●9月18日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇136篇)

※9月15日礼拝がゲストスピーカーでしたので祈祷会のメッセージです。

 この詩篇は、主への礼拝をささげるときに、感謝と栄光を主に帰する交読文として用いられたのではないかと思われます。
   1節から9節では、主はいつくしみ深い方であり、主の主であり、ただ一人不思議を行なわれ、この世界を創造された方であると告白しています。
   10節から22節では、イスラエル人の出エジプトからカナンの地まで導かれたことを振り返りながら、主に感謝と栄光を帰しています。
   そして、23節では、「主は私たちが卑しめられたとき、私たちを御心に留められた。」と言っていますが、かつて、イスラエルは、何度も主に対して背を向け、それゆえ、敵国から侵略されたり、支配されたりと、苦汁を味わい、卑しめられた経験をしました。しかし、そのような中においても、主はイスラエルから目を離すことはありませんでした。
   次の24節では「主は私たちを敵から救い出された。」とありますが、実際に、主は、何度も何度もイスラエルを回復させています。しかし、永遠の救いは、ただ一度、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として世に来られたイエス・キリストによる十字架の死と復活です。それは、言うまでもなく、イスラエルだけでなく、全人類のために、真の敵である悪魔からの救いとなりました。
   そして、25節では「主はすべての肉なる者に食物を与えられる。」とあります。関連したみことばとして、マタイ5:45には「 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」とあり、天の父なる主は、全ての人にご自分の愛を注いでおられるのですから、私たちも天の父のように慈しみ深い者でありたいと思います。クリスチャン新聞福音版10月号に紹介されていた栗原明子さんの未信者の夫は、自宅の近くに教会が出来たので、明子さんに教会に行きたいと言いました。その後、教会で、牧師が、明子さんの夫に「なぜ教会に行きたいと思ったのですか。」と尋ねると、彼は「妻の明子が、なぜそんなに優しく出来るのかを知りたかった。」と答えたということです。

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