●2016.4.10礼拝メッセージ(ルカ10:1~16)

   ルカ10:1~16から、ポイントを三つあげて学びましょう。
   ①収穫のための働き手…ここで言う収穫とは、畑の作物の収穫のことではなく、人のたましいの救いのことを言っています。天地創造の真の神様は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。聖書(キリスト教)が語っている中心的なことは、イエス・キリストの十字架と復活です。私たち一人一人は、そのことを信じ受け入れて、自らの救いを達成し、そして今度は、この地上において、それぞれの使命に生きることです。一番大事な使命、それは「隣人を愛すること」です。人に優しくしたり、良いものを分かち合うことも素晴らしいことですが、自分がイエス様による救いを得たように、隣人にも福音を証しし、収穫のための働き手となりましょう。
   ②平安を祈れ…道であいさつしてはいけないとはどういうことでしょうか。油を売ってはいけない、余分なことに力を使うな、ということでしょう。「平安を祈る」とは、祝福の言葉を語る、福音のメッセージを語る、ということでしょう。祝福のことばを語ったとき、平安の子(救いを受け取る人)がいたら、祝福がその人に及び、いなかったら、祝福が、語った本人に返ってきます。ですから、福音のメッセージを持っているクリスチャンはいつでもどこでも、それを語らなければなりません。第一ペテロ3:9を見ますと「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とあります。
   ③ああコラジン、ああベツサイダ…コラジンとベツサイダはガリラヤ湖の北岸にある町です。イエス様が「ああ」と嘆かれるということは、イエス様を受け入れることなく拒んだのでしょう。誰であれ、耳触りの良い言葉を聞きたいものです。しかし、聖書は、最後の審判があるということを明確に語っています。ヘブル9:27には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。その死後のさばきを免れることができるようにイエス・キリストが身代わりに十字架で罰を受けてくださったのです。このイエス様、あるいはイエス様から遣わされた人を拒むことは、全知全能の神の救いを拒むことになるのです。もちろん私たちは、神のさばきの前に出るのではなく、むしろ、天の大祝会にあずかる者とならせていただこうではありませんか。

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