●10月1日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇137篇)

●10月1日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇137篇)
 この詩篇は、バビロンに捕囚となったユダヤ人が、故郷のエルサレムを思い出して、川のほとりで泣いているという内容です。
   立琴を奏でる記者が、自分たちを捕え移した者たちから、「シオンの歌を歌え」と興を求められたとき、「どうして異国の地にあって主の歌を歌えようか。もし、歌うのなら、それは主をないがしろにすることであって、そうならないように、自分の右手が立琴を巧みに奏でる能力を忘れてしまうように。」と、そういう意味のことを告白しています。
   また、6節では、「もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。」と告白していますが、記者は、バビロン捕囚という苦しみと屈辱の中にあって、逆に、それ故に、創造主である天の主を最上の喜びとするという表現をしています。
   そして、この詩篇の最後では、バビロン捕囚においてエルサレムが陥落するときにバビロンとバビロンに加担して略奪を試みたエドムに対して、主の裁きを訴えています。
   異国に捕え移される。そこで不自由な生活を強いられる。そして、自分たちが信じていた天の神を自由に礼拝できない。そういう環境に置かれるということは、想像もできないほど大変なことでしょう。しかし、全知全能の創造主である真の神を信じる者にとっては、そういった苦難が、その人をより高い信仰の高嶺に引き上げてくださるのです。5節、6節の告白は、この詩篇の記者が信仰的に、より高い境地に引き上げられた証拠と言えるでしょう。

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