえの説明」①道端に蒔かれるとは…鳥とはサタンのことで、みことばを聞いてもサタンにみことばを持ち去られてしまうのです。イザヤ書14章、黙示録18章には、サタンとか悪魔と呼ばれている存在について、「バビロン」と表現しています。紀元前6世紀頃栄えた当時の大帝国です。つまり、この世の権力、栄華の背後でそのサタンが操っているということです。人間は自分の力でサタンに打ち勝つことは出来ません。しかし、サタンはイエス・キリストの父なる神にはかないません。ですから、今日、私たち人間は、イエス・キリストを信じる信仰によってサタンの偽りを見抜き、勝利することが出来ます。この世の多くの人々は、まず、サタンの存在そのものを否定し、サタンの偽りにまんまと騙されています。例えば偶像礼拝などは、サタンの偽りに騙された人の典型的な姿です。

②岩地に蒔かれるとは…みことばを聞くと喜んで受け入れるが根を張らないで、困難、迫害があるとすぐつまずいてしまう人のことです。あらゆるスポーツ競技でも言えることですが、競技中は、勝ったり負けたり、チャンスになったりピンチになったりするものです。ピンチの度に動揺していたら勝てません。ピンチがあるのは当たり前です。同じように、私たちの人生もどんなときも主に信頼し、主を待ち望んでいきましょう。(※但し、「主の祈り」にあるように、「試みに会わせず悪よりお救いください」と謙虚に祈ることも大切です。)

③いばらの中に蒔かれるとは…みことばを聞いてはいるが、世の心遣いや富の惑わし、その他色々な欲望が入り込んでみことばを塞ぎ、実を結ばない人です。先日YouTubeの某キリスト教番組で、「信仰的な成長を妨げる5つの心」というようなタイトルの教えがありました。それは「1.不平不満のこころ 2.過去への執着心 3.信仰よりも先々の心配が優先する心 4.感謝しない心 5.神の時まで待てない心」です。結局、「誰が何て言ったか」ではなく、「聖書は何と言っているか」そこに立っていくということです。

④良い地に蒔かれる…みことばを聞いて受け入れる人は30倍、60倍、百倍の実を結びます。先の道端、岩地、いばらの中の3つの地は、みことばを聞くには聞くのですが、最後の「良い地」は、みことばを聞いて受け入れる人のことです。「みことばを受け入れる」、誰かと比べて成功するとかしないではなく、それぞれに真の神から与えられた使命の中で神の栄光を現わすのです。Ⅰコリント10:31には「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」とあります。天の神様の評価は、この世の評価とは異なります。私たちは益々聖書のみことばを蓄え、小さなことでも主がお喜びになること、主の栄光となることを求めてまいりましょう。

●2025年8月31日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記37:1~36からです。この章から、ほぼヤコブの子ヨセフの動向が中心となっていきます。それゆえに、ヨセフ物語とも言われています。本日は「ヨセフ物語の始まり」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「兄たちに憎まれるヨセフ」…ヨセフはイスラエル(ヤコブ)の年寄り子で彼の最愛の子で、特別の服を作ってもらっていました。またヨセフは、兄たちの悪い噂を父に告げていました。その上にヨセフは畑での束の夢と太陽と月と11の星の夢を見て、それを兄たちに話しました。その夢の内容は、自分が兄たちに拝まれるというものです。太陽と月と星の夢は、父母もヨセフを拝むというもので、さすがにこの時は父イスラエルもヨセフを叱りました。このときヨセフは17才で、人間的にはまだまだ未熟だったと言えます。これは何もヨセフに限ったことではなく、私たちもそれに近いような経験があったのではないでしょうか。行動すべき時に行動する。言うべき時に言う。しかし一方で静まるべき時に静まる。黙るべき時に黙る。そういう時もあるでしょう。私たちの救い主イエス・キリストは、多くの人を救うために、罪の無い神のひとり子であるのに、十字架で死なれました。比べようもないほどの圧倒的な力を持ちながら、その力を封印し父なる神のみこころに従い、多くの人の救いのために御自身をささげられました。

2.「エジプトへ売られるヨセフ」…兄たちがシェケムで羊を飼うために出かけたあと、イスラエルはヨセフに「兄さんたちの様子を見に行って、無事かどうか知らせてほしい」と言います。ヨセフは快く返事をし、出かけます。ベエル・シェバ(たぶん)からシェケムまで約100km以上あります。ヨセフがシェケムに到着すると、兄たちがいません。そこの人に尋ねると、ドタンに行ったようです。ドタンに行くと、兄たちはヨセフが来るのを見て「ヨセフを殺し、あれの夢がどうなるかを見よう」と言います。しかし、ルベンは反対し「あの子の命を打ってはならない」と言います。その時、イシュマエル人の隊商が通りかかります。(※この隊商がイシュマエル人ともミデヤン人とも記されています。他説もありますが、彼らは共にアブラハムの子孫でアカバ湾近辺に住み、この商売のために一緒に行動したのでしょう。)ユダが兄弟たちの空気をまとめたのでしょうか。「弟を殺したとて何の益になろう。ヨセフをイシュマエル人に売ろう」と言いますと、他の兄弟たちが聞き入れ、ヨセフを奴隷として売ることになりました。ルベンとユダは、共にヨセフに危害を加えることに反対しています。創世記49章にはイスラエルが、子たち12人に対して預言しています。ルベンに関しては芳しい預言はしていません。しかし、ユダに対しては「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。(創世記49:10)」と、最大限の賛辞とも言える預言をしています。もちろんユダにも落ち度はありましたが、他の兄弟たちとは違って積極的に献身的な行動をしています。

3.「銀20枚と赤く染まった長服」…このときヨセフは兄たちに奴隷として銀20枚で売られます。キリストはイスカリオテ・ユダに銀30枚(マタイ27:3)で売られます。また、ヨセフの長服は、兄たちが屠(ほふ)ったヤギの血に浸され、赤く染まりました。一方、キリストは、何の罪も過ちも無いのに、十字架刑を受け、御血を流され、死なれ、葬られました。(もちろん、三日目に復活し、今も生きておられ、弱い私たちを執り成しておられます)つまり、ヨセフはキリストの救いの予表と言えます。ヨセフの犠牲のゆえに、そののち、イスラエル一族はエジプトへ逃れ、生き延びました。75人でエジプトへ行き、出エジプト時は男だけで60万人になりました。このイスラエル人から出たダビデ王の家系を通して聖霊によって世に来られたイエス・キリストの十字架の救いが完成し、今日に至るまで、多くの人々がキリストを信じる信仰によって永遠のいのちの救いに与っているのです。さてヨセフはエジプトに連れて行かれ、侍従長ポティファルの下で仕えることになります。ヨセフは神と共にあり、何をしても栄えます。伝道者の書12:13です。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」

●2025年8月24日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記36:1~43からです。この章はエサウ(エドム)についての系図などが記されています。旧約聖書はイスラエルに焦点を当てた記事となっていますが、主がどのような意図をもってこの章を挿入されたのかを探っていきましょう。「エサウ(エドム)の歴史」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「アダムからエサウ」…人類最初の人アダムから10代目はノアの箱舟のノアです。ノアにはセム、ハム、ヤペテの三人の息子がいました。そのうちのセムから10代目がアブラハムです。すなわち、アダムから20代目がアブラハムです。アブラハムからイサクが生まれ、イサクからエサウとヤコブが生まれました。アブラハムから始まった神からの特別な長子の特権の祝福はイサクに継承されました。エサウは長男でしたが、その長子の特権はイサクからヤコブに受け継がれました。エサウとしては自分の立場に複雑なものを感じていたでしょう。一方、ヤコブもエサウの存在に対して無視できないものもあったことでしょう。箴言18:19(新改訳改訂第3版)では「 反抗する兄弟は堅固な城よりも近寄りにくい。敵意は宮殿のかんぬきのようだ。」となっていますが、口語訳聖書による箴言18:19では「助けあう兄弟は堅固な城のようだ、しかし争いは、やぐらの貫の木のようだ。」です。本来、兄弟は助け合って生きるのがベストです。ところが、ヤコブとエサウの場合は、互いにぬぐい切れない疑心暗鬼のようなものがあり、主ご自身も彼らを遠ざけて住むようにされたのでしょう。

2.「エサウの権勢」…エサウはイサクとリベから生まれた双子の長男です。確かに霊的な祝福が伴う長子の特権は弟ヤコブに行きましたが、人間的な能力としては優れたものがあったと思われます。エサウの三人の妻から生まれた子らから、14人の首長が出ています。また、先住民のホリ人と民族的同化をし、ホリ人セイルから7首長が出て、合計21人の首長が立てられています。ヤコブがハランからカナンに帰る途中のペヌエル付近でヤコブとエサウは再会していますが、その時すでにエサウは400人(たぶん精鋭)を引き連れて来ています。つまり、エサウはリーダーシップや管理能力に優れていたことがうかがえます。高校野球、夏の甲子園大会が沖縄尚学の優勝で幕を閉じました。その優勝校にタイブレークの末敗れた仙台育英の須江監督語録が話題になっています。今回、暑さ対策で導入された夜の試合に対して須江監督は「人生最高の夜更かしですよ」と言ったとのこと。また、「うまくなるだけの野球って薄っぺらい」とも言ったとのこと。正にご尤もです。野球よりもっと大事なことはあるはずです。エサウについてもそうですが、世の権力よりもっと大事なことがあります。天地を創造した真の神を恐れること。その神が与えてくださる永遠のいのちに与ることです。

3.「永遠(主なる神)の視点」…エサウ一族の首長は14人、先住民ホリ人の首長は7人、合計21人の首長がいました。また、エサウ(エドム人)の子孫か否かは定かではありませんが、イスラエル人の王が治める以前、エドムの地には七人の王の名が出ています。また、キリスト降誕時、ローマ帝国の配下にあってユダヤの王として君臨していたのはヘロデ大王です。ヘロデの出自は明確にされてはいませんが、通説ではエドム人の子孫であろうとされています。ヤコブの子孫、ダビデの子孫として世に来られたイエス・キリストは多くの人々の救いのために十字架にお架かりになり、葬られ、三日目に復活され、今も生きておられます。一方、キリストがベツレヘムでお生まれになることを東方の博士たちから聞いたヘロデ大王はベツレヘムとその近辺の二歳以下の男児を殺害するという暴挙に出ています。正に天と地の大きな違いです。Ⅰコリント13:13には「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。私たちは、永遠の神の視点で物事を見ていきましょう。キリストを信じる信仰、キリストによって与えられる希望、キリストの愛に支えられながら、日々を過ごしてまいりましょう。

●2025年8月17日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記35:1~29からです。この章ではヤコブがシェケムからベテルへ行きます。そしてベテルからエフラテに行き、また父イサクのいるヘブロンのマムレに行きます。「ベテルへ、そしてエフラテへ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ヤコブ一族、ベテルへ」…シェケムに滞在していたヤコブ一族ですが、シメオンとレビの復讐行為によって、その地域にいられなくなりました。逃げたとしても近隣住民が追ってくるかもしれません。そこで神が介入され、ヤコブに現れて「ベテルに上り、そこに住み、神のために祭壇を築きなさい」と言われます。ヤコブは家族と一緒にいる者たちを集め「異国の神々(偶像)を捨てて身をきよめ、ベテルに行こう」と言います。それを聞いた人々は偶像と耳輪をヤコブのところに持って来ます。その上で、彼らが旅立つと「神からの恐怖」が回りの街々に下ったので、彼らはヤコブのあとを追うことはしませんでした。言うまでもなく、ヤコブの祖父はアブラハム、父はイサクです。アブラハムが受けた神からの特別な祝福がイサクに、そしてヤコブにも受け継がれています。ガラテヤ3:13~14によると、今日、そのアブラハムへの祝福が、イエス・キリストを信じる信仰によってクリスチャンにも受け継がれているのです。クリスチャンは偶像礼拝をしてはなりません。8月15日は終戦記念日で、国会議員の内の何人かの方々が靖国神社を参拝します。「靖国神社は明治維新及びそれ以後の国事に殉じた戦死者246万余の霊を合祀している」としています。「霊を合祀する」という言葉をよく吟味しましょう。伝道者の書12:7には「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」とあります。人は死ぬと、その霊は創造主である神の元に帰ります(※神の元に帰った霊が天国か地獄か、それはまた別問題です)。それを被造物に過ぎない人間が、その霊を集めたり、移動させたりすることはできません。つまり、246万余の霊がそこに存在しているということは聖書的視点から見て、決してありえないことです。クリスチャンは、空しい偶像礼拝をしている人々のために祈り、宣教しなければなりません。

2.「主が再び彼に現われ、祝福された」…ベテルに来て主のために祭壇を築いたヤコブに、主が現われ、「あなたの名はヤコブと呼んではならない。イスラエルでなければならない。生めよ。ふえよ。王たちがあなたの腰から出る。あなたにアブラハムとイサクに与えた地を与える。」と言われます。振り返ってみますと、ヤコブはシェケムから逃げるようにしてベテルに来ました。しかし、そこで神がヤコブに現われ、彼を祝福したのです。ヤコブはどれだけそれを心強く思ったことでしょう。エレミヤ10:16には「ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の【主】である。」とあります。ヤコブも、そして今日のクリスチャンが受ける分け前は「こんなものではない」、つまり、天地の創造主、万軍の主が与えてくださる祝福は正に筆舌に尽くしがたいものとなるのです。

3.「ベテルを旅立ってエフラテへ」…ここで突然、ヤコブ一族はベテルを旅立ってエフラテへ向かいます。1節では、神はヤコブに「ベテルに上り、そこに住みなさい」と言われました。しかし、聖書の記事を見る限りにおいては「エフラテに行きなさい」とは記されていません。もちろん、記事にないだけで、「行きなさい」と言われたかもしれません。また逆に、神のみ旨に反して、行くべきではないのに勝手に行ったのかもしれません。この後、エフラテ(ベツレヘム)への途上で最愛の妻ラケルがベニヤミンを出産するものの死んでしまいます。ここで話は飛躍しますが、エフラテはベツレヘムのこと、救い主イエス・キリストが降誕した地です。しかし、現在のベツレヘムはパレスチナ自治区内にあり、ユダヤ教徒のイスラエル人(ユダヤ人)にとってキリストは救い主ではありません。それはローマ人への手紙11:25~26にある通り、今は異邦人の時だからです。異邦人の完成のなる時が来て、イスラエルはみな救われるのです。

●2025年8月10日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記34:1~31からです。この章はメッセージのテキストとして用いるには正直難しいと思います。しかし、私たちは聖書全体から偏ることなく学ばなくてはなりません。なるべく肯定的なタイトルにしたいと思いましたが「ヤコブの娘ディナの事件」という題になってしまいました。ポイント2つ上げていきます。

1.「ディナが辱められる」…この時点で、ヤコブには四人の妻から11人の男子と一人の女子(聖書の記事で判断する限り)、計12人の子がありました。ディナはレアから生まれた七番目の子です。ですから、兄弟姉妹の中で正に紅一点ですから、余計に愛らしく思われていたと想像できます。そのディナが、土地の族長ハモルの子シェケムに辱められたのですから、ヤコブもヤコブの子らも心を痛めない筈はありません。日本の夏の風物詩とも言える高校野球夏の甲子園大会が行われています。今回、広島県代表となったチームが一回戦勝利したものの、今年初め頃、部員の暴力事件があり、SNSを通して、「処分が甘いのではないか。今大会に出場すべきではない。」といったような批判が多数見受けられました(※その後、二回戦出場辞退)。悪事を行なうと、その代償は決して小さくありません。それは置いておくとして、今大会では静岡県代表で聖隷クリストファー高校が初出場を果たしました。一回戦を勝利し、校歌が歌われましたが、何と賛美歌393番が流れました。歌詞は「神の光は 世の小路の 暗き隅にも 光り輝く 神を称えて 為す務めに 高き低きの 隔てあらじ」です。聖隷グループは静岡県浜松市にある医療、福祉、教育など幅広く社会貢献をしている団体で「キリスト教精神に基づく隣人愛」を基本理念としています。ガラテヤ6:2には「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」とあります。全ての人は罪人です。イエス・キリストの十字架による救いを受け、キリストの力によって少しでも隣人愛を実行できればと思います。

2.「互いに悪巧み」…ハモルとその子シェケムはヤコブの所に来て、ヤコブの娘ディナのことで「シェケムの嫁にもらえないか、そして、互いに結婚の縁を結び、一緒に暮らしましょう。」と言います。それに対してヤコブの息子たちは、一つの条件を提示します。それは、「自分たちと同じように割礼を受けるならば、同意する。そうでなければディナはやれない。」と言います。ハモルとシェケムは即答でその条件を受け入れます。そして、彼ら二人は町の人々を集め、彼らに割礼を受けさせるために二つのことを言います。「①あの人たちは私たちの友だちである。②彼らを受け入れて一緒に住んでいればあの人たちが持っている財産が私たちのものになる。」です。聖書の記事では、ハモルが事の発端となったシェケムの過ちについて言及したということは記していません。②については、人々を説得するためにその利点を強調したのでしょう。さて、その後、ヤコブの子らであるシメオンとレビは、ハモルとその民らが割礼を受けて三日目、彼らの傷が最も痛んでいる時を見計らって彼らを襲い、女子供と財産を略奪します。元はと言えば、ハモルの子シェケムがヤコブの娘ディナを辱めたことから始まっています。それは決して小さな問題ではありません。しかし、その事件を発端にして、シメオンとレビによる殺人と略奪というもっとひどいことが起こりました。イスラエルは神の選びの民です。聖書はその選びの民であるイスラエル人について記してあるのに、何も忖度せず、事実をありのまま表現しています。聖書の神は真実で正しい方です。私たちは聖書の真実な神を信頼し、その神に従って行きたいと願います。しかし、全ての人は罪人で不完全です。だからこそ、日々、自らを省み、悔い改めて生きるのです。最後に箴言28:13です。「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」

●2025年8月3日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記33:1~20からです。「ヤコブとエサウの抱擁」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ヤコブとエサウ、再会の抱擁」…ヤコブは前章32章で、ペヌエルの経験をしています。つまり、ヤコブは一晩中、神の人と格闘し、もものつがいを打たれて、足を引きずるようになったものの、祝福を受け、それまで自分の中に持っていた何か余分な力が抜けたのではないかと思われます。しかし、現実的には、エサウが400人の者たちを引き連れて自分たちの方へ向かって来ています。やはりヤコブは万が一のことを考えて、列の順番などを配備し、今度は自分が先頭に立って進みます。そして、エサウが近づくまでに七回も地に伏しておじぎします。そして、エサウは走り寄ってヤコブを抱き、口づけし、二人は泣きます。めでたし、めでたしと言いたいところですが、普通の兄弟関係ならば、一方が400人を引き連れて来ることはないでしょう。また、弟とは言えども兄に対して七回も地に伏しておじぎはしないでしょう。それだけヤコブにとってエサウは何をするのか分からない人物、言うなれば「信頼できない相手」だったことは間違いないところでしょう。かつてエサウは、ヤコブに対して長子の特権を売ったはずですが、そんなことは全く無かったことにしています。また、イサクからの祝福をヤコブに奪われたときは、「ヤコブを殺そう」と言っています。ガラテヤ書5:22~23には、御霊の実は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とあります。クリスチャンは、人に対しても神に対しても信頼される人でありたいものです。そのためにも、この9つの御霊の実を結ぶ人とならせていただきましょう。

2.「贈り物」…ヤコブと抱擁したあと、エサウは家畜の一団を見て「これはどういうものなのか?」と尋ねます。するとヤコブは、エサウへの贈り物であると言います。創世記32:13~15によると、それは、雌ヤギ200頭、雄ヤギ20頭、雌羊200頭、雄羊20頭、乳ラクダ30頭とその子ラクダ、雌牛40頭、雄牛10頭、雌ロバ20頭、雄ロバ10頭、合計頭数はなんと500頭(以上)です。これは、ヤコブの持ち物の一部であって、それでも物凄い頭数です。ここでちょっと面白いのは、エサウが引き連れてきた400人があながち無駄ではなかったのかもしれません。500頭を連れていくのに400人も多すぎるかもしれませんが、それでも家畜のほうが100頭多いのですから、400人の仕事があって体裁は良かったとも言えます。先日、大崎地方で水不足、鳴子ダムの水位が0%というニュースがありました。日照も雨も空気も食べ物も、天の神様が恵みをもって与えてくださっています。そして、この世界の創造主である真の神は、最高の贈りものとして、私たち人間の罪の代価を支払うための救い、すなわち、神のひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。

3.「スコテからシェケムへ」…この後、エサウがヤコブと一緒に行こうとしますが、ヤコブはやんわりとそれを断り、一旦、スコテ(ヨルダン川東岸)に家や小屋を建てて住みます。その後、ヨルダン川を渡り、シェケムで宿営します。シェケムは祖父アブラハムが最初に祭壇を築いた場所(創世記12:5~7)です。そして、この後、ヤコブとエサウは、父イサクが死んだとき、その埋葬のために出会っています。彼ら二人を長い目で追ってみますと、ヤコブは言うまでもなくイスラエル人の先祖で、神の御子イエス・キリストは、ヤコブの子孫であるダビデ王家の家系を通して世に来られました。エサウはエドム人の先祖、キリスト降誕時のユダヤを支配していたヘロデ王家の先祖です。ヘロデ大王はユダヤ人懐柔策の一環としてヘロデ神殿(第二神殿拡大建て替え)を建設しましたが、キリスト降誕時にベツレヘムと近辺の二歳以下の男の子を皆殺しにしています。オバデヤ書はエドム人に対する預言書です。同1:10には「あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。」とあり、エサウの肉的な性質は末代まで受け継がれたということなのでしょう。ヤコブはエサウとは違い、祖父アブラハムに倣って、シェケムで祭壇を築き、そこで礼拝をささげています。