●9月9日礼拝メッセージ要旨(使徒の働き3:1~26)

   「私にあるものをあげよう」という題でポイントを三つあげます。
   ①美しの門…約束の聖霊が降臨して始まったばかりの初代教会は、3000人も集まることのできる自前の礼拝堂など無いのですから、エルサレムの神殿で礼拝をし、その後、家々でパンを裂き、交わりをしていたようです。ペテロとヨハネは、そんなある日の午後3時に、祈りの為に宮に上ると、美しの門の前で施しを求めるために、そこに運ばれてきた生まれつき足のきかない男に出会います。当時の神殿はBC516年頃に再建された第二神殿ですが、ローマ時代になってヘロデ大王がユダヤ人たちの心をつかむために拡張して豪華に仕上げた別称・ヘロデ神殿とも呼ばれている建物です。ですから、この美しの門も綺麗に飾られ、非常に美しかったのでそう呼ばれたのでしょう。現在ならば、インスタ映えのする画像を期待して、その門の前で写真を撮る人が大勢いることでしょう。さて、その足のきかない男は、レビ記21:18のみことばに基づき、神殿の中に入ることはできませんでした。しかし、こののち、イエスの御名によって奇跡的に足が強くなり歩き出し、神殿の中に入ることが出来ました。今日、イエス・キリストの福音を証しする教会では、どんな人でもその建物の中に入ることは出来ます。と言うよりも、そうでなければなりません。足の萎えたその男が癒されて、宮の中に入って行ったということは、今日のキリストの体である教会を象徴している出来事であったとも言えるでしょう。
   ②私にあるものをあげよう…施しを求めた足のきかない男に対してペテロは「私たちを見なさい」と言いました。それは、自分たちの容姿を見よ、というのではなく、自分たちに与えられている恵み深いイエス・キリストの救いを見よ、という意味で言ったのでしょう。ペテロは「私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」と言って、男を立たせると、彼はたちまち足が強くなり、躍り上がって真っ直ぐ立ち歩きだしました。彼は、施しによって得られるいくらかのお金を遥かに超える恵みを受けました。第二コリント4:7には「私たちは、この宝を土の器の中に入れているのです。…」とあります。私たち人間の体は正に土の器であり、弱いものです。しかし、その土の器に宝であるイエス様が入っているなら、それに勝ることはありません。
   ③御名を信じる信仰…生まれつき足の萎えた人が歩いて飛び跳ねているのを見た人々は驚きあきれました。ペテロは、それは人の力や信仰深さによるのではなく、「イエスの御名を信じる信仰による」と言いました。イエス様の名について、日本語ではギリシャ語の発音から「イエス」、英語では「ジーザス」、本家本元のヘブル語では「イェシュヤ」です。なるべく本来の発音に近いほうが良いでしょうが、要は、イエス様は神のひとり子であり、多くの人の罪を負い、十字架で死なれ、葬られ、復活して、天に昇られ、今も生きておられ、天においても地においてもいっさいの権威を持っておられる方、その方の御名によるという認識を持つということが大事です。

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