●2025年4月6日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記22:1~24からです。「イサクをささげなさい」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「試練」…アブラハムは、妻サラとの間に待望の約束の子イサクが生まれ、その心は喜びに溢れていたことでしょう。そんなとき、主はアブラハムに試練を負わせます。「モリヤの山に行き、そこで一人子イサクをささげなさい」と言われるのです。アブラハムが信じる主なる神も、こんにち私たちが信じる主も全く同じ主です。その方は「まことに、【主】のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。(詩篇33:4)」と言われていて、主の為さることに誤りはありません。しかし、このアブラハムに対する試練については、誰もすんなり納得できるものではないのではありませんか。強いて言うなら、アブラハムの心の中に、全知全能の主よりもイサクへの思いのほうが上回っていたのかもしれません。たぶん、アブラハムもそのことを感じていたのか、主に対して何も抗議することなく、二人の若者を伴い、イサクを連れてモリヤに向かって行くのです。マタイ6:33には「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。何はともあれ、私たちも主を第一にして歩んでまいりましょう。

2.「主の山の上には備えがある」…ヘブル11:19には「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」と、アブラハムの心の内を記しています。このあたりが、アブラハムが信仰の人として評価されている所以でしょう。彼がイサクをほふろうとしたとき、主の使いがそれを止めました。すると、角を藪に引っ掛けている雄羊がいて、アブラハムはその雄羊を取って全焼のいけにえとして主にささげたのです。正に、主の山の上には備えがありました。2011年3月11日に発生した東日本大震災の直後から今日に至るまで、筆者にとっては「主の山の上の備え」を経験してきました。震災直後の小学校の避難所、その後の福室のアパート、新田の元喫茶店と青葉区の住居、そして、現在の教会と住宅です。その間には断られたりとか、購入できなかったりとかありましたが、今考えると、却って、あのとき断られて良かったというようなことが再三ありました。主が今日まで最善の備えをして下さったのです。

3.「あなたを大いに祝福し」…16節で、主の使いがアブラハムに主のみ告げとして「あなたはひとり子を惜しまなかったから、あなたの子孫は海辺の砂のように増え、敵の門を勝ち取り、地の全ての国々はあなたの子孫によって祝福を受けるようになる。(要約)」と言っています。こののち、アブラハムの子孫によってイスラエル民族が起こり、建国され、ダビデ、ソロモン時代には相当の権勢を現わしますが、それは一時的でした。そのことばが完全に成就することになったのは、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として世に来られた神のひとり子イエス・キリストの十字架と復活による救いが完成してからのことです。新約聖書の使徒の働きでは、当初、パウロはユダヤ教の熱心な信者としてキリスト者を迫害していました。そのキリスト者をひっ捕らえるためにエルサレムからダマスコに行く途上、聖霊なる主(イエス・キリスト)にお会いし自らがキリストの証人に任命されます。そして「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。(使徒26:18)」と言われます。正にパウロの世界宣教から始まり、こんにち、全ての国々の人々は、イエス・キリストの御名によって敵(悪魔)の門を勝ち取り、永遠のいのちの祝福を受けるのです。

●2025年3月30日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記21:1~34からです。「イサクが生まれる」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「仰せられたとおりに」…主がアブラハムに対して再三にわたって、アブラハムとサラの二人の間に子が生まれることを告げています。正に、そのとおりに、その子イサクが生まれました。主は言われたことを必ず成就されるお方です。ここで、今日の私たちに当てはめて考えてみましょう。例えば、イエス・キリストの「再臨」です。クリスチャンは再臨を信じています。信じてはいますが、さて、それを現実的に受けとめているかどうか、ということになりますと、「信じてはいるけれども、信じられないような気持ちも無くはない」という微妙な部分もあるのではないでしょうか。その点、アブラハムとサラにとっても、「百歳と90才の夫婦に子が生まれようか?」という思いをぬぐい切れないでいました。だから、二人とも笑って(創世記17:17、18:12)いました。ところが本当にイサクが生まれ、今度は別の意味での「笑い」が来たのです。21:6の新改訳2017年訳では「神は私に笑いをくださいました」となっています。つまり、神から来る喜びの笑いが来たのです。ローマ9:28には「主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」とあります。終わりのラッパとともに、主の再臨があり、空中携挙に与ったならば、そのとき、私たちの喜びはどれほどのものになるでしょう。

2.「アブラハムは非常に悩んだ」…イサクが生まれて八日目には割礼が施され、さらに、乳離れすると盛大な宴会が催されます。その時でした。サラは、ハガルの子が自分の子イサクをからかっているのを目撃しました。それを見て憤りを感じたサラは、アブラハムに対して「ハガルとその子を追い出してください」と訴えます。アブラハムにとっては、イシュマエルも自分の子であることに変わりないので非常に悩みました。しかし、主がそこに介入され、アブラハムに対して「サラの言う通りにしなさい」と言われます。イサク誕生という大きな祝福の裏に非常な悩みもありました。アブラハムは、主に言われたとおり、ハガル親子にパンと水を与えて外に送り出します。結局、親子はパランの荒野に住みつき、ハガルはエジプトからイシュマエルのために妻を迎え、後に一つの民族となっていくのです。当つばめさわ教会は市街地内にありながら、敷地内に山があります。全面積248坪の内、約100坪が急傾斜の山です。見方によれば恵みであり祝福でもありますが、反面、毎年、山の手入れを何度もしなければなりません。私たちは、目の前にある為すべきことを坦々と行ないつつも、すべてのことを主に委ねてまいりましょう。「あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。(詩篇55:22)」

3.「神はあなたと共におられる」…前章、20章では、アブラハムとアビメレクの間にサラが召し入れられるという一件がありますが、事無きを得、両者は和解しています。アビメレクとしては、アブラハムが気になる存在で、引き続き注視していたのでしょう。ところが、アブラハムは目に見える形で神の祝福を受け続けるので、アビメレクとしては、脅威を覚え、将軍ピコルと共に来て、アブラハムと平和条約を結ぼうとしたのです。アブラハムはあっさりと、それを承諾するものの、井戸のことでアビメレクに抗議します。アビメレクはそのことは知らないでいたということと、アブラハムも自分に何も言ってこなかったと反論します。それでアブラハムはアビメレクに羊と牛を取って契約を結びます。さらに、井戸の所有権を明確にするために七頭のメスの羊をアビメレクに与え、自分が掘った井戸であるということを明確にしようとし、そこがベエル・シェバと呼ばれます。そして、33節で、アブラハムはベエル・シェバで一本の柳を植え、主の名によって祈りました。そのように、アブラハムは日常的に主の名によって祈っていたので、主が彼と共におられ、人の目に見えるように祝福を受け続けたのでしょう。

●2025年3月23日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記20:1~18からです。「あの人は預言者です」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「これは私の妹です」…アブラハムはヘブロンから南西のゲラル(現在のガザに近い地区と思われる)に滞在したときのこと、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言いました。すると、ゲラルの王アビメレクに妻が召し入れられてしまいます。エジプトに行ったときも、アブラハムは同じことをしました。しかし、その後、ケドルラオメル王たちがソドムとゴモラに侵攻し、ロトと彼の財産をも奪って行ったとき、アブラハムは自分のしもべたちを率い、ケドルラオメル王たちを打ち破り、ロトを救出し、彼の財産も取り返します。その同じアブラハムが、また、自己保身のために、妻サラを「自分の妹です」と言うとは、何ということでしょう。この第一のポイントでは「人間の弱さ」ということをテーマにしています。筆者は、3月20日(木)は仙台福音自由教会の献堂式に出席しました。帰り際にいただいた紙袋の中に吉田耕三牧師著の「あなたを変える21のメッセージⅡ」という本が入っていました。その本の第一項目は「健全な自己像」でした。私たちが他者と良い人間関係を築いていく上で大切な役割を果たすのが健全な自己像だというのです。例えば、健全な自己像を持っている人は、人から褒められても謙遜に受けとめ、たとい、否定されても落ち込むことはないということです。ローマ5:8には「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」とあります。私たちも、アブラハムと同じように弱さを持つ者ですが、神が自分の事を受け入れ、大きな愛を示しておられるということをしっかりと受け止め、そのことを土台にして歩んでまいりましょう。

2.「神の介入と守り」…主は夢の中で、アビメレク王に現われ、「あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならい」と言われます。アビメレクとしてはアブラハムから「妹です」と聞いているので、神に抗議します。すると主は「あなたが罪を犯さないようにしたのだ。今、あの人の妻を返し、いのちを得なさい」と言われます。話は変わりますが、昔、北海道大学の前身、札幌農学校で教えたウィリアム・クラーク博士は今も北海道では高い評価を受けているとのことです。クリスチャンにとっては、クラーク博士の教え子としての内村鑑三や新渡戸稲造(二期生)が有名ですが、クラーク博士はマサチューセッツ農科大学で教えていて、そこで一年間の休暇中に札幌農学校で9カ月間だけ教えたとのことです。そのおかげで今の北海道の農業を軌道に乗せたようです。しかし、そのクラーク博士は、その後アメリカに帰ったものの、事業で失敗し、晩年は芳しくありませんでした。そして「今、自分は一生を振り返ってみて何も誇るものはないが、ただ日本の札幌において数カ月の間、日本の青年たちに聖書を教えたことを思うと、少なからず満足と喜びを感じる」と言っています。つまり、天の神が、日本の、北海道のために、またクリスチャンのためにクラーク博士を呼び寄せて、彼を用いられたという見方もできるでしょう。歴史のことを英語ではhistoryです。それはHis storyから派生していると言われています。天の父なる神様が介入して、歴史を動かしておられるのです。今日も、神が私たちを選び任命されました。それは私たちが実を結び、その実が残るためであり、また、私たちがイエス・キリストの名によって祈ったことが聞かれるため(ヨハネ15:16参照)なのです。

3.「預言者の務め」…主はアビメレクに「あの人(アブラハム)は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう」と言われます。アブラハムに対して「預言者」という表現はめずらしいですね。それは、神の代弁者、また神の祭司のような意味で言われたのでしょう。アビメレクがアブラハムに多くの家畜などを与え、妻サラを返した後、アブラハムが祈るとアビメレクの妻やはしためたちがいやされ、子を産むようになります。今日、イエス・キリストを信じる者は、アブラハムの祝福を受けています(ガラテヤ3:13~14参照)。そうであるならば、私たちも預言者であり、祭司でもあります。それは、イエス・キリストの十字架の福音を宣べ伝え、また、人々を執り成すために召されているのです。

●2025年3月16日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記19:1~38からです。「ソドムとゴモラ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ソドムの罪の現状」…二人のみ使いがソドムに着くと、ソドムの門のところにいたロトは、彼らがただの人たちではないと感じたのでしょう。彼らを自宅に招き入れ、もてなします。そして、彼らが床につかないうちに、ソドムの町の全ての人々がロトの家を取り囲み、「今夜、お前の所に来た男たちは何処にいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたい。」と言います。「知りたい」とは性的な意味で発せられているのでしょう。ここまで読むだけでも、ソドムがどれだけ罪と狂気で乱れた町であるか、ということを覚えます。元々、彼らもアダムの子セツの子孫であり、あの神と共に歩んだエノクの子孫であり、正しい人、全き人であったノアの子孫でもあります。逆に言うならば、よくぞこれだけ悪い町になったものだと驚きます。それは、創造主を恐れることなく人間の欲望のままに生きてきた結果なのでしょう。アメリカ合衆国の初代大統領ジョージ・ワシントンは「神(God)と聖書なしに、この世を正しく統治することは不可能である」と言っています。イエス・キリストはマタイ5:17で「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と言われました。聖書のみことばが、この日本に、世界に満ちますように。

2.「ロトの霊性と主のあわれみ」…み使いたちは、ロトの家を取り囲んだ者たちに目つぶしをくらわせ、ロトに「身内の者を連れ出し、この場所から逃れなさい」と言います。ロトは婿たち二人に告げますが、彼らは冗談だと思って聞き入れません。ロト自身もためらっていたので、結局、主のあわれみのゆえに、ロトと妻と二人の娘が、み使いたちによって手を引っ張られて連れ出されます。み使いは「命がけで山に逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない」と言います。ロトは山に逃げることはできない、と言い、小さな町ツォアルに逃れることを願い、聞き入れられます。その後、30~38節では山の洞穴に移動したロトと二人の娘たちは父に酒を飲ませて、自分たちの子孫を得ようとし、姉からモアブが生まれます。ロトも、娘たちも、それだけソドムの悪い影響を受けていたとも言えるでしょう。しかし、Ⅱペテロ2:8には「というのは、この義人(ロト)は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」とあるように、ロトの全てが否定されているのではありません。主はあわれみ深い方です。キリストの系図の中にあるマタイ1:5では、エリコの遊女であったラハブによってボアズが生まれ、ボアズにモアブ人のルツによってオベデが生まれたことが記されています。オベデはダビデ王の祖父です。哀歌3:22には「私たちが滅びうせなかったのは、【主】の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」とあります。今日も、主の大きなあわれみが私たちの上に注がれているのです。

3.「天からの火と塩の柱」…前日の夜から朝になり太陽が上った頃、ロトはツォアルに着きました。そのとき、主は硫黄の火を天の主の所から降らせ、ソドムとゴモラを滅ぼしました。途中、ロトの妻はうしろを振り返ったために塩の柱となってしまいました。ユダ書7節には「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」とあります。今、この世界は世の終わりに差し掛かっていると言えます。ノアの時代は水で世界が滅ぼされましたが、今度は火で世界が焼き尽くされます。しかし、私たちが、救い主イエス・キリストのうちにあるなら、主の再臨のとき、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会う(Ⅰテサロニケ4:17)のです。最後はⅡペテロ3:14です。「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」

●2025年3月9日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記18:1~33からです。「主に不可能なことがあろうか」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「主に不可能なことはない」…アブラハムの所に三人のの一行が現われます。彼らがアブラハムの天幕に近づいたとき、アブラハムはその一行が特別な方たちであるという事を直感的に悟ったのでしょう。彼はその一行を招き入れ、もてなします。落ち着いたところで、そのうちの一人が、「来年の今ごろ、あなたの妻サラには男の子ができている」と言いますと、天幕の入口で聞いていたサラは笑って、聞いたことを信じることができませんでした。それを知った主はサラに「なぜ笑うのか。主にとって不可能なことがあろうか。」と言いますと、サラは恐ろしくなり、「私は笑いませんでした」と言いますが、主は「いや、確かにあなたは笑った」と言います。この場面は、ルカの福音書1章で、マリヤと主の使いガブリエルとの会話を思い出します。処女マリヤが男の子を産むと聞いて、マリヤが戸惑っているとガブリエルが「主にとって不可能なことは一つもありません(ルカ1:37)」と言うと、そこでマリヤは「どうぞ、あなたのおことばどおりに、この身になりますように」と答えます。マリヤの主に対する信仰姿勢は、素直で従順です。私たちも、不可能を可能にする全能の主を素直に信じて、この方に期待してまいりましょう。

2.「アブラハムに隠しておくべきだろうか」…その後、主の一行は、ソドムを見下ろす方へ向かって行きます。アブラハムも、見送りのために一緒に歩いて行きます。そのとき主は17節で「わたしがしようとしていることをアブラハムに隠しておくべきだろうか」と考えておられました。アブラハムは大いなる強い国民となり、地の全ての国々は彼によって祝福され、主の道を守り、正義と公義を行なうために主に選ばれました。つまり、どういうことかと言いますと、今、ソドムとゴモラがきわめて重い罪にゆえに滅ぼされようとしているのに、主の道を守り、正義と公正を行なうべき神の民であるアブラハムは、滅ぼされようとする人々のために執り成すべきであるとするならば、そのことをアブラハムに隠しておくべきではない、ということです。今日の私たちクリスチャンの立場と重なります。ヘブル6:1aには「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。~」とあります。初歩の教えにとどまっていないで、自分の生涯を神におささげし、献身者として成熟を目ざして進み、滅びようとしている人々のために立ち上がるべきであるということです。  

3.「アブラハムの執り成し」…アブラハムは、ソドムの方へ進んで行った主の一行の前に立ち、近づいて「あなたは本当に、正しい者と悪い者と一緒に滅ぼし尽くされるのですか」と申し上げます。そして「50人の正しい人がいたら滅ぼすのですか」と言うと、主は「50人の正しい者を見つけたら赦そう」と言われます。正しい人50人いないかもしれないと思ったアブラハムは「45人では」、次に「40人では」、さらに「30人」、「20人」と人数を下げていきますが、主は「滅ぼさない」と言われます。そしてアブラハムは最後にもう一度、「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」と言いますと、主は「滅ぼすまい。その十人のために。」と仰せられます。しかし、結局、ソドムとゴモラは滅ぼされ、その正しい者10人もいなかったということです。今日、神に選ばれ、召されたクリスチャンは、自分自身の救いの達成とともに、回りの人々の救いのために執り成す使命が与えられています。祈りを通し、また福音宣教を通して、神のみこころを求めて行動してまいりましょう。ピリピ2:13~14には「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」とあります。神のみこころを求めて祈り、そして、そのみこころのままに行動していきましょう。

●2025年3月2日(日)礼拝メッセージ要旨

創世記17:1~27からです。この章ではアブラムがアブラハムと改名され、割礼を受けました。ポイント3つ上げていきます。

1.「全き者であれ」…アブラムが99才のとき、主が彼に現われ、「わたしは全能の神である。あなたは、わたしの前を歩み、全き者であれ。」と言われます。アブラムは、75才でカナンの地に来て、24年間経過しました。こののち、100才で約束の子イサクが与えられるのですが、ここで主は、また新たな契約をアブラハムと結ぼうとされます。アブラムのこれまでを振り返ってみますと、甥のロトがケドルラオメル王たちに拉致されたとき、アブラムは見事にロトを救出し、財産をも取り返しました。しかし、その一方で、ききんでエジプトに下ったときには、自分の身を守ろうとして、妻サライを自分の妹だと偽ると言う不可解な行動をしました。また、16章では、妻サライの勧めで、女奴隷ハガルを妻として受け入れ、イシュマエルが生まれます。アブラムには素晴らしい一面もありますが、芳しくないところもあります。しかし、そういうアブラムに対して、主が目を留め続けておられます。主はアブラムに全き者であるために「わたしの前を歩め」と言っておられます。詩篇16:8には「私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」とあります。今日(こんにち)、イエス・キリストは別名でインマヌエル(主は私たちと共におられる)と呼ばれています。大事なことは、イエス様がともにおられることです。聖霊様がともにおられるならば大丈夫、ゆるぐことはありません。

2.「あなたの名はアブラハムとなる」…この章では、アブラムだけではなく、サライも改名します。アブラム(尊い父)は、アブラハム(多くの国民の父)に、サライはサラになります。彼女の場合は旧名も新名も「王女、高貴な女性」という意味で、ほぼ変わりがありません。さあ、なぜここで二人は改名させられたのでしょうか。はっきりしたことは正直、分かりませんが、たぶん意識改革ということではないかと思います。ある青年が教会で自分の「証し」をしました。彼は「全てを失い、自分の人生は終わったと思いました。しかし、そのとき、イエス・キリストのために生きようと決めた瞬間に全てが変わった」のだそうです。「自分という土台の上にイエス・キリストを信じる信仰をくっつけて歩む」のではなく、「イエス・キリストを土台として、このキリストのために生きる人生」でありたいと思います。   

3.「割礼を受けなさい」…この章では、主はアブラムと新たな契約を結ぼうとしています。この契約によって「アブラハムは多くの国民の父となる」ということです。また、アブラハムがすべきことは「割礼を受ける」ということです。このとき、アブラハムだけではなく、彼の家で生まれたしもべたち、また外国人の奴隷たち、そしてイシュマエルも割礼を受けます。この割礼の儀は今日(こんにち)までも続けられ、ユダヤ人は生まれて八日目に割礼を受け、自分がイシュマエルの子孫であるとする人は13才で割礼を受けるのだそうです。旧約時代に主が定められたことであり、その時は、そのようにすべきだったことは間違いないでしょう。しかし、ガラテヤ5:6には「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」とあります。少なくとも、異邦人クリスチャンにとっては、割礼は不要です。それよりも、もっと大事なことは「愛によって働く信仰」です。さらにガラテヤ6:15には「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」とあります。こちらは「新しい創造が大事」だと言っています。「新しい創造」とは、Ⅱコリント5:17の「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」というみことばと関連がありそうです。人が救いに与ること、またキリストに似た者となっていくことではないでしょうか。そうです。私たちは、そこのところに焦点を定めて進んでいきましょう。

●2025年2月23日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記16:1~16からです。「ハガルとイシュマエル」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「私は子どもの母となれるでしょう」…カナンの地に来て10年。アブラム85才、サライ75才くらいのときのことです。二人の寿命は、アブラムは175才、サライは127才ですから、現代の感覚とはまた異なっているかと思われますが、それでもやはり、二人は年寄りで、彼らから子が生まれるということは考えにくい状態でした。創世記15:4で主はアブラムに「あなた自身から生まれ出て来る」と言っておられるのですから、それを信じてひたすら待っていれば良かったのですが、なかなか子が生まれないという現実に対して、サライは焦りを感じたのでしょう。彼女は、エジプト人の女奴隷ハガルを妻としてアブラムに与え、子が生まれたら、自分はその子の母になれると考えたのでした。ヤコブ1:3~4には「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」とあります。「完全な者となる」などということは不可能とも言えますが、それでも、私たちは成熟を目ざして一歩一歩進みましょう。

2.「サライが彼女をいじめた」…ハガルが身ごもると、彼女は女主人サライを見下げるようになります。サライはそれに怒って、アブラムに対して「あなたのせいです」と抗議します。元々、事の発端はサライです。尤も、アブラムもサライの提案をきっぱりと拒否すれば良かったのですから、確かにアブラムに責任は無いとも言えません。アブラムはサライに対して「あなたの好きなようにしなさい」と言うと、サライはハガルをいじめたので、ハガルはエジプト方面に逃げます。しかし、主の使いがハガルに現われ、「女主人のもとに帰り、彼女の下で身を低くしなさい」と言います。ここで、私たちは、人間社会におけるあり方について三つのことを確認したいと思います。1つは、聖書では人間は主なる神の前に上も下もないということ、人は皆平等であるということです。2つ目は、この世においては様々な上下関係が現実的に存在します。3つ目は、神の摂理ということです。全てのことは創造主なる神から発しています(ローマ11:36参照)。我々人間は、神の摂理の下に生かされ、それぞれの立場に置かれていると言えます。サライとハガルの関係から言えることは、神の摂理の下に女主人はサライで、ハガルは彼女に仕えていました。もちろん、奴隷制については肯定されるべきでありませんが、こんにち、私たちも、神から与えられたそれぞれの使命に生きるということです。

3.「主が聞き入れられる」…主の使いはハガルに、「女主人のもとに帰りなさい」と言ったあと、「ハガルの子孫が増えて数えきれないほどになる。また生まれる男の子にはイシュマエル(神は聞かれるの意)と名付けなさい。その子は野生のロバのようになって、すべての人に敵対する」と言っています。ローマ9:7~8には「アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、『イサクにあって、あなたの子孫が起こされる』からです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。」とあります。つまり、神の選びの民は、イシュマエルの子孫ではなく、イサク、そしてヤコブの子孫です。そうだからと言って、主なる神はハガルに目を留め、また生まれて来るイシュマエルとその子孫についても心を配っておられます。たとい神の選びの民であっても、今日、イエス・キリストを拒むなら、その救いに与ることはできません。アラブ人であろうとその他の異邦人であろうと、イエス・キリストのうちにある者は、罪赦され、義とせられ、まことのいのちを持つのです。詩篇65:2には「祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。」とあり、また、ヨハネ14:14には「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしましょう。」とあります。私たちはイエス・キリストの御名によって、祈りを聞かれる方を呼び求め、神の栄光が現わされることを期待していきましょう。

●2025年2月16日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記15:1~21からです。「さあ、天を見上げなさい」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「アブラムよ。恐れるな。」…どんなに屈強な人であっても何かしらの「恐れ」を持っているのではないでしょうか。逆から言うならば、何の恐れも持っていないという人などいないでしょう。信仰の父と言われているアブラ(ハ)ムもまた「恐れ」を持っていたことでしょう。ですから、全能の主がアブラムに「恐れるな」と言っているのです。さて、1節で、主はアブラムに三つのことを言っておられます。一つは「恐れるな」です。二つ目は「わたし(主)はあなたの盾である」です。盾と矛の盾です。つまり、主が守ってくださるということです。そして、三つ目は「あなたの受ける報いは非常に大きい」です。聖書の中で、アブラ(ハ)ムほど尊敬されている人物は他にいないほどです。当時、アブラ(ハ)ムは非常に富んでいて、長寿にも恵まれ、子孫にも恵まれました。それはこの地上的なことだけに止まらず、たましいの救い、永遠のいのちを受けていたことも間違いないでしょう。今日、イエス・キリストにある者は、神の相続人であり、キリストとの共同相続人(ローマ8:17より)でもあります。また、キリスト者はアブラ(ハ)ムへの祝福を受けている(ガラテヤ3:14より)のです。主がアブラムに「恐れるな」と言っておられるように、今日、主はキリスト者に対しても励まし、見守っておられるのではないでしょうか。

2.「彼は主を信じた」…アブラムは「あなたの受ける報いは非常に大きい」と言われても、その時点で子が与えられていません。ですから、自分の家の奴隷が跡取りになると思っていました。しかし、主は、それをきっぱりと否定して、「その者が跡を継いではならない。あなた自身から生まれ出て来る者が後を継ぐ。そしてアブラムの子孫は空の星のように多くなる」ということを言われます。すると、アブラムはそれを素直に信じ、義と認められたのです。Ⅰサムエル3章で、サムエルは少年の頃、預言者エリに仕えていました。あるとき、サムエルが寝ていると主が彼を呼びました。サムエルはエリが自分を呼んだと思い、急いでエリのところへ行きました。そんなことが三回あったので、エリはサムエルに今度呼ばれたら、「お話しください。しもべは聞いております。」と答えなさいと指示しました。四回目に「サムエル、サムエル」と彼を呼ぶ声が聞こえ、エリに言われた通りにして、主の語られることを聞いたのでした。マタイ16章で、キリストが弟子たちに「あなたがたは、私を誰だと言いますか」と聞くと、ペテロは「あなたは生ける神の御子キリストです」と答えました。するとキリストはペテロに「あなたは幸いです」と言われます。素直に全能の主を信じて、真っすぐに応答する人はなんと幸いなことでしょう。

3.「暗黒の恐怖」…6節で、アブラムは主の言われたことを素直に受け入れたので、彼は義と認められたのですが、7節で主が「この地を与えるために、あなたをウルから連れ出した」と言われたあと、8節でアブラムは「それをどのようにして知ることができましょうか」と言ってしまいます。そのためなのかどうかは不明ですが、このあと、主はアブラムに対して、特定の家畜類を持ってくるようにと命じます。その後アブラムに深い眠りが来て、暗黒の恐怖が彼を襲います。そのあと、主はアブラムに彼の子孫たちがエジプトに寄留すること、そして400年後再び戻ってくることを伝えます。その後、アブラムが切り裂いていた家畜の間を火が通り過ぎ(※もし誓いを守らなければ双方こうなりますよ、という契約の厳粛性を表わしているのではないか?)、主はアブラムと契約を結び、改めて、アブラムに「エジプトの川からユーフラテス川までの間の土地を与える」と言われます。「契約」というのは、片方だけによるのではなく、両者が同意して成立します。主は「アブラムにその地を与える」、アブラムは「主を信じる」ことで契約が成立します。今日、イエス・キリストを信じる者に対して、キリストは十字架による新しい契約(ルカ22:20)を示しておられます。主は契約を必ず履行されます。ですから、キリスト者は、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないで(ヘブル12:2より)、信じ、従っていきましょう。

●2025年2月9日(日)礼拝メッセージ要旨 

前週、13章ではアブラムとロトが別々の場所に移動します。そして、この14章では、エラムの王ケドルラオメルたちが自分たちに背いたという理由で、ソドムの王たちとその周辺地域に侵攻し、ロトがそれに巻き込まれてしまいます。今回もここからポイント3つ上げていきます。

1.「エラムの王ケドルラオメルたちの侵攻」…この時代の地図を探して調べますと、エラルというのは現在のクウェートの辺りかと思われます。そのエラルの王ケドルラオメルは近隣の王たちと連合して、ソドム、今の死海周辺に遠征してきました。1000kmから2000kmは離れていたのですから、相当の長旅であったことでしょう。彼らはソドムの王たちの財産を奪い、ロトを拉致し、その財産を奪います。この一件が起きたのはノアの大洪水があってから400年以上経過してのことです。ノアは主の心にかない、全き人で、神とともに歩んでいました。大洪水直後は彼の家族八人だけが残され、そしてそれから400年以上が経過し(BC2000頃)、人口も増え、各地に部族集団が形成され、そこに王(族長)が君臨し、侵攻と略奪が起こっています。イザヤ53:6aには「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」とあります。人間は生れながら罪人であり、そこに真の神を恐れる心がないと、自分勝手な道に向かって行きます。しかし、その道は永遠の滅びへの道です。今日、私たちはイエス・キリストの父なる神を恐れ、主のみこころを求め、永遠のいのちに至る道を歩みましょう。

2.「アブラムのロト救出」…ロト関係の一人の逃亡者がアブラムの所に来て、ロトが拉致されたことを伝えると、アブラムはしもべたち318人を招集してダン(ガリラヤ北方)、そしてダマスコの北ホバまで追跡し、ケドルラオメルとその他の王たちを打ち破り、ロトたちと彼の財産を取り戻します。敵の人数は聖書に記されていませんが、アブラムの陣営は318人ですから、圧倒的な人数とは言えないでしょう。これはアブラムとともにおられた真の神によって、奇跡的な力が働いたということでしょう。振り返ってみますと、創世記12:2で主はアブラムに「~わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」と言われています。アブラムは天の神より大いなる祝福を受けているのです。実は、そのアブラハムへの祝福は、イエス・キリストを信じる者にも及んでいるのです。ガラテヤ3:13~14には「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」とあります。クリスチャンは「自分はイエス・キリストによって大いなる祝福を受けている」としっかり自覚して日々を過ごさせていただきましょう。

3.「シャレムの王メルキゼデク」…アブラムが勝利して帰って来ると、シャレムの王メルキゼデクがパンとぶどう酒を持って来て「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。」と言いました。そこでアブラムは戦利品の十分の一をメルキゼデクに与えています。このメルキゼデクは不思議な存在で、この方は聖書の中で、回顧する記事以外ではこの創世記14章のみ登場します。ヘブル7:3には、メルキゼデクは「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」と言っています。アブラムは、当時の神を恐れない無法地帯のような世界で、孤軍奮闘していたときに、永遠の神の祭司であるメルキゼデクが彼の前に現われ、彼を祝福したのです。アブラムはどれほど心強く思ったことでしょう。今日、キリスト者にはイエス・キリストの名によって聖霊様がともにおられます。アブラムに現れたメルキゼデク以上に、聖霊様がクリスチャンとともにいてくださり、強め励まして下さるのです。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です(Ⅱテモテ1:7)。」

●2025年2月2日(日)礼拝メッセージ要旨

創世記13:1~18からです。振り返りますと、最初アブラムはハランから、次にシェケム、ベテル、ネゲブ、そしてエジプトへ、そこからネゲブ、そしてベテルに戻ってきます。この章では最後にヘブロンに来ます。今回もここからポイント3つ上げていきます。

1.「主のみ名によって祈った」…エジプトを出たアブラムは以前に滞在していたベテルに来て、かつて自分が祭壇を築いた同じ場所で主のみ名によって祈ります。「祭壇を築いて主のみ名によって祈る」とは、罪のためのいけにえをささげて礼拝するということです。こんにち、クリスチャンはいけにえをささげることはしません。それは、聖なる神の御子イエス・キリストが世に遣わされ、信じる者の罪のために自らいけにえとなられ、救いのわざを成し遂げられたからです。アブラムが「主のみ名によって祈った」というのは、ただ形式的なことではなく、全能の主を第一にして、主のみこころに従っていくことです。それは、こんにちのクリスチャンも同じです。目の先の欲得によって、事を決めるのではなく、聖書のみことばを土台とし、神のみこころに聞き従うのです。

2.「アブラムとロト」…アブラムは非常に富んでいました。ロトもその恩恵に与ったのでしょう。彼もそれなりに羊の群れ、牛の群を所有していました。ですから、アブラムとロトのそれぞれの持ち物が多くて、彼らの家畜の牧者たちの間に争いが起こりました。それで、アブラムはロトに「私と別れてくれ。あなたが右に行けば私は左に。あなたが左に行けば私は右に。」と言います。それでロトはヨルダンの低地、ソドムの近くに移動します。ここから2つのことを学べるでしょう。1つは、何でも一緒に行動すれば良いというものではなく、発展的な別行動もあるということです。もう一つは、ロトの態度です。聖書の記事を見る限りにおいては、それまで世話になったはずのアブラムに対して、ロトは自分本位に見えます。本来なら「あなたが右なら私が左に~」というセリフをロトが言うべきでしょう。その後、ロトは創世記14章では、ケドルラオメルという王たちに捕らえられ、財産も奪われています。19章では、ソドムとゴモラに天からの硫黄の火が降ってきて、散々な目に遭っています。やはり、私たちも、この地上において、主にあって誰に対しても親切と善意と誠実であるべきでしょう。

3.「この地を全部、永久に与えよう」…主は、アブラムが東西南北を見渡しているところを、あなたとあなたの子孫とに「全部、永久に与えよう」と言われています。実際的にはどうだったのでしょう。アブラムの孫ヤコブ(イスラエル)のとき、彼の息子ヨセフのゆえにイスラエル人はエジプトに行き、そこで400年ほど滞在しています。そののち、モーセの時代に出エジプトをして、ヨシュアのときにカナンの地を征服しています。しかし、その後は不安定な士師記の時代を過ぎ、サムエルの時代にサウルによって国の形が出来ます。そして、ダビデ、ソロモンの時代にカナンの地はイスラエルによってほぼ制圧されました。しかし、その後、ソロモンの罪ゆえに国が二つに分裂してしまいます。後に北イスラエルはアッシリヤに、南ユダはバビロンに滅ぼされます。その後、バビロンはペルシャに滅ぼされ、クロス王によって、ユダの捕囚民は再びエルサレムに帰還して神殿と城壁を建て直します。それからローマ時代に入り、聖なる神の御ひとり子イエス・キリストが世に来られ、十字架と復活の救いが完成して、キリストの福音が全世界に宣べ伝えられます。その後、AD70年にユダヤ戦争によってローマに敗北したユダヤ人は世界中に離散します。そして、1948年、カナンの地にイスラエルは再建を果します。しかし、こんにち、イスラエルは周辺諸国との争いが絶えず、先の「全部、永久に与えよう」という主のことばは実現していないように思えます。但し、この後、イエス・キリストが再臨し、イスラエルが主に立ち返ったときに、イスラエルは救われ(ローマ11:25~26参照)、この第三ポイントの冒頭のことばが完全に成就することになると思われます。