●2024年9月1日(日)礼拝メッセージ要旨 

 

黙示録15:1~8からです。「モーセの歌と小羊の歌」という題でポイント3つ上げていきます。

1.神の激しい怒り…次の16章で、「神の激しい怒りの七つの鉢」の実行が記されます。その前の章である15章1節で、「神の激しい怒りがここに極まるのである」と表現しています。神の怒り、これは地上的な最後の神の裁きでしょう。聖書の神はこの世界を創造し、この地球に私たち人間を住まわせ、全てを統べ治めておられます。「創造主などいない」「人間は突然変異によって進化してきた」などと言って、創造主である真の神の存在を全く認めようとしません。そういう人々に対し、真の神はいつまでも裁きをしないでおくことはありません。ですから、私たち人間は、全知全能の真の神の存在を認め、この方を恐れ、この方が遣わして下さった救い主イエス・キリストを信じて従うべきなのです。

2.モーセの歌と小羊の歌…「モーセの歌」とは、エジプトで奴隷となっていたイスラエル人が、神に遣わされたモーセによって解放されたものの、紅海を前にして、エジプトの軍隊が後ろから追っかけてきたときのことです。神がモーセに「杖を上げて、手を海の上に伸ばし、海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ」と命じます。モーセがそのとおりにすると、奇跡が起こり、イスラエル人は海を進んで行きました。しかし、エジプト軍も同じようにして追っかけてきます。再び神がモーセに命じ、モーセが海に手を差しのべると、イスラエル人は海を渡り終えますが、エジプト軍は海が元に戻って全滅するのです。そのとき民は「モーセの歌」を歌って主を称えます。次に「小羊の歌」です。これは黙示録5章で、唯一、小羊(イエス様)が封印を解くのにふさわしい方であるということで、5:12で多くの御使いたちが「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」と称えています。「ほふられた小羊」とあります。天の真の神様は、奇跡をもって、エジプト軍からイスラエルの民を救い、また、小羊イエス・キリストを世に遣わし、私たちのために十字架によって罪の贖いを成し遂げられ、至れり尽くせりを行なってくださるのです。世の多くの人々は何を基準にして生きていますか。皆が行くところに、自分も行って安心を得ようとします。真の安心は、そこにはありません。マタイ7:13には「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」とあります。正しく、真実な真の神の道は狭く見えますが、救い主イエス・キリストと共にあることが最高の安心です。

3.立ち上る煙で満たされ…天にあるあかしの幕屋の聖所が開き、その聖所から七つの災害を携えた七人の御使いが出てきました。そして四つの生き物の一つが、神の怒りの満ちた七つの金の鉢を七人の御使いに渡しました。そのとき、聖所は立ち上る煙で満たされ、七つの災害が終わるまで誰も聖所に入ることができませんでした。某県の某知事が部下にパワハラをしたということで、ニュースになっております。人間は元々欠けだらけの存在です。優秀だ、エリートだと言われ、ちやほやされて、自分が見えなくなり、やがて傲慢になって、謙虚さを忘れ、人としてあるべき姿からかけ離れてしまってはお粗末です。しかし、天の真の神様は同15:3に「あなたの道は正しく、真実です」とある通り、この正しく真実な方が激しくお怒りになると、その下に置かれた人間はどうすることもできません。ルカ23:34には「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」とあるように、キリストは、ご自分を十字架につけ、その着物をくじ引きしているローマ兵のために執り成し祈られました。まして、今日、キリストは私たちのためにも執り成しておられます。主の御名を呼び求める者は誰でも救われます(ローマ10:13より)。イエス様の御名をいつも呼び求め、この方と共に歩んでまいりましょう。

●2024年8月25日(日)礼拝メッセージ要旨 

黙示録14:1~20からです。黙示録13章では、悪魔とかサタンと言われている存在について記されていました。この14章では、その悪魔とは対極にある人々、神の近くで神を賛美する人々のことが取り上げられています。「神を恐れ、あがめよ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.神と小羊にささげられる初穂…1節で、子羊がシオンの山の上に立っていると、子羊とともに144000人の人たちがいます。その人たちの額には、子羊の名と小羊の父の名が記されていました。次に、彼らは2~3節では、御座の前で新しい歌を歌い、それが複数の立琴をかきならす大水のような、激しい雷鳴のような音であると記しています。この144000人、同じ黙示録7章4節~に出てきますが、同一の人々であるか、否かは不明です。はっきり言えることは、12000×12=144000、「12」はイスラエル12部族、キリストの弟子12使徒、神に選ばれた人々ということでしょう。もう一点は、4~5節にあるように、彼らは汚れなき人々で、小羊に従順に従い、その口に偽りのない、傷のない、神および小羊にささげられた初穂です。但し、5節では「人々の中から贖われた」とあります。「贖われた」、つまり、罪の赦しを受け、きよい者とされたのです。神と小羊にささげられる初穂とされたということは、特別な栄誉を与えられたということでしょう。「すべての人は、罪を犯した~(ローマ3:23)」とあります。大事なことは、悔い改めて主に従っていくことです。つまり、回心後、そして、今がどうであるかということです。

2.神を恐れ、神をあがめよ…6~7節で、もうひとりの御使いが中天を飛び「神を恐れ、神をあがめよ~」と大声で言います。そして、その後、8節で、第二の御使いが「大バビロンは倒れた」といいます。9~12節では、第三の別の御使いが、「獣とその像を拝み、自分の額か手に刻印を受けるなら、聖なる御使いたちと小羊の前で、火と硫黄とで苦しめられる。彼らの苦しみの煙は永遠にまで立ち上る。聖徒たちの忍耐はここにある。」と、要約すると、そういったことを言っています。要するに、世界の創造主と救い主イエス・キリストに立ち返り、悪魔の支配下にある世の権力に屈せず、偶像礼拝するな、ということです。パリ五輪が終わってしばらく経過します。YouTubeで「良いこともあったパリ五輪」というクリスチャン提供の番組がありました。女子砲丸投げで金メダルを獲得したドイツの選手は一投目で転倒して失敗しても賛美歌を歌い、次は「主よ、一緒に来てください」とお祈りして投じ、勝利しました。女子400mハードルで金メダルを獲得したアメリカの選手は「結果にかかわらず、神の栄光を現わすことが出来ますように」と祈り、世界新記録を出しての金メダルでした。女子スケボーで銅メダルだったブラジルの選手は滑走直前でカメラがアップになっているときに手話で「イエスは道であり、真理であり、いのちです(ヨハネ14:6より)」と動作をしました。彼女たちは、キリスト者として、オリンピックという与えられた機会を、神の栄光のため、福音のために行動したのです。

3.かまを入れて刈り取る…ここでの「刈り取り」は収穫の喜びではなく、神の激しい怒りによる「刈り取り」です。14節と16節では、白い雲が起こり、人の子(イエス様)がそれに乗って、手には鋭いかまを持っていました。キリストが雲に乗って来られるとき、マタイ24:30~31によりますと、ある人々にとっては悲しみと絶望のときであり、別の人々にとっては救いのときとなります。この刈り入れは穀物ではなく、ぶどうの刈り入れであり、20節では酒ぶねに入れられたぶどう液が血のように流れ出て、それが1600スタディオンに広がったのです。1600=40×40です。40という数字は聖書では「満ちる」という意味で用いられています。1スタディオンは185m、1600スタディオン296km、およそ仙台から東京までです。それほどまでに遠くに広がったのです。それは、神の激しい怒りを象徴的に表現しているのではないかと思います。今は、終末時代にさしかかっています。イエス様が雲に乗って来られたら、もう終りです。その前に、イエス様を信じ、神を恐れ、神をあがめて、第二ポイントで語ったクリスチャンのオリンピック選手のように、与えられた機会を用いて、神の栄光を現わしていきましょう。最後はエペソ5:15~16です。「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」

●2024年8月18日(日)礼拝メッセージ要旨 

黙示録13:1~18からです。先週の12章では、キリストの降誕、その降誕のバックグラウンドと言えるイスラエル、そして、それらに敵対する悪魔(サタン)の存在、そして、今日、キリスト者にとっては霊的な戦いの中にある、そういったことを話しました。それで、本日は、そのうちの悪魔とかサタンと言われている存在について、深堀と言いましょうか、その特徴などについて見て行きましょう。

1.海から上がってきた一匹の獣…この、海から上がってきた一匹の獣は10本の角と7つの頭があり、その角に10の冠があります。前章12章に出て来る大きな赤い竜は、やはり7つの頭と10本の角ですが、頭に7つの冠があります。微妙に異なりますが、その赤い竜が獣に自分の権威を与えていますので、別々の存在ではあるのですが、結局、その出所は同じです。同じ悪魔の陣営に属していることに変わりはありません。さて、この獣の頭の一つが撃ち殺されますが、傷が直り、回復するので全地が驚いて獣に従い、権威を与えた竜を拝みます。獣は、42カ月活動する権威を与えられ、真の神に対して汚しごとを言い、神の民をののしります。こういったことは、特定の動きというよりも、悪魔の行動パターンと言えます。日本は、偶像礼拝大国とも言えます。仏壇、神棚、神社、また、そのほか無数の神々(偶像)の存在があり、それらを拝礼することが良いことであるかのように多くの人は思っています。しかし、Ⅰコリント10:20には「いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。」とあり、偶像礼拝するということは、悪霊と交わるということであり、そうすることは、その人に幸いが及ぶのではなく、むしろ滅びに向かわせるということです。今の世は悪魔が支配しています。悪魔の配下にあって罪の道を歩むのではなく、そこから抜け出て、真の神の側に立ち、神のしもべとなって、むしろ悪魔に立ち向かう者となりましょう。

2.もう一匹の地から上がってきた獣…この、もう一匹の獣についてのキーワードは「小羊のような」です。小羊はイエス・キリストの代名詞でもあります。一見、キリストのように見えても「竜のようにものを言った」とありますから、所詮、中身は悪魔です。最初に出てきた獣よりも見分けがつきにくいということです。この小羊のような2本の角を持つ獣は、海から上がってきた最初の獣の権威を働かせたり、大きなしるしを行なったり、人々に獣の像を造らせ、その像を拝まない者を殺させたりしました。ヨハネ8:44bには「~悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」とあります。結局、悪魔は初めから人殺しであり、偽りの父であって、そこから始まりそこに行き着くのです。目に見えない悪の霊がこの世で暗躍しています。悪魔の決定的な特徴を知り、惑わされないように十分に警戒しましょう。

3.その数は666である…16~17節には、悪魔(獣)は、あらゆる人々の右の手か額に刻印を受けさせ、獣の数字を持っていない者には物を売買できないようにさせた、とあります。日本では2022年6月1日より、ペットにマイクロチップの埋め込み義務化の法が施行されました。動物にマイクロチップというだけでも違和感があります。また最近問題となっているマイナンバーカードや様々なカードを誰もが持つ時代となりました。それらのことを総合して感じることは、時代が益々、この聖書の記事に近づいているということです。さて、「666」です。あくまでも、私個人の見解で「参考までに」ということですが、666という数字はⅠ列王記10:14に「一年間にソロモンのところに入って来た金の重さは、金の目方で666タラントであった。」と出ています。1タラントを34㎏で計算しますと、666タラントは22トン644㎏になります。当時、ソロモン王国はその周辺諸国と比べ、圧倒的な国力と経済力を誇っていました。ここから想像されることは、666の数字を持つ人物がやがて現われ、世界と経済を支配するということです。マタイ24:15、Ⅱテサロニケ2:9~10、ダニエル9:27などを総合的にまとめますと、やがて不法の人、荒らす憎むべき者と言われる人物が現われ、悪魔的な力によって世界を統治するようになるでしょう。彼は最初、人々に歓迎され、期待されますが、やがて独裁的に振る舞い、人々を支配し拘束するようになるでしょう。私たちは、悪魔の支配から逃れ、信仰と聖霊に満たされ、真の神と救い主イエス・キリストの側に立ち続けましょう。

●2024年8月11日(日)礼拝メッセージ要旨 

黙示録は、6~11章の七つの封印と七つのラッパで語られていることが、黙示録の中心的な筋書きと言ってもよいでしょう。最後の七つ目のラッパが吹き鳴らされて、キリストが支配される世界となって、そこで完結を迎えるのですが、この12章からは、振り出しに戻ったような内容になります。それは、それまで言及していなかった部分に対する補足的説明が付け加えられるという捉え方をするのが正解だと思います。それで、この12章では、三つの場面に分けて、それを三つのポイントとして見て行きましょう。

1.「場面①…1~6節」…1節で「巨大なしるし」と言っています。非常に重要なしるしという意味であると思われます。キリスト降誕に関するしるしですから、正に重要なしるしです。「一人の女が太陽を着て~」とあります。創世記37:9で、ヨセフが「太陽と月と星」のことを語っています。それはヤコブと12人の息子たち、つまり、この一人の女とはイスラエル民族のことを言っていると思われます。キリストは乙女マリヤから人として降誕されましたが、ヨセフとマリヤはダビデの子孫で、大きな括りではイスラエル民族を背景として、キリストが世に現れたのです。もう一つのしるしはそのキリストの命を狙う大きな赤い竜=悪魔の存在です。人の目には見えないけれども、この世界を創造した真の神の存在すら認められない人にとって、悪魔の存在などは愚の骨頂となるでしょう。しかし、この霊的な背景を無視すると、正に、その悪魔に翻弄された人生となるでしょう。エペソ6:12には「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とあります。本当の敵は人間ではありません。背後に存在している悪魔です。

2.「場面②…7~12」…悪魔は「堕落した天使」とも言われています。4節とイザヤ14:12~13の記事を重ね合わせると、傲慢になった天使の三分の一が龍に引き寄せられ、それが悪魔となったということなのでしょう。その元天使たちが、天で戦いを挑むけれど、ミカエルとその使いたちによって退けられ、地上に投げ落とされます。そして、このとき、天で大きな声が聞こえます。10節で「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」と、二つのことを言っています。一つは「キリストの権威が現われたこと」と、もう一つは「サタンが投げ落とされたこと」です。この世は「一寸先は闇」とも言われています。今日、調子良くても、明日は分かりません。私たちは霊的な武装をして、悪魔的なものを見分け、いつも神の側に立ち、みことばに従って、勝利の道を進みましょう。そして、11節には「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」とあります。小羊の血とはキリストの十字架の救いです。あかしのことばとはキリストを信じる信仰の告白です。ローマ10:10には「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあります。信仰のことばを口で、つまり声を出して告白することが大事です。

3.「場面③…13~18」…キリストに対して何も出来ない竜は、それで終わりません。今度は男の子を生んだ女を追いかけます。第二次世界大戦中、ヒトラー率いるナチスドイツはユダヤ人撲滅を画策し、600万人のユダヤ人が犠牲となります。戦後1947年、国連でイスラエルとパレスチナ分割案が決議されます。イスラエルはそれを受け入れますが、パレスチナ側は、そもそもイスラエルの存在そのものを認めないのですから、いつまで経ってもイスラエルに平和が訪れることはありません。それに加え、一般のメディアも反イスラエル側に立った報道をしています。そういった歴史や現状の背後には目に見えない竜(悪魔)の力が働いているのでしょう。17節には、竜は、その女だけではなく、女の子孫の残りの者、すなわち神の戒めを守り、イエスの証しを保っている者たちにも戦いを挑みます。今日、キリスト者にとっては、まだまだ霊的戦いの最中にあると言えます。エペソ6:10には「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」とあります。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の大盾、救いのかぶと、御霊の剣である神のことば、そして祈りをもって、霊的な武装をしましょう。

●2024年8月4日(日)礼拝メッセージ要旨 

●2024年8月4日(日)礼拝メッセージ要旨 

本日は黙示録11:1~19から「第7の御使いがラッパを吹き鳴らした」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「杖のようなはかりざお」…七つ目のラッパが吹き鳴らされる前に「間」があります。その間というのは、天の神は一人でも滅びることを望まず、最後の最後まで、人々が悔い改め、主に立ち返ることを望んでおられるということです。前の章、10章でもそのことが記されていて、この黙示録の著者ヨハネもあらゆる民族、国々に対して預言するように、と言われています。そういった流れの中で、ヨハネに杖のような測りざおが与えられ、「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。」と言われます。杖で思い出すのはモーセです。モーセは杖を持って、エジプトのパロ王の前に立ち、イスラエル人をエジプトの奴隷から解放するように訴えます。そして、その杖をもって神の力により奇跡としるしを行ない、イスラエル人を救い出すのです。「神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ」とはどういうことでしょう。それは、一つの明確な基準を当てはめて、その基準に適合しているか否か、ということでしょう。つまり、神を礼拝している人々が、聖書のみことばの基準を満たしているかどうかということです。例えば、出エジプト記20:3には「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」とあります。偶像礼拝をしていたら、その人は聖書のみことばの規準から外れています。

2.「二人の証人」…3節で、主に立てられた二人の証人が現われ、1260日の間預言します。その前の2節では、「異邦人が聖なる都を42か月の間踏みにじる」となっています。1260日と42カ月は同じ3年半のことです。どうして、同じ期間なのに違う言い方をしているのでしょう。一方は「聖なる都を踏みにじり」、もう一方は神のみことばを預言しているからなのでしょう。悪と善、真逆のことを行なっているので、数字の表し方を別々にしたのであると思われます。ゼカリヤ4:14では「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」と言われています。つまり、この二人は聖霊に満たされた神の器ということです。この二人が預言している間は、彼らに害を加えようとする者から彼らは守られます。しかし、彼らが預言するのを終えると、底知れぬ所から上ってくる獣が、彼らを殺し、彼らの死体は三日半の間、大きな都の大通りにさらされ、多くの人々は彼らの死を喜びます。ところが、三日半の後、二人の証人は生き返り、雲に乗って天に上ります。すると人々は恐怖に満たされ、天の神を崇めるのです。このあたりの記事を読むと、熱心なクリスチャンでも、「そんなことが本当に起こるの?」と思ってしまいますが、聖書の記事(預言)はこれまでも成就してきました。それは必ず起こるのです。

3.「主は永遠に支配される」…14節で「第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。」とあります。ここで、「第一、第二、第三のわざわい」について整理しておきましょう。第七の封印が解かれたとき、七人の御使いが七つのラッパを吹き鳴らします。その七つのラッパを三つに区分けしているのです。

□第一のわざわい ラッパ1…地上の三分の一が焼かれる                                                                                         

         ラッパ2…海の三分の一が血となる

         ラッパ3…川の三分の一が苦くなる      

         ラッパ4…天体の三分の一が暗くなる

         ラッパ5…一つの星が天から落ちて穴ができる

□第二のわざわい ラッパ6…ハルマゲドンと二人の証人

□第三のわざわい ラッパ7…最後の救いと審判

 こうしてみますと、神は私たち人間に対して、いきなり裁きの鉄拳をふるうのではなく、少しづつ少しづつ、世の終わりが近いことを感じさせ、人々に悔い改めを促しているのではないでしょうか。Ⅱコリント6:2には「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」とあります。私たちは、なるべく早く、そうです、今のうちに主に立ち返りましょう。しかし、第七の御使いがラッパを吹き鳴らすと、もう終わりです。そのときには、神のしもべたちには報いが与えられ、神に敵対する者は滅ぼされるのです。ですから、既に主の元に立ち返った私たちは、聖く、敬虔に生きることを求めましょう。そして、新しい天と新しい地を待ち望みつつ、主の証人として歩んでまいりましょう。

●2024年7月28日(日)礼拝メッセージ要旨 

このところ、黙示録から学んでおりますが、本日はバプテスマ式と結婚式があり、それに関連してⅠコリント13章1~13節から「信仰、希望、愛」という題でこの題のまま、ポイント3つ上げていきます。Ⅰコリント12~14章の中心テーマは、御霊の賜物についてです。御霊によって、知恵のことば、いやしの賜物、奇跡を行なう力、預言、異言などが与えられると、「自分はなんてすごいのだろう」と、すっかり勘違いして、傲慢になり、歩むべき道を踏み外してしまうということもあるでしょう。そんなことが起こらないように12~14章の真ん中の13章で、大事な「愛」ということを説いています。また、その「愛」とともに「信仰」、「希望」についても語られます。

1.「信仰」…「信仰」のギリシャ語原語はピスティス(πίστις)です。日本でよく言われる「イワシのあたまも信心から」という言葉と違い、そのピスティスの意味は、「信頼するに足るものに対しての信仰、真実な確かなものを信じる信仰」ということです。かつて、私が生まれ育った実家はクリスチャンではなく、仏壇と神棚がある他の多くの一般家庭と同じでした。玄関脇にはイワシではなく、サンマの頭を串刺しにしたものを竹筒に入れてありました。イワシやサンマの頭を信仰してどうするのですか。この宇宙と世界を創造し、水、空気、食物、その他あらゆるものを恵み与えてくださり、それだけにとどまらず、そのひとり子イエス・キリストを世に送ってくださり、この方は、私たち全てのために、その罪をその身に負い、実に十字架の救いを完成されました。このイエス・キリストを信じる信仰によって、罪の赦しのみならず、どんなときも、神は最善を成してくださるということを期待することができるのです。

2.「希望」…7月21日の午後は、納骨(移転)式が行われました。左右二枚の石碑で十字架の空間を浮き立たせ、左側に「私たちの国籍は天にあります(ピリピ3:20)」と、右側に「この希望は失望に終わることはありません(ローマ5:5)」という聖書のことばが書き入れてあります。Ⅰコリント13:12には「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」とあります。案外、私たちは誤解しています。今、この現実世界がはっきりしていて、次の世界がぼんやりしていると思ってしまいますが、そうではなく、今がぼんやり、次の世界が顔と顔を合わせて見るようにはっきりとしていて、しかも、今は一部分しか知らされていませんが、その時には完全に知ることになるのです。私たちは、キリストの教会に連なり、イエス・キリストを信じる信仰によって、失望に終わらない希望を証しする者でありましょう。

3.「愛」…Ⅰコリント4~8節の「愛」をイエス・キリストに置き換えてみましょう。「愛(キリスト)は寛容であり、愛(キリスト)は親切です。また人をねたみません。愛(キリスト)は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛(キリスト)は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」となります。私たち人間は、不完全です。寛容でもなく、親切でもなく、人を妬み、自慢し、高慢になります。しかし、イエス様は、ここで語られている「愛」そのもののお方です。ですから私たちは、イエス様を信じて心に受け入れ、このイエス様の御名によって与えられる聖霊の力に助けていただきながら生きるのです。

●2024年7月21日(日)礼拝メッセージ要旨 

黙示録10:1~11からです。七つのラッパのうちの七つ目のラッパが吹き鳴らされるのは11章15節ですが、この10章では、七つ目のラッパが吹き鳴らされる直前になって、一つの「間」がここに描かれます。そこに天の神様のみこころと言いましょうか、メッセージが隠されていると思われます。本日は「口には甘いが腹には苦い」という題でポイント3つ上げていきます。

1.もうひとりの強い御使い…もうひとりの強い御使いが登場します。この御使いは、「雲に包まれて、天から降りて来て、頭上には虹があり、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようである」とされています。さらに開かれた小さな巻き物を持っているのです。黙示録1:13~16に記されているイエス・キリストの本来のお姿を彷彿とさせます。もちろん、御使いですから、キリストではありません。そして、この御使いは、右足は海の上に、左足は地の上に置いています。これはどういう意味でしょう。黙示録12:12には「それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」とあります。永遠の天に比べ、地と海は不安定な場所です。しかし、まだ救いのチャンスが残されています。この強い御使いが海と地に足を置いているということは、そこに思いがある、そこに残された人々の救いを願っているということなのではないでしょうか。キリストに似た強い御使いが遣わされたのは、そのためなのでしょう。

2.もはや時が延ばされることはない…第一のポイントで取り上げた強い御使いが右手を天に上げ、創造主である方に誓って「もはや時が延ばされることはない」と言います。逆の視点から言いますと「救いの門が閉じられる時がそこまで来ているので、もう時間がない。今のうちに悔い改めなさい。」ということでしょう。Ⅱペテロ3:9には「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とありますように、創造主である真の神は、これまで忍耐に忍耐を重ねて、救いの締め切りの時を遅らせてこられたのです。今、キリストの救いに与っている人々は、その神の忍耐のゆえであると言えます。しかし、その締切日が間近に迫っているのです。

3.口には甘いが、腹には苦い…天から声が聞こえ、ヨハネに対して「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」言います。ヨハネは、「その小さな巻き物をください」と言って御使いから受け取り、それを食べると、それは彼の口には蜜のように甘いのですが、食べてしまうと、腹は苦くなりました。その開かれた小さな巻き物とは今日、私たちに与えられている聖書のことであると思われます。聖書には福音が語られています。その福音には二つの大きな要素があります。一つは「救い=永遠のいのち」であり、もう一つは「さばき=滅び」です。例えば聖書全体のメッセージをこの一節で表わしていると言われているヨハネ3:16には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。そのみことばにも二つの要素が含まれています。救いや永遠のいのちは私たちの口には甘いでしょう。しかし、さばきや滅びは苦いという域に収まらず、もはや敗北と絶望です。ですから、私たちは、まず、自分自身の救いの達成に努めましょう(ピリピ2:12)。そして、そこだけに止まるのではなく、家族、親族、友人、知人、そして全ての人に福音を宣べ伝えるべきなのです。11節でヨハネが「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」と言われたのは、実に、そのためなのです。

●2024年7月14日(日)礼拝メッセージ要旨 

今日は黙示録9:1~21からです。先週8章では、七つ目の封印が解かれ、そこに七つのラッパを持つ七人の御使いがいました。そのうち、第1~4の御使いがラッパを吹き鳴らすと、陸地、海、川、天体に害や異変が起こりました。それは、終末における神から人間への警告であると思われます。さて、本日は第5~6のラッパが吹き鳴らされるところからです。第1~4のラッパのときと違い、もっとひどい苦難となるようです。「第5~6のラッパ」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.第5のラッパ…この第一のポイントでのキーワードは「底知れぬ穴」です。第5の御使いがラッパを吹き鳴らすと、一つの星が天から落ち、その星が底知れぬ穴を開きます。そして、穴から煙が立ち上り、空も太陽も暗くなります。その煙の中からイナゴが出てきます。そのイナゴにはサソリの持つ力が与えられ、額に神の印が押されてない人間にだけ5か月間、害を加えるように言い渡されます。それらのイナゴの司令元はアバドンとかアポリュオン(破壊者の意)と呼ばれている「御使い」なのですが、さて、御使いですから神の陣営に所属しているのか、破壊者ということは悪魔的な陣営からなのか、悩むところです。いずれにしても、額に神の印、つまり、イエス・キリストを信じ受け入れ、救いを受けていないとサソリの力を持つイナゴに5か月間苦しめられる可能性があります。ですから、誰でも、今のうちに真の神に立ち返りましょう。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(Ⅱコリント6:2より)」

2.第6のラッパ…第6の御使いがラッパを吹き鳴らすと、神の御前から「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き離せ」という声が聞こえます。「つながれている」という表現ですが、なぜつながれていたのか不明です。場所はユーフラテス川のほとりです。ユーフラテス川はアダムとエバがいたエデンの園があった近辺です。また、ノアの大洪水の後、バベルの塔があった場所の近辺でしょう。エデンの園ではアダムとエバが罪のためにそこを追い出されました。バベルの住民は塔を建て、「頂が天に届く塔を建て、名を上げよう」と言ったことにより、神によって全知に散らされました。言うなれば、そこは「罪の発祥の地」です。現在、世界人口は約81億人です。人類の三分の一を殺すために解き放された四人の御使いによって立てられた騎兵の軍勢は2億です。81億人の三分の一は27億人です。27億に対して2億ですから、力関係からして実際的とも言えるでしょう。ポイント1の第5のラッパでは、害を受けるのは未信者ですが、この第6のラッパで殺される人は、特定されていません。しかし、マタイ24:21~22には「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」とあります。やはり、選ばれた者のためには何らかの守りがあるのでしょう。

3.心かたくなな人々…第5~6のラッパが吹き鳴らされたあとにおいて、生き残った人々が、偶像礼拝、殺人、魔術、不品行、盗みを悔改めることをせず、神に立ち返ろうとしませんでした。詩篇95:7~8には「主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」とあります。私たちは、全能の神の御声に対して従順であることが求められています。詩篇51:17には「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。人と人との関係においても、自分が間違っていたら謝ることが先決です。聖なる神の前なら、なおさら、へりくだり、悔い改めましょう。神はそういう人に目を留め、大いに祝福してくださるのです。

●2024年7月7日(日)礼拝メッセージ要旨 

今日は黙示録8:1~13からです。黙示録6~11章では、七つの封印と七つのラッパが出てきて、黙示録の中心的な内容を表していると言えるでしょう。今日は、七つ目の封印が解かれ、七人の主の使いが七つのラッパを持っていて、そのうちの四つのラッパが吹き鳴らされるところから見て行きましょう。やはり、ポイント3つ上げていきます。

1.聖徒たちの祈り…ラッパを持つ七人の御使いの他に、もう一人の御使いが現われ、金の香炉を持って祭壇のところに立つと、たくさんの香が与えられ、全ての聖徒の祈りとともに祭壇の上にささげようとしていました。先の黙示録5:8にも「この香は聖徒たちの祈り」という表現があります。詩篇141:2にも「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。」とあります。終末と言われるこの時に、クリスチャンの祈りが天に香として立ち昇り、天の神様の御働きのために用いられるということなのでしょう。ですから、私たちは、いつでもどこでも主の御名によって祈りを天に立ち昇らせましょう。「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。(Ⅰテモテ2:8)」

2.四つのラッパ…この8章では七つのラッパのうち第一から第四までの四つのラッパについて取り上げられています。第一の御使いによってラッパが吹き鳴らされると、地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草は全部焼けてしまいます。同じように第二のラッパが吹き鳴らされると海が害を受け、第三のラッパのときは川が、第四のラッパでは天体の三分の一が暗くなります。つまり、天の神が人間に対して、少しづつ警告を与え、人々が神に立ち返るように願っておられるのではないでしょうか。この広い、広い宇宙の中で生命の躍動があるのは地球だけです。水、空気、適度な気温、それは、全知全能の真の神がこの世界を創造し、そこに植物、あらゆる生物、そして人間を形造り、住まわせておられます。しかし、多くの人々は、創造主なる神を認めることなく自分勝手な生き方をしています。イザヤ53:6には「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」とあります。神に反逆する人々に対して、神はなおも人々に目を留め、救いの御手を差し伸べておられるのです。しかし、神はいつまでも反逆する人々に対して寛容ではありません。ヨハネ3:18には「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」とあります。私たちは、救い主イエス・キリストの御名を呼び求め、その救いに与り、そして、自分の救いだけではなく、家族、友人、知人の救いのためにも祈り、福音を伝えましょう。

3.わざわいが来る…第四のラッパが吹き鳴らされたあと、一羽の鷲が中天を飛びながら、大声で「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」と言います。この地が三分の一づつの害を受けることも大変なことであるのに、それよりもっと大きな災いが来ると言っているのです。確かに、このあと9章の第五のラッパでは星が天から落ちます。第六のラッパではハルマゲドンと言われて一般的にも知られている世界最終戦争が起こります。第1~4のラッパはマタイ24:8でキリストが「しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」と言われたことの範疇の出来事かと思います。また、第5~6のラッパはキリストがマタイ24:21で「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」と言われたことと重なるでしょう。先週の7章では、ひとりの御使いが「神のしもべの額に印を押す」という表現がありました。ズバリそれは、選ばれた人々がキリストに立ち返るということです。私たちは、イエス・キリストを信じ、従い、キリストの再臨を待ち望む者となりましょう。

●2024年6月30日(日)礼拝メッセージ要旨 

今日は黙示録7:1~17からです。先週は第1~第6の封印が解かれる場面からでした。第7の封印は8章からです。本日の7章は6章で語られた第6の封印の補足かと思われます。ポイント3つ上げていきます。

1.神のしもべたちの額に印を押して…1~3節では、主に二つのことを言っています。主の使いたちが「神のしもべたちの額に印を押すこと」と「その印を押してしまうまで、それを妨げないようにする」ということです。もちろん、それは象徴的な表現を用いているのでしょう。つまり、印を押すとは、神のしもべたちとそれ以外の人たちとを区別するということでしょう。そして、それが完了するまで守られるということです。額に印を押すとは、現実的にはイエス・キリストを信じて救いを受ける。選びの民となることです。ヨハネ15:16には「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。~」とあり、エペソ1:5には「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」とあって、真の神様は、神のしもべとなる人々を選び、定めておられたのです。ですから、今、私たちが救い主イエス・キリストを信じてキリストに着くバプテスマを受けているなら、それはもう、神のしもべとして、額に印を押していただいているのです。

2.144,000人とあらゆる国民、部族など…4~8節ではイスラエル12部族の144,000人、それから9節では、あらゆる国民、部族、民族など大ぜいの群衆が描写されます。この二種類の人々を同一の人々ではないかと解釈している解説書もあります。もしかして、そうかもしれませんが、いわゆる置換神学という説があり、イスラエル人は異邦人クリスチャンに置き換わるというものです。しかし、ローマ11:25~26には「~イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。~」とあり、基本的にユダヤ人はキリストを受け入れていませんが、異邦人クリスチャンの救いが完成されたとき、彼らもキリストを受け入れるのです。さて、10節、11節で御座にある方と小羊に対して賛美がささげられています。正に、天では賛美されるべき方が賛美されています。この地上はそうではありません。木や石の神々が拝まれたり、権力者に対して忖度が行われ、公正であるべき裁きが曲げられたりすることがあるのではないでしょうか。しかし、天においては正しい裁きが行われ、賛美されるべき方が賛美されるという義と聖が支配する世界です。そして、神の恵みと豊かさに満ち満ちた世界がそこにあるのです。

3.小羊が彼らの牧者となり…長老のひとりがヨハネに「白い衣を着ている人たちは誰ですか」と聞くと、ヨハネは「あなたこそご存じです」と言います。すると、その長老は「彼らは大きな患難から抜け出てきた者たちで、その衣を小羊の血で洗って白くしたのです。」と答えます。クリスチャン小説家・三浦綾子さん(1922~1999)は晩年に、エッセイ風の記事の中で「自分には『死』という大きな仕事が残っている」と、そういった内容のことを言っておられました。彼女はクリスチャンで当然、永遠のいのちの希望を持っておられたことでしょう。でも、やはり、空中再臨の時まで生きながらえるのでなければ、死は死ですから、それなりの苦難は免れることはできないでしょう。しかし、聖書は言っています。「神の国をまず第一に求めよ。明日のための心配は無用だ。(マタイ6:33~34)」と。先々のことを心配しても何の益にもなりません。目の前に与えられた自分が成すべき使命を果たしていきましょう。やがて、上げられる天では小羊なるキリストが私たちの牧者となってくださるのです。詩篇73:25には「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」とあります。天はイエス様一色の世界ですから、私たちは、この地上にいるときから聖霊の助けを受けながら、イエス様を第一にする生活を求めていきましょう。