●2023年9月24日(日)礼拝メッセージ要旨

●2023年9月24日(日)礼拝メッセージ要旨  

本日はヤコブの手紙4:1~17から、「神に近づきなさい」という題でポント4つ上げていきます。

1.戦いや争いの原因…例えば、血気盛んな男性二人が道を歩いていて、肩がぶつかったとしましょう。そのとき、一方が「気を付けろ」と怒鳴った場合、もう一方は「なんだとー」という感じで争いが始まります。考えてみると、肩と肩が当たったなどという問題は殆ど重要ではありません。正に、互いの戦う欲望がその争いを引き起こしているのではないでしょうか。これが、国対国となったらどうでしょう。それぞれ、それなりの大義名分があって戦いが起こるのでしょうが、それぞれの国の指導者たちの心情、すなわち「戦う欲望」がそれをさせていると言えるでしょう。ここ20年~30年ほど前の日本は、平和憲法を誇りにしている空気感がありました。しかし、昨今の日本は、平和憲法をないがしろにする論調が大手メディアを通して聞こえてきます。ロシア・ウクライナ戦争でよく分かりますが、一旦戦争が起これば大変なことです。あまりにその代償は大きく、強いて喜ぶ人があるとすれば、ほんの一部の軍需産業のみです。ローマ15:2には「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」とあるように、個人対個人はもちろん、国対国においても、互いに相手を思いやり、相手の益を計ってあげることです。そうすれば、無駄な争いをすることもなく、却って祝福があるでしょう。

2.ねたむ神…天地を創造した真の神は完全で完璧なお方です。しかし、その神様は「ねたむ神」あるとはどういうことでしょう。日本の多くの人々は人の手で形造られた偶像の神々を拝みます。石や木で造られた物が人の願いを聞いて、それを叶えるなどということがあろうはずがありません。そんなことをしている人々をご覧になって、真の神様はどれだけ嘆いておられるでしょうか。また、すでにイエス・キリストを信じているクリスチャンの心の内には聖霊が内住しています。神は、その御霊をねたむほどに慕っておられるのです。

3.神に近づきなさい…今年メジャーリーガーになった元阪神の藤浪選手と、5年ほど前からメジャーで活躍している大谷選手を比較してみると興味深いことに気づきます。藤浪選手は甲子園で春夏連覇を果たした大阪桐蔭のエースです。一方、大谷選手は花巻東高校のエースとして甲子園に一度出場するものの、その藤浪選手の大阪桐蔭に敗れます。その後は、省略しますが、今年メジャーに移籍した藤浪選手は当初、四球ばかりで防御率は12くらいで散々でした。一方、大谷選手はWBCで大活躍してMVPを受賞し、レギュラーシーズンでも二刀流で大活躍でした。しかし、なんとしたことでしょう。結局、大谷選手は無理をしたのでしょう。肘の怪我で手術をし、今年の出場はありません。一方、藤浪選手はアスレチックスからオリオールズに移籍し、中継ぎなどで結果を残し、チームはワールドシリーズ出場の可能性を残しています。どちらが優れているかどうかということではありません。先のことは誰にも分からないということです。以上は、野球の話ですが、私たちのクリスチャン生活に当てはめてみましょう。全知全能の神は全てのことを掌握しておられます。ですから、この神を恐れ、神に従い、悪魔に立ち向かいましょう。8節には「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」とあります。全知全能の神に敵対するのではなく、神を味方に付けて神と共に歩みましょう。

4.主のみこころなら、このことをしよう…私たちはしばらくの間、現われては消えてゆく霧のようなものです。ですから、15節には「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」とあります。自分の浅はかな計画ではなく、主のみこころにかなう歩み方をしましょう。ところで、主のみこころを知るにはどうしたらよいでしょう。だいたい、次の3つのことが合っているなら、主のみこころだと考えて良いでしょう。第一に、その道は環境が整っているのか? 第二は、その道は聖書的か? 第三にその道は、祈って平安があるか?です。

●2023年9月17日(日)礼拝メッセージ要旨  

本日はヤコブの手紙3:1~18から、「上からの知恵」という題でポント3つ上げていきます。

1.舌(人の語る言葉)の力…私たち人間は多くの点で失敗をするものです。とりわけ、言葉で失敗しない人などはいないと言っても過言ではないでしょう。また、舌(言葉)は小さな器官ですが、馬のクツワや船の舵、あるいは大きな森林を焼いてしまう火のように、小さくても大きな力を発揮します。6節にあるように、舌は火であり、不義の世界で、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、最終的にゲヘナの火によって焼かれます。もちろん、舌によってもたらされるのは、マイナス面ばかりではなく、「あの一言によって励まされた」とか「力をもらった」というプラス面もあるでしょう。エペソ4:29には「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」とあります。そのように、良きにつけ、悪しきにつけ、私たちが語る言葉には意外と大きな力があることを悟り、マイナスの方向ではなく、プラスの方向にその大きな力を活用していきたいですね。

2.賛美とのろい…私たちは舌をもって天の父なる神様を賛美します。そして、その同じ舌をもって神に形造られた人を呪ったりしてはいけない、と、ここで語られています。先日のことですが、筆者はインターネットで、ある商品を注文しました。しかし、その会社の対応が芳しくなく、クレームのメールを送信しようとしました。しかし、そのとき、震度1か2の小さな地震が発生しました。習慣的に、地震があるといつも祈ります。突発的に「主よ。赦してください。」と祈っていました。主に「クレームは止めなさい」と言われたようでした。結局、クレームのメールは止めました。たとい、知らない相手へのメールであっても真心こめたメールを出す方が良いに決まっています。第一ペテロ3:9には「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とあります。それはイエス・キリストのうちに見られるものです。第一ペテロ2:22~24です。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

3.知恵のある賢い人…13節には「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。」とあります。創世記26章にイサクについて書いてあります。イサクは大いに祝福を受け富んでいました。それで、ペリシテ人の王アビメレクは、「あなたは強くなったので、我々のところから出て行ってくれ」と頼みました。柔和なイサクは黙ってゲラルの地へ移動して、そこで井戸を掘りあてました。するとゲラルの羊飼いたちが来て、「その井戸は我々のものだ」と言って横取りしました。そこでイサクは大人しくして、別の井戸を掘ると、それに対しても、彼らは争いを仕掛けてきました。それでもイサクは別の地に移動して、そこで井戸を掘りました。そこは広々しているところでレホボテと呼びました。結果的に一番良い地に移ったのです。その一連のイサクの動静を見ていたアビメレク王は、イサクが全能の神に祝福されていることを恐れ、平和条約を結ぶためにイサクのところに来ました。もちろん、イサクはそれを受け入れました。ヤコブ3:18には「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」とあります。今日(こんにち)の私たちにはイエス・キリストによる十字架の福音があります。この福音を平和のうちに証し、または伝道して、多くの義の実を結びましょう。

●2023年9月10日(日)礼拝メッセージ要旨 

本日はヤコブの手紙2:14~26から、「行ないをともなう信仰」という題でポント3つ上げていきます。

1.死んだ信仰…15~16節にあるように、そこに着る物や食べ物に困っている人がいるとして、「暖かになり、十分に食べなさい。」と言ったものの、何も与えないとしたら、何の役にも立ちません。先週の水曜日と土曜日は計3つの集会を予定していました。しかし、その日に限って土砂降りと台風の到来が予測され、それら3つの集会はすべて中止にしました。結果的には、どの集会も開催不可能ということはありませんでしたが、ただ、強行して何があるか分からない状況の中で集会を持つことを不安に感じる人もいるでしょう。ですから、まずは、安全、安心を優先しなければなりません。3.11東日本大震災の時には物流がストップし、コンビニエンスストアーの品物が一気に無くなってしまいました。そんな折、震災後5日目くらいに筆者の出身教会からガソリンと食品などが届きました。筆者はガソリンを満タンにした車で、教会員を中心に、知り合いを回り、その食品を配ったり、近況を分かち合ったりしました。誰かの役に立つことは喜びです。元はと言えば、他者からの支援があったからです。

2.神はおひとりだと信じている…世界の基本的な一神教と言われる宗教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教です。ユダヤ教は旧約聖書を受け入れているもののイエス・キリストを受け入れていません。イスラム教は、イエス・キリストを預言者の一人とみなし、コーランを聖典としています。キリスト教は旧新約聖書を聖典とし、イエス・キリストを神の御子、救い主としています。ここで、ちょっと意外と言いましょうか、面白いことに気づきます。それは、悪霊どもも神はお一人であり、イエス・キリストが救い主だと知ってるということです。但し、悪霊どもは、唯一で聖なる神と御子イエス・キリストに敵対し、人々の救いを妨げようとしています。クリスチャンは、その悪霊と同じところに留まっているならば論外です。そうではなく、神と人とを愛し、仕えていくべきです。どのようにして神と人とを愛しますか?十戒は10の戒めのうち8つの戒めが「〇〇してはならない」です。そして、2つの戒めが「〇〇しなさい」です。第四戒が「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」で、第五戒が「あなたの父と母とを敬え」です。つまり、神と人とを愛するとは、日曜日の礼拝に参席し、父母を敬う、もしくは身近な人を大切にすることです。そこから始まっていくのです。そして霊的に成長し、キリストの救いの福音を伝えるようになったらもっと幸いです。

3.アブラハムとラハブ…アブラハムは、正真正銘、イスラエル人の元祖です。しかも信仰の父と言われています。あるとき、神はアブラハムに対して、ひとり子イサクをささげるようにと命じます。アブラハムは全能の神のことばに従順に従おうとします。そのアブラハムの信仰姿勢が「信仰の父」と言われる所以なのでしょう。 一方、ラハブは元々イスラエル人ではなくカナン人の陣営のエリコに住んでいました。しかも彼女は遊女でした。彼女は、イスラエルから二人の斥候(偵察隊)を迎え入れ、エリコにイスラエルが攻めてきたとき、ラハブとその家族が助け出されるように彼ら斥候と盟約を結びました。その後、追手が来ると、彼らを上手に逃がしてあげました。その結果、ラハブはイスラエル民族に加えられ、マタイ1章のキリストの系図に堂々と名を連ねています。イスラエル人の元祖であるアブラハムに比べると、ラハブは落ちこぼれのような存在です。あまりに違い過ぎるアブラハムとラハブですが、彼ら二人には共通点があります。それは、神に対して従順に従うという点です。神の目から見れば、アブラハムとラハブに何の違いも無いのかもしれません。ローマ1:5には「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。」とあります。主は、私たちがみことばに従順に従うことを望んでおられるということでしょう。私たちもアブラハムとラハブのように神に従順に従う者とされましょう。

●2023年9月3日(日)礼拝メッセージ要旨  

本日はヤコブの手紙2:1~13から、「人をえこひいきしない」という題でポント3つ上げていきます。

1.人をえこひいきしない…誰でも、小学校や中学校時代のことを直ぐに思い出すことはできるでしょう。担任の先生が特定の児童、生徒をえこひいきするという、そんな思い出を持っている人もいるかもしれません。逆に、誰に対しても公平な良い先生が担任だったという人もいるかもしれません。ここでヤコブは、教会においては、そういった、人をえこひいきするようなことはあってはならない、と言っています。社会的な身分の高い人を厚遇し、そうでない人に対しては冷遇するようなことはイエス・キリストを信じる者にとっては全くふさわしくありません。明治初期、自由民権運動に尽力した板垣退助と共に活動した片岡健吉(1844~1903)という人がいます。片岡氏は、四国の高知出身で、洗礼を受けクリスチャンとなり、衆議院議長も歴任しました。教会では長老の立場で神に仕え、玄関番をし、履物を並べ、新来会者に対して親切に案内したということです。それは、イエス・キリストの内に見られます。キリストは弟子の足を洗い、見下された人々の友となられました。また逆に、パリサイ人や律法学者たちのように自分を高くしている人々に対しては、へつらうようなことはしませんでした。

2.信仰に富む者…5節に「神はこの世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし」とあります。聖書で「貧しい」と表現するとき、それは、必ずしも経済的な貧しさのみを言っているのではありません。マタイ5:3には「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」とあり、イザヤ57:15には「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』」とあります。「心の貧しい者」とは心砕かれ、謙虚な心を持つ人のことを暗示しているようです。ところで、楽器や音響機器などのネット通信販売で業績を上げているサウンドハウスという会社があります。創業者は中島さんというクリスチャンの方です。そのサウンドハウスに、当教会でも細々としたものを時折注文しますが、安くて良い商品を実に手早く手配してくれます。本社は千葉県にあるのですが、最近、女川町に営業所を設けました。女川町は3.11大震災に見舞われた地で、原発もあります。当然、住民も減り、学校は統廃合しています。そんな女川町に創業者の中島さんが何か縁があったということで、廃校となった中学校を建物ごと買い受け、そこを倉庫と店舗にし、雇用を創設し、また地域の子供さんたちのために音楽教室などを開催しているようです。一企業として、ただ利潤追求だけではなく、社会貢献ということも視野に入れておられるのでしょう。イエス・キリストは、故郷のナザレの会堂で「神である主の霊が、わたしの上にある。【主】はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。~」と書いてあるイザヤ61:1を読まれ、「この聖書のみことばが実現しました」と言われました。私たちも信仰に富む者とされ、神のみこころに仕えていきましょう。

3.自由の律法… 12節の「自由の律法」とはどういう意味でしょう。1:25にも「完全な律法、すなわち自由の律法」とあります。ヨハネ1:17には「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」とあり、ヨハネ8:32には「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とあります。すなわち、「自由の律法」とは「完全な律法」であり、またそれは「イエス・キリストによって実現した恵みとまこと」であり、「自由をもたらすもの」と言えるでしょう。結局、それらはイエス・キリストを信じる信仰によって働いてくださる聖霊に基づくものです。今、日本の国の政治を思う時、心が暗くなります。しかし、こういう時だからこそ、私たちはみことばと祈りに励み、聖霊の働きに大いに期待しましょう。

●2023年8月27日(日)礼拝メッセージ要旨  

本日はヤコブの手紙1:13~27から、「良い贈りものは上から来る」という題でポント3つ上げていきます。

1.すべての良い贈りものは上から来る…14~15節では、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあります。私たち人間は、罪の性質を持って生れています。いきなり悪事や犯罪に至るというのではなく、誘惑→欲→罪→死という具合に、最初は小さな芽から徐々に大きくなって行くのです。ですから、育児中の親御さんは知恵が必要です。最近は「褒めて育てる」ということをよく聞きます。基本的に良いことと思いますが、ただ褒めるだけではなく、愛情を持って躾けることを怠ってはなりません。そして、誰でも自分自身の心を守って行かねばなりません。箴言4:23には「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。特に不品行、偶像礼拝、酩酊、遊興、そういったことから守られて、天の父から来る良い贈りものを受け取りましょう。ガラテヤ5:22~23には「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」とありますように、聖霊に満たされ、御霊の実を結びましょう。

2.聞くには早く、語るにも、怒るにも遅く…「聞くには早く、語るに遅く、怒るのに遅い」というのは、人生成功の秘訣と言えるかもしれません。最近、某大手中古車販売会社が不正を行ない、著しく評判を失墜させると言うニュースが聞かれました。そのことに関連して、それとは真逆な誠意ある対応をしている企業ということで、イエローハットという自動車関連部品を販売している全国チェーン店の記事を読みました。その創業者である鍵山秀三郎さんは、お店を始めたときから掃除することを大切にしていたそうです。お客さんを迎える店舗をきれいにするということは、お客さんを大切にし、結果的には店として信用を高めることにつながります。ところで、話は変わりますが、とうとう福島第一原発の汚染処理水を海洋放出しました。海洋放出以外に他の方法があったようです。なぜ海洋放出を選んだのかというと、最も費用が安くて済むからだったようです。それでは、あまりに安直で、先を見通せていないと言わざるを得ません。安くて済むはずが、既に日本の漁業関係者には中国などからの取引停止が実施され、その結果、却って高くつくことになるでしょう。自分本位ではなく、どうすることがベストであるか、人の立場に立って物を考えることが大事です。間違いないのは、聖書のみことばに聞くことです。そして、自分の言葉を控え、怒りを遅くする歩み方が神の義を実現するのです。

3.みことばを実行する人になりなさい… 宗教改革者マルチン・ルターは、このヤコブ書を評価しなかったようです。それは、ルター自身は修道士として、形を重んじるカトリックのしきたりの中にいて、やがて、それらに対して懐疑的になり、それゆえに、「聖書のみ」を重んじるプロテスタントを起こしました。但し、ヤコブ書のヤコブが、この書を著した背景には、当時、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという大きな恵みを受けた筈の人々の中に、行状が芳しくない人たちがいたのでしょう。ヤコブはそこを正そうとしたのでしょう。ハンガリーのブタペストで世界陸上が行われています。女子槍投げで日本の北口榛香(はるか)さんが金メダルを獲得しました。2021年の東京五輪では12位だったのですが、そのときから、北口さんはトップになるためのトレーニングを実行し、世界ランク一位になり、今回の金メダルにたどり着きました。優秀なコーチにも恵まれたと思いますが、目標を達成するその実行力には感服します。聖書に戻ります。私たちは、創造主に選ばれた者として、みことばを実行しましょう。個人的な勝利の生活、福音宣教に励み、証しの生活をしましょう。もちろん、その出発点はイエス・キリストの十字架の救いの恵みです。十字架を見上げ、みことばと祈りに励み、聖霊に励まされて前進しましょう。

●2023年8月20日(日)礼拝メッセージ要旨 

本日からヤコブの手紙に入ります。このヤコブは、主の兄弟ヤコブ(マタイ13:55、ガラテヤ1:19)でしょう。彼は最初、この地上では兄であるイエス・キリストを積極的に支持していませんでしたが、後に、エルサレム教会の指導者となりました。ヤコブ1:1~12からポイント3つ上げていきます。

1.試練と忍耐…2節ではいきなり「試練に会うときには、それをこの上ない喜びと思いなさい」と驚くべきことが語られます。イエス・キリストもマタイ5:11~12で、「キリストのゆえに迫害や悪口を言われたときは喜び踊りなさい」と言われています。しかし、私たちは実際の生活の中で、迫害や悪口、または様々な試練のときに喜び踊るでしょうか。もし、そういう人がいたら、却って精神状態を心配されてしまいそうです。そこまでしなくても、受け止め方、考え方をしっかり持つということなら出来るでしょう。今、高校野球甲子園大会が佳境に入っています。3回戦で大阪の履正社高校に勝利した仙台育英高校は、一時2対2の同点のあと一回に3つのエラーを記録し、1点を取られリードを許しました。そのとき須江監督は、「3つもエラーしたのに1点しか取られなかった。神様は自分たちを勝たせようとしている」と言って、選手たちを鼓舞しました。たとい問題が起きても、いつでもプラス思考で行くことは良いことです。それは、聖書が私たちに教えています。すなわちローマ8:28には「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。全てのことが益となるのです。信仰がためされると忍耐が生じます。その忍耐を完全に働かせるためにも、マイナスもプラスになるというプラス思考で行きましょう。

2.信じて願いなさい…5節では「知恵の欠けた人は神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」とあります。この場合の「知恵」とは学校の成績が良いとか、IQが高いとか、そういうことではないでしょう。霊的、信仰的な意味での「知恵」です。創世記に出てくるヨセフは兄たちに憎まれて、エジプトに奴隷として売られてしまいました。ヨセフは神の知恵に恵まれ、主が彼と共にいたので、何をしても成功しました。しかし、あることで濡れ衣を着せられ、監獄に入れられてしまいます。その同じ監獄にパロ王の調理官長と検酌官長が入れられてきました。彼らは共に夢を見て、ヨセフがそれを解き明かし、その通りになったのです。そののちパロ王が夢を見て、その解き明かしを求めていました。そのとき検酌官長がヨセフのことを思い出し、ヨセフはパロ王の前に立ちます。そしてパロ王が見た夢を解き明かし、その対応策も提言します。するとパロ王はヨセフの能力を見抜き、いきなりエジプト第二位の地位に着けます。監獄にいたヨセフは一気に総理大臣になってしまいました。だから、神のくださる知恵はすごいのです。私たちは、この知恵を疑わず信じて願い求めましょう。

3.草の花のように過ぎ去る… 9節の「貧しい境遇にある兄弟は自分の高い身分を誇れ」とはどういう意味でしょうか。キリストを信じてクリスチャンとなると、神の子とされます。第一ペテロ2:9には「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」とあり、確かに「王である祭司」ですから高い地位と言えます。一方、10節の「富んでいる人は自分が低くされることに誇りを持て」とはどういうことでしょう。もし、その人が富んでいる人であるなら、やはり、誇る気持ちも湧いてくるでしょう。でも、クリスチャンとなって永遠のいのちを受けるならば、富んでいるということなどは、一瞬で消えてゆく霧のようなものに過ぎないということを悟るのです。人の栄えは草の花のようです。花は一瞬にして枯れてしまいます。だから、私たちは、「永遠」に目を留めましょう。ヨハネ17:3でキリストは「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」と言われました。

●2023年8月13日(日)礼拝メッセージ要旨

ヘブル人13:14~25から「賛美のいけにえを絶えずささげよう」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.賛美のいけにえを絶えずささげよう…14節には「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ、後に来ようとしている都を求めているのです。」とあります。確かに、キリスト者はこの地上的なものよりも天の都を求めて生きるべきです。ただ、そうかと言って、この地上のことをおろそかにしてよいということはありません。やはり、それなりに生活基盤をしっかり確保し、証しのためにもなるべく良い生活をしたほうがよいでしょう。しかし、この地上は一時的に滞在する通過点に過ぎないのですから、最終到達点である天の都にしっかりと目を向けながら、この地上での生活を過ごしていきましょう。そこで、15節では「賛美のいけにえを絶えずささげる」ということです。人をのろう言葉などは口にすべきではありません。それよりも主を賛美しましょう。主はそれを喜ばれ、その人を祝福されるでしょう。16節では、「持ち物を人に分け与えること」も主が喜ばれるでしょう。当教会では、しばしば美味しい野菜や飲み物、その他色々なものの提供があります。主はそのことも喜ばれ、提供した方々に祝福を与えてくださるでしょう。17節では「指導者に従順に従うこと」を勧めています。もちろん、その指導者が聖書のみことばに立っていることが大前提です。第一サムエル記3章で、少年サムエルは祭司エリに従順に仕えていました。やがてサムエルは成長し、イスラエルの霊的指導者となっていきました。

2.私たちのために祈ってください…キリスト者には「祈り」という素晴らしい方法が与えられています。昨日は合同早天祈祷会が行われました。月に一度ですが、皆で共に祈るということは大きな恵みの時です。9月も行なわれます。この機会に共に参加して祈りましょう。祈りはきかれます。今、台風7号が日本列島に接近中です。勢力が弱まり、被害が及ばないように祈りましょう。どんなことでも祈りましょう。ヘブル11:6には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」とあります。私たちが信じる真の神様は、最善を成してくださいます。また、たといピンチの場面であっても、どんでん返しの奇跡を行なうことが出来るお方です。そのように信じて祈る者を主は喜んでくださるのです。

3.永遠の契約による羊の大牧者… 「契約」という言葉に注目しましょう。例えば、土地建物を購入しようとするときは売買契約が結ばれます。また、建物を借りるときは賃貸借契約が結ばれます。契約のとき、書類と契約金が必要です。それは、この世のしきたりですが、イエス・キリストの父なる神様との永遠の契約を結ぶときは、書類は「聖書」のみことばです。そして契約金はいかほどになるでしょうか。詩篇49:8には「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」と書いてあります。罪の赦しを受けるにはどんなに莫大なお金を出しても間に合いません。それは「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない(ヘブル9:22)」からです。聖なる神の御ひとり子イエス・キリストが十字架に架けられて流された尊い血が、罪の赦しをもたらし、それがたましいの贖い代となるのです。難しいことは不要です。イエス・キリストの名を呼び求めることです。そして、バプテスマを受けて、神の民の一員に加えられ、神のみこころを行なっていくのです。

●2023年8月6日(日)礼拝メッセージ要旨 

ヘブル人13:1~13から「キリストはいつまでも同じです」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.あなたを捨てない…「兄弟愛、旅人をもてなす。牢につながれている人を思い遣る。結婚が尊ばれるようにする。金銭を愛する生活をしない。」といったことが書かれていて、そのあとで、申命記31:6から「主はあなたを見放さす、見捨てない」、詩篇118:6から「主は私の見方、私は恐れない。人は、私になにができよう」と言っています。クリスチャンとして、この世の中で生きていくとき、色々な戦いがあり、心揺さぶられることもあります。でも、主はご自分の聖徒を特別に扱ってくださり、祈りに答えてくださいます(詩篇4:3参照)。また、エレミヤ33:3には「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」とあります。毎日の生活の中で、小さなことでも何でもはばかることなく主に向かって祈りをささげましょう。

2.キリストはいつまでも同じです…7節には、「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」とあります。人の命は、創造主なる神が握っておられ、その人が、神を恐れ、神と人とを愛して生きるならば、神はその人に良い報いをお与えになるでしょう。逆に、神を恐れることなく、人を人とも思わないで生きるならば、神はその行ないに応じた報いをされるでしょう。ガラテヤ6:7には「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とある通りです。イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも同じであり、神の法則は不変です。イサクの双子の息子たちはエサウとヤコブです。兄のエサウは世俗的な生き方をした人です。一方、ヤコブは兄に比べて創造主なる神と霊的なものを求めて生きた人です。ヤコブは後のイスラエルであり、今日のイスラエル人の祖先です。エサウの子孫はエドム人です。キリスト降誕時のユダヤの王はヘロデ大王です。彼はエドム人で、神を恐れることなく世俗的な人でした。オバデヤ書18節の後半には「~エサウの家には生き残る者がいなくなる、と【主】は告げられた。」とあり、今日エドム人もヘロデの子孫も消滅してしまいました。

3.キリストのはずかしめを身に負って… 11節には「動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。」とあります。そのことは、出エジプト記29:13~14に記されています。そのことと関連付けて、キリストが十字架で死なれたとき、ゴルゴダの丘で苦しみを受けられたように、私たちも、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか、と勧めています。要するに、私たちが、この世において、キリスト者として生きて行くとき、聖い生き方が求められ、時に、この世の人々とは行動を共にすることが出来ないことがあります。例えば、今はこれからお盆のシーズンを迎えます。お盆の行事は、地獄に行った死者の霊が一時的に帰ってくると言われ、その死者の霊を供物や盆踊りで慰めようとするものです(但し諸説あり)。聖書では、死者の霊が地上に帰るということはありえないので、当然、クリスチャンが盆の諸行事に参加するということは愚かなことです。たいてい、この世の諸行事は、偶像礼拝と不品行が伴うものです。ローマ12:2には「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。

●2023年7月30日(日)礼拝メッセージ要旨 

ヘブル人12:14~29から「天の大祝会」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.聖められることを追い求めなさい…14節には「すべての人との平和を追い求めなさい」ということと「聖められることを追い求めなさい」ということの二つのことを勧めています。ここから、キリストの山上の垂訓を思い起こします。マタイ5:8~9には「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」となっています。聖さを求めることは聖なる神に近づき、平和を求めることは神に喜ばれるのではないでしょうか。とは言うものの、新約聖書中、13書簡の手紙を書いているパウロはローマ7:19で「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」と言い、さらに「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と言っています。そして、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7:25a)」と結論づけています。イエス・キリストの十字架の血によって聖められるのです。但し、このヘブル12:15~17では、せっかく神の恵みに与った人が、そこから落ちることがないように警告しています。創世記25章で、エサウが一杯の食物と引き換えに長子の権利を弟ヤコブに売り渡したことを取り上げています。私たちは、その神の恵みから落ちないためにはどうしたらよいのでしょうか。その答えは意外と単純かもしれません。神の恵みの中に止まり続けることです。先日7月28日(金)に行なわれたGO TOミッションでバイオリン&ピアノの演奏をした「B→Z」というデュオの名前の由来は、Bは「バッハ」、Zは「ざわめき」なのだそうです。一見、バッハと「ざわめき」は結び付かないように思えます。特にピアノを担当した冷水乃栄流さんは「ざわめき」が大好きな御父母の影響で「ざわめき」を聞いて育ち、やがて東京芸術大学を卒業し、現在、あちらこちらで用いられ、今も「ざわめき」ファンなのだそうです。それは、音楽という一つのツールを通して神の恵みを受けてきたということなのでしょう。つまり、何にしても、神の恵みの中に自分を置き続けるということです。

2.私は恐れて震える…ヘブル12:18~21で語られている場面は、モーセが神から十戒を授けられる直前のシナイ山の恐ろしい様子です。一方で神のみことばが授けられようとしていて、もう一方では、その神の恐ろしさにモーセでさえも震えているのです。ルカ21:26には「人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。」とあり、マタイ24:35には「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」とあります。たぶん、それは、そんなに遠くない時期になるでしょう。近い将来、天地が滅び去るときが、すなわち地球と天体が滅び去るときが来るでしょう。そのとき、イエス・キリストと、そのみことばに信頼する者は恐れることはありません。救いの時となるでしょう。

3.天の大祝会… ヘブル12:22には「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。」とあります。天の大祝会はどのようなものになるでしょう。ちょっと想像できませんが、私たちは、その大祝会に近づいているのです。そしてヘブル12:28には「こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。」とあります。いつか滅びてしまう地球や天体ではなく、揺り動かされることのない天の御国が約束されているのですから、キリストのからだなる教会を建て上げるために、互いに与えられた賜物をもって仕え合って行こうではありませんか。

●2023年7月23日(日)礼拝メッセージ要旨 

ヘブル人12:1~13から「イエスから目を離さない」という題で、ポイント4つ上げていきます。

1.多くの証人たち…証人たちというのは、ヘブル11章に出てくるアベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブなどの信仰によって歩んだ人々です。彼らは、神は生きておられるという証しを立てていました。私たちが、創造主である真の神様、そして救い主イエス・キリストを素直に信じているとすれば、それは聖霊の働きによるものであり、奇跡的なことでもあります。第一コリント1:21には「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」とあります。私たちは、神のことばと、その神に従った信仰の証人たちを覚えて、主にある信仰の道を進んで行こうではありませんか。

2.イエスから目を離さない…ヘブル2:10には「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」とあります。この世においては、権力者が頂点にたち、下にいる人々を従えて、権力をふるいます。しかし、イエス・キリストは仕えられるためではなく、かえって仕えるために来たのであり、また、多くの人の贖いの代価としてご自分のいのちをお与えになったのです(マタイ20:28より)。この世では権力者を偉大な人と呼びますが、聖書では、本当の意味で偉大な人とは仕える人です。謙遜に神と人とに仕える人こそ偉大な人です。その最高の模範がイエス・キリストです。このイエス様から目を離さないで歩みましょう。

3.試練→訓練…私たち人間は、この世で生きている限り、嬉しいこと楽しいこともありますが、時に、試練の時もあります。誰であれ、試練に遭遇したくはありませんし、主の祈りにおいても「我らを試みにあわせず悪より救いいだしたまえ」と祈ります。それでも、試練のときは、「訓練と思って耐え忍びなさい(7節)」と言っています。結果を出している一流のスポーツ選手は、選手生活に集中し、自己鍛錬と休息をしっかり確保することを大事にしているようです。私たちも肉体の鍛練(エクササイズなど)もいくらかは有益でしょうが、霊的な鍛練をさせていただき、その結果、平安な義の実を結ばせていただきましょう。

4.まっすぐな道を作りなさい…12節には「弱った手と膝をまっすぐにしなさい」とあり、13節では「まっすぐな道を作りなさい」とあります。12節は、イザヤ35:3~4を見ますと答えがあります。それは、「恐れるな。全能の神が救ってくださる」ということです。13節は箴言4:26~27を見ますと、「悪の道を遠ざけて進む」ということです。無数とも言える罪の誘惑があります。それらを遠ざけるには、礼拝、聖書のみことば、祈り、証しの生活をさらに充実させることです。