●11月12日礼拝メッセージ要旨(ヨハネ11:1~16) 

   キリストと弟子たちがいるところにマルタとマリヤから使いの者が来て、彼女たちの兄弟ラザロが病気であることをキリストに伝えます。それを聞かれたキリストは、「この病気は死で終わらず、神の子が栄光を受けるため」と言われます。その後、キリストはその所に二日留まられたあと、「ユダヤ行こう」と言われます。弟子たちが心配すると、主は「昼間歩けばつまづくことはない」と、まだ、ご自分の死の時ではないことを暗示されます。そして、ラザロを眠りからさましに行く、つまり、死から生き返らせると言われます。ここ(1~16節)から、ポイントを三つ上げて学びましょう。
   ①神の栄光のためのもの…ラザロが病気であるということを聞かれたキリストは何と言われたでしょうか。今日、私たちの日常会話なら、「ああ、大変ですね」「お気の毒に」と、そういった反応をするのが普通でしょう。しかし、キリストは「神の栄光のためのものです。」と言われました。病気に限らず、私たちの毎日には様々な問題や課題があるものです。でも、そこにイエス・キリストがご介入されるならば、問題も神の栄光が現われる機会となるでしょう。ローマ8:28には「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。どんなときも、主の御名によって、祈り、主に期待し、委ねてまいりましょう。
   ②主は彼を愛しておられた…マルタとマリヤの使いは、キリストにラザロのことを「あなたが愛しておられる者」と言いました。ヨハネの福音書の記者も「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と記しています。ルカ10:38~42で、マルタがキリストを家に迎えた記事がありますので、それ以来か以前か、何らかの個人的な交流があったのでしょう。つまり、当時、人によってキリストとの関係の深さは様々であったということでしょう。今日の私たち一人一人とキリストとの個人的な関係はいかがでしょうか。箴言8:17には「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」とあります。真の神、イエス・キリストとの交わりを深め、キリストに愛される者となったらどれほど幸いなことでしょう。
   ③昼間歩けばつまずくことはない…ここで言われた意味は、まだ十字架に引き渡される時ではないという意味で言われたのでしょう。ヨハネ9:4には「わたしを遣わした方のわざを昼の間に行なわなければなりません」とありますが、その場合は、福音を伝えることのできる機会は限られているということでしょう。その他の意味として、実際に、弱者の夜道の一人歩きは避けたほうが賢明です。また、第一ペテロ5:8に「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあるように、信仰生活の基本(礼拝、集会出席とみことばと祈り)を怠らないことが、つまずかないで守られることにもなるでしょう。

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