●2023年11月12日(日)礼拝メッセージ要旨 

●2023年11月12日(日)礼拝メッセージ要旨  

第一ペテロ4:1~19から「万物の終わりが近づきました」という題でポイントを4つ上げていきます。

1.神のみこころのために過ごす…今年のプロ野球は阪神タイガースが優勝しました。岡田監督の采配(チーム作り)が良かったようです。それで優勝決定後は、今ではすっかり恒例になっている祝勝会でビールかけが行われました。水中メガネをかけて、殺伐とした雰囲気の中で4000本のビール瓶が空になったそうです。ニュースなどでは誰ひとり、そのビールかけに異を唱えないというのも問題です。女子サッカーのマイナビ仙台の選手の皆さんがそろって仙台市青葉区の某神社に参拝に行ったというニュースをテレビで見ました。それは偶像礼拝であり、創造主である聖なる真の神の祝福を却って遠ざける残念な行為です。3節には「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」とあります。私たちは、不品行、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝の生涯を送るのか、それとも、主イエス・キリストの救いを信じ受入れ、聖なる真の神のみこころのために過ごすのか、二つに一つです。もちろん、聖なる真の神のみこころのために過ごしましょう。 

2.万物の終わりが近づきました…キリストは、弟子たちの質問に答えて、世の終わりの前兆として、戦争、民族対立、大地震、疫病、飢饉、天からの凄まじいことが起こることを予告されました。今、正にそれらのことが起こりつつあります。そして、終わりの終わりにキリストの再臨があり、そのとき、天のみ使いたちによって、四方から選びの民を集めます。つまり、キリストの空中再臨と携挙です。第一テサロニケ4:16~17には「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。…私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。…」と言っています。私たちは、その空中携挙に与(あずか)ることができるように、イエス・キリストを信じる信仰をしっかりと持ち、祈りのために心を整え、身を慎み、愛によって仕え合っていきましょう。

3.燃えさかる火の試練…正しい人が悪者とされ、悪者が正しいとされる、そのようなことは、どこの世界においても多々見られるものです。罪のない神の御子イエス・キリストの十字架の死は、正にその究極の出来事でした。ですから、そのイエス・キリストの名のゆえに、クリスチャンが迫害されたり、苦しめられたりしたとしても、なんら不思議なことではありません。もちろん、主の祈りには「我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」とありますから、私たちは、苦しみを被らないように謙虚に神の助けを願えば良いのです。それでも、キリストの名のゆえに非難を受けるなら、驚き怪しむことなく、むしろここで「喜びなさい」と教えています。それは、栄光の御霊がその人の上にとどまってくださるからです。

4.さばきが神の家から始まる…現職の財務副大臣が2013~2022年の間、税金を滞納して4回の差し押さえを受けたということです。その副大臣は税理士の免許も持っておられるとのことで、それを聞いた多くの人々が「開いた口が塞がらない」というような思いをしたことでしょう。私たちは、このことを他人事としてではなく、むしろ、自らを律する機会としたらよいと思います。「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。(マタイ5:13)」と聖書は言っています。つまり、キリスト教会が教会としての使命を果たしていないのなら、それはキリストの体なる教会ではなくなります。教会は神の国を証しし、宣べ伝えるところです。ローマ14:17には「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」とあります。義と平和と聖霊による喜びが満ち溢れる教会として、福音宣教、神の国を宣べ伝えるという大事な使命を果たすことができるように、それぞれ教会の一員として整えられてまいりましょう。

●2023年11月5日(日)礼拝メッセージ要旨  

第一ペテロ3:1~22から「祝福を与えなさい」という題でポイント4つ上げていきます。

1.妻たちよ、夫たちよ…男性と女性に関して、聖書の記事では大抵において男性を先に取り上げています。ところが、結婚生活の教えについては、なぜか女性が先です。このペテロ3:1では「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。」とあり、エペソ5:22でも「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」となっています。そうすると、妻が夫に対して一切異を唱えてはいけないというような印象を受けますが、そうではなく、互いに意見の相違が出てきたときは、夫婦で十分話し合い、理解し合えば良いのです。それでもまとまらない場合は、妻が夫にその最終決断をお任せするという形が理想です。もちろん、夫も十分に妻の意向を考慮しつつ、責任をもって決断するということがよいでしょう。昨今は「男女平等」ということが盛んに言われておりますが、闇雲に何でも平等にすれば良いのではなく、創造主である真の神様が与えてくださっているところの、夫(男性)の役割、妻(女性)の役割というものがあるという受け止め方をすることが大事ではないでしょうか。

2.祝福を与えなさい…私たちは実生活の中で、良いことばかりではなく、時には嬉しくないこと、人から冷たくされたり、悪口を言われることもあるでしょう。そんなとき、どう対応するのが良いでしょうか。9節では「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。」と言っています。ルツ記で、ボアズが自分の畑にやって来て、そこで刈り入れをしている人たちと言葉を交わす場面があります。ルツ記2:4です。「ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。『【主】があなたがたとともにおられますように。』彼らは、『【主】があなたを祝福されますように』と答えた。」とあります。こういった天地万物の創造主である全知全能の主の御名によって互いを祝福する挨拶は、正に祝福です(この後、実際に、ボアズとそこの畑にいたルツが結ばれます)。ルカ10章では、キリストが70人の弟子たちを二人ずつ組みにして遣わす場面があります。そのときキリストは「どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。(ルカ10:5~6)」と言われました。人を祝福して、その人が祝福されたら、それは喜ばしいことであり、その人に祝福が留まらなければ、祝福した人に返ってくるのですから、いずれにしても、人を祝福するということは、正に永遠の祝福をもたらすのです。

3.いつでも弁明できるように…15節では「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」とあります。「希望」とは何でしょうか。イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる永遠の希望のことです。たといこの世で絶大な権力と莫大な富を持っていたとしても、その「希望」を持っていなければ、空しく滅びてしまいます。「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。(詩篇49:20)」と、ある通りです。キリストにある私たちは、その希望を、優しく、慎み深く、正しい良心をもって人々に証ししたいものです。

4.正しい良心の神への誓い…昔(BC 2350年頃)、ノアの大洪水がありました。そのとき箱船で救われたのはノアの家族8人だけでした。キリストの再臨が近づいていると言われる今日(こんにち)、水で世界が覆われるということはありませんが、今度は火によって焼かれるときが来る(第二ペテロ3:6~7)のです。昔は箱舟で8人が救われたように、今度はイエス・キリストを信じ受け入れてバプテスマを受けることによって救われます。それは、正しい良心の神への誓いです。私たちは、聖書に記されているみことばが真実であるということを認め、素直にみことばに聞き従い、救いと祝福の道を真っすぐに歩んでいきましょう。

●2023年10月29日(日)礼拝メッセージ要旨

第一ペテロ2:13~25から「キリストの模範」という題でポイント3つ上げていきます。

1.人の立てた制度に従う…私たちは、この日本という国に在住しています。そして、法を守り、税を納め、選挙があれば投票します。これは主にあって正しいことです。16節には「自由人として行動しなさい」とあります。この場合の自由人とは、聖書の真理に立つ霊的自由人(ヨハネ8:32参照)です。つまり、世の風潮とか大勢などに流されることなく、聖書の真理に立ち、自分で考えて行動できる人がこの場合の自由人です。そして、全ての人を敬い、高い地位に就いている人のために執り成し祈る者でありたいと願います。

2.しもべたちよ、主人に服従しなさい。…18節では、「しもべたちは、尊敬の心を込めて主人に服従すべきである」と教えています。創世記39章で、ヨセフはエジプトに奴隷として売られ、パロ王の廷臣で侍従長のポティファルに仕えることになりました。全能の神はヨセフと共におられ、ヨセフが行なうことを成功させてくださいました。それを見ていたポティファルは、ヨセフを側近の者として自分の家を管理させ、全財産をヨセフの手に委ねました。すると、創世記39:5には「主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで【主】の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。」と書いてあります。しかし、その後です。ヨセフに何の落ち度も罪もないのに、濡れ衣を着せられ、牢獄に入れられてしまいます。正にヨセフは第一ペテロ2:19にあるように「不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみに耐えていた」のです。それが神に喜ばれていたのでしょう。やがて、そのときが来ました。パロ王が特別な夢を見て、その解き明かしを求めていました。そのとき、かつてヨセフと牢獄で一緒だったパロ王に仕える検酌官長がヨセフのことを思い出し、パロ王に伝えます。そして、ヨセフがパロ王の夢を解き明かし、ヨセフは牢獄からいきなり総理大臣の地位に大抜擢されるのです。ヨセフがエジプトの穀物を管理するようになると、エジプトは、そのヨセフのゆえに祝福され益々繁栄します。このヨセフの姿は、今日、様々な場所に遣わされているクリスチャンと重なるのではないでしょうか。全能の神は、ご自身を恐れる者と共におられて、その人を通して栄光を現わそうとしておられるのです。

3.キリストの打ち傷のゆえにいやされた…21節には、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」とあります。私たちは、毎日の生活の中で、時には称賛を受けたり、またあるときには厳しい言葉を投げかけられることがあるかもしれません。褒められれば良い気分になるものですが、自分を慢心させるだけで、それほど益になるものではないと言えます。マタイ5:11~12を見ますと「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」とあり、クリスチャンは、人から悪口を言われたり、迫害されることを恥と思ってはなりません。むしろ「喜びおどりなさい」と言われています。そして、24節では「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです」とあります。イザヤ53:5には「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。キリストの十字架による打ち傷のゆえに、私たちはいやされたのです。ここにクリスチャンの力の源があります。私たちは、キリストの十字架によって罪赦され、心いやされ、きよめられ、聖霊に満たされ、ここから力をいただき、そして立ち上がって行きましょう。

●2023年10月22日(日)礼拝メッセージ要旨  

●2023年10月22日(日)礼拝メッセージ要旨  

第一ペテロ2:1~12から「成長し、救いを得る」という題でポイント3つ上げていきます。

1.純粋なみことばの乳を慕い求める…近頃の母子の授乳においては、粉ミルクなどはあまり使わず、母乳のみ授乳させる傾向にあるようです。一般の食品においては、保存料や香料などの添加物などが入らない自然食品が見直されている傾向にあります。創造主である神の存在を認めている人にとっては、神様が人間のために提供して下さっているものがベストであるということが認識されてきたとも言えるでしょう。ところで、同じ「乳」について語られているヘブル5:13には「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。」とあります。この場合は大人になっても乳飲み子と同じ飲み物を飲んでいるようではいけないということであって、この第一のポイントで言わんとしていることは、みことばに対して、乳飲み子のように一途に慕い求めるべきであるということで、みことばに対する渇望を持って、熱心に慕い求めるべきであるということです。そして、そのように、みことばを慕い求めることによって、成長し、救いを得るのです。もちろん、救いはイエス・キリストを信じる信仰によるのですが、一時的に信仰すればそれでよいとするのではなく、霊的な成長をすることによって、救いが確立されるということです。逆に、礼拝にも参加せず、成長が止まっていると、救いから外れる危険性もあります。ですから、成長を切望し、礼拝参席を厳守し、純粋な聖書のみことばを慕い求めることです。

2.生ける石…7節の「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」は、詩篇118:22からの引用です。それは、イエス・キリストは十字架で殺され、見捨てられたのですが、そのキリストの十字架のゆえに救いの道が開かれました。正に、その預言通りになったのです。また、6節には「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」とあり、イザヤ28:16からの引用です。今から二千年ほど前、イエス・キリストはユダヤ人社会に現われました。まずガリラヤで、ペテロ、ヤコブ、ヨハネなど、ご自分に従う人たちを集めて共に行動されました。一方で、エルサレム周辺にいた律法学者やパリサイ人などのユダヤ教の指導者たちは、キリストに反発し、後に、キリストを十字架に引き渡してしまいます。それは、今日(こんにち)も同じであり、イエス・キリストを信じ、信頼して従う者もいれば、逆に、キリストを無視し、反発、反対する者もいます。キリスト者である私たちは、キリストのもとに来て、キリストと同じように「生ける石」として霊の家に築き上げられ、聖なる祭司としての歩みを進めましょう。自分のためだけに生きる人生ではなく、世に遣わされている祭司として、神と人とに仕えましょう。

3.王である祭司…9節には「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあります。クリスチャンは神の所有とされ、選ばれた聖なる国民であり、しかも王である祭司です。ヤコブ1:9には「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。」とあります。もちろん、富んでいても、クリスチャンは王である祭司として霊的に高い身分を保有しているのです。祭司の務めは神と人との間に立って執り成すことです。キリストは十字架につけられているとき、ご自分の着ていた着物をくじ引きしているローマ兵たちのために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)」と祈られました。主の再臨が近づいているとき、私たちは王である祭司としての自覚を持ち、肉の欲を遠ざけ、異邦人の中にあって立派にふるまい、主の御名が崇められることを求めていきましょう。

●2023年10月15日(日)礼拝メッセージ要旨 

第一ペテロ1:13~25から「草はしおれ、花は散る」という題でポイント3つ上げていきます。

1.聖なる者になりなさい…先週の第一ポイントは「選ばれた人々」です。それは、きよめられた生き方をするために聖なる神に選ばれたということです。外側の体の汚れは、お風呂にでも入って洗えばきれいになります。しかし、体の中、すなわち心の汚れ(罪)は、聖なる神の御子イエス・キリストが十字架上で流された血によってきよめられるのです。ヘブル10:22には「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」とあります。私たちは、イエス・キリストを信じ受け入れてバプテスマを受け、そこからさらに神に近づくのです。神に近づくための手っ取り早い方法は、イエス・キリストの名によって集まっている集会(礼拝)に参加することです。筆者は先週、ラブソナタ関連の集会もあって、水曜日から土曜日まで四つの集会に参加しました。そのうち二つは当教会での集会です。正直、多少の疲れはありますが、心は恵まれています。それは、聖霊様に触れていただいたためと思われます。16節には「わたしが聖であるから、聖でなければならない。」とありますように、聖なる神のご性質に与るには、その方に近づくこと、イエス様の御名によって教会に集まり、共に礼拝することです。

2.父祖伝来の空しい生き方からの解放…ラグビー・ワールドカップの前々回の大会でしたか、五郎丸選手の「ルーティン(routine)」が話題になりました。フランス語で「習慣的に行動すること」です。クリスチャンは日曜日には習慣的に礼拝に参席します。これは最高のルーティンですね。しかし、世の中にはアルコール中毒とか、麻薬中毒で苦しんでいる人もおられます。止めたくても止められなくなり、更生施設などにお世話になる人もいます。それらの良くないルーティンも問題ですが、父祖伝来の空しい生き方も大きな問題です。日本は偶像礼拝が盛んな国で、偶像を見つけると御利益を期待して、むやみに拝礼をする人がいます。40~50年くらい前でしょうか、ブームに乗って日本各地に巨大な観音像が設置されました。しかし、最近、それらの中で老朽化が進み、台風などで倒壊する危険があって、問題となっているものもあるとのことです。本当の神様は老朽化しません。また、日本では先祖崇拝が蔓延しています。先祖(人間)は敬愛の対象にはなり得ても、崇拝の対象にすべきではありません。それは偶像礼拝という大きな罪です。そういった悪い習慣から脱却するには、19節の「傷もなく、汚れもない、小羊のようなキリストの尊い血によったのです」が答えです。

3.草はしおれ、花は散る…私たち人間は、外側の見えるところは野の草のようです。花を咲かせているような時は一瞬にして過ぎ去ります。ですから、私たちは、自分自身のたましい、内側に対して、もっともっと目を留めなくてはなりません。先日の10月12日は仙台サンプラザでラブソナタという大きな集会(伝道大会)がありました。主催しているオンヌリ教会のイ・ジェフン牧師がメッセージを語りました。私たち人間は、三つの渇望を持っている。それは①真理に対する渇望…ヨハネ8:32には「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とあるように、聖書の真理を知ることによって、しばられているものから解放され、本当の自由を得るのです。②栄光に対する渇望…人は自分の栄光を求めます。称賛を受けたり、他の人より優っていることを求めます。人間を形造られた神様は、私たち一人一人を最高に創造されました。人と比べたり、人まねをしたりする必要はありません。イエス様を信じ、自分に与えられた使命を生きることで、神の栄光が現われるのです。③永遠に対する渇望…伝道者の書3:11には「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」とありますように、私たち人間は潜在的に「永遠」を求めています。ですから、イエス・キリストにより、とこしえに変わることのない主のことばを信じて、永遠のいのちを受けましょう。そして、真理に従い、互いに愛し合い、身を慎み、キリストの現われのときもたらされる恵みを待ち望んでいきましょう。

●2023年10月8日(日)礼拝メッセージ要旨 

本日からペテロの手紙です。まず、第一ペテロ1:1~12から、ポイント4つ上げていきます。

1.選ばれた人々…ペテロ第一の手紙は、ペテロから小アジア(現在のトルコ)に散ったキリスト者へ宛てたものです。そして、そのキリス者のことを、「イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々」と言っています。今日、私たちがキリスト者(クリスチャン)となるには、キリストの福音を聞き、信じ、決心してバプテスマを受けます。それだけに止まらず、クリスチャンとして神の栄光を現わし、実を結ぶことを求めます。それは、すべて自分自身の決断によるものですから、神に選ばれたという認識はありません。しかし、ヨハネ15:16でキリストは、「あなたがたが、わたし(キリスト)を選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ」と言っています。つまり、神は私たちが、聖く生きるために選ばれたのです。聖い生き方をするというのは、私たちが思う以上に大きな祝福です。世の人々と同じように偶像礼拝、不品行、酩酊、遊興などを行なってみたところで、何の益もありません。いやむしろ、自分自身を損なうだけです。私たちは、主の前に悔い改めて、キリストを信じ受け入れ、聖い生き方を求めてまいりましょう。

2.朽ちない資産…最近の発表で、世界で一番のお金持ちは、ルイ・ヴィトン社のCEOなのだそうで、資産総額は約27兆円だということです。第二位はテスラ社などのCEOで約23兆円。第三位はアマゾンのCEOの約15兆円だということです。日本国内では第一位がユニクロの柳井さん、第二位はソフトバンクの孫さんです。大富豪らしく、それなりの優雅な暮らしをしておられることと想像しますが、ちょっと考えてみてください。例えば、今の季節柄、新米が出ています。もっちりと、つややかな宮城産の新米などは感動を覚えるほどです。日本の大富豪の方々もきっと新米を食されると思いますが、一般庶民が食する新米と何も変わるものではないでしょう。また、例えば寝床にしても、畳一畳分ほどのベッドがあれば十分で、大富豪だからといって、百メートル四方もあるような巨大なベッドを寝床にしているということはないでしょう。もちろん、お金は無いよりはあったほうが良いに決まっていますが、でも、莫大な資産があれば、それなりの管理が必要ですし、維持していくための知恵や気配りも必要です。ここで、考えてみてください。4節にありますように、真の神は、イエス・キリストを信じる信仰により、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださったのです。ガラテヤ3:29です。「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」

3.栄光に満ちた喜びにおどっている…8節には「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」とあります。この手紙の著者であるペテロはキリストの12弟子の一人ですから、キリストを間近で見ていますが、手紙の宛先の小アジアの人々は、キリストを見ていないのに、栄えに満ちた喜びにおどっていたのです。この喜びは、イエス・キリストを信じる信仰の結果、たましいの救いを得ている証拠と言えるのです。私たちは、この栄えに満ちた喜びを消さないように、自分自身の心を見守っていきましょう。「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。(箴言4:23【新改訳2017】)」。

4.福音を語った人々…10~12節では、この手紙の宛先の人々のために、聖霊によって福音を語った人々を通して、旧約聖書で預言されていたキリストの福音が告げ知らされたということが述べられています。ローマ人への手紙10:15には、「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」とあります。私たちは主を慕い求めて聖霊充満され、聖霊に遣わされて、キリストを証しし、福音を宣べ伝えましょう。

●2023年10月1日(日)礼拝メッセージ要旨 

本日はヤコブの手紙5:1~20から、「祈りなさい。賛美しなさい。」という題でポント4つ上げていきます。

1.富者と労働者…4節で「刈り入れをした労働者への未払い賃金」ということが記されています。つまり、地主は、収穫の殆どを自分だけのものにして、小作人には十分に与えなかったのでしょう。アメリカの経済紙フォーブス社が2023年4月に発表したところによると、一人当たりの国民総生産(GDP)の世界ランキングでノルウェーが2位になっています。ノルウェーは近年、石油産出国となっていますが、その資源を一部の特権階級の人たちだけの所有物とはせず、国が管理し、その利益を国民全体に還元しようというシステムが機能しています。その背景にはキリスト教、聖書の教えが影響していると思われます。ローマ人への手紙15:1には「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。」とありますように、それぞれ、自分に与えられている能力や賜物をもって互いに仕え合うことが理想的です。我欲によらず、主の教えに従うことで、これを見て、主が祝福してくださり、却って豊かになるのです。

2.主の来られる時まで耐え忍びなさい…どの分野においても、一つのことを成功させるには、「忍耐」が必要です。11節には「ヨブの忍耐」を取り上げています。ヨブは、神を信頼して忍耐し、後に、二倍の祝福を得ました。イスラエルの王となったダビデも義父であったサウル王に苦しめられ、忍耐を強いられました。ダビデは「油注がれた方に手を下してはいけない」として、自らの手でサウルに歯向かうことはしませんでした。結局、サウルはペリシテ人との戦いで負傷し、命を落としました。但し、ダビデは、先を急がず、その後、サウル家が衰退するまで7年半経過した後に、ようやく全イスラエルの王となったのです。ですから、今日もイスラエルの名君として、ダビデの右に出る王はいません。7節には、「農夫は秋の雨と春の雨を耐え忍んで待っている」ということが記されています。これは、農業のことを言っているのではありません。大雨のように聖霊の働きがあるということ、リバイバルのことを言っています。その主の時を待つにはつぶやかず、期待をし、忍耐して待ち望むのです。

3.信仰による祈り…12節では突然、「誓ってはいけない」とあります。例えばスポーツ選手のインタビューなどで、「次の試合では絶対勝ちます」などと聞くことがあります。自分を追い込むため、鼓舞するためという意味があるでしょうが、でも、負けたら嘘になります。本来なら、「次の試合で頑張ります」が無難でしょう。クリスチャンだったら、同じクリスチャン向けに「勝利できるように祈ってください」と言うのが良いかもしれません。つまり、私たちには明日のことは分かりません、5分先でさえも何があるか分かりません。だから、お祈りするのです。祈るということは、神を求め、神に近づくことです。ピリピ2:21には「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」とあります。神は、私たちに、ご自身に心を向けてほしいと願っておられます。16節には「義人の祈りは働くと、大きな力があります」と言っています。私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、義とされ、祈れば大きな力があるのです。逆に、祈らないことは大きな損失でもあるのです。その「大きな力」をどこに向けるべきか、が次のポイントになります。

4.罪人のたましいを救う…19~20節では、「真理から迷い出た人を連れ戻すことは、多くの罪をおおうことである」と、最大限の評価をしています。迷い出た人のみならず、元々の福音を知らない人々に福音を届けることも素晴らしい働きです。マルコ16:15でキリストは「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」と言われました。現在、霊的な不毛の地である日本のために祈り、そして、愛によって福音を届けましょう。

●2023年9月24日(日)礼拝メッセージ要旨

●2023年9月24日(日)礼拝メッセージ要旨  

本日はヤコブの手紙4:1~17から、「神に近づきなさい」という題でポント4つ上げていきます。

1.戦いや争いの原因…例えば、血気盛んな男性二人が道を歩いていて、肩がぶつかったとしましょう。そのとき、一方が「気を付けろ」と怒鳴った場合、もう一方は「なんだとー」という感じで争いが始まります。考えてみると、肩と肩が当たったなどという問題は殆ど重要ではありません。正に、互いの戦う欲望がその争いを引き起こしているのではないでしょうか。これが、国対国となったらどうでしょう。それぞれ、それなりの大義名分があって戦いが起こるのでしょうが、それぞれの国の指導者たちの心情、すなわち「戦う欲望」がそれをさせていると言えるでしょう。ここ20年~30年ほど前の日本は、平和憲法を誇りにしている空気感がありました。しかし、昨今の日本は、平和憲法をないがしろにする論調が大手メディアを通して聞こえてきます。ロシア・ウクライナ戦争でよく分かりますが、一旦戦争が起これば大変なことです。あまりにその代償は大きく、強いて喜ぶ人があるとすれば、ほんの一部の軍需産業のみです。ローマ15:2には「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」とあるように、個人対個人はもちろん、国対国においても、互いに相手を思いやり、相手の益を計ってあげることです。そうすれば、無駄な争いをすることもなく、却って祝福があるでしょう。

2.ねたむ神…天地を創造した真の神は完全で完璧なお方です。しかし、その神様は「ねたむ神」あるとはどういうことでしょう。日本の多くの人々は人の手で形造られた偶像の神々を拝みます。石や木で造られた物が人の願いを聞いて、それを叶えるなどということがあろうはずがありません。そんなことをしている人々をご覧になって、真の神様はどれだけ嘆いておられるでしょうか。また、すでにイエス・キリストを信じているクリスチャンの心の内には聖霊が内住しています。神は、その御霊をねたむほどに慕っておられるのです。

3.神に近づきなさい…今年メジャーリーガーになった元阪神の藤浪選手と、5年ほど前からメジャーで活躍している大谷選手を比較してみると興味深いことに気づきます。藤浪選手は甲子園で春夏連覇を果たした大阪桐蔭のエースです。一方、大谷選手は花巻東高校のエースとして甲子園に一度出場するものの、その藤浪選手の大阪桐蔭に敗れます。その後は、省略しますが、今年メジャーに移籍した藤浪選手は当初、四球ばかりで防御率は12くらいで散々でした。一方、大谷選手はWBCで大活躍してMVPを受賞し、レギュラーシーズンでも二刀流で大活躍でした。しかし、なんとしたことでしょう。結局、大谷選手は無理をしたのでしょう。肘の怪我で手術をし、今年の出場はありません。一方、藤浪選手はアスレチックスからオリオールズに移籍し、中継ぎなどで結果を残し、チームはワールドシリーズ出場の可能性を残しています。どちらが優れているかどうかということではありません。先のことは誰にも分からないということです。以上は、野球の話ですが、私たちのクリスチャン生活に当てはめてみましょう。全知全能の神は全てのことを掌握しておられます。ですから、この神を恐れ、神に従い、悪魔に立ち向かいましょう。8節には「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」とあります。全知全能の神に敵対するのではなく、神を味方に付けて神と共に歩みましょう。

4.主のみこころなら、このことをしよう…私たちはしばらくの間、現われては消えてゆく霧のようなものです。ですから、15節には「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」とあります。自分の浅はかな計画ではなく、主のみこころにかなう歩み方をしましょう。ところで、主のみこころを知るにはどうしたらよいでしょう。だいたい、次の3つのことが合っているなら、主のみこころだと考えて良いでしょう。第一に、その道は環境が整っているのか? 第二は、その道は聖書的か? 第三にその道は、祈って平安があるか?です。

●2023年9月17日(日)礼拝メッセージ要旨  

本日はヤコブの手紙3:1~18から、「上からの知恵」という題でポント3つ上げていきます。

1.舌(人の語る言葉)の力…私たち人間は多くの点で失敗をするものです。とりわけ、言葉で失敗しない人などはいないと言っても過言ではないでしょう。また、舌(言葉)は小さな器官ですが、馬のクツワや船の舵、あるいは大きな森林を焼いてしまう火のように、小さくても大きな力を発揮します。6節にあるように、舌は火であり、不義の世界で、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、最終的にゲヘナの火によって焼かれます。もちろん、舌によってもたらされるのは、マイナス面ばかりではなく、「あの一言によって励まされた」とか「力をもらった」というプラス面もあるでしょう。エペソ4:29には「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」とあります。そのように、良きにつけ、悪しきにつけ、私たちが語る言葉には意外と大きな力があることを悟り、マイナスの方向ではなく、プラスの方向にその大きな力を活用していきたいですね。

2.賛美とのろい…私たちは舌をもって天の父なる神様を賛美します。そして、その同じ舌をもって神に形造られた人を呪ったりしてはいけない、と、ここで語られています。先日のことですが、筆者はインターネットで、ある商品を注文しました。しかし、その会社の対応が芳しくなく、クレームのメールを送信しようとしました。しかし、そのとき、震度1か2の小さな地震が発生しました。習慣的に、地震があるといつも祈ります。突発的に「主よ。赦してください。」と祈っていました。主に「クレームは止めなさい」と言われたようでした。結局、クレームのメールは止めました。たとい、知らない相手へのメールであっても真心こめたメールを出す方が良いに決まっています。第一ペテロ3:9には「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とあります。それはイエス・キリストのうちに見られるものです。第一ペテロ2:22~24です。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

3.知恵のある賢い人…13節には「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。」とあります。創世記26章にイサクについて書いてあります。イサクは大いに祝福を受け富んでいました。それで、ペリシテ人の王アビメレクは、「あなたは強くなったので、我々のところから出て行ってくれ」と頼みました。柔和なイサクは黙ってゲラルの地へ移動して、そこで井戸を掘りあてました。するとゲラルの羊飼いたちが来て、「その井戸は我々のものだ」と言って横取りしました。そこでイサクは大人しくして、別の井戸を掘ると、それに対しても、彼らは争いを仕掛けてきました。それでもイサクは別の地に移動して、そこで井戸を掘りました。そこは広々しているところでレホボテと呼びました。結果的に一番良い地に移ったのです。その一連のイサクの動静を見ていたアビメレク王は、イサクが全能の神に祝福されていることを恐れ、平和条約を結ぶためにイサクのところに来ました。もちろん、イサクはそれを受け入れました。ヤコブ3:18には「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」とあります。今日(こんにち)の私たちにはイエス・キリストによる十字架の福音があります。この福音を平和のうちに証し、または伝道して、多くの義の実を結びましょう。

●2023年9月10日(日)礼拝メッセージ要旨 

本日はヤコブの手紙2:14~26から、「行ないをともなう信仰」という題でポント3つ上げていきます。

1.死んだ信仰…15~16節にあるように、そこに着る物や食べ物に困っている人がいるとして、「暖かになり、十分に食べなさい。」と言ったものの、何も与えないとしたら、何の役にも立ちません。先週の水曜日と土曜日は計3つの集会を予定していました。しかし、その日に限って土砂降りと台風の到来が予測され、それら3つの集会はすべて中止にしました。結果的には、どの集会も開催不可能ということはありませんでしたが、ただ、強行して何があるか分からない状況の中で集会を持つことを不安に感じる人もいるでしょう。ですから、まずは、安全、安心を優先しなければなりません。3.11東日本大震災の時には物流がストップし、コンビニエンスストアーの品物が一気に無くなってしまいました。そんな折、震災後5日目くらいに筆者の出身教会からガソリンと食品などが届きました。筆者はガソリンを満タンにした車で、教会員を中心に、知り合いを回り、その食品を配ったり、近況を分かち合ったりしました。誰かの役に立つことは喜びです。元はと言えば、他者からの支援があったからです。

2.神はおひとりだと信じている…世界の基本的な一神教と言われる宗教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教です。ユダヤ教は旧約聖書を受け入れているもののイエス・キリストを受け入れていません。イスラム教は、イエス・キリストを預言者の一人とみなし、コーランを聖典としています。キリスト教は旧新約聖書を聖典とし、イエス・キリストを神の御子、救い主としています。ここで、ちょっと意外と言いましょうか、面白いことに気づきます。それは、悪霊どもも神はお一人であり、イエス・キリストが救い主だと知ってるということです。但し、悪霊どもは、唯一で聖なる神と御子イエス・キリストに敵対し、人々の救いを妨げようとしています。クリスチャンは、その悪霊と同じところに留まっているならば論外です。そうではなく、神と人とを愛し、仕えていくべきです。どのようにして神と人とを愛しますか?十戒は10の戒めのうち8つの戒めが「〇〇してはならない」です。そして、2つの戒めが「〇〇しなさい」です。第四戒が「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」で、第五戒が「あなたの父と母とを敬え」です。つまり、神と人とを愛するとは、日曜日の礼拝に参席し、父母を敬う、もしくは身近な人を大切にすることです。そこから始まっていくのです。そして霊的に成長し、キリストの救いの福音を伝えるようになったらもっと幸いです。

3.アブラハムとラハブ…アブラハムは、正真正銘、イスラエル人の元祖です。しかも信仰の父と言われています。あるとき、神はアブラハムに対して、ひとり子イサクをささげるようにと命じます。アブラハムは全能の神のことばに従順に従おうとします。そのアブラハムの信仰姿勢が「信仰の父」と言われる所以なのでしょう。 一方、ラハブは元々イスラエル人ではなくカナン人の陣営のエリコに住んでいました。しかも彼女は遊女でした。彼女は、イスラエルから二人の斥候(偵察隊)を迎え入れ、エリコにイスラエルが攻めてきたとき、ラハブとその家族が助け出されるように彼ら斥候と盟約を結びました。その後、追手が来ると、彼らを上手に逃がしてあげました。その結果、ラハブはイスラエル民族に加えられ、マタイ1章のキリストの系図に堂々と名を連ねています。イスラエル人の元祖であるアブラハムに比べると、ラハブは落ちこぼれのような存在です。あまりに違い過ぎるアブラハムとラハブですが、彼ら二人には共通点があります。それは、神に対して従順に従うという点です。神の目から見れば、アブラハムとラハブに何の違いも無いのかもしれません。ローマ1:5には「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。」とあります。主は、私たちがみことばに従順に従うことを望んでおられるということでしょう。私たちもアブラハムとラハブのように神に従順に従う者とされましょう。