●12月13日(日)礼拝メッセージ要旨(第一コリント7:1~16)

この7章では、当時、不品行などの問題があったコリント教会に向けて「結婚」ということをテーマにして語られています。ですから、まず聖書の基本的な結婚観を振り返ることが必要と考えます。その上で、この7章1~16節からポイント3つ上げて学んでいきましょう。

①「聖書の基本的結婚観」…「結婚」の原点は創世記2章に見ることができます。神はアダムに「人が、ひとりでいるのは良くない。」と言われ、彼のあばら骨から一人の女性を造り上げ、彼の妻として与えました。そして、創世記2:24では「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と言われ、そのみことばがマタイ19:5で引用され、さらにマタイ19:6では「それで、もはや二人ではなく、一人なのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」とあり、今日の教会においても、受け継がれています。そして、その夫婦が一体であるがためにエペソ5章では夫婦関係をキリストと教会になぞらえています。エペソ5:24~25には「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」とあります。妻と夫がその通りに出来るか出来ないかはともかく、これが聖書で教えている夫婦のあるべき姿です。

 ②「パウロによる補足的結婚観」…第一のポイントで述べた聖書の基本的結婚観は、言うなれば理想的な結婚観です。それに対し、当時のコリント教会、そして、今の時代もそうですが、やはり、現実問題というものがあります。パウロは、それまで聖書では述べられていなかった様々な結婚の形態に対して、自分の見解として語らざるを得なかったということでしょう。それで、聖書の基本的結婚観においては、結婚の良い点が強調されているのに対し、パウロの見解では、結婚において伴う義務とかマイナス面が強調されているようです。独身者の場合、そのままでいるのがベストであるけれども、情が燃えるのならば結婚するのが良い、と言っています。また、既婚者については、別れてはいけない、もし、別れたら元のさやに収まるか、再婚するな、と言っています。また、一方がクリスチャンでない夫婦の場合、未信者は信者によってきよめられている、と言っています。興味深い表現だと思いますが、その意味は救われているということではなく、「聖別されている」ということ、神が特別に目を掛けていてくださっているという解釈でよいと思います。今日も、パウロのここでの記事による見解以外にも色々なケースがあることでしょうが、要は、誰であれ、今ある状態を否定することはできません。そこから、主にあって、どうあるべきか、というところに視点を向けていくことです。

 ③「すべての人が私(パウロ)のようであることです」(7節)…ここでパウロの生涯を簡単に振り返ってみましょう。まず、パウロは生涯独身を貫きました。元々は熱心なユダヤ教のパリサイ派、ステパノ殉教のときは、石打ちをする人たちの着物の番をしていました。また、大祭司から権限を得て、エルサレムからダマスコに行き、クリスチャンをひっ捕らえてくる予定で向かった途上で聖霊なるイエス・キリストに出会い、人生が180度転換したのです。それから、今度はだれよりも熱心なクリスチャンとなって、正に命がけで福音を伝え、第一次、二次、三次伝道旅行で、今のシリアからトルコ、ギリシャ、ローマへと駆け巡りました。第二コリント11章によると、39のムチを五度受け、普通のムチを三度、難船三度、一昼夜海上をさまようこと一度、その他様々な難を受け、労し苦しみ、最後はローマで殉教した(聖書にその直接的な記事はない)と言われています。確かに、これでは結婚してないほうが良かったと言えます。そんなパウロが「すべての人が私のようであることです」と言っています。もちろん、今日、私たちがパウロと同じようにはできませんが、ただ、パウロの心、その精神を少しでも受け継ぐことはできるでしょう。つまり、今、私たちに与えられている環境や賜物、そこから、神に喜んでいただける生涯となるように、祈りつつ、一歩一歩進んで行く、ということです。

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