●2025年5月11日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記25章1~18節からです。「アブラハムの召天」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「ケトラの子孫」…アブラハムの妻サラは127才で亡くなりました。そのときアブラハムは137才です。そして彼の息子イサクがリベカと結婚したのは40才、アブラハムが140才のときです。たぶん、その頃、アブラハムはもう一人の妻ケトラをめとったのでしょう。ケトラはアブラハムに6人の息子を産みます。その中にミデヤンという人物がいます。この人物の名の付いたミデヤンの地はアラビア半島の西部にあります。ずっと後の時代になって、イスラエル人がエジプトで奴隷になっていたときに、モーセは40才の頃、エジプトを逃れ、ミデヤンの地に行きます。そしてミデヤンの祭司イテロの娘チッポラと結婚をします。80才になり、ミデヤンから再びエジプトに行き、イスラエルをエジプトの奴隷から解放するという働きに遣わされるのです。元をただせば、モーセもチッポラもアブラハムの子孫です。箴言19:21には「人の心には多くの計画がある。しかし【主】のはかりごとだけが成る。」とあります。私たちは、今、この世の人間中心社会の中にあります。人の判断で事が決められていくということです。しかし、その背後には、人の目には見えない全知全能の創造主である方がおられて、その主のはかりごとが成っていくのです。ですから、私たちは、この全知全能の主を覚え、この主のみこころを求め、みこころに従って歩みましょう。

2.「アブラハムの召天」…アブラハムは長寿を全うし、175年の生涯を終えます。このときイサク(75才)とイシュマエル(89才)が、父アブラハムの妻サラが葬られていたマクペラのほら穴に父を葬ります。この後、イシュマエルの生涯は137才で、イサクの生涯は180才です。イサクは穏やかな人で、主の祝福を受けました。今日、少子高齢化が加速し、介護施設などの需要が拡大している傾向にあります。その一方で、「健康寿命」と言われ、やはり誰でも、健康で元気で長生きをしたいものです。そのために、なるべく体を動かす。その人に合ったエクササイズなどが有効でしょう。その他、栄養、睡眠なども適切に確保したいものです。クリスチャンは基本的に日曜日の礼拝に集まりますから、この点、外の空気を吸い、礼拝はもちろん、教会で人との健全な関りもまた健康のためには効果的と思われます。本日(5月11日)は母の日です。十戒の第5戒は「あなたの父母を敬え」です。1~4戒は神との関係、5~10戒は人との関係です。つまり、人との関係の最初が「父母を敬え」です。父母がいなくても、身近な人から始まり、全ての人を尊重し、和合して暮らすということでしょう。出エジプト20:12には「あなたの父と母を敬え。あなたの神、【主】が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」と、意外ですが、むしろ、そこにこそ元気で長生きの秘訣があるようです。

3.「イシュマエルの子孫」…今日、イスラム教系のアラブ人が「自分はアブラハムの子孫である」と言うとき、アブラハムとハガルによって生まれたイシュマエルの子孫であるということを示しているようです。このイシュマエルの子孫は「それぞれ自分の全ての兄弟たちに敵対して住んだ(創世記25:18)」とあります。また、イシュマエルが母ハガルのお腹にいたとき創世記16:12で「彼は野生のロバのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」と預言されています。2023年10月7日にイスラム過激組織ハマスがイスラエルに対して大規模テロを実行しました。ハマスの目的はイスラエルの殲滅(せんめつ)です。元より、イスラエルと平和共存する気はありません。子どもらに学校教育で反イスラエル思想を植え付けています。しかし、イスラエルは周辺諸国と平和に共存することを願っています。人質奪還などのために止むを得ず反撃するのですが、一般の大手メディアは何故か反イスラエル(反ユダヤ主義)です。             

そういう中で、最近のある情報によりますと、ハマスの大規模テロ以後、イスラム教の岩のドーム(神殿の丘)に変化が起きているとのことです。これまで、ユダヤ人は、嘆きの壁と言われる所までしか行かなかったが、大規模テロ以来、イスラエル警察は治安維持という理由でイスラム教徒の立ち入りの人数制限するようになったとのこと。逆に、その神殿の丘にユダヤ人が立ち入り、祈りをささげることを警察が容認するようになったとのことです。また、それと併行して、その神殿の丘にユダヤ教の第三神殿を建てる計画が着々と進んでいるというのです。Ⅱテサロニケ2:3~4によりますと、主の日(再臨の日)が来る前に滅びの子(反キリスト)が現われ、彼が神の宮(第三神殿)に着座するのです。すなわち、今は正に終末時代に差し掛かっている時と言えます。イエス・キリストの再臨が刻々と近づいています。私たちは、「主の日」を覚えて、霊の目を覚まし、主を待ち望みつつ、日々、与えられた使命を果たしてまいりましょう。

●2025年5月4日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記24章の後半、33~67節からです。「主から出たことですから」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「このことは主から出たことですから」…アブラハムのしもべ(僕)は、アブラハムから主人の息子イサクの妻となる女性を探し出し、カナンの地にお連れするという特命を受け、主人の生まれ故郷を訪れました。彼は水汲み場で佇んでいて「水汲みに来た女性に自分が水を求めた時とき、水を与えてくれて、さらにラクダにも水を飲ませてくれたなら、その女性こそイサクの妻となる人でありますように。」とに祈ります。その祈りが終わらないうちに、なんとアブラハム兄弟ナホルの孫でもあるリベカが水汲み場に現われ、アブラハムのしもべが祈った通りのことが起きるのです。そして、しもべたち一行は家に招かれ、リベカの兄ラバンと父ベトエルらと食事を共にすることになりますが、しもべは自分の用向きを話さなければ食事をいただかない、と言います。すると「お話しください」と言われ、それまでの経緯を話し、最後に「私の主人に恵みとまことを施してくださるでしょうか。」つまり、「リベカをイサクの妻として連れて行くのは是か非か?」ということです。それを聞いていたラバンとベトエルは「このことはから出たことですから、私たちはあなたに良し悪しを言うことはできません。」と答えるのです。このアブラハムの僕とラバンたち両者との会話の中には全知全能のを第一にするという共通の価値観があります。偶像崇拝大国とも言える日本には、これがありません。使徒17:24~25でパウロは、哲学発祥の地アテネの人々に「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」と言いました。

2.「はい。まいります。」…アブラハムのしもべは、話が成立すると、リベカに銀や金の品物や衣装を与え、彼女の兄や母にも貴重な品々を贈ります。そして翌朝、しもべが帰ろうとすると、兄と母が「娘を10日間ほど留めておいてから行かせたい」と言います。しもべは「私が遅れないようにして下さい」と言います。彼らは「娘に聞いてみましょう」と言い、リベカに聞くと「はい。まいります。」とあっさり答えるのです。リベカもまた信仰の人で、神に従順に従う道を真っすぐに進もうとしていました。今日、私たちの信仰も、いつまでもどっちつかずではいけない。全知全能の主を信じ、主の道をまっすぐに進んで行きましょう。ラバンたちはリベカに対し、「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」と祝福します。この後、イサクとリベカによってヤコブが生まれ、イスラエル民族の祖先となります。また、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として世に来られたイエス。キリストの十字架と復活による救いが完成され、人類最大の敵である死の力が打ち破られるのです。

3.「イサクとリベカ」…リベカが彼女の乳母と侍女たちを伴い、アブラハムのしもべと共にカナンの地に帰ってくると、イサクが野に散歩していて、彼らの到着を迎えたのです。リベカがしもべに「あの人は誰ですか」と聞くと、しもべは「あの方が私の主人です。」と答えます。すると、リベカはベールを取って身をおおいます。今日、キリスト教式の結婚式では花嫁はウェディングベールを着用します。たぶん、この聖書の箇所が今日のウェディングベールの由来となっているのではないでしょうか。さて、イサクとリベカが今日行われるような結婚式を挙げたという記事はありませんが、何らかの形を取ったかもしれません。イサクとリベカ、そして、その回りの人々が全能の主の導きを求め、それに従ったゆえに、祝福された結婚に至ったと言えるでしょう。最後は申命記28:1です。「もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、【主】は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。」

●2025年4月27日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記24章はイサクが結婚する箇所です。長い章ですので2回に分け、今回は、その前半創世記24:1~32から、「イサクのために妻を迎えなさい」という題でポイント3つあげていきます。

1.「アブラハムと最年長のしもべ」…アブラハムは年を重ねているものの、あらゆる面で主の祝福を受けていました。Ⅲヨハネ2節には「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。この箇所は「三拍子の祝福」とも言われています。たましいの幸い、全ての面での幸い、そして健康です。でも、やはり一番は、たましいの幸いです。ただ、アブラハムにとって、気がかりだったのは息子イサクの妻が決まっていなかったことでしょう。そこで、一番信頼のおける最年長のしもべを立て、自分の生まれ故郷からイサクの妻となる女性を連れてくるようにという任務を託します。アブラハムはそのしもべの手を自分のももの下に入れさせ、その任務遂行のために誓いをさせています。それだけ切実だったということがうかがえます。旧約聖書では、「誓い」の場面が度々出てきます。しかし、新約聖書では「誓い」をすることは、マタイ5:34~37やヤコブ5:12などで肯定していません。もちろん、人生の中では、例えば「結婚の誓い」など、重いものもありますが、最も大切な誓いはイエス・キリストを信じる信仰を公に表わすバプテスマでしょう。「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。(Ⅰペテロ3:21b)」

2.「アラム・ナハライムのナホルの町へ」…アブラハムのしもべは、主人から貴重な品々を預かり、らくだ10頭を取って出かけました。たぶん、らくだの数と同じ10人くらいの従者たちも同行したのでしょう。アラム・ナハライムのナホルの町に着いて、夕暮れ時、水汲み場で、に「自分が水を求めたときに『どうぞお飲みください。らくだにも水を汲んであげましょう』と言ったなら、その人こそ、主人の息子のために定められた妻でありますように」と祈りました。その祈りが終わらないうちに、リベカが現われ、その祈った通りに導かれたのです。先月3月28日にミャンマーでマグニチュード7.7の大きな地震がありました。ミャンマー宣教師のI氏は、久々にミャンマーに行く予定でしたが、ちょうど出発10日前に、その大地震があったのです。しかしI氏は、「恐れていては何もできない。地震前から訪問すると決めていたし、こんな時だからこそ行く意味がある」と、ミャンマー行きを表明したところ、多額の支援金が集まったとのこと。そして、この4月7~18日までミャンマーに行くと、大変な現地の状況にもかかわらず、不思議と目的の地に行くことが出来、現地の牧師さんに義援金を渡し、「こんな大変なときによく来てくれた」と非常に喜ばれ、I氏も「本当に行って良かった」とのことでした。見えるところは困難でも、主の導きの中で行動するとき、そこには主の大きな祝福があります。

3.「リベカとラバン」…アブラハムのしもべが、リベカに金の飾り輪と腕輪を渡し、「あなたはどなたの娘さんですか。私どもが泊めていただく場所はありますか。」と聞くと、リベカはそれに答えてから、自分の家に知らせに行きます。すると、すぐにリベカの兄ラバンがやって来て、アブラハムのしもべたち一行を案内するのです。このラバンは、こののち、イサクとリベカが結婚してヤコブとエサウが生まれ、ヤコブとエサウが対立し、ヤコブがラバンの家に来て、ラバンの娘ラケルを愛し、結婚しますが、初夜の翌朝、気が付くと隣に寝ていたのはラケルの姉レアでした。それはラバンの仕業でした。ラバンは機転が利く反面、若干の狡猾さも垣間見えます。ヤコブ3:13には「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。」とあります。また17節には「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」とあります。上からの知恵である柔和、純真、平和、寛容、温順によって行動し、主の祝福のうちを歩んでまいりましょう。

●2025年4月20日(日)礼拝メッセージ要旨 

今年の復活祭(イースター)は4月20日です。AD325年にニカイア公会議が行われました。そのとき、有名な三位一体の定義付けがされ、そして、毎年の復活祭の日程が春分以後の満月後の日曜日と決められたようです。Ⅰコリント15:14には「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」とありますように、キリストが復活されたということが非常に大きな意味を持ちます。そのためにも、今日まで復活祭が行われてきました。また、復活祭は過ぎ越しの祭りと時期が重なります。過越しは、イエス・キリストの十字架の予表でもあり、キリストの復活は、十字架と一体にして受けとめられるべきものです。本日はマタイ28:1~20から、「主はよみがえられた」という題でポイント4つ上げていきます。

1.「主はよみがえられた」…安息日が終わり、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと他のマリヤが墓を見に来ました。すると大地震が起こり、主の使いが天から降りて来て、墓を塞いでいる石を脇へ転がし、その上に座りました。番兵たちは恐ろしさのあまり、死人のようになりました。現在エルサレムにはプロテスタント教会が管理している公園墓地(Garden tomb)内のキリストの墓を彷彿とさせる横穴があります。その内部には英語で「ここにはおられません。よみがえられたからです(He is not here; for He is risen)。と書かれたボードがあります。

2.「ガリラヤに行くように言いなさい」…主の使いに出会って、大喜びで弟子たちの所に向かった女たちにイエス様が現われ「おはよう」と言っています。英語の聖書では「Rejoice」、ギリシャ語聖書では「χαίρετε(カイレーテ)」、また、ヘブル語で書かれた(新約)聖書もあって、それには「שָׁלוֹם(シャローム)」となっています。主が単なる挨拶のことばを言われたのではなく、御自身が復活したのですから、「主にあって喜ぼう」という意味で声をかけられたのでしょう。さて、イエス様が復活した、生きておられる、ということは、「こうしてはおられない。次に何をすべきか。」ということになります。主の使いも、イエス様ご自身も、女たちに「ガリラヤに行くように弟子たちに言いなさい」と言われます。エルサレムはキリスト復活のことで、てんやわんやになるでしょう。ガリラヤならエルサレムから距離があり、元々そこはキリストと弟子たちが最初に活動した原点の場所です。

3.「番兵と祭司長たち」…主の復活で勝利の喜びを味わっている人たちがいる一方で、ずっこけている人たちがいます。墓の番をしていた兵士たちと祭司長たちです。元々、祭司長たちはキリストが復活するかもしれないということを察知していて、そのために総督ピラトに願って、兵士たちに墓の番をしてもらったのです。兵士たちも祭司長たちも「イエス・キリストが復活した」ということを動かしがたい事実として認識したはずです。しかし、愚かな彼らは、どこまでもそれを否定しようとします。祭司長たちは協議した上で、兵士たちに多額の金を与えて「自分(兵士)たちが寝ている間に弟子たちがキリストを盗んで行った」と言うようにと画策します。主は生きておられ、正しいさばきをなされます。私たちは、どこまでも誠実に真実に歩みましょう。

4.「いつもあなたがたと共にいます」…11人の弟子たちはガリラヤに行き、そこで復活されたキリストにお会いし、礼拝します。主は彼らに、「わたしは天においても地においても一切の権威を持っている。行って、あらゆる国の人々を弟子とし、バプテスマを授け、わたしが命じたことを彼らに教えなさい。(マタイ28:18~20より)」と言われます。そして「見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいます。」と言われます。私たちと共に主がいつも共におられる。そのためには、私たちが主の前にへりくだることです。「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:17)」

●2025年4月13日(日)礼拝メッセージ要旨

創世記23:1~20からです。「マクペラのほら穴」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「サラの一生は127年であった」…創世記6:3で主は「人の齢は120年にしよう」と言われています。また、詩篇90:10では「私たちの齢は70年。健やかであっても80年。」とあります。アブラハムの妻サラの一生は127年だったということですが、ノアの大洪水以前の最高齢者はメトシェラで969才です。創世記6~8章の大洪水のあと、地球環境が変化し、人間の寿命に大きな影響を与えるようになったと思われます。そのために、大洪水以後の人間の寿命が急激に短くなっています。昨今、日本人の平均寿命は世界的にも恵まれていて、男性81才くらい、女性が87才くらいです。世界最高齢者は現在日本人女性のようですが116才くらいです。ですから、人間の寿命に関しては、ほぼ聖書通りであると言えるでしょう。アブラハムの一生は創世記25:7で175才です。大洪水以前の長寿の余韻があって、そのためアブラハムもサラも長寿だったと思われます。さて、そのサラですが、ヘブル11:11で「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」と、その信仰姿勢が評価されています。ところが、そのサラの行状を顧みるとき、自分の女奴隷ハガルをいじめたり、ハガル親子を追い出すよう夫に告げたりしています。しかし、たといそうであっても、サラはアブラハムとともに神に選ばれた神の器であることに違いありません。今日、イエス・キリストによって選ばれ、救いを受けた私たちも、何も立派ではなく、不完全な者であることを自分自身が一番よく知っています。それでも、神の大きな恵みを受けているのです。

2.「マクペラのほら穴」…アブラハムは妻の死を悲しんでいたのですが、ふと、死体を葬るということに心を向けます。そこで、ヘテ人エフロンの所有の畑地とその端にあるマクペラの洞穴を取得します。死者本人にとって大事なことは、墓よりも、たましいの行き先です。聖なる神の前に悔い改め、イエス・キリストの十字架の救いを信じ受け入れて、永遠の天の御国に入る備えをしましょう。但し、死者本人の遺族は、遺体を葬らなければなりません。その意味では墓を何らかの形で確保する必要があります。さて、ここのところで、アブラハムが墓地確保の願いをヘテ人たちに申し出ると、彼らは「あなたは神の司です」と言って、快くその申し出を受け入れます。それだけ、アブラハムは異教の世界の中にあっても、神を証ししつつ、謙遜に人々と和合して暮らしていたのでしょう。当時のアブラハムと今日の日本のクリスチャンたちと重なるところがあるのではないでしょうか。アブラハムのように、私たちも、イエス・キリストの父なる神を証ししながらも、回りの人々と協調しながら暮らしていきたいと思います。

3.「銀400シェケルの土地」…土地の所有者エフロンは畑とそこにある洞穴を無償で譲ってくれると言っていますが、アブラハムとしては代価を払い、ヘテ人たちが見ている前で所有権移転が行われたことの確かな形を取っておくべきだと考えたのでしょう。「通り相場で銀400シェケル」とありますから、まあ、普通に誰もが納得する金額だったのでしょう。ところで、イスカリオテ・ユダはイエス様を裏切って、祭司長たちに銀貨30枚で売りました。しかし、彼はその後、後悔し、銀貨を神殿に投げ込んで自害しました。祭司長たちは、その金を神殿に納めるのは良くないということで、陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地としました。今週はイースターの前の受難週でもあります。詩篇49:7~8には「人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」とあります。聖なる神のひとり子イエス・キリストは、十字架の尊い御血によって、私たちの罪の贖いの代価を支払って下さったのです。確かに墓地も大事ですが、それよりもはるかに大事で、しかも永久にあきらめなくてはならないほど高価な、たましいの贖い代をイエス・キリストが十字架の救いによって支払って下さったのです。

●2025年4月6日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記22:1~24からです。「イサクをささげなさい」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「試練」…アブラハムは、妻サラとの間に待望の約束の子イサクが生まれ、その心は喜びに溢れていたことでしょう。そんなとき、主はアブラハムに試練を負わせます。「モリヤの山に行き、そこで一人子イサクをささげなさい」と言われるのです。アブラハムが信じる主なる神も、こんにち私たちが信じる主も全く同じ主です。その方は「まことに、【主】のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。(詩篇33:4)」と言われていて、主の為さることに誤りはありません。しかし、このアブラハムに対する試練については、誰もすんなり納得できるものではないのではありませんか。強いて言うなら、アブラハムの心の中に、全知全能の主よりもイサクへの思いのほうが上回っていたのかもしれません。たぶん、アブラハムもそのことを感じていたのか、主に対して何も抗議することなく、二人の若者を伴い、イサクを連れてモリヤに向かって行くのです。マタイ6:33には「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。何はともあれ、私たちも主を第一にして歩んでまいりましょう。

2.「主の山の上には備えがある」…ヘブル11:19には「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」と、アブラハムの心の内を記しています。このあたりが、アブラハムが信仰の人として評価されている所以でしょう。彼がイサクをほふろうとしたとき、主の使いがそれを止めました。すると、角を藪に引っ掛けている雄羊がいて、アブラハムはその雄羊を取って全焼のいけにえとして主にささげたのです。正に、主の山の上には備えがありました。2011年3月11日に発生した東日本大震災の直後から今日に至るまで、筆者にとっては「主の山の上の備え」を経験してきました。震災直後の小学校の避難所、その後の福室のアパート、新田の元喫茶店と青葉区の住居、そして、現在の教会と住宅です。その間には断られたりとか、購入できなかったりとかありましたが、今考えると、却って、あのとき断られて良かったというようなことが再三ありました。主が今日まで最善の備えをして下さったのです。

3.「あなたを大いに祝福し」…16節で、主の使いがアブラハムに主のみ告げとして「あなたはひとり子を惜しまなかったから、あなたの子孫は海辺の砂のように増え、敵の門を勝ち取り、地の全ての国々はあなたの子孫によって祝福を受けるようになる。(要約)」と言っています。こののち、アブラハムの子孫によってイスラエル民族が起こり、建国され、ダビデ、ソロモン時代には相当の権勢を現わしますが、それは一時的でした。そのことばが完全に成就することになったのは、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として世に来られた神のひとり子イエス・キリストの十字架と復活による救いが完成してからのことです。新約聖書の使徒の働きでは、当初、パウロはユダヤ教の熱心な信者としてキリスト者を迫害していました。そのキリスト者をひっ捕らえるためにエルサレムからダマスコに行く途上、聖霊なる主(イエス・キリスト)にお会いし自らがキリストの証人に任命されます。そして「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。(使徒26:18)」と言われます。正にパウロの世界宣教から始まり、こんにち、全ての国々の人々は、イエス・キリストの御名によって敵(悪魔)の門を勝ち取り、永遠のいのちの祝福を受けるのです。

●2025年3月30日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記21:1~34からです。「イサクが生まれる」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「仰せられたとおりに」…主がアブラハムに対して再三にわたって、アブラハムとサラの二人の間に子が生まれることを告げています。正に、そのとおりに、その子イサクが生まれました。主は言われたことを必ず成就されるお方です。ここで、今日の私たちに当てはめて考えてみましょう。例えば、イエス・キリストの「再臨」です。クリスチャンは再臨を信じています。信じてはいますが、さて、それを現実的に受けとめているかどうか、ということになりますと、「信じてはいるけれども、信じられないような気持ちも無くはない」という微妙な部分もあるのではないでしょうか。その点、アブラハムとサラにとっても、「百歳と90才の夫婦に子が生まれようか?」という思いをぬぐい切れないでいました。だから、二人とも笑って(創世記17:17、18:12)いました。ところが本当にイサクが生まれ、今度は別の意味での「笑い」が来たのです。21:6の新改訳2017年訳では「神は私に笑いをくださいました」となっています。つまり、神から来る喜びの笑いが来たのです。ローマ9:28には「主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」とあります。終わりのラッパとともに、主の再臨があり、空中携挙に与ったならば、そのとき、私たちの喜びはどれほどのものになるでしょう。

2.「アブラハムは非常に悩んだ」…イサクが生まれて八日目には割礼が施され、さらに、乳離れすると盛大な宴会が催されます。その時でした。サラは、ハガルの子が自分の子イサクをからかっているのを目撃しました。それを見て憤りを感じたサラは、アブラハムに対して「ハガルとその子を追い出してください」と訴えます。アブラハムにとっては、イシュマエルも自分の子であることに変わりないので非常に悩みました。しかし、主がそこに介入され、アブラハムに対して「サラの言う通りにしなさい」と言われます。イサク誕生という大きな祝福の裏に非常な悩みもありました。アブラハムは、主に言われたとおり、ハガル親子にパンと水を与えて外に送り出します。結局、親子はパランの荒野に住みつき、ハガルはエジプトからイシュマエルのために妻を迎え、後に一つの民族となっていくのです。当つばめさわ教会は市街地内にありながら、敷地内に山があります。全面積248坪の内、約100坪が急傾斜の山です。見方によれば恵みであり祝福でもありますが、反面、毎年、山の手入れを何度もしなければなりません。私たちは、目の前にある為すべきことを坦々と行ないつつも、すべてのことを主に委ねてまいりましょう。「あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。(詩篇55:22)」

3.「神はあなたと共におられる」…前章、20章では、アブラハムとアビメレクの間にサラが召し入れられるという一件がありますが、事無きを得、両者は和解しています。アビメレクとしては、アブラハムが気になる存在で、引き続き注視していたのでしょう。ところが、アブラハムは目に見える形で神の祝福を受け続けるので、アビメレクとしては、脅威を覚え、将軍ピコルと共に来て、アブラハムと平和条約を結ぼうとしたのです。アブラハムはあっさりと、それを承諾するものの、井戸のことでアビメレクに抗議します。アビメレクはそのことは知らないでいたということと、アブラハムも自分に何も言ってこなかったと反論します。それでアブラハムはアビメレクに羊と牛を取って契約を結びます。さらに、井戸の所有権を明確にするために七頭のメスの羊をアビメレクに与え、自分が掘った井戸であるということを明確にしようとし、そこがベエル・シェバと呼ばれます。そして、33節で、アブラハムはベエル・シェバで一本の柳を植え、主の名によって祈りました。そのように、アブラハムは日常的に主の名によって祈っていたので、主が彼と共におられ、人の目に見えるように祝福を受け続けたのでしょう。

●2025年3月23日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記20:1~18からです。「あの人は預言者です」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「これは私の妹です」…アブラハムはヘブロンから南西のゲラル(現在のガザに近い地区と思われる)に滞在したときのこと、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言いました。すると、ゲラルの王アビメレクに妻が召し入れられてしまいます。エジプトに行ったときも、アブラハムは同じことをしました。しかし、その後、ケドルラオメル王たちがソドムとゴモラに侵攻し、ロトと彼の財産をも奪って行ったとき、アブラハムは自分のしもべたちを率い、ケドルラオメル王たちを打ち破り、ロトを救出し、彼の財産も取り返します。その同じアブラハムが、また、自己保身のために、妻サラを「自分の妹です」と言うとは、何ということでしょう。この第一のポイントでは「人間の弱さ」ということをテーマにしています。筆者は、3月20日(木)は仙台福音自由教会の献堂式に出席しました。帰り際にいただいた紙袋の中に吉田耕三牧師著の「あなたを変える21のメッセージⅡ」という本が入っていました。その本の第一項目は「健全な自己像」でした。私たちが他者と良い人間関係を築いていく上で大切な役割を果たすのが健全な自己像だというのです。例えば、健全な自己像を持っている人は、人から褒められても謙遜に受けとめ、たとい、否定されても落ち込むことはないということです。ローマ5:8には「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」とあります。私たちも、アブラハムと同じように弱さを持つ者ですが、神が自分の事を受け入れ、大きな愛を示しておられるということをしっかりと受け止め、そのことを土台にして歩んでまいりましょう。

2.「神の介入と守り」…主は夢の中で、アビメレク王に現われ、「あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならい」と言われます。アビメレクとしてはアブラハムから「妹です」と聞いているので、神に抗議します。すると主は「あなたが罪を犯さないようにしたのだ。今、あの人の妻を返し、いのちを得なさい」と言われます。話は変わりますが、昔、北海道大学の前身、札幌農学校で教えたウィリアム・クラーク博士は今も北海道では高い評価を受けているとのことです。クリスチャンにとっては、クラーク博士の教え子としての内村鑑三や新渡戸稲造(二期生)が有名ですが、クラーク博士はマサチューセッツ農科大学で教えていて、そこで一年間の休暇中に札幌農学校で9カ月間だけ教えたとのことです。そのおかげで今の北海道の農業を軌道に乗せたようです。しかし、そのクラーク博士は、その後アメリカに帰ったものの、事業で失敗し、晩年は芳しくありませんでした。そして「今、自分は一生を振り返ってみて何も誇るものはないが、ただ日本の札幌において数カ月の間、日本の青年たちに聖書を教えたことを思うと、少なからず満足と喜びを感じる」と言っています。つまり、天の神が、日本の、北海道のために、またクリスチャンのためにクラーク博士を呼び寄せて、彼を用いられたという見方もできるでしょう。歴史のことを英語ではhistoryです。それはHis storyから派生していると言われています。天の父なる神様が介入して、歴史を動かしておられるのです。今日も、神が私たちを選び任命されました。それは私たちが実を結び、その実が残るためであり、また、私たちがイエス・キリストの名によって祈ったことが聞かれるため(ヨハネ15:16参照)なのです。

3.「預言者の務め」…主はアビメレクに「あの人(アブラハム)は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう」と言われます。アブラハムに対して「預言者」という表現はめずらしいですね。それは、神の代弁者、また神の祭司のような意味で言われたのでしょう。アビメレクがアブラハムに多くの家畜などを与え、妻サラを返した後、アブラハムが祈るとアビメレクの妻やはしためたちがいやされ、子を産むようになります。今日、イエス・キリストを信じる者は、アブラハムの祝福を受けています(ガラテヤ3:13~14参照)。そうであるならば、私たちも預言者であり、祭司でもあります。それは、イエス・キリストの十字架の福音を宣べ伝え、また、人々を執り成すために召されているのです。

●2025年3月16日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記19:1~38からです。「ソドムとゴモラ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ソドムの罪の現状」…二人のみ使いがソドムに着くと、ソドムの門のところにいたロトは、彼らがただの人たちではないと感じたのでしょう。彼らを自宅に招き入れ、もてなします。そして、彼らが床につかないうちに、ソドムの町の全ての人々がロトの家を取り囲み、「今夜、お前の所に来た男たちは何処にいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたい。」と言います。「知りたい」とは性的な意味で発せられているのでしょう。ここまで読むだけでも、ソドムがどれだけ罪と狂気で乱れた町であるか、ということを覚えます。元々、彼らもアダムの子セツの子孫であり、あの神と共に歩んだエノクの子孫であり、正しい人、全き人であったノアの子孫でもあります。逆に言うならば、よくぞこれだけ悪い町になったものだと驚きます。それは、創造主を恐れることなく人間の欲望のままに生きてきた結果なのでしょう。アメリカ合衆国の初代大統領ジョージ・ワシントンは「神(God)と聖書なしに、この世を正しく統治することは不可能である」と言っています。イエス・キリストはマタイ5:17で「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と言われました。聖書のみことばが、この日本に、世界に満ちますように。

2.「ロトの霊性と主のあわれみ」…み使いたちは、ロトの家を取り囲んだ者たちに目つぶしをくらわせ、ロトに「身内の者を連れ出し、この場所から逃れなさい」と言います。ロトは婿たち二人に告げますが、彼らは冗談だと思って聞き入れません。ロト自身もためらっていたので、結局、主のあわれみのゆえに、ロトと妻と二人の娘が、み使いたちによって手を引っ張られて連れ出されます。み使いは「命がけで山に逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない」と言います。ロトは山に逃げることはできない、と言い、小さな町ツォアルに逃れることを願い、聞き入れられます。その後、30~38節では山の洞穴に移動したロトと二人の娘たちは父に酒を飲ませて、自分たちの子孫を得ようとし、姉からモアブが生まれます。ロトも、娘たちも、それだけソドムの悪い影響を受けていたとも言えるでしょう。しかし、Ⅱペテロ2:8には「というのは、この義人(ロト)は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」とあるように、ロトの全てが否定されているのではありません。主はあわれみ深い方です。キリストの系図の中にあるマタイ1:5では、エリコの遊女であったラハブによってボアズが生まれ、ボアズにモアブ人のルツによってオベデが生まれたことが記されています。オベデはダビデ王の祖父です。哀歌3:22には「私たちが滅びうせなかったのは、【主】の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」とあります。今日も、主の大きなあわれみが私たちの上に注がれているのです。

3.「天からの火と塩の柱」…前日の夜から朝になり太陽が上った頃、ロトはツォアルに着きました。そのとき、主は硫黄の火を天の主の所から降らせ、ソドムとゴモラを滅ぼしました。途中、ロトの妻はうしろを振り返ったために塩の柱となってしまいました。ユダ書7節には「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」とあります。今、この世界は世の終わりに差し掛かっていると言えます。ノアの時代は水で世界が滅ぼされましたが、今度は火で世界が焼き尽くされます。しかし、私たちが、救い主イエス・キリストのうちにあるなら、主の再臨のとき、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会う(Ⅰテサロニケ4:17)のです。最後はⅡペテロ3:14です。「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」

●2025年3月9日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記18:1~33からです。「主に不可能なことがあろうか」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「主に不可能なことはない」…アブラハムの所に三人のの一行が現われます。彼らがアブラハムの天幕に近づいたとき、アブラハムはその一行が特別な方たちであるという事を直感的に悟ったのでしょう。彼はその一行を招き入れ、もてなします。落ち着いたところで、そのうちの一人が、「来年の今ごろ、あなたの妻サラには男の子ができている」と言いますと、天幕の入口で聞いていたサラは笑って、聞いたことを信じることができませんでした。それを知った主はサラに「なぜ笑うのか。主にとって不可能なことがあろうか。」と言いますと、サラは恐ろしくなり、「私は笑いませんでした」と言いますが、主は「いや、確かにあなたは笑った」と言います。この場面は、ルカの福音書1章で、マリヤと主の使いガブリエルとの会話を思い出します。処女マリヤが男の子を産むと聞いて、マリヤが戸惑っているとガブリエルが「主にとって不可能なことは一つもありません(ルカ1:37)」と言うと、そこでマリヤは「どうぞ、あなたのおことばどおりに、この身になりますように」と答えます。マリヤの主に対する信仰姿勢は、素直で従順です。私たちも、不可能を可能にする全能の主を素直に信じて、この方に期待してまいりましょう。

2.「アブラハムに隠しておくべきだろうか」…その後、主の一行は、ソドムを見下ろす方へ向かって行きます。アブラハムも、見送りのために一緒に歩いて行きます。そのとき主は17節で「わたしがしようとしていることをアブラハムに隠しておくべきだろうか」と考えておられました。アブラハムは大いなる強い国民となり、地の全ての国々は彼によって祝福され、主の道を守り、正義と公義を行なうために主に選ばれました。つまり、どういうことかと言いますと、今、ソドムとゴモラがきわめて重い罪にゆえに滅ぼされようとしているのに、主の道を守り、正義と公正を行なうべき神の民であるアブラハムは、滅ぼされようとする人々のために執り成すべきであるとするならば、そのことをアブラハムに隠しておくべきではない、ということです。今日の私たちクリスチャンの立場と重なります。ヘブル6:1aには「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。~」とあります。初歩の教えにとどまっていないで、自分の生涯を神におささげし、献身者として成熟を目ざして進み、滅びようとしている人々のために立ち上がるべきであるということです。  

3.「アブラハムの執り成し」…アブラハムは、ソドムの方へ進んで行った主の一行の前に立ち、近づいて「あなたは本当に、正しい者と悪い者と一緒に滅ぼし尽くされるのですか」と申し上げます。そして「50人の正しい人がいたら滅ぼすのですか」と言うと、主は「50人の正しい者を見つけたら赦そう」と言われます。正しい人50人いないかもしれないと思ったアブラハムは「45人では」、次に「40人では」、さらに「30人」、「20人」と人数を下げていきますが、主は「滅ぼさない」と言われます。そしてアブラハムは最後にもう一度、「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」と言いますと、主は「滅ぼすまい。その十人のために。」と仰せられます。しかし、結局、ソドムとゴモラは滅ぼされ、その正しい者10人もいなかったということです。今日、神に選ばれ、召されたクリスチャンは、自分自身の救いの達成とともに、回りの人々の救いのために執り成す使命が与えられています。祈りを通し、また福音宣教を通して、神のみこころを求めて行動してまいりましょう。ピリピ2:13~14には「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」とあります。神のみこころを求めて祈り、そして、そのみこころのままに行動していきましょう。