●2月28日礼拝メッセージ要旨(イザヤ56:4~8)

 つばめさわ教会の建物の建設計画が始められた頃、私は、教会の建物とは、何だろう。聖書はどう言っているだろうと考え直してみました。
  新約聖書で13の手紙を書いているパウロは、教会堂について何も語っていません。強いて言えば、講堂を借りたとか、祈り場で語った、とあるくらいです。
  旧約聖書では、ソロモン王が立派な神殿を建てていますが、イエス様の時代においては、イエス様が、その神殿に来られたとき、鳩を売っている人や両替商を神殿から追い出し、「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」と、イザヤ56:7のみことばを引用されました。「わたしの家」とはイエス様の家、今日の教会堂と言ってよいと思いますが、そこは祈りをする場所です。
  あるとき私は人間とは何だろう。人間は究極的にどういう存在であるのか。そして、それは聖書のどこに書いてあるのか、ということを考えました。ローマ人への手紙10:13~15に、その答えがあると思いました。人間は、切羽詰まったとき、やはり何かを呼び求める存在です。イエス様を信じている人は、当然、主イエス・キリストの御名を呼び求めます。そして、主の御名を呼び求めることによって救いを受けるのです。しかし、イエス様を信じていない人は、イエス様を呼び求めることはしません。なぜなら、信じていないからです。もし、その人がイエス様のことを聞いたことがなければなおさらでしょう。そこで、イエス様の福音を宣べ伝える人が必要であり、その人は、教会から遣わされて宣べ伝えるのです。
  つまり、教会堂に集まり、そこで祈りが捧げられます。そして、そこから遣わされて福音を宣べ伝えます。その福音を聞いた人が、主の御名を呼び求めて救いに与り、さらに、祈りの人となって、主に遣わされるのです。そういう意味において「教会は祈りの家」です。
  もちろん、それだけではありません。最も初期のエルサレム教会の人々は、使徒の働き2:42で、「使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをして」いました。また、使徒の働き2:46~47では「毎日、心を一つにしして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」とあり、言うまでもなく、教会の建物は祈りだけの場所ではなく、みことばの教えがあり、交わりが行なわれ、聖餐式、賛美と食事、そして、地域の人々に対してキリストの香りを届ける場所なのです。

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