●9月8日の礼拝メッセージ要旨(マタイ23:1~12)

 パリサイ人や律法学者らとの問答を終えられたイエス様は、群集と弟子たちを前にして、彼らに対する評価を下しています。表向きは善人ぶっていたパリサイ人、律法学者ですが、その実態は偽善者であり、イエス様ははばかることなく彼らの悪を明らかにします。1~12節からポイントを三つあげて学びましょう。
   ①みことばを実行する人…当時のパリサイ人、律法学者は律法を守るようにと、人々に教えていましたが、自ら律法を実践することについては無関心でした。言うには言うが、言ったことを自ら実行しない。そんな人にはなりたくありませんね。何か行動的なことでなくても、例えば、「いつも喜び、絶えず祈り、全てに感謝せよ。(第一テサロニケ5:16~18)」というみことばがあります。簡単に実行できそうに思えますが、実はそれほど簡単ではありません。でも、実行したら、どんなことが起きるでしょう。それまで、つぶやいてばかりいる人が、どんな時にも喜び、祈り、感謝したら、イエス様がどれほど喜んで下さり、その人に祝福を注がれることでしょう。
   ②師はただ一人キリスト…全知全能の聖なる創造主の前に、全ての人間は罪人であり、みな同じような者であって特別な人はいません。ですから、キリスト教会の中には、牧師などの教職の立場にある人に対して徹底して「先生」と言わない教派もあります。それはそれで良いことだと思います。エペソ4:11には、「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」とありますので、一方では、神から与えられた職務という立場もあります。教会は、イエス・キリストをかしらとして、互いに尊敬し合い、仕えあっていくことが求められています。
   ③自分を低くする…ヤコブ4:6には「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」とあります。謙遜な人は祝福されます。ところで、聖書の教えから見て、本当に謙遜な人とはどういう人でしょう。それは、ただ単に自分を低くしているということではなく、共におられる主を認め、たとい自分の思うように事が運ばなくても、主のみ旨が何であるかどうかということを第一に考える人です。そして、決して主から離れず、主の時を忍耐して待ち望むことができる人です。

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