「みことばを大胆に語る」という題で、三つのポイントを上げます。
①主とキリスト反抗にして…ペテロとヨハネは議会で尋問を受けた後、仲間の所へ行き、祭司長や長老たちに何を言われたのかを話しました。たぶん、18節の「いっさいイエスの名によって語ったり、教えたりしてはならない」ということが中心だったでしょう。それを聞いた人たちは、心を一つにして、神に向かい、声を上げて祈りました。彼らは、大きな圧迫を感じたに違いありません。しかし、その祈りの内容は、決して失望感に捕えられたものではありません。自分たちが信じている神は天地を創造した方であり、詩篇2:1~2では、世の人々や王、指導者たちはキリストに逆らうものである、と書いてあって、元々、そういうものであって、何も驚くことなどない。祈りの中にそういう言葉を入れて祈っているのです。第一サムエル記17章には少年ダビデとペリシテの巨人戦士のゴリアテとの戦いの様子が記されています。ゴリアテがダビデに対し、「お前の肉を鳥と獣にくれてやろう」と言うと、ダビデは「この戦いは主の戦いだ。主はお前たちを我々の手に渡される」と信仰の言葉で対抗しています。実際にダビデはあっさりとゴリアテを倒してしまいます。「世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(第一ヨハネ5:5)」
②みことばを大胆に語らせてください…私たちは、税金を払い、国の法律を守るべきです。しかし、もし、「イエス・キリストの福音を伝えてはならない」などという法律が出来たら、そういう法律に従う必要はありません。なぜなら、イエス・キリスト以外に救いはないからです。当時のキリスト者は、そのことを良く分かっていて、「みことばを大胆に語らせてください」と祈ったのです。すると、彼らが祈っていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされました。つまり、天の神はそれを喜び、彼らを祝福したのです。
③大きな恵みがそのすべての者の上にあった…当時の教会の外側、特にペテロやヨハネをおどした議会=民の指導者たちはキリストの教えに脅威を感じ、苛立っていたことでしょう。一方、教会では二人の報告を聞いて、心を痛めながらも、切に祈り求め、一同が聖霊に満たされ、イエス様の復活を非常に力強く証ししました。その結果、大きな恵みが彼らの上に注がれたのです。つまり、様々な戦いの中に置かれても神のみことばに従うときに、神はその人に豊かな恵みを注がれるのです。ダニエル書3章には、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴがネブカデネザル王の建てた60キュビト=高さ約25メートルの金の像を拝まなかったゆえに燃える火の炉に投げ込まれる記事があります。しかし、主は彼らを守り、何の害も受けなかったので、王は、彼らの神を恐れ、彼ら三人はバビロンで栄えたのです。