●2025年7月27日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記32:1~32からです。「ヤコブとエサウの再会へ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ここは神の陣営だ」…これまでヤコブは、ベエル・シェバからハランに行く途中のベテルで、石の枕をして寝ている時に、夢で天から地に向けて立てられたはしごを上り下りしている主の使いを見ます。そして、ハランからヨルダン川東岸あたりに来て、今度は夢ではなく、現実的に複数の主の使いを見ます。それでヤコブは「ここは神の陣営だ」と言い、そのところをマハナイムと呼びます。ベテルの時は、未知のハランに行くと言う不安があったでしょう。マハナイムでは、双子の兄であるエサウに再会することへの大きな不安があったでしょう。Ⅱ列王記6章で預言者エリシャがいる町をアラムの軍隊が包囲したとき、エリシャの回りに天からの火の馬と戦車が取り巻き、守っていました。イザヤ41:10には「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」とありますが、主はヤコブに対して、度々御自身を現わし、「恐れるな。わたしが共にいる。あなたを守る。」と、そうヤコブに宣言しておられるのではないでしょうか。それは、今日、クリスチャンに対しても同じです。イエス・キリストの御名によって、「恐れるな。わたしが共にいる。あなたを守る。」と、主が言っておられるのです。

2.「ヤコブは非常に恐れ」…ヤコブはセイルの地、エドムの野にいるエサウに使いを贈り、ご機嫌伺いとも言える伝言を委ねます。すると、その使いが戻ってきて「エサウは400人を引き連れてやって来る」と言います。それを聞いてヤコブは非常に恐れ、心配します。それで、宿営を二つに分けたり、エサウへの贈りものを選んだり、群れと群れの間を開けたりとあらん限りの工作を施します。ここを読んで私たちは、ヤコブはなんという臆病者か、また人間的な工作ばかりを施すのか、エサウに対してもなんて卑屈で、へつらっているのか、と思うのではないでしょうか。確かにそういう一面も否定できません。しかし、次章の33:4でヤコブとエサウは再会を果たし、互いに抱擁し合い、万感こみ上げたのでしょう。互いに泣いているのです。結果を見ると、「これで良かったのでは」とも言えます。ローマ12:2には「 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。自分以外の回りを変えようとするよりも、まず大事なことは、神のみこころを求め、そこに自分を合わせていくことです。

3.「私を祝福してくださらなければ」…ヤコブはヤボクの渡しを渡ってから、一人だけあとに残り、ある人(神の人?)と格闘しました。その人はヤコブに勝てないので、ヤコブのもものつがいを打ちます。その人は「わたしを去らせよ」と言いますが、ヤコブは「私を祝福してくださらなければ去らせません」と言います。すると、その人はヤコブの名を聞き、「あなたはもうヤコブと呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い勝ったからだ」と言われ、ヤコブを祝福します。この箇所から、今日のクリスチャンが神の祝福を勝ち取るために格闘しながら夜を徹して祈る、その雛型として捉えるとするとすれば、それも間違いとは言えないでしょう。否、むしろ、私たちもヤコブに倣い、祝福を求めて切に神に祈り求めるべきです。人と人との関係においては、ぎとぎと、ねちねちしていたら、嫌がられるでしょう。しかし、全能の主は、あっさり、サッパリよりも、執拗に、熱心に求める人を喜ばれるのです。

●2025年7月20日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記31:1~55からです。「ヤコブ故郷へ向かう」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ヤコブと妻たちはカナンへ向かう」…元々、ヤコブは故郷カナンで、その地を受け継ぐという前提のもとに、ハランの地に来ていました。ヤコブはハランで20年間を過ごし、前章(30章)でラバンに「故郷に帰らせてください」と言っています。それに加え、ラバンの息子たちが「ヤコブは父ラバンの物をみな取った」と言っているのを耳にしました。さらにラバンもヤコブに対しての態度が以前のようではありません。そして、決定的なことは、3節で、主がヤコブに「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる」と言われました。筆者は、1983年11月に結婚と同時に愛知県から仙台に来ました。最初は福住町、次に福田町、そして蒲生、一時福室、次に新田、そして今、教会は燕沢です。筆者の場合は、ヤコブとは違い、愛知県に帰るという選択肢はありません。現在の本籍地は蒲生四丁目です。この地上における本籍地も大事ですが、もっと大事な本籍地があります。ピリピ3:20には「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」とあります。さて、ヤコブは、主が命じられた通り、妻たちの理解を得て、カナンの地に向かいます。

2.「ラバンが追いかけて来た」…ヤコブ一行がハランを出て三日目に、ラバンはそのことを知ることになります。彼は身内の者たちを伴いヤコブを追いかけます。そして七日目、ヤコブが出発して10日目にギルアデの山地で一行に追いつきます。ラバンとしてはカンカンになってヤコブを追いかけたと思われます。しかし、追い着く前夜になって、全能の主が夢でラバンに現われ「あなたはヤコブと事の善悪を論じないように気を付けなさい。」と言われます。もし、ラバンに神が介入されなかったら、ヤコブとラバンは大げんかになっていたかもしれません。そうでなくても二人はそれなりの言い合いになっているのですから。ここで、ラバンはラケルがこっそり持ち出したテラフィムについて「なぜ私の神々を盗んだのか」と言っています。結局、ラケルが隠し通して、この件については不問とされますが、今日、偶像礼拝から一線を引くクリスチャンにとっては、なぜラケルはそんな忌み嫌うべきものを持ち出したのか?と思うことでしょう。確かなことは不明ですが、唯一の金目の物だったからなのかもしれません。出エジプト記20:4~6には偶像礼拝する者は全能の主を憎む者とされ、咎の報いを受けなくてはなりません。しかし、偶像を捨てる者は千代の恵みが施されます。

3.「契約を結ぶ」…ラバンはヤコブに対して、娘たちに別れの挨拶をさせてもらえなかったことなどを語り、テラフィムのことを取り上げます。ヤコブ一行の中にはそのテラフィムが見つからないということで、ヤコブも言い返し、これまで誠実にラバンに仕えてきたことなどを訴えます。しかし、ラバンもヤコブの持ち物は全て自分から出たものである、とヤコブの弁を一蹴します。続けて、ラバンは「さあ、契約を結ぼう」と言います。ヤコブもすぐに反応し、自分の一族に石を集めさせ、石塚を作ります。そしてガルエデ(あかしの塚)と名付けます。また、それはミツパ(見張りをする)とも呼ばれます。今日、この世は、様々な契約や約束の上に成り立っていると言えるでしょう。その中で、クリスチャンにとって最も大事な契約はイエス・キリストによる新しい契約です。キリストは最後の晩餐のとき弟子たちに向かって「この杯は、あなた方のために流される新しい契約です。(ルカ22:20)」と言われました。全ての人は聖なる神の前に罪人です。やがて、神の前に出て審判を受けなくてはなりません。しかし、イエス・キリストが十字架で御血を流し、私たちの罪をその身に負ってくださいました。このキリストが示してくださった新しい契約を受け入れた者は罪赦され、神の子とされ、永遠のいのちに入るのです。

●2025年7月13日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記30:1~43からです。この章はラケルとレアが、夫のヤコブの子が生まれることを巡っての競い合いと、ヤコブが自分の故郷に帰りたい旨をラバンに伝え、その後の展開が記されています。ポイント3つ上げていきます。

1.「姉を嫉妬したラケル」…姉のレアに4人の男子が生まれ、主を称えている様子に、面白くないのは妹のラケルです。元々、ヤコブが結婚したかったのはラケルです。そこでラケルは彼女の女奴隷のビルハをヤコブに妻として与え、ダンとナフタリが生まれます。それでラケルは一定の満足感を得ます。すると今度はレアが面白くありません。レアも自分の女奴隷ジルパをヤコブに妻として与え、ガドとアシェルが生まれ、それを喜びます。そして、レアの長男ルベンが野で恋なすびをレアのところに持って来ると、ラケルがそれを譲ってくれと言います。レアは拒否するものの、ラケルが恋なすびと引き換えに「今夜、あの人があなたと寝ればいいでしょう」と言います。それで、レアはイッサカルとゼブルン、さらに女の子のディナが生まれます。ここで、第一のポイントをまとめます。聖書は、事実をありのまま忖度なしに記しています。もちろん、四人の妻を持つことを肯定しているのではありません。むしろ、家庭内に嫉妬や対抗心、そのほか複雑な感情が入り乱れることでしょう。それでも、そこに神のあわれみがあり、後のイスラエル12部族が完成されようとしています。

2.「神はラケルを覚えておられた」…この時点で、ヤコブの四人の妻うち、三人のレア、ビルハ、ジルパが合わせて10人の男子と一人の女子が生まれています。ラケルだけは子が生まれていません。しかし、神はラケルを覚えておられ、彼女の願いを聞き入れて、ヨセフが生まれます。その後、創世記35:18でラケルはベニヤミンを産んだときに死んでしまいます。さらにその後のことですが、ヤコブはヨセフを溺愛するので、兄たちはヨセフを憎みます。ヨセフもまだ少年で、自分が崇められるというような夢をみて、そのまま兄たちに話し、さらに憎しみを増幅させます。そのためヨセフは兄たちによって、エジプトへ向かう隊商に奴隷として売られます。しかし、この創世記の終盤では、ヨセフはエジプトで総理大臣のような立場に就き、創世記の最後はヨセフの死をもって幕を閉じます。そして、時代が進み、ダビデ王、ソロモン王時代のあと、イスラエルは国が南北に分裂します。本家本元のダビデ王家が属するユダ部族とベニヤミン部族の二部族の南ユダ王国と、その他10部族で成る北イスラエル王国です。愛されなかったレアには男子6人と女子1人が生まれ、子が生まれなかったラケルにもようやくヨセフが生まれ、ヨセフはこの世的には大成功者となります。その一方で、神はベニヤミンを覚えておられ、ダビデ王家が出るレアから生まれたユダのユダ族と連帯を組むのは、ラケルから生まれたベニヤミンのベニヤミン族です。詩篇103:8には「【主】は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」とあります。主の深い見計らいを感じます。

3.「私の故郷の地へ帰らせてください」…ラケルにヨセフが生まれたとき、ヤコブとしては次のステージに進む足場が整ったような感覚になったのかと思われます。義父ラバンに「私を故郷の地へ帰らせてください」と言います。ラバンは、ヤコブが来てから、自分の家畜が格段に増え、ヤコブのゆえに祝福を受けたことを知っていました。ですから、ヤコブの申し出を聞いて複雑な思いがしたことでしょう。ラバンはヤコブに「報酬を支払うので言ってくれ」と言います。ヤコブは、後々明確にさせるため、山羊の中でぶち毛とまだら毛のもの全部、羊の中で黒色のもの全部を報酬として求めます。そしてヤコブは、自分の群が強くて増えるような工作を施し、結果的に彼は大いに富み、男女の奴隷、およびラクダとロバを持つようになりました。もちろん、ヤコブはアブラハムの祝福をイサク経由で受けていますから、何をしても栄えたことでしょう。ガラテヤ3:7には「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。」とあります。今日、イエス・キリストを信じるクリスチャンはアブラハムの祝福を受けています。信仰の人として信仰の告白をもって歩んでまいりましょう。  

●2025年7月6日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記29:1~35からです。いよいよヤコブがハランに到着し、ラケルに、そしてラバンに出会い、結婚もします。「ヤコブとラバンの娘たち」という題で、ポイント3つ上げます。

1.「神の不思議(摂理)」…ベエル・シェバからハランまで地図上の直線距離は約700kmです。仮に1日の移動距離が70kmとすれば、徒歩で10日ほどは要するでしょう。ヤコブはハランの井戸の側にいると、そこへラバンの娘ラケルが羊の群れを連れてやってきました。この場面は、アブラハムがその僕を遣わしたとき、やはり井戸の側で待っていると、そこにリベカがやってきたことと重なります。遠くから来て、井戸の側で佇んでいると、そこにいきなり当事者が来るのですから、正に神の不思議であり、神の摂理とも言えます。先月6月には、筆者の自宅に二組の方々に宿泊していただきました。現在の自宅建物が出来て今年で10年目になりますが、以前一度音楽アーティストの方に泊まっていただいたくらいで、ひと月の間(10日の間隔で)に二組、しかもその二組共、筆者の母教会のメンバーだった方々です。神の不思議を思います。さて、ラケルに会ったヤコブは声を上げて泣き、自分がリベカの子であることをラケルに告げると、すぐラバンが来て、ヤコブを家に迎え入れます。ルカ12:6には「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。」とあります。マタイ10:29では「二羽1アサリオン」です。つまり、五羽の場合は一羽おまけということのようです。そんな一羽の雀さえも全能の主の前に忘れられてはいないのです。

2.「朝になってみるとレアだった」…ラケルと結婚し、祝宴の翌朝、なんと隣にいたのはラケルではなく、姉のレアでした。ヤコブはラバンに抗議すると、「我々のところでは長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしない」と返ってきました。そしてラバンは「婚礼の週を過ごせば、あの娘もあなたにあげよう。その代わり、あなたはもう七年間私に仕えなければならない」と付け加えます。ヤコブはまんまとラバンの計略にはまってしまいました。と同時にヤコブは、かつて兄エサウに変装してイサクからの長子の特権の祝福を横取りしたことを思い出したのではないでしょうか。ガラテヤ6:7には「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とあります。良い種を蒔けば良い実を収穫し、悪い種を蒔けば悪い実を収穫するでしょう。またローマ12:17には「 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」とあります。誰かを憎んだり恨んだり、仕返ししたりされたりするような肉的な世界観から抜け出し、どこまでも善に生きる者であり続けたいと思います。

3.「ルベン、シメオン、レビ、ユダ」…そののちヤコブは、結果的に四人の妻を持つことになります。まずレアからルベン、シメオン、レビ、ユダが生まれます。次にラケルの女奴隷ビルハからダン、ナフタリ。そして次にレアの女奴隷ジルパからガド、アシェル。再びレアからイッサカル、ゼブルン。ラケルからヨセフ、ベニヤミン、計12人の息子が生まれ、後のイスラエル12部族となります。また、創世記を最後まで読むと、この中ではラケルの子ヨセフが奴隷として売られるものの、パロ王の前で夢を解き明かし、パロ王の次の位に一気に上り詰めます。しかし、聖書全体から見ると、ダビデ王とイエス・キリストの系図の祖先となったのはレアの子ユダです。エジプトでヨセフが「ベニヤミンを人質として置いていけ」と言ったとき、ユダは父ヤコブを悲しませないために、それを止め、自分が身代わりになると言いました。Ⅱコリント4:18には「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」とあります。私たちは、この世の見えるものに対して必要以上に執着せず、見えないもの、永遠に続くものにこそ目を留め続けていきましょう。

●2025年6月22日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記28:1~22からです。ヤコブがハランに旅立った記事です。「ここは天の門だ」という題でポイント三つ上げていきます。

1.「ヤコブはパダン・アラムのハランへ」…前回の27章で、母リベカの計略で、ヤコブはイサクからの長子の特権の祝福を兄エサウから横取りします。エサウとしては、ヤコブに対して恨みを持つことになります。そんな背景を察して、イサクはヤコブに対して、パダン・アラムのハランに行き、リベカの兄ラバンの娘たちの中から妻をめとるようにと告げます。それを知ったエサウは、カナン人の二人の妻の他にイシュマエルの娘マハラテをめとり、両親の目を自分に向けさせようとしたのでしょう。しかし、イサクからヤコブに継承された祝福は、もう動かしがたいものです。エサウはそれを受け入れられず、どこまでも引きずっているようです。ローマ12:3には「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあります。エサウが真に賢い人であるなら、サッと切り替えをして、ヤコブに対する恨みを捨て、むしろ弟を応援するでしょう。それならきっと、エサウの生涯は最高に輝いたのではないでしょうか。

2.「石の枕に天のはしご」…ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと向かいます。途中、あるところで陽が沈んだので野宿します。石の枕で寝ていると夢を見ました。天から地に向けて梯子(普通、梯子は下から上に立てられる)が立てられていて、神の使いたちが上り下りしています。ヤコブとしては、イサクから祝福を受け、今、正に、自分と全知全能の神様が繋がっているということを感じたことでしょう。この夢は昔のヤコブだけではなく、今日イエス・キリストにあるクリスチャンにとっても、通ずるところです。キリストはヨハネ10:9で「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」と言われました。イエス様は天国に入る門です。最近は、戦争、地震、地球温暖化現象、米騒動、パンデミック等々により、キリストの再臨が近づいているということをクリスチャンの多くが感じ始めています。YouTubeでも何人かの牧師さんたちが「空中携挙」のことを話題にしています。Ⅰテサロニケ4:16~17、マタイ24:40~42などには、キリストの空中再臨の時には、そこに二人がいると、一人が上げられ、一人が残される。そういう時が来るということが記されています。大事なことは、私たちは、私たちの罪をその身に負ってくださったイエス・キリストを信じ、このイエス様によって聖霊様を心に宿し、主と共に日々を歩んでいることです。

3.「ここは神の家、天の門だ」…ヤコブは、天のはしごの夢を見て「この場所はなんと恐れ多いことだろう。こここそ神の家に他ならない。ここは天の門だ。」と言い、そこをベテル(神の家)と呼びました。主は、夢の中でヤコブに、「わたしはアブラハム、イサクの神である。この地をあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫はちりのように多くなり、東西南北に広がる。地上の全ての民族はあなたとあなたの子孫によって祝福される。わたしはあなたと共にあり、あなたを守る。決してあなたを捨てない。(要約)」と言われました。ヤコブもそれに応答し、「神が私と共におられ、この旅路を守り、パンと着物を与え、無事に父の家に帰らせてくださるなら、全てあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。(要約)」と応答しています。主は、今日の私たちのためにもイエス・キリストを通して一方的に大きな恵みを示して下さっています。私たちも、その主に応答して、礼拝、みことばと祈り、そして主のみこころを行なっていきましょう。

2025年6月15日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記27:1~46からです。イサクが結果的に長男エサウではなく、弟ヤコブに長子の特権の祝福を与える記事です。「それぞれの思惑」という題でポイント三つ上げていきます。

1.「それぞれの思惑」…この章の登場人物は、イサク、リベカ、ヤコブ、エサウの四人です。この四人がそれぞれ何を思っていたかを見て行きましょう。まずイサクです。彼は、自分の死期が近づいていることを覚え、アブラハムから受けついだ長子の特権の祝福をエサウに授けようとしていました。それは、主の示しとか、何か深い意図に基づいているということでもなかったようです。次にリベカです。彼女は、エサウがめとった二人のヘテ人の嫁たちを嫌っていたようです。その理由もあって、どうしてもヤコブに長子の特権の祝福を受けさせたいと願っていました。次はヤコブです。彼は母リベカから、エサウに変装してイサクからの祝福を横取りするように言われます。しかし、さすがに一旦は断りましたが、母の強い要望により仕方なくそれに従います。最後にエサウです。彼は以前、ヤコブが料理した赤い煮物と引き換えに弟ヤコブに長子の特権を売り渡したはずです。しかし、そんな約束は無視し、父イサクに言われた通りに、長子の特権の祝福を受けようと猟に出かけます。第一ポイントのまとめです。「人の心には多くの計画がある。しかし【主】のはかりごとだけが成る。(箴言19:21)」

2.「四人はどうあるべきだったのか?」…詩篇37:23には「 人の歩みは【主】によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」とあります。過ぎ去った時間をやり直すことはできませんが、あえて、ここで、四人が主のみこころの道を進むとしたら、どうあるべきだったのかを考えてみましょう。まずイサクです。彼は、双子の兄弟エサウとヤコブ、この二人の内、どちらが祝福を受け継ぐべきか、主に伺い、求め、思慮深く結論を出すべきではなかったのではないでしょうか。今年6月15日は父の日です。エペソ6:4には「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」とあります。エサウとヤコブの父として、神のことば、主の教えによって教育すべきであったでしょう。リベカです。「祝福の横取り」などという不実な方法ではなく、堂々と、夫イサクに相談するとか、あとは主に委ねるべきではなかったのではないでしょうか。ヤコブです。母リベカの横取り作戦の片棒を担ぐのではなく、ここは、母を説得し、横取りを思いとどまらせ、「主のみこころなら、その祝福は私のところに来るでしょう。それを待ちましょう。」と言うべきでした。エサウです。彼が誠実な人物なら、「その祝福はかつて弟に売り渡しています」と父に言い、むしろ、兄として弟ヤコブに祝福を譲り、弟を応援するくらいの品格を見せても良かったでしょう。Ⅰサムエル記で出て来るダビデを支えたヨナタンのようであったら、と思います。

3.「祝福を軽んじたエサウ」…イサク、リベカ、ヤコブ、エサウの四人家族うち、エサウだけ何か違うところ、足りない何かを聖書読者は感じます。それは何でしょう。「長子の特権に関わる祝福に対する姿勢」または「全知全能の神に対する信仰」でしょう。エサウは、取ってきた獲物を料理してイサクの所に行って祝福を受けようとしたとき、イサクは弟ヤコブが祝福を横取りしたことに気づきます。エサウは「お父さん。祝福は一つしかないのですか」と嘆き、悲しみます。この箇所はマタイ25:1~13の花婿を出迎える10人の娘のうち、愚かな5人の娘たちを思い浮かべます。灯だけで、油を用意していなかった5人の愚かな娘たちは祝宴の会場に入れてもらえず、「ご主人様。開けてください。」と願うのですが、彼は「確かなところ、私はあなたがたを知りません」と言います。油とは、聖霊様のことと言えます。Ⅰテサロニケ5:19には「御霊を消してはなりません」とあります。私たちは、その御霊を消さないために、イエス・キリストがおられる教会に集まり、みことばと祈りに励みましょう。

●2025年6月8日(日)礼拝メッセージ要旨 

6月8日は2025年のペンテコステ記念日です。キリストの降誕、そして十字架と復活の救い、さらに、七週の祭り(五旬節)と関連するペンテコステの聖霊降臨は重要です。ということで、使徒の働き2:1~21から「五旬節の日になって」という題で、ポイント三つ上げていきます。

1.「五旬節の日になって…筆者が住んでいる家の西側は田んぼが広がっています。今年は、家のすぐそばの田んぼが麦畑になっています。今年のイースターの日である4月20日頃は、緑色でしたが、それから七週間後の現在は刈り入れを待つばかりとなっています。ちょうど、聖書の記事と時期が重なっています。旧約聖書のイスラエル人が守るべき年三度の祭りのうちの「七週の祭り」が影であるとするなら、その実像は、新約聖書の使徒の働き2章に記されている五旬節の聖霊降臨の出来事であると言えます。レビ記23:15~17には「あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を【主】にささげなければならない。あなたがたの住まいから、奉献物としてパン──【主】への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの──二個を持って来なければならない。」とあります。過越しの祭りには「種を入れないパン」が使われます。それは罪の無いイエス・キリストのみからだを表しています。しかし、七週の祭りはパン種の入ったパンなのです。あるメシアニックジュー(ユダヤ人クリスチャン)のYouTubeでの解説を聞いたところ、「パン種の入った二つのパンとはイスラエル人と異邦人を表わし、両者は聖霊によって共にキリストのからだに連なり一つにされる」ということを表わすとのことでした。

2.「それぞれの国の言語で」…キリストは、天に昇られる前に弟子たちに「エルサレムを離れないで父の約束を待ちなさい」と言われます。そのことばに従って集まっていた弟子たちに激しい風の音とともに聖霊が降臨したのです。その頃、過ぎ越しの祭り、そして続いて行われる七週の祭りのために、ユダヤ周辺の諸国から敬虔なユダヤ教徒たちがエルサレムに集まっていました。彼らは尋常ではない物音を聞いてキリストの弟子たちがいた場所に集まって来ました。すると、弟子たちは聖霊で満たされ、御霊が話させてくださるとおりに他国の言葉、すなわち集まって来ていた周辺諸国の国語で話しているのですから驚きました。しかし、中には「彼らはぶどう酒に酔っているのだ」と、あざける者たちもいました。そこでペテロが立ち上がり、福音を宣べ伝え、結果的にその日3000人がバプテスマを受け、弟子に加えられます。ところで、Ⅰコリント12章は、聖霊の賜物についての詳しい記事となっています。他国の言葉で話す異言もそのうちの一つの賜物です。但し、その12章3節には「聖霊によるのでなければ誰も『イエスは主です』と言うことはできない」とありますので、たとい、賜物らしきものが与えられていないと思う人でも、イエス・キリストを心から信じて、「イエスは主です」と告白できる人は聖霊を受けているのです。もちろん、そこで慢心していてはなりません。同章31節には「より優れた賜物を熱心に求めなさい」とあります。

3.「わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する」…ペテロは、集まった諸国から来た敬虔なユダヤ人たちに宣教のことばを語ったとき、最初にヨエル書2:28~32を引用して語り始めます。正に、使徒たちは、そのヨエル書の預言通りに聖霊充満され預言したのです。この出来事はAD30年頃のことです。それから2000年ほど経過した終わりの日に近い現在も、この預言は続いています。私たちも聖霊充満され、預言する、つまり、主から聖書のみことばを預かって人々に伝えるのです。「太陽は闇となり、月は血に変わる」、そのような時が近づいているのです。しかし、主の御名(救い主イエス・キリストの御名)を呼び求める者は皆救われます。自分自身はもちろん、回りの人々も、その救いに与ることを切に願い求めてまいりましょう。

●2025年6月1日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記26章17~35節からです。「レホボテと呼んだ」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「レホボテと呼んだ」…イサクは、地に種を蒔けば百倍の収穫があるし、何をしても栄えて非常に豊かになっていくので、ペリシテ人から妬まれ、アビメレク王からは「我々の所から出て行ってくれ」と言われ、ゲラルの谷間に天幕を張って住みます。しかし、そこでも二度にわたって井戸をふさがれます。それでイサクは三度目の正直ではありませんが、三度目の場所に移ります。そこでは争いがなく、そこをレホボテ(広い所)と呼びました。そしてイサクは「今や、主は私たちに広い所を与えて私たちがこの地で増えるようにしてくださった。」と言いました。2005年10月から2011年3月11日まで、私たちの教会は宮城野区蒲生にありました。近所に私たちに対して非常に協力的なOさんがいました。教会建物の東側に40坪ほどのOさん所有の土地があり、そこを畑として私たちに貸してくれました。あるとき広い駐車場を利用して屋外コンサートをすることになりました。Oさんは舞台設定まで協力してくれました。あいにく、雨が降って屋内でのコンサートになりましたが、Oさんらの協力で、満杯の人が集まりました。その後でしたか、詳しく覚えていませんが、Oさんを含めて教会の東側の方たちの家に下水が通っていないということで、教会の敷地を通過させて欲しいという話がありました。もちろん承諾し、関係者の方々には多少なりとも協力することができました。尤も、その後3.11大震災があって、協力できたのはわずかの期間でした。ローマ12:17~18です。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」

2.「主の御名によって祈った」…イサクは、そこからベエル・シェバに上りました。主は、その夜、彼に現われ、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」と言われました。それで、イサクは祭だんを築き、主の御名によって祈ります。要約すると、「①恐れるな。②主が共にある。」です。今日、イエス・キリストを信じる者には、その名はインマヌエルと呼ばれるイエス様、つまり聖霊様がともにおられます。イエス様はマタイ28:20で弟子たちに「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言われました。それはもちろん、今日のキリスト者にも言っておられるでしょう。来週はペンテコステ記念日です。クリスマス、イースター、ペンテコステ、この三つの祭典は、旧約時代の仮庵の祭り、過ぎ越しの祭り、七週の祭りと関連があり、どれも欠かすことはできません。ローマ10:13には「主の」御名を呼び求める者はだれでも救われる」とあります。私たちもイサクのように主の御名によって祈りましょう。すべては祈りから始まって行くのです。

3.「主が共におられることをはっきり見た」…そのころ、アビメレクが友人アフザテと、その将軍ピコルを伴い、イサクのところに来ました。イサクとしては、それまで散々、井戸のことなどで彼らに妨害されていますから、「今度は何しに来た?」という心境だったでしょう。しかし、彼らは、イサクとともに主が働かれていることをはっきりと見て、イサクを恐れ、平和条約を結びに来たのです。イサクは、あっさり彼らの願いを受け入れ、彼らのために宴会を催し、その翌朝に契約し、平和のうち散会します。その日、イサクのしもべたちが帰ってきて、井戸を掘りあてたという報告をします。そこでその井戸をシブア(誓い)と言い、その場所をベエル・シェバ(誓いの井戸、七つの井戸)と呼びます。そういった祝福に満ち満ちたイサクですが、息子のエサウがヘテ人の妻たち二人をめとり、イサクとリベカにとっては、彼女たちが悩みの種となります。いつの時代であっても、悩みの無い人などこの世にいないでしょう。だからこそ、私たちは、主により頼み、へりくだってお祈りするのです。「【主】を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ55:6~7)」

●2025年5月25日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記26章1~16節からです。「百倍の祝福を見た」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「あなたを祝福しよう」…イサクは飢饉に遭遇し、ゲラルの地、ペリシテ人の王アビメレクの所へ行きます。主がイサクに現われ「エジプトには下るな。わたしが示す地へいきなさい。あなたはこの地に滞在しなさい。わたしはあなたと共にいて、あなたを祝福しよう。(3節)」と言われたからでしょう。また「地の全ての国々はあなたの子孫によって祝福される。(4節)」と言われています。その通りに、イサクは祝福を受け、イサクの子孫イスラエル民族はあるときには苦難の道を通ってきたものの、他民族には見られない特別な祝福を受けてきたと言えるでしょう。そして、もう一つ肝心な事は、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫、及びダビデの子孫として世に来られたイエス・キリストの十字架と復活による救いを受けたキリスト者も大きな祝福を受けています。エペソ1:3には「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」とあります。この目に見える世界は目に見えないものによって創造されました。つまり、「全ての霊的祝福」とは、天と地における全ての祝福のことを言っています。キリスト者は受けた祝福を自分だけのものに留めるのではなく、この祝福を人々に分け与えていきましょう。

2.「あれは私の妹です」…イサクは父アブラハムと違い、妻リベカが不妊の女性であることを知って、彼女のために祈ると子が与えられました。また、主の導きの下ではありますが、エジプトに下ることはしませんでした。しかし、ここで、父アブラハムと全く同じ轍を踏みます。妻リベカがあまりに美人で、自分が妻のゆえに殺されるのではないかということを恐れて、「あれは私の妹です」と言ったのです。それを知ったアビメレク王は窓から外を見ているとイサクがリベカを愛撫しているのを見ました。そこで、イサクを呼び寄せ、イサクに「あの女はあなたの妻だ。民の一人があなたの妻と寝て、我々に罪を負わせるところだった。」と抗議します。普通なら、ここで、イサクに何らかの危害が及んでも不思議ではありませんが、アビメレクは「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。(11節)」と言って、却ってイサクとリベカを守ります。これは、第一のポイントで取り上げたように、主がイサクを祝福しているからでしょう。主がアビメレクに働き、彼にそう言わせているのでしょう。「知れ。【主】は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、【主】は聞いてくださる。(詩篇4:3)」

3.「百倍の収穫を見た」…イサクがその地に種を蒔くと、百倍の収穫を見ることになりました。13節には「こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。」とあります。箴言10:4には「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます。」とあり、その一方で同章10:22には「【主】の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」と言っています。確かに、勤勉で努力して富者になるという側面もありますが、誰でも努力すれば富者になるという保証はありません。やはり、最終的なカギを握っておられるのは全知全能の神の御手があるかないかということではないでしょうか。但し、それはともかく、箴言3:1~10には、もっと深い本当の祝福が記されています。そこには七つのことが記されています。①みことばに心を留める。そうすることによって長寿と平安がある。 ②恵みとまことに満ちておられるイエス・キリスト(ヨハネ1:14)から離れない。 ③神と人との前に好意と聡明を得よ。すなわち、神を愛し、隣人を愛する。(マタイ24:37~40) ④自分の悟りに頼らず、主により頼む。つまり祈る。 ⑤すべてのことに感謝し、どんな状況でも主に期待する。 ⑥悪から離れる。それが健康と元気のもとになる。 ⑦神の国とその義を第一にする。そうすれば満たされる。

●2025年5月18日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記25章19~34節からです。「ヤコブとエサウ」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「イサクとリベカの信仰」…イサクはリベカと結婚し、20年ほど経過するのですが、妻リベカが不妊の女性であるということを認識します。そこでイサクは妻のために主に祈願すると、主は彼の祈りに応えてくださり、リベカは身ごもります。イサクの父母はアブラハムとサラです。イサクには異母兄弟のイシュマエルの存在があります。イサクはそのあたりの経緯については父母から聞いて知っていたことでしょう。つまり、イサクは父母たちと同じ轍を踏まなかったということです。一方、子を身ごもったリベカですが、お腹の子たちが中でぶつかり合います。リベカは「こんなことで私はいったいどうなるでしょう」と言っています。たぶん、お腹の子の動きが通常と異なり、彼女としては不安だったと思われます。そこでリベカも主に祈ると、主は彼女に応えて「二つの国があなたの体内にあり~」と言われます。リベカとしては「なるほど、そういうことだったのか」と納得し、安心したことでしょう。イサクもリベカも「問題が起きたとき祈る」という最善の方法を選択したのではないでしょうか。

2.「ヤコブとエサウ」…時が満ち、リベカが出産します。最初に出てきた子は赤くて全身毛衣のようでエサウと名付けられました。弟の方は、兄の踵(かかと)をつかんで出てきたゆえにヤコブと名付けられます。ヤコブは、この後、主によってイスラエルと改名させられ、イスラエル人の祖先となります。エサウは「赤い」ということからエドムと呼ばれ、エドム人の祖先となります。オバデヤ書には、このエドム人のことが記され、イスラエルに敵対する国として、主からのさばきを宣告されています。ところで、父イサクは、エサウが巧みな猟師で、彼が仕留めて来る獲物を好んでいたのでエサウを愛していました。母リベカはヤコブを愛していました。人それぞれ好みというものがあり、一つの物事に対する感じ方も違うものです。自分と違うからと言って、無闇に相手を批判したり、見下げたりということは正しくありません。ローマ12:10には「 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」とあります。

3.「長子の権利」…ヤコブがレンズ豆の煮ものを煮ているときに、エサウが飢え疲れて帰ってきました。「その赤いのを食べさせてくれ」とヤコブに言うと、ヤコブは「長子の権利を私に売りなさい」と言います。エサウは煮物が欲しくて長子の権利を軽んじます。そのことがヘブル12:16で「また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」と表現されています。アブラハムからイサクに受け継がれ、イサクから受け継がれようとしている長子の権利とは、単に世の財産だけではなく、信仰的、霊的な祝福が伴うものです。ヤコブは、永遠につながる祝福に目を留めていたのです。その意味で、今日、私たちも、この世の物的な消えて無くなってしまうものにではなく、真に価値あるものに目を留め、そこに焦点を当てた生き方が求められているかと思います。ヤコブ(押しのける者)は、イスラエル(神は争われる、神の王子となる)になりました。このイスラエル人のユダ族の出であるダビデ王の子孫として世に現れたのが聖なる神の御ひとり子イエス・キリストです。この方の十字架の救いによって、信じる者は罪赦され、永遠のいのちを受け継ぐのです。ヨハネ1:12には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。イエス様を信じる信仰によって、ヤコブがイスラエル(神の王子)とされたように、神の子とされる特権が与えられるのです。