●12月20日(日)クリスマス礼拝メッセージ要旨(マタイ1:18~25)

 クリスマス礼拝ということで、マタイ1:18~25からクリスマスメッセージです。「私たちとともにおられる神」という題で、ポイント3つ上げいきます。

 ①「ヨセフは正しい人だった」(19節)…マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書の中で、イエス・キリストの降誕を取り上げているのは、このマタイの福音書とルカの福音書の二つです。ルカの福音書ではマリヤに焦点が当てられていますが、マタイの福音書はヨセフに焦点が当てられています。系図が両書とも出てきますが、ルカの福音書はマリヤの系図、マタイの福音書はヨセフの系図です。アダムからダビデまでは同じですが、ダビデ以降が異なります。さて、ヨセフとマリヤの婚約中、ヨセフはマリヤが身重になったことを知りました。ヨセフの心中はどれほど動揺したでしょうか。しかし、そこで、ヨセフは、マリヤを気遣い、このことを内密に去らせようとしました。(もちろん、このとき、主の使いが夢でヨセフに現われ、その胎に宿っているのは聖霊によるということを伝えます)ヨセフに関する記事はイエス様12歳のときで終わっていますが、ヨセフは信仰者であり、人格者だったことがうかがえます。彼は、自分のことよりも、マリヤに対してどうするのが一番良いか、というところに視点が向いています。

②「その名をイエスと付けなさい」(21節)…「イエス」という呼び方はギリシャ語式です。ヘブル語式では旧約聖書に出てくる「ヨシュア」と同じです。神の御名が「ヤハウェ」と発音するとするなら、「ヤハウェは救い」という意味です。イエス様は、信じる全ての人の罪をその身に負い、十字架で死なれ、墓に葬られ、三日目に復活されました。今日、誰でもこの方を信じ受け入れるなら、罪の赦しと御国を受け継ぐのです。これは神からの賜物、正に、これ以上は望むことのできない天からの贈りものです。無償ですが、自分のものにするには、心を開き、信じ受け入れなければなりません。

③ 「インマヌエルと呼ばれる」(23節)…インマヌエルの意味は「神は私たちとともにおられる」です。インマヌの部分が「私たちとともにおられる」で、エルが「神」です。第2ポイントの「イエス」は名前です。「インマヌエル」は、そう呼ばれるということ。イエス様は、私たちとともにいてくださる神です。マタイ28:20で復活後、まだこの地上におられたとき、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言われました。今日、イエス・キリストを信じる私たちは、ともにいてくださる神であるイエス様、すなわち、聖霊様の御声を聞いて過ごしましょう。私たちは、生活の中で様々な岐路に立たされます。そのとき、自分の思いではなく、聖霊様の御声を聞いて従うことです。

ルカの福音書2章に記されているヨセフとマリヤにとっては、正にそういった状況、苦難の連続でした。皇帝アウグストによる住民登録のためヨセフは身重のマリヤとともにナザレからベツレヘムの旅をしなければなりませんでした。ベツレヘムに到着すると宿はなく、産気づいたマリヤは家畜小屋のような場所で出産しなければなりませんでした。こういった状況の中でヨセフとマリヤはどんな思いで過ごしたのでしょうか。「なんということか」という思いはあったでしょうが、彼ら二人は、神に信頼しつつ、一歩一歩前に向かって行ったことでしょう。結果的には、飼い葉おけに寝ておられるみどり子イエス様は、その知らせを聞いてやって来た羊飼いたちのしるしとなりました。また、救い主がベツレヘムで生まれることは預言の成就でもあり、神の栄光が現れることになりました。今日の私たちも、インマヌエル(神は私たちとともにおられれる)と呼ばれるイエス様を信じ、そして、聖霊様の御声を聞いて、従いつつ、一歩一歩進んでまいりましょう。

●12月13日(日)礼拝メッセージ要旨(第一コリント7:1~16)

この7章では、当時、不品行などの問題があったコリント教会に向けて「結婚」ということをテーマにして語られています。ですから、まず聖書の基本的な結婚観を振り返ることが必要と考えます。その上で、この7章1~16節からポイント3つ上げて学んでいきましょう。

①「聖書の基本的結婚観」…「結婚」の原点は創世記2章に見ることができます。神はアダムに「人が、ひとりでいるのは良くない。」と言われ、彼のあばら骨から一人の女性を造り上げ、彼の妻として与えました。そして、創世記2:24では「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と言われ、そのみことばがマタイ19:5で引用され、さらにマタイ19:6では「それで、もはや二人ではなく、一人なのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」とあり、今日の教会においても、受け継がれています。そして、その夫婦が一体であるがためにエペソ5章では夫婦関係をキリストと教会になぞらえています。エペソ5:24~25には「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」とあります。妻と夫がその通りに出来るか出来ないかはともかく、これが聖書で教えている夫婦のあるべき姿です。

 ②「パウロによる補足的結婚観」…第一のポイントで述べた聖書の基本的結婚観は、言うなれば理想的な結婚観です。それに対し、当時のコリント教会、そして、今の時代もそうですが、やはり、現実問題というものがあります。パウロは、それまで聖書では述べられていなかった様々な結婚の形態に対して、自分の見解として語らざるを得なかったということでしょう。それで、聖書の基本的結婚観においては、結婚の良い点が強調されているのに対し、パウロの見解では、結婚において伴う義務とかマイナス面が強調されているようです。独身者の場合、そのままでいるのがベストであるけれども、情が燃えるのならば結婚するのが良い、と言っています。また、既婚者については、別れてはいけない、もし、別れたら元のさやに収まるか、再婚するな、と言っています。また、一方がクリスチャンでない夫婦の場合、未信者は信者によってきよめられている、と言っています。興味深い表現だと思いますが、その意味は救われているということではなく、「聖別されている」ということ、神が特別に目を掛けていてくださっているという解釈でよいと思います。今日も、パウロのここでの記事による見解以外にも色々なケースがあることでしょうが、要は、誰であれ、今ある状態を否定することはできません。そこから、主にあって、どうあるべきか、というところに視点を向けていくことです。

 ③「すべての人が私(パウロ)のようであることです」(7節)…ここでパウロの生涯を簡単に振り返ってみましょう。まず、パウロは生涯独身を貫きました。元々は熱心なユダヤ教のパリサイ派、ステパノ殉教のときは、石打ちをする人たちの着物の番をしていました。また、大祭司から権限を得て、エルサレムからダマスコに行き、クリスチャンをひっ捕らえてくる予定で向かった途上で聖霊なるイエス・キリストに出会い、人生が180度転換したのです。それから、今度はだれよりも熱心なクリスチャンとなって、正に命がけで福音を伝え、第一次、二次、三次伝道旅行で、今のシリアからトルコ、ギリシャ、ローマへと駆け巡りました。第二コリント11章によると、39のムチを五度受け、普通のムチを三度、難船三度、一昼夜海上をさまようこと一度、その他様々な難を受け、労し苦しみ、最後はローマで殉教した(聖書にその直接的な記事はない)と言われています。確かに、これでは結婚してないほうが良かったと言えます。そんなパウロが「すべての人が私のようであることです」と言っています。もちろん、今日、私たちがパウロと同じようにはできませんが、ただ、パウロの心、その精神を少しでも受け継ぐことはできるでしょう。つまり、今、私たちに与えられている環境や賜物、そこから、神に喜んでいただける生涯となるように、祈りつつ、一歩一歩進んで行く、ということです。

●12月6日(日)礼拝メッセージ要旨(第一コリント6:1~20)

 この6章では、5章に引き続き、当時のコリント教会の不品行の問題に加え、教会内の争いの問題を取り上げています。「主と交われば一つ霊となる」という題で、ポイントを4つあげます。

 ①「不正も甘んじて受ける」(7節)…当時のコリント教会は、クリスチャン同士で争いをし、それを同じクリスチャンの誰かに相談することなく、一般の裁判所に訴えるということをしていたようです。パウロは、それに対し、「そもそも互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北だ」と言っています。そして、「むしろ、不正をも甘んじて受けよ。だまされていなさい。」と言っています。第二テモテ2:24~25には「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。とあります。聖なる神に仕えるクリスチャンは、最低限、言うべきことは言いつつも、相手を罵倒したり、ののしったりということはせず、それ以上は主の御手に委ねるべきです。

 ②「キリスト者自由」(12節)…12~13節では、要約すると「私にはすべてのことが赦されています。私はどんなことにも支配されはしません。からだは主のためです。」と言っています。この言葉は、宗教改革者マルチン・ルターが提唱した「キリスト者の自由」と重なるところがあります。つまり、キリスト者は自由であり、何物にも隷属しない。けれども、一方で、キリスト者は自分が関わる全ての人に対して、魂に対する責任としての義務を負っています。この世に来られ、人として歩まれたキリストは、当時の王もローマ総督も恐れませんでした。その一方で、社会から見下されたような人には近づいて行って、彼らを立ち上がらせました。クリスチャンには霊的な自由と解放が与えられていますが、主のために生きると言う義務もあるのです。

③「主と交われば一つ霊となる」(17節)…第一ヨハネ5:16~17では、「死に至る罪」ということばが使われています。この第一コリント6:9~10では不品行、偶像礼拝、姦淫、男娼、男色などの罪が列挙され、こういったことをしている者は神の国を相続できないと言っています。遊女と交われば霊的な死に至り、主と交われば神の国を相続するのです。先日のハイナイトというビデオ集会のメッセージで、「神に服従するとは、神にくっついて離れないことだ」と、面白い表現をされていました。確かに、第二列王記2章で、エリシャはエリヤが天に携え挙げられるとき、くっついて離れませんでした。それゆえ、エリシャはエリヤの二倍の霊を受けました。

 ④「代価を払って買い取られた」(20節)…詩篇49:17には「人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。」とあります。莫大な財産を所有していたとしても、死ぬときは、それが何の役にも立たないし、あの世に持っていくことも出来ません。また、同、詩篇49:8には「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」とあり、世にあるすべての金銀を持っていたとして、それを差し出しても、魂の贖い代として遠く及ばないのです。しかし、第一ペテロ1:18~19には「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。2000年ほど前、聖なる神のひとり子イエス・キリストが十字架によって、尊い代価を支払ってくださったのです。このイエス様を信じ受け入れて、罪の赦しと永遠のいのちを自分のものとして受けとり、神の栄光のために生きましょう。

●11月29日(日)礼拝メッセージ要旨(第一コリント5:1~13)

 この章は、当時のコリント教会の不品行の問題を取り上げています。でも、ポジティブにとらえて、「純粋で真実な生き方」という題でポイントを3つあげます。

 ①「不品行」(1節)…父の妻を妻にする、そんなことは普通考えられませんが、たぶん、父親の再婚相手、または、妾のような人と通じたのでしょう。実際、創世記35:22では、ヤコブの子ルベンがビルハと通じ、父の寝床を汚した(第一歴代誌5:1)のです。私たち人間には良心があって、ある程度の道徳基準を持っているものですが、やはり、聖書の基準に立ち、真に正しい基準に合わせなければなりません。鎖国前の日本で、イエズス会から派遣されたザビエルが日本人について、「優れた民族であるが、男色(同性愛)がある」と派遣元に報告をしたそうです。創世記19章で、ソドムとゴモラの町に天から硫黄の火が降ってきて神のさばきを受けました。それは、性的な罪の乱れ、同性愛も蔓延していたのです。レビ記18:22には「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。」とあります。「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです。(ヘブル13:4)」

 ②「古いパン種を取り除く」(6節)…ここで言われているパン種(イース菌)とは、パンを膨らませるように、不品行によって、教会内に罪を蔓延させないように、という意味で使われています。最近、一般のニュースで、学校の教職員が児童生徒に対して性的な罪を犯す事例が多々あることを聞きます。その場合、その教職員は一旦解雇されるのですが、数年して復職し、また同じ過ちを犯してしまうケースが多いとのことです。そういう人は復職すべきではないでしょう。それは、教会外のことですが、教会が内部に不品行の罪を抱えていたら、しっかりと取り除き、全体に影響を及ぼすことがないようにしなければなりません。もちろん、教会の使命は裁くだけではなく、その人が悔い改め、回復し、正しい道を進むことです。また、私たち個人個人が、自分自身の内側の汚れに支配されないように注意しましょう。コロサイ3:5には「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とあります。まともなクリスチャンは偶像礼拝をしないでしょう。但し「むさぼり」も偶像礼拝となるのですから、気を付けましょう。

 ③「純粋で真実な生き方」(8節)…私たちは個々に長所、短所、また強さ、弱さを合わせ持っています。決して、完全な人、完璧な人はいません。キリスト教史上最も優れた人と言っても過言ではないパウロは「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。(ピリピ3:12)」と言っています。つまり、私たちは、「あれしてはいけない、これもやってはいけない」と、下を見るのではなく、上にあるものを求めて生きる(コロサイ3:1)ということです。最近、あるニュースの記事で、アメリカの信頼のおける民間統計会社・ギャラップ社が「日本のクリスチャン人口は4%」であるということを発表したようです。確かに、礼拝出席人数から割り出すと、1%も厳しいでしょうが、「自分はイエス・キリストを信じている」という人なら、そのくらいはいるかもしれません。もちろん、4%で満足していてはなりません。神のみこころは「全ての人が救われて真理を知るようになること」です。クリスマスシーズンに入りました。クリスチャンにとって、ここしばらくは最も福音を伝えやすい時です。私たちは、そういうところに目を向けていきましょう。

●11月22日(日)第一礼拝メッセージ要旨(ヨハネの福音書12:44~50)

 「大声で大切なことを語られたイエス様」という題で、1+4つポイントを上げます。

 ※「大声で」(44節)…最近はコロナ渦で、大声を上げるのははばかられます。しかし、創造主である真の神のみもとから来られた神の御子イエス・キリスト様が大声を上げられたとき、それはたいてい、大事なときに大声を上げられています。十字架上でエリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)と、やはり十字架上で息を引き取られるとき、仮庵の祭りの時には「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来てのみなさい~」と言われました。また、墓に入っているラザロを生き返らせたときも大声を出されました。そして、このヨハネ12:44で、大声を出され、50節まで語られているのですから、この部分は大切な内容であると考えて間違いないでしょう。

 ①「神のもとから来られたキリスト」(44~45節)…キリストは「わたしを信じる者は、わたしを遣わした方を信じるのであり、わたしを見る者はわたしを遣わした方を見る」と言っています。つまり、キリストは、自分こそ、天の神、唯一の創造主のもとから、この世に来た真の神の御ひとり子であると、宣言しているのです。阪神タイガーズで活躍したマートン選手はクリスチャンで、現在、メジャーリーグのカブスの職員として働いています。彼が、ある記事で次のように言っています。「イエスを知るシンプルな方法の一つは、自分を取り巻く状況や、もろもろの事柄を注意深く観察してみることです。子どもの誕生であろうと、宇宙や地球の仕組みであろうと、神が私たち人間のために、あらゆることを行ない、与えて下さったことに気づくはずです。海の上でも、木の上でも昆虫でも、神は細部に至るまで十分に気を配って造られました。ですから、創造そのものが神の存在を示し、イエスがだれであるかを示しています。それに気づけば、イエスが私たちに永遠のいのちを与えるために十字架の死を選ばれたことを理解できるようになるのです。」

 ②「世の光として来られたキリスト」(46節)…次にキリストは、「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」と言っています。このことばとほぼ同じことをヨハネ8:12でも語られました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と。キリストを信じるとはキリストに従うということです。

 ③「さばくためではなく、救うためにて来られたキリスト」(47~48節)…イエス様に従って生きることはベストであって理想でもありますが、人間、誰でも完ぺきではありません。従えないことも度々あります。ですから、キリストは、ここで「大丈夫」と言っているのです。しかし、キリストを拒み、受け入れない人はさばかれます。私たちは、キリストを受け入れ、キリストに日々、顔を向けて歩むことです。

 ④「父の命令は永遠のいのち」(49~50節)…この最後のところでキリストは、自分は何を話すべきか、父の命令は何か、ということを言っています。そうです。父の命令は永遠のいのちである、と言っているのです。第一ヨハネ5:20には「イエス・キリストこそ真の神であり、永遠のいのちである」ということが記されています。私たちはこのイエス様を信じて永遠のいのちを受け取り、光の中を歩みましょう。そして、周りの人々に永遠のいのちであるイエス・キリストを証しし、人々の救いのために神に仕えていきましょう。

●11月15日(日)礼拝メッセージ要旨(第一コリント4:1~21)

この第一コリント4章で、パウロはコリント教会の人たちに、遠回しにと言いましょうか、色々なことを語っていて、一見、分かりづらいのですが、結論は「キリストのような生き方をしなさい」、また「自分(パウロ)のような生き方をしてほしい」と言っているのです。最初に結論を出しておいて、3つのポイントをあげてまとめます。

①「神の奥義の管理者」(1節)…私たちは、この世に生きていて、様々なもの、例えば不動産や乗用車、また洋服などを所有し、それを管理しています。でも、もっと大事なものは自分自身の体です。健康管理をして、最近よく聞く「健康寿命」を伸ばしていきたいものです。そして、健康管理よりももっと目を向けるべきは魂の管理です。伝道者の書12:1には「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」とあります。イエス・キリストを信じ、罪の赦しと救いを受けて、魂の幸いを得ましょう。それが一番です。さて、ここで「神の奥義の管理者」ということですが、パウロは、神の福音を宣べ伝え、神の教会を建て上げる者として、自分で生んだコリント教会の人たちから批評を受けることに関して「非常に小さなことだ」と言っています。コリント教会の人たちが「子」とすれば、パウロは「父」です。父が子と同じ目線でやり合っていたとしたら立派な父親とは言えません。神の福音に仕える者は、神の奥義の管理者として、それに相応しい人格が求められるということでしょう。

②「一方にくみし、他方に反対」(6節)…コリント教会の人々は、パウロ派とかアポロ派などの派閥が出来ていました。誰かを支持するということは別の人に反対することでもあります。本来なら、パウロは植えた(教会を建て上げた)人、アポロは水を注いだ(教会の人々を養った)人として、それぞれの役割を受け持った人として受けとめるべきなのです。箴言16:4には「はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。」とあります。主はすべての人を形造られ、それぞれに目的をもっておられるのです。どんな人に対しても、自分の主義、主張、信条が違うからと言って、対立する対象とすべきではありません。妻あるいは夫、家族、教会のメンバー、職場の人も、たとい何かのことで憎らしく思ったとしても、決して憎むべきではなく、むしろ祝福を祈るべきなのです。悪魔も生きていて、私たち人間同士が対立し、争いを起こそうと策略を練っているのです。パウロは12~13節で「…はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。…」と、驚くべきことを言っています。

③「キリスト・イエスにある生き方」(17節)…16節でパウロは「私にならう者になってください。」と大胆なことを言っていますが、実際にパウロは12~13節のようなことを実践していたのです。クリスチャン新聞福音版12月号には、横田早紀江さんに関する記事がありました。長女・めぐみさんが北朝鮮の工作員に拉致されてから43年も経過しているとのことです。最初の20年は、全く、どこに行ったのか見当もつかなかったそうです。苦しみの中にいるとき、友人が「ヨブ記を読んだら何か分かるかもしれない」と言って、聖書を読むことを勧めてくれたそうです。しばらくしてから、ヨブ記を読むと、記事の内容が心に入ってきて、「こんなふうに、人間に関わってくださる神さまがいらっしゃるのだ」と思ったそうです。その後、クリスチャンとなり、今は、「めぐみのことを一番気にかけて、見ていて下さるのは神さまなんです。だから平安でいられます。」と神に委ね、前向きに歩まれ、キリスト者としての香りを放っているのではないでしょうか。私たちも、悪を言わず、偽りを語らず、善を行ない、平和を求め、キリストのように、またパウロのように歩もうではありませんか。

●11月8日(日)礼拝メッセージ要旨(第一コリント3:1~23)

第一コリント3章から「神の畑、神の建物」という題で、ポイントを3つあげます。

 ①「肉に属する人と御霊に属する人」(1節)…コリント教会は、パウロ派、アポロ派というふうに派閥ができて、互いに妬みや争いがあったようです。そういう人々対して、パウロは、霊的な幼子であり、肉に属する人である、と言っています。ガラテヤ5:19~21には「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とあります。私たちも、そういった肉に属する人ではなく、ガラテヤ5:22~23に「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」とあるように、御霊に属する人にならせていただきましょう。

②「キリストの土台の上に建てる」(11節)…中東地域では堅牢な石で造った建物が多くあります。ただ、地震に対してはどうでしょう。木造の建物、例えばログハウスのように木部が露出していると湿気を吸収したり放出して環境的に人に優しいのではないでしょうか。総合的に一番、強度のあるのは鉄筋コンクリート製の建物でしょう。それはともかく、ここで言っているのは、霊の建物のことです。それは永遠に続く、いつまでも残る建物です。第一コリント13:13には「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあり、ヨハネ15:16には「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」とあります。すなわち、いつまでも残る信仰と希望と愛の実を結ぶということです。具体的には、友人や知人が救われて真理を知ることであり、また、自分自身の霊的成長です。キリストのからだなる教会に連なりつつ、教会を建て上げる働きに参画していくことです。それが、イエス・キリストの土台の上に霊的な建物を建てるということです。

③「あなたがたは神の神殿です」(16節)…S教会のO牧師は、子供の頃の自分を「お祭り小僧」だったと言っています。毎年4月に子供神輿(みこし)が出て、家々を回り、子供の代表が各家の門口で祝詞(のりと)を述べる。当時のO少年はその代表を数年務め、鼻高々だったそうです。しかし、あるとき、柏手を打って拝み奉っていた神社の祠(ほこら)の中をのぞくと、そこには髪の毛の束と丸い鏡のようなものがあるだけで、それを見てがっかりし、それから、本当に信じるべき何か(神)を求めるようになったとのことです。人が作ったものは人に祝福を与えることはできません。この世界を創造し、人を生かしておられる創造主が真の神です。その創造主のもとから、救いのために人となって来られたイエス・キリストは、多くの人の罪をその身に負い、十字架で死んで復活され、天に帰られました。今日、キリストを信じる者の心の中に聖霊が宿ってくださいます。つまり、キリスト者の体が聖霊の宮、神殿となるのです。ですから、キリスト者は、聖霊の宮である自分のからだを聖く保っていかねばなりません。みことばと祈りに励み、聖霊にも満たされ、聖書の知識と知恵も豊かにされようではありませんか。

●11月1日(日)礼拝メッセージ要旨(第一コリント2:1~16)

 第一コリント2章から「御霊に属すること」という題で、ポイントを3つあげます。

 ①「十字架につけられた方のほかは何も知らないことに決心した」(2節)…すぐれた言葉や知恵の言葉を聞いて、論理的に納得したからクリスチャンになったという人はいないのではないでしょうか。東日本大震災の一年後の3月にアメリカの著名な作家フィリップ・ヤンシーという方が、私たちの教会にも訪ねて来られました。ヤンシーさんは、その著書の中で、「自分はクリスチャンになる前は、頑固でひねくれており、キリスト教に対して反抗的だった。そんな自分が神に近づこうとするなら、神は私を粉々にするだろうと思っていた。しかし、神は私の心を溶かし、さばきではなく、愛を与えてくれた」と言っています。イエス・キリストは、十字架につけられるために、この世に来られました。それは、私たち信じる者の罪をその身に負うためです。そこに、神の愛があります。パウロは、そのキリストの十字架を御霊と御力によって宣べ伝えたのでした。

②「隠された奥義としての神の知恵」(7節)…「十字架だ」「御霊の力だ」と言っても、それは決して空しく終わるものではなく、本当は神から来る賢い知恵、正に、隠された奥義としての神の知恵なのです。例えば、マタイ5:3に「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」とあります。心貧しい者より心豊かな者のほうが優っていると思います。でも、自分が心豊かだと思って傲慢な人間であるよりも、自分の足りなさを覚えて神を求める人の方が神から祝福を受けるでしょう。ルカ6:38には「与えなさい。そうすれば与えられます。」とあります。他人に与えたら、少なくなります。でも、与えている人で乏しい人を見つけるのは難しいでしょう。アメリカでは大統領選挙が行われます。4年前、トランプ氏が大統領になってから、アメリカは自国第一主義を掲げてきました。かつては、移民に寛容で、良い意味で世界中の問題に干渉し、いつも率先して与える偉大な国、そんな印象のあるアメリカでしたが、今後はどうなるでしょう。

③「御霊のことは御霊によってわきまえる」(14節)…11節にありますように、他人が何を考えているか誰も分かりません。同じように、神のみこころは神の御霊しか知りません。人間と創造主である真の神、どちらが賢いですか。言うまでもありません。神のお考えのほうが私たち人間よりも、はるかに優っています(イザヤ55:8参照)。つまり、私たち一人一人が、その神のお考え(御霊の思い)に従っていくならば、それはその人にとっての最善の道を歩むことになるのです。ところで、その御霊の思いを知るためにはどうすればよいのでしょうか。その答えは、ローマ12:2の「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」というみことばにあると思います。やはり、日々のディボーション、みことばと祈りです。主なる神との深い交わりを通して、神のみこころを知るのです。16節には、天地創造の時、キリストが父なる神様の顧問であったと言っています。その知恵深いキリストの心が信じる者のうちにあるのです。

●10月25日(日)第一礼拝メッセージ要旨(詩篇103:15~22)

 「主の恵みが及ぶ人」という題で、詩篇103:15~22からです。

 ①「人の日は草のよう」(15~16節)…15~16節の「人の日は草のよう。野の花のように咲く~」は、イザヤ40:6(第一ペテロ1:24で引用されている)のみことばとよく似ています。草のことではなく、私たち人の一生の儚さ、空しさを表わしています。奥の細道の松尾芭蕉が平泉で「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」と詠んだ俳句もそれと共通するものがあります。しかし、聖書は、そういった儚さや空しさだけで終わっているのではなく、実態を伴う永遠の希望があることを伝えています。

②「しかし、主の恵みは」(17~18節)…とこしえの主の恵みがあるのです。但し、それは無条件にすべての人に及ぶのではありません。主を恐れ、主の契約を守り、その戒めを心に留めて行なう者に及ぶのです。主を恐れる者とは、天地を創造した真の神の存在を認める人です。主の契約を守る者とは、十字架の贖いによって新しい契約を示されたイエス・キリストを信じ通す人です。その戒めを心に留めて行なう者とは、神である主を愛し、隣人を自分自身のように愛する人です。

 ③「主は天にその王座を堅く立て」(19節)…主の恵みはどこから来ますか?天の御座からです。おなかを空かせて家に帰った時、玄関を開けると美味しそうな匂いが立ち込めてきました。その美味しそうな匂いは台所(キッチン)からです。そうです。とこしえの主の恵みは天の御座から流れて来て、また主イエスを信じる者は、この地上の務めを終えると、その天の御国に帰るのです。ヘブル11:10には「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」とあり、アブラハムが持っていた天の都に対するイメージを表現しています。この地上は決して盤石ではありません。私たちは、揺るぎない天の御国から来る恵みを受け、そして、やがて来たる日にそこへ帰る者とならせていただきましょう。

 ④「みことばを行なう力ある勇士」(20節)…みことばを実行する者に対して「力ある勇士」と最大限の誉め言葉で表現しています。聖書のことばは、ただ聞くだけではなく、実行してこそ意味があります。例えば「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。(第一テサロニケ5:16~18より)」というみことばを生活の中で実践する。そのとき、主の力が共に働き、正に力ある勇士と言われるに相応しい者となるのです。

 ⑤「みこころを行ない、主に仕える者」(21節)…最近、中国の習近平さんもロシアのプーチンさんも自分個人の権力強化のために国の制度を変更したようです。この世の人々の多くは、人に仕えられるような者になろう、出世して偉くなろうと考えます。しかし、イエス・キリストはマタイ20:28で「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」と言われました。聖書の基準からして、本当に偉い人、立派な人とは、謙虚に人々に仕える人です。

 ⑥「すべて造られた者」(22節)…第一テモテ2:1に「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」とあるように、神のみこころは、すべての人が救われること、真の神を賛美するようになることです。キリスト者は、この神のみこころを実現するために祈り、福音を宣べ伝えねばなりません。そして、いつでもどこでも主をほめたたえることです。

●10月18日(日)礼拝メッセージ要旨(第一コリント1:18~31)

この1章の前半で、パウロは、互いに党派心を持って分裂状態にあるコリント教会に対して、一致するようにと言っていて、その一致のために、1章後半では、キリストの十字架に目を向けさせようとします。「十字架のキリストを宣べ伝える」という題で、ポイントを3つあげます。

 ①「十字架のことばは神の力」(18節)…ローマ時代に十字架は死刑の方法として用いられたのですが、今日「十字架」はキリスト教会や病院などのシンボルマークになっていて、アクセサリーにもなっています。但し、神の力となるのは、その形状そのものではなく、「十字架のことば」です。すなわち、宇宙の創造主なる聖なる神のひとり子として、この世に来られ、多くの人の罪をその身に負って、十字架に架けられ、死なれ、葬られ、死後三日目に復活して、今も生きておられる主イエス・キリストによる救いのことです。ヘブル2:14~15には「 2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、 2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」とあります。イエス・キリストの十字架のことばは、信じる者を悪魔の支配から解放し、滅びから救う力があります。

 ②「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」(23節)…21節には「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵による」とあります。確かに、高等教育機関などにおいて、研究に研究を重ねた末、神を知った、あるいは、キリストの救いに到達したというような話は聞いたことがありません。キリストが弟子たちに「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」と質問したとき、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えました。するとキリストは「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」と言われました。正に、救いは人間の知恵によるのではなく、神わざです。ですから、今日、私たちは、相手にとっては愚かに見えようとも、十字架につけられたキリストを宣べ伝えなければならないのです。

 ③「誇る者は主を誇れ」(31節)…イエス・キリストを信じるということは、とてつもなく大きなことです。すなわち、霊の目が開かれ、暗やみから光に移され、サタンの支配から解放され、罪の赦しと天の御国を受け継ぐということ(使徒の働き26:18参照)です。この大きな恵みを、私たちが自分の知恵で得たと錯覚しないように注意しなければいけません。イスラエルの初代の王はサウルでした。彼は神から一方的に選び出され、30歳で王となり12年間、王位に就いていました。サウルは預言者サムエルに油注がれ、王として立てられ、最初は順調なすべり出しを見せましたが、しばらくして彼は、主のみことばに徹底して従うということをしませんでした。それゆえ、主はサウルを退け、水面下ではダビデを王として立て、サムエルによって油を注がせたのです。それ以後、サウルはダビデを妬み、ダビデの命を狙って追い回すことが本業となりました。一方、ダビデは失敗もありましたが、主を恐れ、みことばに徹底して聞き従い、晩年は長寿と誉れと富にも恵まれていました。それにもかかわらず、第一歴代誌29:14で「まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。」と、与えられたものは、すべて主から出たものであると告白しています。正に「誇る者は主を誇れ」です。