●5月17日礼拝メッセージ(マルコ15:22~47)

 イエス様がゴルゴタで、十字架につけられた場面などから、ポイントを3つあげて学びましょう。
  ①その身にわずらいを引き受けられた…十字架につけられたイエス様に没薬を混ぜたブドウ酒が差し向けられましたが、イエス様は、それを飲むことはありませんでした。その飲み物は、感覚を麻痺させて、痛みを和らげる効果があったようですが、それをイエス様が拒まれたのは、受けようとされていた痛みを全て受けとめようとされたのでしょう。イザヤ53:4には「まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。」とあります。また、二人の強盗と共に十字架にかけられ、罪人の一人として数えられました。さらに、道行く人、祭司長、律法学者らに「他人は救ったが、自分は救えない。」などと言われてからかわれました。私たちの日常生活の中では、様々な患いがあるものです。なるべく、患いなど引き受けたくはありません。でも、世のため、人のため、神の栄光の為に、患いを引き受けることができたとしたら、それはその人の人間としての度量が大きいということでしょう。
  ②開かれた救いの道…時間的には、イエス様が十字架につけられたのは午前9時です。そして、12時になったとき、全地が暗くなり、3時まで続きました。そして、3時になると、イエス様は大声で「エロイエロイラマサバクタニ(わが神わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれました。それは、私たちの身代わりとなり、のろわれた者となられたのです。その時、神殿の聖所と至聖所の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。ヘブル10:19に「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」とあるように、地上的な儀式によらず、イエス様による真の救いの道が開かれたのです。

  ③アリマタヤのヨセフ…アリマタヤの金持ちで有力な議員でもあったヨセフは、神の国を待ち望んでいた人で、イエス様のお体の下げ渡しを願いに、思い切ってピラトのところへ行きました。当時の状況からして、ヨセフは、自分の身に危険が及ぶことを覚悟しての決断だったのでしょう。Yesterday is history, Tomorrow is mystery, and Today is a gift. That is why we call it present.「昨日はヒストリー(過去の歴史)。明日はミステリー(未来の謎)。今日はギフト(贈り物)である。だから、今日をプレゼント(贈り物)と言うのである。」という言葉があるそうです。アリマタヤのヨセフは、そのとき、自分がやらなければならないことを思い切って行なったのです。私たちも必要以上に過去と未来にこだわることなく、一日一日、やるべきことをやっていきましょう。

●5月3日礼拝メッセージ(マルコ15:1~21)

 大祭司の中庭で審問をうけたイエス様が、今度はピラトに引き渡されます。15:1~21から、ポイントを3つあげて学びましょう。
  ①ピラトの裁き…ピラトはローマ総督として、ユダヤを治めていました。当時の世界としては強大なローマ帝国の力を背景にして、彼の意のままに裁きが進むはずでした。ピラト自身はキリストに罪を認めることはできませんでしたが、大祭司たちの思惑と群集の声により、自分の意に反して、キリストを死刑に定めることになりました。使徒信条では「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」とありますが、厳密には、歴史の背後で、歴史を動かしている主の御手があったということです。今日、私たちの日々の歩みにおいて、自分の意のままにならないことが多々あります。神のみこころと自分の思いが異なるとき、やはり、神のみこころを優先すべきです。ですから、私たちは神のみこころと自分の思いが重なり合うために、主を恐れ、主のみ心を求めていくことが必要です。
  ②いばらの冠…結局、十字架にかけられることになったイエス様は、鞭打たれ、ローマ兵たちによって、紫の衣を着せられ、いばらの冠をかぶせられ、「王様万歳」とからかわれます。彼らは、まさかその方が王の王、主の主である聖なる神の御ひとり子とは夢にも思わなかったでしょう。神の御ひとり子が、いばらの冠をかぶせられてからかわれている。これは何を意味しているでしょうか。イザヤ53:7には「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」とあります。ここに私たち人間を滅びから救う神の愛と真実を見るのではないでしょうか。私たちは、見てくれや体裁ではなく、真実なものの上にそれぞれの人生を築き上げていくべきです。
  ③クレネ人シモン…そこを通りかかったクレネ人シモンは、イエス様の代わりに十字架を担がされることになりました。「なんで自分がこんなことをしなければならないのか。」と思ったことでしょう。後に彼がどうなったか、聖書に書かれていませんが、キリスト者になったなら、そのことを光栄に思ったことでしょう。マルコ8:34には「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とあります。私たちは、それぞれ、主にあって、自分の使命に生きましょう。この世は、善であれ悪であれ、強い意志を持った人の思いが反映されるものです。真理に立つ私たちが強い意志を持って、イエス・キリストにある神の国をこの世に証してまいりましょう。

●4月26日礼拝メッセージ(マルコ14:53~72)

  ゲッセマネの園で群集に捕えられたイエス様は、大祭司の邸宅の中庭に連れて来られました。そこで大祭司たちから審問を受けます。また、それと並行して、あとをついて中庭に入ってきたペテロについての記事もあります。「大祭司の中庭で」という題で、ポイントを3つあげて学びましょう。
   ①偽証…本来はサンヘドリンと呼ばれる議会において裁判が行なわれるのですが、夜の夜中、緊急に大祭司の中庭で事実上の裁判が行なわれました。しかし、それは公明正大な裁判ではなく、最初からイエス様を死刑に定めるための裁判だったのです。申命記19:15に基づき、二人、三人の証人による証言が一致しなければならないのですが、イエス様を罪に定めるための証言が一致しませんでした。十戒の第九戒には「偽りの証言をしてはならない。」とありますが、人を罪に定めようとして、自ら偽証という罪を犯しているという愚かさをここに見ます。結局、彼らの計画通りに事は進んで行きませんでした。箴言19:21には「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」とあります。
   ②わたしはそれです。…大祭司は、証言者の証言が一致しないので、やきもきしていたに違いありません。そこで、「あなたは、ほむべき方の子キリストですか。」と質問すると、イエス様は「わたしはそれです。~」と答えられました。それで、大祭司は自分の衣を引き裂き、「神を汚すことばを聞いた」と言い、イエス様を死刑に定めてしまいます。レビ記24:16には「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。~」とありますが、どう見ても、イエス様がここで御名を冒涜してはいません。罪なき神のひとり子が主の御名を冒涜するはずもありません。むしろ、キリストを死刑に定め、つばきをかけ、こぶしで殴り、平手で打った彼らこそ、冒涜の罪を犯しました。箴言12:16に「愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。」とあります。
   ③ペテロの否認…ペテロは14:31で「たといご一緒に死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません。」と言っています。その手前もあったのか、イエス様が連れて行かれる後を追って、大祭司の中庭まで入りました。しかし、見事に、鶏が二度鳴く前に三度もイエス様を知らないと言い、しかも三度目は、のろいをかけています。この後、ペテロは悔い改めて、エルサレム初代教会の指導者となっていますから救いがありました。マタイ10:32~33には「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」とあります。この時代にあって、私たちも決してイエス様を否認することなどありませんように。むしろ、唯一の救いである福音を恥とすることなく、大胆に証ししていきましょう。

●4月19日礼拝メッセージ要旨(マルコ14:32~52)  

 イエス・キリストが弟子とともにゲッセマネの園に行かれ、そこで大祭司たちから差し向けられた群集に捕えられた記事から、ポイントを三つ上げて学びましょう。
  ①みこころのままを…イエス様は創造主である神のひとり子であり、罪を犯すことはありませんでしたが、私たちと同じように人としての肉体をお持ちでした。ですから、いよいよ、十字架の苦しみを前にして、深く恐れもだえ始められ、悲しみのあまり死ぬほどであると言われました。そして「この杯を取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、みこころのままをなさってください。」と祈られます。私たちの人生においても、なかなか自分の思うとおりに事が運ばないということが少なくありません。しかし、あとで振り返ってみたとき、却って、「あのとき自分の願いどおりでなくてよかった」と思えるときも多々あるものです。祈りの時、素直に自分の願いを求めればよいでしょう。でも、最終的にはみこころを求めて祈ることが大切です。
  ②祈り続けなさい…そもそも祈りとは何でしょうか。弱い人のすることでしょうか。その通り、祈りは弱い人のすることです。でも、この世に。祈らなくても全く問題ないというような強い人がいるでしょうか。いません。皆、弱さを持ち、本来、祈りを必要とする存在なのです。箴言18:12には「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」とあります。人の前での謙遜も良いことですが、創造主の前での謙遜はもっと大切です。私たちは、私たちの霊魂を天国へも地獄へも思いのままに行かせることのできる方を恐れ、この方に向かってイエス様の名によって祈り続けること、すなわち、主との深い交わりを保ち、その中で主の導きを確信して進んで行くことです。
  ③立ちなさい。さあ、行くのです。…群集がやって来たとき、イエス様は、祈り備えておられました。しかし、弟子たちは眠ってばかりで、心の準備はまったく出来ていなかったでしょう。私たちの教会の新会堂は、着工が予定より遅くなる見通しで、長い期間、この場所を賃借できないので、6月で見切りをつけて7月からは市民センターなどでの礼拝となります。私たちは、主のみ計らいを全て見極めることはできません。何か主の御計画があり、私たちにもっと良いことをしてくださることでしょう。時が迫り、一つ一つを決断して前に進まなければなりません。ゲッセマネでの弟子たちは、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」と、イエス様に言われました。結果として彼らはイエス様を見捨てて逃げてしまったのですが、今日、もし、私たちが、主を信頼し、どこまでもイエス様と共に行くのなら、主はそのことに報いてくださり、勝利と喜び、永遠の祝福が待っていることでしょう。

●4月5日イースター礼拝メッセージ要旨(第一コリント15:35~49)  

  人間は、どこから来て、どこへ行くのでしょう。母親の胎から生まれ、そして、やがて死を迎えます。死の先に何があるのでしょう。死んだら終わりだと考える人にとっては、この世の中に希望を見いだすことしかできません。しかし、聖書は、失望で終わらない永遠の希望があると言っています。
その根拠は、死んで復活したイエス・キリストです。神の御子イエス様が、多くの人の罪をその身に負い、十字架で死なれ、葬られ、三日目に復活して、天に昇られ、その後、弟子たちに聖霊が降って、初代教会が誕生し、今日に至っています。
   イースターに因んで、テーマを復活に絞りましょう。パウロは、「死者はどのようにしてよみがえるのか。」という多くの人が持つであろう疑問に対して「愚かな人だ。」と一蹴し、植物の種を引き合いに説明しています。あの小さな種から大きな植物に成長する。しかも、種そのものは、死ぬことによって芽を出す。死者の復活もそのようである、と言っています。
   また、肉には、人間、獣、鳥、魚、天上の体があれば地上の体もある。それから、太陽、月、星、それぞれ、その栄光がある。だから、血肉の体もあれば御霊の体もある、と言っています。そして、最初の人アダムは「生きた者」となったが、最後のアダムは「生かす御霊」となった、と言っています。確かに、世界中の富を手に入れても、自分だけを養っているとしたら、最初の人アダムと同じように、ただ生きた者です。しかし、生かす御霊とともに働くなら、真に幸いな人と言えるでしょう。
   私たちは、元々は土から出たものですが、イエス様によって、天から出た者に似た者とされ、この地上で、元気に長く用いられたいものです。そのためにも、陽気な心は健康を良くします(箴言17:22)から、自分自身も他の人も、心が明るくなるような言葉を発しましょう。キリスト者は、第二の人である御子イエス様の形と同じ姿にあらかじめ定められています(ローマ8:29)。そうかと言って、何をしてもうまくいくということではありません。時には試みを受けるときもあるでしょうが、私たちが信じる神は最善を成したもう方ですから、主を信頼して委ねていきましょう。やがて、イエス様が再臨されるとき、まず、最初にキリストにある死者がよみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち、彼らと一緒に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。

●3月29日礼拝メッセージ要旨(マルコ14:17~31)  

 二階の広間で、イエス様と弟子たちが過ぎ越しの食事をしている場面、そして、その後、オリーブ山に出掛けて行く場面から、ポイントを三つあげて学びましょう。
  ①人の子を裏切る…「裏切り」という行為は、親しい関係、信頼関係が深ければ深いほど、裏切られた側としては、そのダメージは大きなものとなるでしょう。詩篇41:9には「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」とあります。その預言どおり、イエス様と同じ鉢にパンを浸していた者が裏切ったのです。神の御子イエス・キリストを裏切るということの代償は小さくありません。しかし、もし、私たちの側が、主を信頼し、どこまでも従って行くのであれば、主は、私たちを決して離れることも捨てることもありません(ヘブル13:5)。
  ②新しい契約…「新しい契約」があるなら、「古い契約」もあるわけです。モーセはシナイ山のふもとで、子牛と山羊の血を取って、契約の書と民全体に注ぎかけ、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言いました。それから千年以上過ぎて、神の御子キリストが、十字架にかけられる前に過ぎ越しの食事のあとで、杯を取って「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」と言われました。ここで「多くの人のため」とあります。つまり、「全ての人のため」ではなく、あくまでも、イエス・キリストの十字架による救いを受け入れ信じた人に、その恵みが及ぶのです。キリスト者は、その新しい契約を取り交わし、その祝福の中に置かれた者であることを自覚しましょう。
 ③つまずき…「あなたがたは、みなつまずきます。」と言われたイエスさまに対し、ペテロは「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」と力強く言い放ちました。人間は、とかく威勢の良い人に心を動かされて、そういう人について行ったりするものです。しかし、一本の髪の毛すら白くも黒くもできない人間が、限度を超えて思い上がるべきではありません。むしろ、神が私たちに何を望んでおられるのかということを求め、神の導きに従ってまいりましょう。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とし、おごることなく、いつも主の助けを求める者でありたいものです。

●3月23日礼拝メッセージ要旨(マルコ14:1~16)

  一人の女がイエス様に香油を注いだ記事、また、過ぎ越しの用意をした記事から、ポイントを3つあげて学びましょう。
   ①過ぎ越しの祭…イスラエル人が守るべき年三度の祭は、過ぎ越しの祭、初穂の刈り入れの祭、仮庵の祭です。過ぎ越しの祭は、エジプトで奴隷になっていたイスラエル人が小羊の血によって、神の怒りが過ぎ越し、その出来事を機にエジプトから解放されたことを記念とする行事です。それは、今日のイエス・キリストの十字架による救いを予表(暗示)しています。ちょうど、過ぎ越しの祭とキリストの十字架の出来事の時期は重なりました。初穂の刈り入れの祭は、麦の初穂を神にささげるもので、それは、この世界が創造主である神によって造られ、人は神によって生かされているということを覚え、初穂を神に捧げることを通して、神を第一にするという意味を持っています。仮庵の祭は、出エジプト後、天幕生活をした苦しい時期を忘れないための行事ですが、同時に、全ての人は、この地上にあっては、一時的な仮の住まいに住んでいるのであって、むしろ、永遠に目を向け、天の御国を覚えなければなりません。
   ②ナルドの香油…一人の女が高価なナルドの香油をイエス様に注ぎました。それを見た弟子たちは、売れば300デナリになるのにと憤慨しました。300デナリ、1デナリが一日分の労賃ですから、正に一人分の年収ほどの価値があったのでしょう。しかし、それは、埋葬の用意にと、女は自分にできることをしたのです。このことは今日の私たちに、力の入れどころを教えています。もちろん、適切な節約も必要ですが、天に宝を積むために本当に価値あることにお金や時間を使いたいものです。 
   ③二階の広間…イエス様がエルサレム入城したとき、ロバの子が用意されていましたが、このとき、過ぎ越しの食事の場所も備えられていました。私たちの現実生活においても、主は色々と備えてくださいます。3.11大震災当夜、私は自家発電、自家給水の備えられた区役所にお世話になりました。次の四日間は小学校の避難所、その次は親戚のマンション、そして、7帖一間のアパート、そのあとに現在の教会としているシャンテが備えられました。さらに、昨年新会堂用地が与えられ、現在、建物を建てようとしていますが、若干、難航しています。でも、主は最善に導いてくださるでしょう。アブラハムがイサクをささげようとしたとき、主が寸前に止められ、一頭の雄羊を備えておられました。主の山の上には備えがある(創世記22:14)のです。

●3月15日礼拝メッセージ要旨(マルコ13:28~37)  

  マルコ13章は終末に関する記事です。3回に分けて学んでおりますが、28~37節より三回目の学びです。やはり、ポイントを三つ上げます。
   ①その時がいつであるか…いつイエス様が再臨されるかについて、二つのことが言えます。一つは「いちじくの木から、たとえを学びなさい」とあるように、時を見分けるということです。戦争、民族対立、地震、飢饉、不法の人の到来など、それらのことが起きたかどうかによって、再臨の時がいつ頃になるかというおおよその時を見分けることが出来ます。もう一つは、その詳しい日時は誰も知らないということです。キリスト教に似ていて本来のキリスト教ではない、いわゆる異端グループが再臨の日を特定し、当然ながら何度も何度も外れています。それは、主の領域に入り込む傲慢な越権行為です。使徒1:7には、その日がいつであるかを知らなくてよい。父が定めている、とあります。そのようなことは主に委ね、使徒1:8には、聖霊に満たされ、主の証人となるよう勧められています。
   ②滅びるものと滅びないもの…1980年、アメリカ北西部にあるセントヘレンズ山は火山の噴火によって、その美しい形が一瞬にして崩れてしまいました。東日本大震災の大津波による大被害も一瞬のうちに起こりました。やがて、この地球も一瞬にして滅びると聖書は言っています。私たちは、滅びてしまうものに対して必要以上に執着することは賢明ではありません。むしろ、滅びないもの、いつまでも残るものに目を留めてまいりましょう。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(第一コリント13:13)」
   ③目をさましていなさい…第一のポイントでは、再臨の時を見分けながらも、いつになってもよいように、備えていなければならないということでした。出掛けた主人の帰りを待つしもべが、忠実に仕えて、主人が帰ってきたとき喜んで出迎えるごとく、私たちは、イエス様の再臨のとき、霊の目を覚まして再臨を迎える者でありたいものです。ヨハネ9:4には「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」とあります。私たちは、今、与えられている時間や機会を福音を証しすることのために用いてまいりましょう。

●3月1日礼拝メッセージ要旨(マルコ13:14~27)

三つポイントをあげて学びましょう。
①荒らす憎むべき者と日数…前回の礼拝では、「荒らす憎むべき者と神殿」をテーマにしました。今回は、「日数」についてです。聖書の終末に詳しい専門家の解説などによりますと、3年半+3年半という数字を聞きます。それは、ダニエル書9:27、同12:11、黙示録13:5などから、やがて、荒らす憎むべき者が現われ、最初は7年間の何らかの契約が結ばれる。7年の半分の3年半の間は平穏に過ぎるが、それ以後、彼は本性を現わし、自分を神であるとして、神の宮に座を設ける。それは、真の神を礼拝する者にとっては、患難の時である。しかし、神は選びの民のために日数を少なくしてくださるのです。時系列的に整理しますと、地球的且つ政治的な世界の混沌が起こり、世界を平和に治める指導者の存在が求められ、そういう時に荒らす憎むべきものが現われる。彼は最初の3年半は期待通りであったが、やがて本性を現わし、患難時代が訪れる。(※多少の読み込み過ぎがあるかもしれません。聖書で不明確な部分は参考までに。) 聖書では、1290日とか42か月という表現で出てきますが、3年半という期間が終末に関わりがあるということを覚えておきましょう。
②読者はよく読み取るように…このことばはマルコ13:14とマタイ24:15にもあります。なぜ、そう書いてあるのでしょう。比喩的に、霊的に解釈しなさいということでしょうか。 14~18節は、AD70年のローマ軍によるエルサレム包囲のときに実際に起こったことのようでもありますが、今日のキリスト再臨にも関連しているようです。山とか屋上は祈りの場所、神との交わりを意味しています。「家の中に入るな」とは、この世のことに埋没するなということでしょう。身重の女と乳飲み子を持つ女とは、ヤコブ1:15を見ますと、「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生む」とあります。この世の欲に気をつけましょう。「冬」とは何でしょう。箴言20:4には「怠け者は冬には耕さない」とあります。怠けていてはいけない。それぞれの使命に忠実でありたいですね。
③選びの民を集める…1948年にイスラエルが建国されましたが、それ以前の、今から約120年ほど前から世界各地に散らばっているユダヤ人が少しずつ帰還し、現在イスラエルの人口は約800万人です。地上的に、選びの民が集まっているわけですが、キリスト再臨のときには、空中的に一挙に選びの民が集められます。それは、第一テサロニケ4:16~17、第一コリント15:52に記されているように、終わりのラッパとともに空中に引き上げられるのです。最後に第一ペテロ4:7~8です。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」

●2月22日礼拝メッセージ要旨(マルコ13:1~13)

三つポイントをあげて学びましょう。
①エルサレムの神殿…弟子の一人がエルサレムの神殿を見て、「なんと見事な建物でしょう。」と感嘆の声を上げています。この当時の神殿は、第二神殿でもありますが、ヘロデ王が改築したのでヘロデ神殿とも呼ばれています。第一神殿はソロモン王が建立し、その後、BC586年にバビロン捕囚時に破壊されたものの、その70年後のペルシャ王クロスの時代にユダヤ人帰還民によって再建されます。それから時を経て、キリスト降誕後の70年後、AD70年に再びヘロデ神殿は破壊され今日に及んでいます。現在、嘆きの壁とも言われる西壁で多くのユダヤ人たちが祈りを捧げていますが、彼らは当然、第三の神殿の存在を願っていることでしょう。マルコ13:14に「荒らす憎むべき者が自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば~」とあるように、いつの日か、第三神殿に立って、自分こそ神であると宣言する人物が現われるのです。その後に、キリストの再臨があります。しかし、その第三神殿は今のところ存在していません。今後、エルサレムの神殿に関するニュースに私たちは注視しつつ、主の再臨のときを待ち望みましょう。
②人に惑わされない…オレオレ詐欺などの被害は一向に衰えません。詐欺を仕掛ける側も巧妙になっているようですが、被害にあわないように注意が必要です。6節には「わたしの名を名乗る者が大ぜい現れ」とありますが偽キリストを見極めるために最も有効な方法は、本物のキリストをよく知ること、つまり、聖書をよく読むことです。特に14節の「荒らす憎むべき者」にはサタンによる不思議としるしが伴うので、よく見分けなければなりません。
③福音があらゆる民族に…日本は戦後70年を迎えました。この東北地方の太平洋側の海沿い地域は、大津波の被害を受けました。震災後、多くのクリスチャンボランティアが入って来られ、その効果も大いにあったのでしょう。あちらこちらに新しい働きが始められたり、新たに教会が生み出された地域もあります。しかしながら、目に見えるような大リバイバルをまだ見てはいません。また、刻々と状況は変わっていきますが、福音そのものは変わりません。状況に応じながらも、一人一人との関わりの中で、変わらない福音を、深く浸透させていきましょう。