●5月3日礼拝メッセージ(マルコ15:1~21)

 大祭司の中庭で審問をうけたイエス様が、今度はピラトに引き渡されます。15:1~21から、ポイントを3つあげて学びましょう。
  ①ピラトの裁き…ピラトはローマ総督として、ユダヤを治めていました。当時の世界としては強大なローマ帝国の力を背景にして、彼の意のままに裁きが進むはずでした。ピラト自身はキリストに罪を認めることはできませんでしたが、大祭司たちの思惑と群集の声により、自分の意に反して、キリストを死刑に定めることになりました。使徒信条では「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」とありますが、厳密には、歴史の背後で、歴史を動かしている主の御手があったということです。今日、私たちの日々の歩みにおいて、自分の意のままにならないことが多々あります。神のみこころと自分の思いが異なるとき、やはり、神のみこころを優先すべきです。ですから、私たちは神のみこころと自分の思いが重なり合うために、主を恐れ、主のみ心を求めていくことが必要です。
  ②いばらの冠…結局、十字架にかけられることになったイエス様は、鞭打たれ、ローマ兵たちによって、紫の衣を着せられ、いばらの冠をかぶせられ、「王様万歳」とからかわれます。彼らは、まさかその方が王の王、主の主である聖なる神の御ひとり子とは夢にも思わなかったでしょう。神の御ひとり子が、いばらの冠をかぶせられてからかわれている。これは何を意味しているでしょうか。イザヤ53:7には「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」とあります。ここに私たち人間を滅びから救う神の愛と真実を見るのではないでしょうか。私たちは、見てくれや体裁ではなく、真実なものの上にそれぞれの人生を築き上げていくべきです。
  ③クレネ人シモン…そこを通りかかったクレネ人シモンは、イエス様の代わりに十字架を担がされることになりました。「なんで自分がこんなことをしなければならないのか。」と思ったことでしょう。後に彼がどうなったか、聖書に書かれていませんが、キリスト者になったなら、そのことを光栄に思ったことでしょう。マルコ8:34には「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とあります。私たちは、それぞれ、主にあって、自分の使命に生きましょう。この世は、善であれ悪であれ、強い意志を持った人の思いが反映されるものです。真理に立つ私たちが強い意志を持って、イエス・キリストにある神の国をこの世に証してまいりましょう。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です